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Kapitel 05
眠り姫 02
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グローセノルデン大公所領、居城の一・ヴィンテリヒブルク。
吹雪で埋め尽くされた視界に大地から突き出た爪牙のような城が突如として現れる。灰白の雪原のなかに聳え立つ姿は、つらい旅路を乗り越えた安堵よりも孤高の厳格さを思わせる。
中枢都市イーダフェルトを発つこと数日、三本爪飛竜騎兵大隊は目的地に到着した。彼らがやって来た目的は無論、観光ではない。課せられた任務を果たすためにやって来た。
城壁塔や鋸壁に留まる飛竜や、天空を旋回し舞っている飛竜、地上に降り立った飛竜もいる。騎兵隊は先んじて到着し、大隊長である天尊の到着を待っていた。背丈よりも高い雪が積もり、城へ続く道は狭い。歩兵隊は隊列を細くして慎重に進み、城門を潜って内部へと導かれた。
歩兵隊の隊列が城に到着するなり、ズィルベルナーが緋に駆け寄った。
ビシュラ目当てで寄ってきたのに姿がなかった。大隊には今まで年上の緋しか女性がいなかったから、彼にとって年下で素直な性格のビシュラは可愛らしい存在だ。
ズィルベルナーはキョロキョロと辺りを見回し「あれ~?」と独り言を漏らし、近くにいたマクシミリアンの肩を叩いた。
「ビシュラちゃんは? 緋姐のケツに乗ってたじゃん」
「途中で歩兵長の車に乗り換えたぞ。流石に寒さが厳しくなったからな。むしろ、あのお嬢ちゃんがよく我慢したほうだ」
「歩兵長の車ってこれだろ」
ズィルベルナーは黒塗りの乗り物を指差した。マクシミリアンが「ああ」と応えると、何の遠慮もなくドアの取っ手を掴んだ。
「ビシュラちゃーん♪」
「ズィルビー、バカ! 最中だったらどうすんだッ」
マクシミリアンは慌ててズィルベルナーの服を引っ張ったが、脳内は子どものままのくせに図体だけは立派とあって力では敵わない。
ズィルベルナーはマクシミリアンが止めるのも聞かずドアを開け放った。
ゴボォッ!
何かがズィルベルナーの視界に飛びこんできて顔面にぶち当たった。
ズィルベルナーは後方に大きく仰け反り、どでんっと尻餅をついた。
飛んできたのは足の付いた菓子の皿。投げたのはヴァルトラムだ。
「誰が開けていいっつった、クソガキ」
緋は、床に臀を突いて顔を押さえるズィルベルナーを「邪魔だ」とゲシッと足蹴にした。
ドアから車内を覗きこむと、革張りのひとり掛けのソファに掛けたヴァルトラムが、ビシュラを腕に抱えていた。ビシュラは手に羽ペンを握ったまま眠りこけている。
緋はヴァルトラムがビシュラが着衣であることを確認し、拍子抜けして「何だ」と零した。
「最中じゃなかったのか」
「書類か何かをやってやがったが、途中からコレだ」
「アンタの腕のなかがよっぽど気持ちよかったらしいな」
緋はハハハと笑った。
ズィルベルナーはマクシミリアンから助け起こしてもらい、面白くなさそうにチェッと口を尖らせた。
「歩兵長ばっかビシュラちゃんと一緒でズリィよな~~」
「何だ、ヤキモチか。ガキかよ」
「ヤキモチじゃねェよ! カワイイ女のコを独り占めはよくねェだろって話!」
マクシミリアンはズィルベルナーを指差して笑った。
「ビシュラちゃん着いたぜーッ」
面白くないズィルベルナーは、車輌のドアをバンッバンッと叩いて大声を出した。その行動こそが実に子どもっぽく、緋とマクシミリアンはアハハハと声を上げて笑った。
「あッ、ハイ! ついウトウトしておりましたッ。申し訳ございませんッ」
ビシュラはズィルベルナーの声に驚いてガバッと飛び起きた。声量の所為で怒られたと思って反射的に頭を下げた。
