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Kapitel 01

09:暗愚と盲目 02

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 ビシュラを見付けてすぐヴァルトラムは壁際に追い詰めてしまった為、ビシュラの姿はぞろびきそうなほど長い瑠璃色のマントに上手く隠されていた。付かず離れず怯えつつヴァルトラムを監視していた数人の所員は、ヴァルトラムが邪魔くさそうに腕を振ってマントを払ったときにようやくビシュラの姿を見付けた。

「あれは初等所員のビシュラではないか。三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターのヴァルトラム大尉殿が何故ビシュラを」

「大尉殿はビシュラが三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターから戻ってきて以来、ビシュラの異動を求めて何度も書状を送ってこられておる。所長は御返答を保留されておられるとの噂だったのだが、本日ついに御本人がおいでになったのだ」

「一年目で異動など異例だぞ。何故ビシュラばかりがこうも重用されるのだ。イヴァン所長からの覚えもよいというのに」

 これも再三の記述であるが、ヴァルトラムは耳がよい。故に所員たちが物陰にて小声で話している内容も届いている。自分やビシュラの名前が話題に上っているとなれば尚更だ。

「オメエちょっとした有名人みたいじゃねェか、ビシュラ」

「そ、そのようなことはっ」

 ヴァルトラムに揶揄われ、ビシュラはすぐにプルプルッと首を左右に振って否定した。

「ビシュラは《四ツ耳》との噂だ。召使いにでも丁度良いとお気に召したのだろう」

 ズドンッ!
 砲丸がめり込んだような重たい衝撃音。無表情だったから何をしたのか分からなかったが、ヴァルトラムがブーツの踵を床に打ち付けた音だ。
 パリンパリンッ、ビシッ。
 踵から発せられた衝撃は波となって壁や床や天井を舐め、照明を割った。所員たちは「ひいっひいいっ」と悲鳴を上げて慌てふためく。
 ヴァルトラムはビシュラの上に瑠璃色のマントを被せて破片から庇ってやった。吃驚したビシュラはマントの隙間からヴァルトラムを見上げる。

「なっ、なにを……っ?」

「雑魚共がジロジロうざってぇからよォ」

 マントをビシュラの頭の上から退ける際に破片を払い除けた。

「オメエはそう思わねェのかよ」

「わたしはイヴァン所長から御推薦をいただき試験免除で入所いたしました。それをあまりよく思っていない方もいらっしゃるのです。それに、あの、わたしは……」

 ビシュラはヴァルトラムから目を伏せ顔を逸らした。申し訳なさそうに、何かを恥じるように。

「わたしは……《四ツ耳》なので」

 ヴァルトラムがたった一度だけ目にした長い獣耳。普段は徹底して隠して決してそれが人目に触れないようにしている。何故そうせねばならないのかヴァルトラムには理解できないが、ビシュラがそれを恥じているのは明らかだった。恥じている理由の一つは、《四ツ耳》というだけでこうやってそれが悪であるかのように陰口を叩かれ存在を卑下されるから。
 ヴァルトラムがハッと鼻先で笑ったのが聞こえた。

「それがどうした」

 ああそうだ、この人はわたしの本性を見ても莫迦にしたり蔑んだりしなかった。仰々しく隠しているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい鼻で笑い飛ばすのだ。

 ――「別に隠すこたねェ。可愛いぞ、ビシュラ」


 ビシュラはあの夜の言葉を思い出した。この《四ツ耳》を見てあのようなことを言ってくれたのはヴァルトラムだけだ。本当になんてことないように言い放って蔑むどころか褒めてくれたのはヴァルトラムだけだ。あの一言で大いに心を揺さぶられたし、正直嬉しかった。あのように酷いことをされたのにあの言葉だけは嬉しくてしょうがなかったのだ。
 あのように酷いこと……そこまで思い至り、ぼっとビシュラの顔が火を噴いた。あの夜の情事はビシュラの羞恥心では耐えかねる。

「俯くな、顔上げろ。お前はこれから三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターになるんだからな」

「えっ」

 ビシュラはポカンと口を半開きにする。黒い詰め襟に瑠璃色の長いマント。腰回りには帯刀、胸元には武勲の証。強さと勝利を象徴するこの男と同じ軍服に身を包むというのか。不相応すぎて想像が追い付かない。

「入隊試験はパスしてんだ。俺のところに来るっつうことはそういうことに決まってんだろうが」

「し、しかしわたしは〝観測所〟の所員です。突然三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターの隊員になるなんてそんなこと」

