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Kapitel 06
04:竜の壁 01
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ビシュラは、トラジロにより騎兵隊隊長室に呼び出された。
部屋の造りはヴァルトラムの一室と同様、ドアの真正面の壁面に大きな窓。その窓を背にデスクがある。トラジロはデスクに座してビシュラを待っていた。
ビシュラが到着すると、すでにトラジロのデスクの脇にひとりの男が立っていた。その男は騎兵隊隊員。髪型はオールバック、片眼鏡をかけ、トラジロのように額に角が生えていた。手を腰の上に置き背筋をピンと伸ばして、軍服をそつなく着こなしていた。
「竜の壁……ですか?」
「騎兵隊員ならば、避けては通れない道です」
ビシュラには初めての言葉だった。観測所時代に耳にしたこともない。
トラジロは、明らかに初耳という顔をしている部下に説明を省くような人物ではなかった。
竜の壁――――ドラゴンの棲息地のひとつ。飛竜のみならず多様なドラゴンが棲息している、切り立った山岳地帯の寒冷な土地。三本爪飛竜騎兵大隊ではその名のとおり多くの飛竜を有している。しかし、騎兵隊員は大隊により飛竜を宛がわれるのではない。騎乗する飛竜――戦場を共に駆ける唯一無二の相棒は、自ら獲得するのだ。ドラゴンの棲息地はいくつか知られているが、大隊ではこの地を訪れることが通例となっている。
紹介します、と言ってトラジロはデスク傍に立っている男を指し示した。
「同行者のオタカルです。キミを〝竜の壁〟へと案内します」
オタカル――片眼鏡をかけた角のある青年は、ビシュラへと切れ長の目線を這わせた。
ビシュラは彼に深々と頭を下げた。
「同じ騎兵隊員ですが、顔を合わせたのは初めてですかね。オタカルは私が最も信頼する部下のひとりです。飛竜を駆る技術は騎兵隊のなかでトップクラスです。〝竜の壁〟近くの出身で、あの辺りの地理にも飛竜にも詳しい。適宜、必要な助言をしてくれるでしょう」
オタカルはビシュラの前に進み出た。頭の天辺から足の爪先まで何往復もジロジロと観察した。
「ヴァルトラム歩兵長の新恋人、ビシュラ准尉」
ビシュラの笑顔がピシッと凍りついた。ほぼ初対面の人物からそのように認識されているとは不本意だ。
恋人というわけでは……、とビシュラが言葉を濁し、オタカルから「へえ~」と相槌が返ってきた。
「では恋人でもないのに歩兵長から目をかけられ、戦闘能力ゼロの文官が三本爪飛竜騎兵大隊に入隊が叶ったと。貴女は余程貴重な人材なのでしょうね~」
「オタカル。やめなさい。プライベートな質問です」
トラジロは額を押さえ「はあーっ」と大きな溜息を吐いた。
トラジロにやめろと言われても、オタカルからビシュラに向けられる視線は一向に柔らかくはならなかった。
「プライベートな質問でしょうか。大隊隊員たる資質については、准尉には多分に問題があると進言いたします」
「大隊は戦闘以外の業務も山積みです。その方面でビシュラは充分に能力を発揮してくれています」
「ですが、我が大隊には戦えない者などおりません。彼女以外、誰ひとり」
その一言により、ビシュラは完全に萎縮してしまった。ヴァルトラムや緋、トラジロは非戦闘員なのだから問題はないと言ってくれるが、オタカルの指摘は否定しようのない事実だ。大隊に机上の作業のみを専業としている者はビシュラ以外にはいない。
隊員の多くはオタカルと同様の意見なのだろうか。ビシュラはそう思うと、急激に此処には自分の居場所がないように思えてきた。求められていると、やるべきことがあると、一瞬でも感じたこと自体が勘違いなのかも。