それから、急いでヴァルトラムから離れて車から降りた。下車する際も何度もズィルベルナーにペコペコと頭を下げた。ズィルベルナーのほうが申し訳なくなって、もういいよビシュラちゃん、と返してしまった。
緋はビシュラから車内に顔を引き戻し、ヴァルトラムのコートの上に羽ペンが落ちているのを見つけた。グレーの毛並みのコートに青黒いシミが、ポツンと一点。
「歩兵長。コートにインク付いてるぞ」
「ああ、知ってる」
ビシュラがズィルベルナーの声に驚いて飛び起きたときに羽根ペンを手から取り落とし、コートがインクに染まってしまった。
ヴァルトラムは羽ペンを拾い上げ、コートと共に緋に放り投げた。
「ビシュラに遣れ」
上官から言われたとおり、緋はビシュラに羽ペンを手渡し、その肩にコートを掛けてやった。ヴァルトラムにはショートコートだったが、ビシュラにとっては寒さを凌げる充分な長さがある。
ビシュラは車外からヴァルトラムを見て首を傾げた。
「ビシュラ。そのコートを遣る。着てろ」
「え。ですが歩兵長は」
「俺にゃあ別のがある」
ヴァルトラムはソファから立ち上がった。一歩一歩歩む度に巨大な車体が揺れた。
車から降りたヴァルトラムは、首の骨をゴキゴキッと鳴らした。長時間座ったままの体勢でいて縮こまった筋肉を伸ばす。部屋かと思うほどの大きな車内でも、ヴァルトラムの巨躯には手狭だった。
ヴァルトラムは腕をゴリゴリと大きく回しながらビシュラと緋の前を通過した。その後ろをマクシミリアンが付いていった。
ヴァルトラムが行ってしまったあとで、ビシュラは緋の顔を見た。
「あの、このコート、もしかして高価なものなのでは……」
「まあ、安くはないだろうな。大錫熊の毛皮だからな」
「そんな高価なものを……ッ」
「本人がやると言ったんだからもらっておけ。気にすることはない。歩兵長は金銭感覚バカだから」
「し、しかし」
緋は、オロオロするビシュラのコートのボタンを留めてやる。
「ほかに着るものが無いのは事実だろう。その薄着で外にいたら凍死するぞ。悪いことは言わないから着ておけ」
ビシュラは緋の薦めを断れなかった。この地の寒さを甘く見て防寒が足りなかったのは自分の落ち度だ。意地を張って体調を崩すわけにはゆかない。
ヴァルトラムから賜ったのは、見事な銀灰色の毛並みをした見れば見るほど高価そうなコートだ。これを簡単に人に譲るとは、緋の言うとおり、ヴァルトラムは金銭感覚が少々一般とは乖離している。
コートを観察したビシュラは、ある一点で目を留めた。
「あれ。コートにシミが」
「お前、さっきズィルビーに声かけられて飛び起きたろう。その時にペンが落ちて付いたんだ」
「ええ⁉ じゃあコレはわたしがッ?」
ビシュラの顔面がサーッと青くなった。
「クリーニングで落ちますかね……?」
「無理じゃないか。インクだろ」
「こ、こ、このコート、わたしのお給料どのくらい分で弁償できますか……?」
それも無理じゃないか、と緋は喉まで出かかった。ビシュラ自身、顔色を変えるくらいにはヴァルトラムのコートの値打ちが分かっている。追い打ちを掛けることもあるまい。
「歩兵長!」
ビシュラがヴァルトラムとマクシミリアンの許に駆け寄ってきた。
若い娘が顔面を真っ青にして何事かと、マクシミリアンは眉根を寄せた。
ビシュラはヴァルトラムのコートを抱き締めて深々と頭を下げた。
「申し訳ございません! わたしの不注意で歩兵長のお召し物を汚してしまいました! 謹んで弁償させていただきますッ」
このようなことは大変申し上げにくいのですが……、とビシュラはおそるおそる頭を上げてヴァルトラムを見上げた。