「突然じゃねェ。俺ァ何度も書状を出してるぜ。シカトしてやがんのはお前の上司のほうだ」

「わたしの上司というと、所長のことですか?」

 ビシュラは申し訳なさそうな顔を見せる。

「所長がヴァルトラム歩兵隊長さまの書状にお返事なさらないのは、それが返答ということなのでは……」

「あァ?」

「わたしの異動を許可しない、という御意志なのだと思います。わたしは今年入所したばかりの新人ですから当然です。転属や配置換えは希望できませんし、ましてや〝観測所〟の外へ出るなど考えられません」

「関係ねェ。俺がそうするって決めたんだからよ」

 ヴァルトラムはビシュラの腰を掴みヒョイと持ち上げると、自分の肩に担ぎ上げた。

「言ったろうが。嫌つっても攫ってくってな」

「ダ、ダメです! いけません! ヴァルトラム歩兵隊長さまがそのようなことをなされば、いくら所長とニーズヘクルメギル大隊長さまが御懇意にしておられると言っても〝観測所〟と三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターが対立することにもなりかねませんっ」

「上等じゃねェか。喧嘩でも何でもしてやらァ」

 ヴァルトラムはビシュラと会話しながら早足でスタスタと廊下を歩いて行く。来た道を戻れば出口に辿り着くはずだが、初めての場所をビシュラのニオイを辿ってあちらこちらへ歩き回ったものだから、正確に逆戻りできる自信は無い。

「面倒臭ェな。真っ直ぐ行くか」

 ヴァルトラムは足を止めて窓側の壁を見る。此処が塔の何階かは忘れたが、壁一枚破れば外だ。ぐるぐると来た道を順繰り順繰り戻るよりは手っ取り早い。

「真っ直ぐ? え?」

「壁を突っ切る」

「わああーーっ! ダメですダメです! 壊さないでください!」

 ビシュラはヴァルトラムの肩の上で手足をバタつかせて抵抗する。二人の会話が聞こえてくる監視係の所員たちも慌ててオロオロしている。ヴァルトラムに腕力で敵うはずがないから阻止したくともできないのだ。

〈――――所長より入電〉

 突然、脳内に響くアナウンス。プログラムを使用することができる者は脳内にいくつかの回線を有することが可能であり、情報を送受信することができる。

〈お前たち、そこにヴァルトラム大尉とビシュラがいるだろう〉

 観測所内部での出来事は所長にはお見通し。所員であれば所長に言い当てられたことに驚きはなく、彼等は「はい、はい」と何度も頷く。

〈私がいる応接室まで案内を頼む〉

「わ、私共がですか?」

〈できないか?〉

「大尉殿が私共に従ってくださるとは到底思えません。お気を損ねたら切り捨てられるのではないかとヒヤヒヤで……」

〈ならばビシュラに頼むとしよう。ビシュラならばできるだろう〉

(くっ、やはりビシュラは特別扱いか……っ)

 戦闘には縁遠い研究職とはいえやる前からこうも弱腰では当然の評価だろう。西方森林というイーダフェルトから遠く離れた誰も行きたがらない僻地にビシュラは単身で赴き、見事任務を全うして帰ってきた。そればかりか三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッター大隊長からの評判よろしく、歩兵隊長からは異動を望まれる異例の展開。所長からの評価や期待が上がるのも当然だ。

「ハイ、所長! えっ、お会いになるのですか? いや、しかしヴァルトラム歩兵隊長さまと直接お会いになるのは少々危険といいますか……」

 ビシュラのほうに入電したらしい。

「今更野郎に会うのなんざ面倒臭ェな」

「何を仰有るのです。所長はお忙しいのにヴァルトラム歩兵隊長さまの為にお時間を作ってくださったのですよ」

「俺のことはヒマだと思ってんのか」

「あああ、そのようなことは~! 申し訳御座いません、申し訳御座いませんっ」



 ビシュラはヴァルトラムをイヴァンから指示された応接室へと案内した。
 室内には所長イヴァンと副所長、そしてフェイ。三人はテーブルを挟んでソファに座っていた。クリーム色の壁には絵画と本棚、背の高い台には生花が挿された花瓶、天上には疑似ディスプレイの機材、三人が囲むガラス板のテーブルには飲み物が人数分。流石に荒事とはかけ離れた研究職とあって三本爪飛竜騎兵大隊の簡素すぎる応接とは異なり知的で和やかな雰囲気の部屋だ。
 ビシュラに促されヴァルトラムは緋の隣にどさっと座った。

(よく知りもしない場所でビシュラを自力で見付け出すとは、歩兵長の鼻はマジでどうなっているんだ)