トラジロがオタカルにそこまでにしなさいと命じた。
「ビシュラの入隊はヴァルトラムの声があったからではなく、大隊長が承認されたのです。大隊長の決定は覆せませんよ」
オタカルは口を閉ざし、ただじーっとビシュラを凝視した。彼が納得していないのは明らかだったが、命令に反するような男ではないとトラジロは知っている。
ビシュラとオタカルは命令を受諾したとして退室を命じられた。
ビシュラとオタカルはトラジロの部屋から出た。カツカツカツ、と隊舎の廊下を進むオタカルの足取りは速く、ビシュラは遅れないように急いで足を前後に動かした。
「准尉」
突然オタカルの足がピタリと停まった。
懸命に追随していたビシュラは、オタカルの背中にぶつかってしまいそうになった。急ブレーキをかけて慌てて二、三歩後退った。爪先を揃えて背筋を伸ばした。
「貴女が歩兵長が引き抜いた人材ということは知っています。一体どういった経緯で?」
とても説明できるような経緯ではない、というのがビシュラの気持ちだった。ヴァルトラムの地位の為だけではない、自分の名誉の為にもだ。
ビシュラは弱った表情でオタカルを見た。オタカルの視線は鋭く、眼前の年若い女性に対する配慮は一切なかった。
「必ず説明しなければいけませんか?」
「そうする義務はありませんが、私が貴女を信用する為には必要です。あの歩兵長が、これまで関心など皆無だった観測所から、学院卒業直後の新米、それも戦闘能力ゼロの女性文官を、自ら出向いて直接引き抜いた、こんなことは前代未聞です。だから私にとって貴女は得体が知れないのですよ」
オタカルの片眼鏡がキラッと光った気がした。
「〝竜の壁〟は騎兵隊員は必ず訪れる場所。ですが私が案内したところで危険な場所には違いない。不作法者は命を落とす可能性だってある。そのような場所で得体の知れない人物と行動するのを避けたいというのは当然ではないですか」
それはそうですよね……、とビシュラはオタカルから逃げるように目を逸らした。オタカルの考えは充分に理解できる。しかし、彼の望む経緯を話す気にはどうしてもなれなかった。大隊入隊に至った経緯をヴァルトラムとの間であったことに触れずに説明することは困難だからだ。
ビシュラは俯いて黙りこんでしまった。オタカルは「はあーっ」とかなり盛大な溜息を吐いた。それによりビシュラが萎縮することなど彼が配慮すべきことではなかった。
「得体が知れない上に、愚図でノロマで無知でオドオドして勘も悪そうだ。同行者としては最低の部類です」
「申し訳ございません……」
「ここまで言われても腹が立ちませんか。本当に歩兵長はどうして貴女を引き抜いたのか」
俯いているビシュラの視界からオタカルの爪先が消えた。オタカルはビシュラに背を向けて歩き出した。
「精々怪我をしないようにおっかなびっくりついてくればいい、お嬢さん」
歩兵隊第一詰所。
褐色の肌を持つ大男が、応接セットにひとりで陣取っていた。テーブルの上にブーツごと足を乗せ、煙管を銜えていた。立ち上る煙で周囲は仄白くなっていた。
そこへ桃色の短髪の女性がやって来た。彼女は、ソファで偉そうに踏ん反り返っている褐色の大男の傍で足を停めた。顔にかかる煙管の煙をうざったそうに手で払った。
「ビシュラが〝竜の壁〟へ行くそうだ」
緋は前置きもなくそう切り出した。
ヴァルトラムは緋へ目線を向けることもしなかった。気怠そうにゆったりとした動作で煙管から口を離してフーッと煙を吹き出した。
「騎兵隊だっつーんだからいずれそうなるだろ」
「放っておいていいのか」
緋が腕組みをし、たゆんっと胸が上下に揺れた。腰を屈めてヴァルトラムに顔を近づけた。