ヴァルトラムは変わらず無表情。ビシュラには彼が怒っているのかいないのか、何を考えているか察することはできなかった。
「で、できましたら分割にしていただきたく……」
マクシミリアンはプッと吹き出した。真剣そのもののビシュラに悪いと思って口を隠して顔を背けた。
「別に弁償なんざ要らねェ」
ヴァルトラムは溜息交じりで言った。何を深刻になっているのだとでも言うように。この男にとっては金銭でどうにかなる程度の問題など些末なことだ。
「それはオメエにやったんだ。汚すも捨てるも好きにしろ」
「ですが、このように高価なもの……」
「じゃあ、やる代わりに俺の言うことを聞け。高ェモンをタダでもらうから気持ち悪ィんだろ」
「気持ち悪くはないですが……タダで頂戴するよりは、わたしにできることでしたらお申し付けくださったほうが気が咎めません」
ザッザッザッザッ。
床を踵で叩く重厚な足音。全身を鎧で覆った一団が、足並みを揃えて部屋の中央を進んでくる。立派な装飾が施されたメタルメイル。クラシカルかつ儀礼的かつ非実用的で、三本爪飛竜騎兵大隊にはない装備だ。
ひとりの初老の男性が先頭に立って騎士団を率いる。その頭に兜は無く、ややプラチナがかった濃いブルーの髪の毛と、皺と傷が刻まれた精悍な顔付きを晒す。口には葉巻を咥え、端から煙を吐き出した。不貞不貞しく感じるほどの威容を誇る。
初老の偉丈夫がヴァルトラムの車輌の前で足を止めた。
メタルメイルたちもピタッと停止した。足音が止み、広間は静まり返った。その場の視線は、騎士団を率いる先頭の偉丈夫に集中した。
その人物はそのようなことは微塵も気に留めなかった。ヴァルトラムの正面に立ち、唇から葉巻を離した。大口を開けて大量の白い煙をフハーッと吐き出した。
「白髪の大隊長はどこだ」
慇懃無礼な言い草。しかし、誰も彼を責めたり反抗的な姿勢を見せたりはしなかった。天尊を敬愛しているトラジロさえも。
ビシュラはマクシミリアンに顔を近づけソッと耳打ちする。
「あの方は、どなたですか?」
「ここの主だ」
「グローセノルデン大公御本人ですか?」
マクシミリアンは、ああ、と短く答えた。
甲冑を纏った蒼髪の偉丈夫――――北の大領主ヘルヴィン・グローセノルデン。
グローセノルデンは、一年中雪が吹き荒ぶ厳しい大地、宏大な灰銀の雪原を所有する大貴族でありながら、アスガルトを守護するエインヘリヤルに古くから名を連ねる軍閥の名家。ヘルヴィン自身も若かりし頃から数々の武功を上げ、北の所領を防備するためにイーダフェルトにはなかなか姿を現さないものの、武人として名高い。
ヘルヴィンはヴァルトラム相手に一歩も引かないどころか対等に向き合った。
ビシュラはふたりの威容に気圧され、つい隠れるようにヴァルトラムの背後に入った。
バタン、とヘルヴィンとヴァルトラムが対面している地点よりも後方、広間の中程に停車してある乗り物のドアが開いた。
車内から降りてきたのは、大公がお尋ねの白髪の大隊長・天尊だ。その腕に毛布のかたまりを抱えていた。毛布にくるんだ〝眠り姫〟を丁重に手ずから運ぶ。
「ここだ」
天尊が近づいてくると、ヘルヴィンは表情を変えた。
「おお、ファシャオの小倅にして我が戦友。こんなクソ面白くもねェ北の地へようこそ」
「アンタが呼んだから遠路遙々来てやった」
ヘルヴィンは大口を開けてアッハッハッと豪快に笑った。天尊に近づいてその腕に抱く毛布を覗きこんだ。
「何だ、この荷物は」
天尊と〝眠り姫〟との間で視線を数度往復させたあと、自分の顎に手を置いた。
「お前のガキか。いつの間にこんなデカイのこさえた」
「ボケたかジジイ。俺はそんな歳じゃない」
ヴァルトラムの陰に隠れて聞いていたビシュラはドキーンッとした。彼の有名なグローセノルデン大公に対してなんという言い草だ。