 緋は半ば呆れつつ横目でヴァルトラムを見る。常人離れしたスペックなのに、その能力をもっと有意義に使おうとは考えないのだろうか。……考えないだろうな。
 扉付近に立っていたビシュラを、イヴァンが手招きした。四人が座るソファに近付いてきたが、この人たちと新米所員では剰りにも身分に隔たりがある。ビシュラはピシッと背筋を伸ばして緊張しているものの所在なさげだ。
 所長に「ビシュラ」と声をかけられ、緊張のあまり上擦った返事をしてしまった。

「まずは三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターへの派遣任務、完遂おめでとう。お前ならばできると信じていた。大隊長から丁重な礼状が届いていたぞ」

「あ、ありがとうございますっ」

 ビシュラはイヴァンに向かって深く頭を下げた。社交辞令だと分かっていても所長から直々に労いを賜ることはとても光栄だ。
 イヴァンは一呼吸をおいて「で、本題だが」と切り出した。ビシュラはそっと顔を上げた。

「お前には話していなかったが、実はそちらの大尉殿から三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターへの異動を要請されている」

「先程伺いました……」

 おいおい、何故残念そうな声を出す。ヴァルトラムはビシュラをチラッと見た。

「お前はどう考えている? ビシュラ」

「わたし、ですか?」

三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターへの異動は君も希望するところなのか、と所長はお訊ねになっているのだ、ビシュラ」

 副所長に回答を急かされているのは分かる。しかしながらヴァルトラムが現れたのも突然だし、望まれていると知ったのもつい先程、所長から面と向かって訊ねられても直ぐには適切な返答が出てこない。自分の返答如何によって〝観測所〟と三本爪飛竜騎兵大隊が対立することにでもなったらどうしようと、分不相応すぎる不安で心臓が痛い。

「お前は三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターへ行きたいのか? ビシュラ」

「わ、わたしは……」

「お前のしたいこと、お前の望みは何だ?」

 そう問われ、ビシュラの思考は停止した。所長は何故このようなことを訊ねるのだろうか。この局面において重要なのは一個人の意思ではなく、大きな権力を保持する二つの勢力が如何に衝突を避けるか、マイナスを最小限に抑えるか、影響を与え合わないか、ではなかろうか。
 自分の意思……そのようなことはビシュラ自身にとってもどうでもよいことに思われた。それを尋ねる所長の真意も推し量れず、頭が上手く回転しない。

「お前も知っているだろうが三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターで得た知識こそあれ戦闘経験は皆無。戦力としては新兵以下だろう。そもそもお前の気性では荒事には向くまい」

 イヴァンの言っていることはすべて正しい。ビシュラが黙り込んでいると、ヴァルトラムがハッと嘲弄した。

「反対するっつうことか? 別にしても構いやしねェ。ここぶっ壊して連れて行くだけだ」

「歩兵長。そんなにハッキリ言うな」

 イヴァンは冗談のようにハハハと笑った。この男は冗談を言うような性格ではないのですよ、所長様。

「それは困る。ここには貴重なデータが集まっている。ダメにされたのでは研究が滞ってしまうな」

 ヴァルトラムをよく知らないというのは暢気なものだ。緋はイヴァンの笑顔を見ていて半分羨ましいような呆れたような気分だった。

「それにそんなことはする必要は無い。私はビシュラが行きたいというのなら行かせるつもりだ」

 途端にビシュラは弾かれたようにイヴァンのほうへ顔を向けた。

「イヴァン所長? 本当にそんなことが? わたしはまだ入所したばかりですよ? 〝観測所〟には、所長のお傍にはわたしは必要ないということですか……?」

 まるで見捨てられたかのような顔をする。信じられない裏切りをされたかのような、天変地異でも起こったかのような。この娘は世間知らずであるが故、自分の予想と少々食い違ったくらいで、この世の最後がやってきたような気分にでもなっているのだろう。

「必要ないのかと、お前から私に問うのかビシュラ。先に私からの問いに答えるべきだ。お前はどうしたいのだと、私は訊いたはずだ」

「わたし如きが希望を述べるなど烏滸がましいです。〝観測所〟に入所できたのも所長のお力添えがあったからなのに、所長の御意向に背くなんて……」

「私がそれを許す」

 ビシュラの目がゆっくりと大きく開かれていく様を、ヴァルトラムは黙って観察していた。イヴァンが「許す」と口にした瞬間、ビシュラの目は確かに揺れ動いた。そしてイヴァンがビシュラのなかで如何に大きな存在であるかを思い知る。
 不愉快だ。ビシュラが〝観測所〟を離れる許可を得たことはヴァルトラムにとって願ったり叶ったりであるはずなのに気分が悪い。そもそも許可を得るとは何だ。何故この俺が何の義理もない〝観測所〟の所長なんぞに許可を乞う必要がある。
 ヴァルトラムは所員をくれと要求しているくせに頭の一つも下げていないし書状も緋が用意したものにサインをしただけだ。しかしながらビシュラが所長に対して剰りにも従順なものだから癇に障る。