「〝竜の壁〟への案内人はオタカルだ。あのオタカルとビシュラだぞ。相性は最悪に決まってる」
「あー……」
ヴァルトラムは天井を仰ぎ、ソファの背凭れに後頭部を置いた。
ヴァルトラムと緋はトラジロの部屋を訪れた。
トラジロはデスクで何やら書類仕事をしていた。コンコンとノックオンがしたと思ったら、此方の返答も待たず「入るぞ」とドアが開いた。トラジロは書類に落としていた目を開いたドアへと移した。
ドアが開け放たれ、褐色の大男が鴨居を潜って入室してきた。朱色の髪を揺らしながらズカズカとドアから真っ直ぐにトラジロに向かった。デスクの前に立ち、高圧的な態度でトラジロを見下ろした。
「俺も行く」
(またこのパターンですか)
開口一番、己の主張のみ突きつける。威圧的で厚顔で慇懃無礼。トラジロは最早この男に礼節など求めはせず、呆れた溜息を吐いた。
「何処へ……と訊く必要はありませんね。ビシュラが〝竜の壁〟へ行く件でしょう」
トラジロがチラッと視線を送り、緋はコクッと頷いた。
「ヴァルトラムの同行は必要ありません。オタカルが案内し、同行します。オタカルはあそこに誰よりも詳しい」
「だから、俺も行く」
トラジロとヴァルトラムはデスクを挟んで睨み合った。互いに聞く耳を持たないといった態度だ。このふたりだけでは話は一歩たりとも進展しないことは火を見るより明らかだ。
緋がヴァルトラムの横から進み出て、デスクに手を突いた。
「ビシュラを見たオタカルの反応はどうだった?」
「どう、とは?」
「おかしなところはなかったか」
「いつもより突っかかっている感じはしましたが……。多少の反感で仕事を忘れるような男ではありませんよ」
「歩兵長の話をしていなかったか」
トラジロは、目の前で威丈高に腕組みをしている大男を眼球を動かして見た。
「ビシュラがヴァルトラムの恋人だと知っていました。それについてはビシュラ自身が否定しました。ヴァルトラムはビシュラを庇護していることを隠してはいないですし、特段不都合はないでしょう」
緋は額を押さえて溜息を吐いた。
「アタシも歩兵長を行かせるほうに賛成だ。ふたりきりで誰の目も届かないところへなんか行かせてみろ、オタカルはビシュラを捨ててきてもおかしくない」
「まさか。同じ騎兵隊員ですよ」
トラジロは信じられないという表情だった。それを見た緋は、少し参ってしまったように微かに笑みを零した。
トラジロは他隊からも年若い割りには有能と評判だが、人の気持ちについては不勉強だ。それは彼が年若い所為ではなく、性格上の問題のような気がするけれど。彼は論理的・合理的であることを好む。人の上に立つ者としては戦闘戦術的な勉強ばかりでなく、情緒についても学んでほしいものだ。
「トラジロ。ヒトはお前が思っているより遥かに感情によって行動する生き物なんだよ」
緋に説得されたトラジロは、ビシュラとオタカルを隊長室へ呼び出した。ヴァルトラムはさておき緋の助言を無碍にはしなかった。
トラジロは自身の判断に意見されても反感を抱く質ではない。誰が発案したものであれ、的を射ており有用であれば積極的に採用することを信条としている。また、他者の感情に疎い点について多少の自覚はある。緋がオタカルとビシュラのみの行動を危険だと判断したならその可能性は否めない。
何度も呼び出して申し訳ない、とトラジロはデスクの前に並んでいるビシュラとオタカルに断った。
トラジロはデスクの上に両肘を突いて両手の指を交互に組み、その上に自分の顎を置いた。こうしてふたつの顔を並べて見ても、緋と同等の緊急度の懸念を汲み取ることはできなかった。本当に、人の感情とは奇怪で不可解で正しく捉えることが難しい。