ヘルヴィン・グローセノルデンも天尊に対して慇懃無礼だったが、天尊も負けずと劣らない。憎まれ口を叩いて叩かれて、笑って済ませられる親しい間柄なのだろう。
「部屋に案内してくれ。早く休ませてやりたい」
天尊はそう言ってヘルヴィンと歩き出した直後、「ああ、そうだ」とすぐに足を止めた。ようやくヴァルトラムの後ろからソッと顔を出したビシュラは、天尊と目が合った。
「ビシュラ。あとで俺の部屋に来い」
「ハイ。かしこまりましたッ」
当然のように命令する天尊、当然のように従うビシュラ。ヴァルトラムは微かに鼻の頭に皺を寄せた。おそらく本人も気づかないくらい微かに。
ビシュラの返事を聞き、天尊は進行方向へ向き直った。ヘルヴィンと何やら会話をしつつ城内のほうへと歩いて行った。
ビシュラは天尊の背中をいつまでも名残惜しそうに眺めた。その姿が見えなくなってからも城内への入り口をジッと見詰めた。
「ビシュラ。アイツの部屋に行くのか?」
「そのように仰せ付かりましたので、後ほど伺います」
ヴァルトラムはフゥンと独り言を零した。
「やはりまだお目覚めになっておられないのですね……エンブラのお嬢様」
ヴァルトラムはビシュラのほうを振り返ってその顎を捕まえた。そこまでしてようやくビシュラの視線が自分のほうへ向いた。
「そんなに気になるか。観測所にいただけあってオメエにも研究者根性とかあんのか」
「そのようなものではありません。心配しているだけですよ」
「アイツのモンをオメエがそこまで気にしてやるこたねェ」
「見知らぬところにひとりでやってくるのは不安ですよ、きっと」
その言葉には自分も含まれていたのかもしれない。観測所から飛竜の大隊へ、真逆とも言える環境へ、たったひとりでやって来た自分自身のこと。
一時ヴァルトラムのほうを向いたビシュラの目線は、すぐに下に落ちてまた伏し目がちになった。彼女は、天尊がエンブラの少女を連れ帰ったときのことを回想した。
吹雪で埋め尽くされた視界に大地から突き出た爪牙のような城が突如として現れる。灰白の雪原のなかに聳え立つ姿は、つらい旅路を乗り越えた安堵よりも孤高の厳格さを思わせる。
中枢都市イーダフェルトを発つこと数日、三本爪飛竜騎兵大隊は目的地に到着した。彼らがやって来た目的は無論、観光ではない。課せられた任務を果たすためにやって来た。
城壁塔や鋸壁に留まる飛竜や、天空を旋回し舞っている飛竜、地上に降り立った飛竜もいる。騎兵隊は先んじて到着し、大隊長である天尊の到着を待っていた。背丈よりも高い雪が積もり、城へ続く道は狭い。歩兵隊は隊列を細くして慎重に進み、城門を潜って内部へと導かれた。
歩兵隊の隊列が城に到着するなり、ズィルベルナーが緋に駆け寄った。
ビシュラ目当てで寄ってきたのに姿がなかった。大隊には今まで年上の緋しか女性がいなかったから、彼にとって年下で素直な性格のビシュラは可愛らしい存在だ。
ズィルベルナーはキョロキョロと辺りを見回し「あれ~?」と独り言を漏らし、近くにいたマクシミリアンの肩を叩いた。
「ビシュラちゃんは? 緋姐のケツに乗ってたじゃん」
「途中で歩兵長の車に乗り換えたぞ。流石に寒さが厳しくなったからな。むしろ、あのお嬢ちゃんがよく我慢したほうだ」
「歩兵長の車ってこれだろ」
ズィルベルナーは黒塗りの乗り物を指差した。マクシミリアンが「ああ」と応えると、何の遠慮もなくドアの取っ手を掴んだ。
「ビシュラちゃーん♪」
「ズィルビー、バカ! 最中だったらどうすんだッ」
マクシミリアンは慌ててズィルベルナーの服を引っ張ったが、脳内は子どものままのくせに図体だけは立派とあって力では敵わない。
ズィルベルナーはマクシミリアンが止めるのも聞かずドアを開け放った。
ゴボォッ!