「私がそうしろと言ったなら、お前は自分で考えることを止めて私が言った通りにしてしまうだろう」

 そうか、この男の言うことならばビシュラは無条件に鵜呑みにするのか。そうかそうか、そこまで服従が板に付いた扱いやすい者はなかなかいない。
 莫迦じゃないのか。
 ドスンッ!
 ヴァルトラムは肘掛けに頬杖を突いた体勢のまま、踵を床に叩き付けた。床が割れて四方に大きな亀裂が走った。

「歩兵長。ここは隊舎じゃない。抑えろ」

「さっさと決めろ。つまらねェ問答に俺が飽きる前に」

 どちらに転んでも力尽くでもビシュラを連れ去って行くつもりなのだから、イヴァンがわざわざビシュラの意思を確認しているのはヴァルトラムにとっては時間の無駄に他ならない。しかもイヴァンのビシュラへの影響力を見せ付けられる不快な時間だ。ヴァルトラムが静かに苛立っていることが分かる緋はビシュラに早くしろと視線を送った。しかしながらビシュラはオドオドするばかり。
 対照的にイヴァンは微塵も焦ってはいなかった。ヴァルトラムの苛立ちを察していないはずがないのにだ。

「お前は如何にして生きるか考えたことがあるか、ビシュラ。私はお前に〝観測所〟所員という身分と責任を与えた。お前はそれを持ってどうやって生きようかと考えたことはあるか。これから先も私から与えられる命令だけに従って生きるつもりか。何かしらの決断をしたとき、己の意思だと言い切れるか。私に左右されていないと言い切れるか。生きるとはそういうことではない。自分が何をすべきなのか自分で考え、自分の勇気で行動するのだ。自分の決定は自分で担保するのだ」

 与えられたものに縋り付くのは悪だと、あなたは言うのですね。あなたはあなたがわたしに与えたものさえも否定して、善なる行いをしろと言うのですね。善悪の定義さえもわたしに決めろと。
 今まで何もかもを与えてくれたのが嘘のようにわたしに質問と決定を投げ掛ける。この人が現れたから?
 ビシュラはヴァルトラムを見た。ヴァルトラムと出逢ったのは世界の終わり。ビシュラが知っている狭い狭い世界の外縁。ビシュラが還るべきだった世界を壊した人。すべてを与えられる安寧と安穏からわたしを切り離す存在――――褐色肌の赤髪の魔物。

「わたし、には……できません」

 ふう、と溜息が聞こえてきたビクッとした。期待を裏切ってしまったのだと悟ったから。何もかもを与えてもらった、期待されているのだと思っていた、自分のような存在でもイヴァンにとっては何か役に立つことがあり意義のある存在なのだと思っていたかった。
 心臓がバクバクと煩い。呼吸が苦しい。イヴァンから目を離せない。ビシュラが凝視するなか、イヴァンはフッと笑みを零した。

「……分かった。突然のことで途惑っているだろう。急に求められてできないのも仕方がない。お前は今まで何一つ己で決めてこなかったのだから。今回も、私が決めてやろう」

 イヴァンはビシュラの手を取った。もう一方の手をビシュラの手の甲の上に添え、ポンポンと撫でた。

三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターへ行きたまえ、ビシュラ」



   §§§§§


 ヴァルトラムたちが去った後、所長は冷め切ったカップに唇を付けた。
 副所長はビシュラが出て行った扉のほうを見詰めていた。兵士の何たるかなど戦場での術など考えたこともなく、己が属していた世界――――〝観測所〟のことすらもほとんど何も知らないまま少女は去って行った。

「まさか所長がビシュラを手放されるとは思っておりませんでした」

 イヴァンがカップを元の位置に戻すとカチンと鳴った。

「アレは、籠の鳥だ」

「ビシュラにとって〝観測所〟は鳥籠ですか。鳥籠のなかにいれば安全でありエサももらえる、と?」

「鳥籠のなかにいるだけでは私の予測を超える成長は無い。アレにはもっとたくさんのものを見て感じ、経験して学び、大いに成長してもらわなくてはならん。私の為に」
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