「ヴァルトラムが〝竜の壁〟へ行くとしたら……オタカル、あなたはどう思いますか」
「歩兵長がッッッ」
オタカルの復唱は素早かった。それまで冷徹一辺倒を貫いていたのに明らかに顔色を変えた。
ビシュラはオタカルのことをまだよく知らないが、態度や物言いからして品行方正を重んじる厳粛な性格だろうと考えている。唯我独尊、傍若無人なヴァルトラムとは相容れないだろう。故に、本音を言えばヴァルトラムと行動をともにすることを回避したいのかもしれないと思った。
オタカルはぷるぷると微かに震えており、ビシュラは絶句した。そこまで嫌でも私情を殺さなければいけないのが兵士の宿命なのだとしたら何と過酷なことかと。
「私が歩兵長のお伴を? このッ私ッオタカルがッ」
「まだ決定していません。行くとしたら、です。……ヴァルトラムが足を踏み入れることによって〝竜の壁〟での危険が増すことを危惧しています」
「危険? そうでしょうね。ドラゴンが歩兵長を嫌う可能性はあります」
ドラゴンはヴァルトラムを嫌う――、そう聞いてビシュラは自ずと疑問が湧いたが、何故、どうして、と口を挟める雰囲気ではなかった。飛竜に騎乗するエキスパート集団の長であるトラジロと、そのトラジロが信頼する部下であるオタカル、両者が飛竜について語るのだから信憑性は高い。
「ですが、何も問題はありません。歩兵長は何があっても私がお守りします。この身に代えましても」
オタカルは胸の上に手を置き、迷いなく断言した。そこにはもうヴァルトラムを忌避する感情は消え失せたように見えた。
(オタカルさんはどうして歩兵長のことをそこまで……? やはりマクシミリアンさんが仰有っていたように、歩兵長を消耗させないことが隊にとって大事なことだからでしょうか)
ビシュラ、とトラジロから声をかけられ、完全に意識がオタカルの方へ向いていたビシュラは「はいっ」と慌てて返事をした。
トラジロはビシュラと目を合わせ、少々困ったような表情で微笑んだ。
「ドラゴンは長生きで物覚えがいい。一度臍を曲げられると交渉するのはなかなか難しい。嫌われないように気を付けるのですよ」
「はい! 承知いたしました」
部屋の造りはヴァルトラムの一室と同様、ドアの真正面の壁面に大きな窓。その窓を背にデスクがある。トラジロはデスクに座してビシュラを待っていた。
ビシュラが到着すると、すでにトラジロのデスクの脇にひとりの男が立っていた。その男は騎兵隊隊員。髪型はオールバック、片眼鏡をかけ、トラジロのように額に角が生えていた。手を腰の上に置き背筋をピンと伸ばして、軍服をそつなく着こなしていた。
「竜の壁……ですか?」
「騎兵隊員ならば、避けては通れない道です」
ビシュラには初めての言葉だった。観測所時代に耳にしたこともない。
トラジロは、明らかに初耳という顔をしている部下に説明を省くような人物ではなかった。
竜の壁――――ドラゴンの棲息地のひとつ。飛竜のみならず多様なドラゴンが棲息している、切り立った山岳地帯の寒冷な土地。三本爪飛竜騎兵大隊ではその名のとおり多くの飛竜を有している。しかし、騎兵隊員は大隊により飛竜を宛がわれるのではない。騎乗する飛竜――戦場を共に駆ける唯一無二の相棒は、自ら獲得するのだ。ドラゴンの棲息地はいくつか知られているが、大隊ではこの地を訪れることが通例となっている。
紹介します、と言ってトラジロはデスク傍に立っている男を指し示した。
「同行者のオタカルです。キミを〝竜の壁〟へと案内します」
オタカル――片眼鏡をかけた角のある青年は、ビシュラへと切れ長の目線を這わせた。
ビシュラは彼に深々と頭を下げた。