何かがズィルベルナーの視界に飛びこんできて顔面にぶち当たった。
ズィルベルナーは後方に大きく仰け反り、どでんっと尻餅をついた。
飛んできたのは足の付いた菓子の皿。投げたのはヴァルトラムだ。
「誰が開けていいっつった、クソガキ」
緋は、床に臀を突いて顔を押さえるズィルベルナーを「邪魔だ」とゲシッと足蹴にした。
ドアから車内を覗きこむと、革張りのひとり掛けのソファに掛けたヴァルトラムが、ビシュラを腕に抱えていた。ビシュラは手に羽ペンを握ったまま眠りこけている。
緋はヴァルトラムがビシュラが着衣であることを確認し、拍子抜けして「何だ」と零した。
「最中じゃなかったのか」
「書類か何かをやってやがったが、途中からコレだ」
「アンタの腕のなかがよっぽど気持ちよかったらしいな」
緋はハハハと笑った。
ズィルベルナーはマクシミリアンから助け起こしてもらい、面白くなさそうにチェッと口を尖らせた。
「歩兵長ばっかビシュラちゃんと一緒でズリィよな~~」
「何だ、ヤキモチか。ガキかよ」
「ヤキモチじゃねェよ! カワイイ女のコを独り占めはよくねェだろって話!」
マクシミリアンはズィルベルナーを指差して笑った。
「ビシュラちゃん着いたぜーッ」
面白くないズィルベルナーは、車輌のドアをバンッバンッと叩いて大声を出した。その行動こそが実に子どもっぽく、緋とマクシミリアンはアハハハと声を上げて笑った。
「あッ、ハイ! ついウトウトしておりましたッ。申し訳ございませんッ」
ビシュラはズィルベルナーの声に驚いてガバッと飛び起きた。声量の所為で怒られたと思って反射的に頭を下げた。
それから、急いでヴァルトラムから離れて車から降りた。下車する際も何度もズィルベルナーにペコペコと頭を下げた。ズィルベルナーのほうが申し訳なくなって、もういいよビシュラちゃん、と返してしまった。
緋はビシュラから車内に顔を引き戻し、ヴァルトラムのコートの上に羽ペンが落ちているのを見つけた。グレーの毛並みのコートに青黒いシミが、ポツンと一点。
「歩兵長。コートにインク付いてるぞ」
「ああ、知ってる」
ビシュラがズィルベルナーの声に驚いて飛び起きたときに羽根ペンを手から取り落とし、コートがインクに染まってしまった。
ヴァルトラムは羽ペンを拾い上げ、コートと共に緋に放り投げた。
「ビシュラに遣れ」
上官から言われたとおり、緋はビシュラに羽ペンを手渡し、その肩にコートを掛けてやった。ヴァルトラムにはショートコートだったが、ビシュラにとっては寒さを凌げる充分な長さがある。
ビシュラは車外からヴァルトラムを見て首を傾げた。
「ビシュラ。そのコートを遣る。着てろ」
「え。ですが歩兵長は」
「俺にゃあ別のがある」
ヴァルトラムはソファから立ち上がった。一歩一歩歩む度に巨大な車体が揺れた。
車から降りたヴァルトラムは、首の骨をゴキゴキッと鳴らした。長時間座ったままの体勢でいて縮こまった筋肉を伸ばす。部屋かと思うほどの大きな車内でも、ヴァルトラムの巨躯には手狭だった。
ヴァルトラムは腕をゴリゴリと大きく回しながらビシュラと緋の前を通過した。その後ろをマクシミリアンが付いていった。
ヴァルトラムが行ってしまったあとで、ビシュラは緋の顔を見た。
「あの、このコート、もしかして高価なものなのでは……」
「まあ、安くはないだろうな。大錫熊の毛皮だからな」
「そんな高価なものを……ッ」
「本人がやると言ったんだからもらっておけ。気にすることはない。歩兵長は金銭感覚バカだから」
「し、しかし」
緋は、オロオロするビシュラのコートのボタンを留めてやる。
「ほかに着るものが無いのは事実だろう。その薄着で外にいたら凍死するぞ。悪いことは言わないから着ておけ」
ビシュラは緋の薦めを断れなかった。この地の寒さを甘く見て防寒が足りなかったのは自分の落ち度だ。意地を張って体調を崩すわけにはゆかない。
ヴァルトラムから賜ったのは、見事な銀灰色の毛並みをした見れば見るほど高価そうなコートだ。これを簡単に人に譲るとは、緋の言うとおり、ヴァルトラムは金銭感覚が少々一般とは乖離している。
コートを観察したビシュラは、ある一点で目を留めた。
「あれ。コートにシミが」
「お前、さっきズィルビーに声かけられて飛び起きたろう。その時にペンが落ちて付いたんだ」
「ええ⁉ じゃあコレはわたしがッ?」
ビシュラの顔面がサーッと青くなった。
「クリーニングで落ちますかね……?」
「無理じゃないか。インクだろ」
「こ、こ、このコート、わたしのお給料どのくらい分で弁償できますか……?」
それも無理じゃないか、と緋は喉まで出かかった。ビシュラ自身、顔色を変えるくらいにはヴァルトラムのコートの値打ちが分かっている。追い打ちを掛けることもあるまい。
「歩兵長!」
ビシュラがヴァルトラムとマクシミリアンの許に駆け寄ってきた。
若い娘が顔面を真っ青にして何事かと、マクシミリアンは眉根を寄せた。
ビシュラはヴァルトラムのコートを抱き締めて深々と頭を下げた。
「申し訳ございません! わたしの不注意で歩兵長のお召し物を汚してしまいました! 謹んで弁償させていただきますッ」
このようなことは大変申し上げにくいのですが……、とビシュラはおそるおそる頭を上げてヴァルトラムを見上げた。
ヴァルトラムは変わらず無表情。ビシュラには彼が怒っているのかいないのか、何を考えているか察することはできなかった。
「で、できましたら分割にしていただきたく……」
マクシミリアンはプッと吹き出した。真剣そのもののビシュラに悪いと思って口を隠して顔を背けた。
「別に弁償なんざ要らねェ」
ヴァルトラムは溜息交じりで言った。何を深刻になっているのだとでも言うように。この男にとっては金銭でどうにかなる程度の問題など些末なことだ。
「それはオメエにやったんだ。汚すも捨てるも好きにしろ」
「ですが、このように高価なもの……」
「じゃあ、やる代わりに俺の言うことを聞け。高ェモンをタダでもらうから気持ち悪ィんだろ」
「気持ち悪くはないですが……タダで頂戴するよりは、わたしにできることでしたらお申し付けくださったほうが気が咎めません」
ザッザッザッザッ。
床を踵で叩く重厚な足音。全身を鎧で覆った一団が、足並みを揃えて部屋の中央を進んでくる。立派な装飾が施されたメタルメイル。クラシカルかつ儀礼的かつ非実用的で、三本爪飛竜騎兵大隊にはない装備だ。
ひとりの初老の男性が先頭に立って騎士団を率いる。その頭に兜は無く、ややプラチナがかった濃いブルーの髪の毛と、皺と傷が刻まれた精悍な顔付きを晒す。口には葉巻を咥え、端から煙を吐き出した。不貞不貞しく感じるほどの威容を誇る。
初老の偉丈夫がヴァルトラムの車輌の前で足を止めた。
メタルメイルたちもピタッと停止した。足音が止み、広間は静まり返った。その場の視線は、騎士団を率いる先頭の偉丈夫に集中した。
その人物はそのようなことは微塵も気に留めなかった。ヴァルトラムの正面に立ち、唇から葉巻を離した。大口を開けて大量の白い煙をフハーッと吐き出した。
「白髪の大隊長はどこだ」
慇懃無礼な言い草。しかし、誰も彼を責めたり反抗的な姿勢を見せたりはしなかった。天尊を敬愛しているトラジロさえも。
ビシュラはマクシミリアンに顔を近づけソッと耳打ちする。
「あの方は、どなたですか?」
「ここの主だ」
「グローセノルデン大公御本人ですか?」
マクシミリアンは、ああ、と短く答えた。
甲冑を纏った蒼髪の偉丈夫――――北の大領主ヘルヴィン・グローセノルデン。
グローセノルデンは、一年中雪が吹き荒ぶ厳しい大地、宏大な灰銀の雪原を所有する大貴族でありながら、アスガルトを守護するエインヘリヤルに古くから名を連ねる軍閥の名家。ヘルヴィン自身も若かりし頃から数々の武功を上げ、北の所領を防備するためにイーダフェルトにはなかなか姿を現さないものの、武人として名高い。
ヘルヴィンはヴァルトラム相手に一歩も引かないどころか対等に向き合った。
ビシュラはふたりの威容に気圧され、つい隠れるようにヴァルトラムの背後に入った。
バタン、とヘルヴィンとヴァルトラムが対面している地点よりも後方、広間の中程に停車してある乗り物のドアが開いた。
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「ここだ」
天尊が近づいてくると、ヘルヴィンは表情を変えた。
「おお、ファシャオの小倅にして我が戦友。こんなクソ面白くもねェ北の地へようこそ」
「アンタが呼んだから遠路遙々来てやった」
ヘルヴィンは大口を開けてアッハッハッと豪快に笑った。天尊に近づいてその腕に抱く毛布を覗きこんだ。
「何だ、この荷物は」
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「お前のガキか。いつの間にこんなデカイのこさえた」
「ボケたかジジイ。俺はそんな歳じゃない」
ヴァルトラムの陰に隠れて聞いていたビシュラはドキーンッとした。彼の有名なグローセノルデン大公に対してなんという言い草だ。
ヘルヴィン・グローセノルデンも天尊に対して慇懃無礼だったが、天尊も負けずと劣らない。憎まれ口を叩いて叩かれて、笑って済ませられる親しい間柄なのだろう。
「部屋に案内してくれ。早く休ませてやりたい」
天尊はそう言ってヘルヴィンと歩き出した直後、「ああ、そうだ」とすぐに足を止めた。ようやくヴァルトラムの後ろからソッと顔を出したビシュラは、天尊と目が合った。
「ビシュラ。あとで俺の部屋に来い」
「ハイ。かしこまりましたッ」
当然のように命令する天尊、当然のように従うビシュラ。ヴァルトラムは微かに鼻の頭に皺を寄せた。おそらく本人も気づかないくらい微かに。
ビシュラの返事を聞き、天尊は進行方向へ向き直った。ヘルヴィンと何やら会話をしつつ城内のほうへと歩いて行った。
ビシュラは天尊の背中をいつまでも名残惜しそうに眺めた。その姿が見えなくなってからも城内への入り口をジッと見詰めた。
「ビシュラ。アイツの部屋に行くのか?」
「そのように仰せ付かりましたので、後ほど伺います」
ヴァルトラムはフゥンと独り言を零した。
「やはりまだお目覚めになっておられないのですね……エンブラのお嬢様」
ヴァルトラムはビシュラのほうを振り返ってその顎を捕まえた。そこまでしてようやくビシュラの視線が自分のほうへ向いた。
「そんなに気になるか。観測所にいただけあってオメエにも研究者根性とかあんのか」
「そのようなものではありません。心配しているだけですよ」
「アイツのモンをオメエがそこまで気にしてやるこたねェ」
「見知らぬところにひとりでやってくるのは不安ですよ、きっと」
その言葉には自分も含まれていたのかもしれない。観測所から飛竜の大隊へ、真逆とも言える環境へ、たったひとりでやって来た自分自身のこと。
一時ヴァルトラムのほうを向いたビシュラの目線は、すぐに下に落ちてまた伏し目がちになった。彼女は、天尊がエンブラの少女を連れ帰ったときのことを回想した。
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