「同じ騎兵隊員ですが、顔を合わせたのは初めてですかね。オタカルは私が最も信頼する部下のひとりです。飛竜を駆る技術は騎兵隊のなかでトップクラスです。〝竜の壁〟近くの出身で、あの辺りの地理にも飛竜にも詳しい。適宜、必要な助言をしてくれるでしょう」
オタカルはビシュラの前に進み出た。頭の天辺から足の爪先まで何往復もジロジロと観察した。
「ヴァルトラム歩兵長の新恋人、ビシュラ准尉」
ビシュラの笑顔がピシッと凍りついた。ほぼ初対面の人物からそのように認識されているとは不本意だ。
恋人というわけでは……、とビシュラが言葉を濁し、オタカルから「へえ~」と相槌が返ってきた。
「では恋人でもないのに歩兵長から目をかけられ、戦闘能力ゼロの文官が三本爪飛竜騎兵大隊に入隊が叶ったと。貴女は余程貴重な人材なのでしょうね~」
「オタカル。やめなさい。プライベートな質問です」
トラジロは額を押さえ「はあーっ」と大きな溜息を吐いた。
トラジロにやめろと言われても、オタカルからビシュラに向けられる視線は一向に柔らかくはならなかった。
「プライベートな質問でしょうか。大隊隊員たる資質については、准尉には多分に問題があると進言いたします」
「大隊は戦闘以外の業務も山積みです。その方面でビシュラは充分に能力を発揮してくれています」
「ですが、我が大隊には戦えない者などおりません。彼女以外、誰ひとり」
その一言により、ビシュラは完全に萎縮してしまった。ヴァルトラムや緋、トラジロは非戦闘員なのだから問題はないと言ってくれるが、オタカルの指摘は否定しようのない事実だ。大隊に机上の作業のみを専業としている者はビシュラ以外にはいない。
隊員の多くはオタカルと同様の意見なのだろうか。ビシュラはそう思うと、急激に此処には自分の居場所がないように思えてきた。求められていると、やるべきことがあると、一瞬でも感じたこと自体が勘違いなのかも。
トラジロがオタカルにそこまでにしなさいと命じた。
「ビシュラの入隊はヴァルトラムの声があったからではなく、大隊長が承認されたのです。大隊長の決定は覆せませんよ」
オタカルは口を閉ざし、ただじーっとビシュラを凝視した。彼が納得していないのは明らかだったが、命令に反するような男ではないとトラジロは知っている。
ビシュラとオタカルは命令を受諾したとして退室を命じられた。
ビシュラとオタカルはトラジロの部屋から出た。カツカツカツ、と隊舎の廊下を進むオタカルの足取りは速く、ビシュラは遅れないように急いで足を前後に動かした。
「准尉」
突然オタカルの足がピタリと停まった。
懸命に追随していたビシュラは、オタカルの背中にぶつかってしまいそうになった。急ブレーキをかけて慌てて二、三歩後退った。爪先を揃えて背筋を伸ばした。
「貴女が歩兵長が引き抜いた人材ということは知っています。一体どういった経緯で?」
とても説明できるような経緯ではない、というのがビシュラの気持ちだった。ヴァルトラムの地位の為だけではない、自分の名誉の為にもだ。
ビシュラは弱った表情でオタカルを見た。オタカルの視線は鋭く、眼前の年若い女性に対する配慮は一切なかった。
「必ず説明しなければいけませんか?」
「そうする義務はありませんが、私が貴女を信用する為には必要です。あの歩兵長が、これまで関心など皆無だった観測所から、学院卒業直後の新米、それも戦闘能力ゼロの女性文官を、自ら出向いて直接引き抜いた、こんなことは前代未聞です。だから私にとって貴女は得体が知れないのですよ」
オタカルの片眼鏡がキラッと光った気がした。
「〝竜の壁〟は騎兵隊員は必ず訪れる場所。ですが私が案内したところで危険な場所には違いない。不作法者は命を落とす可能性だってある。そのような場所で得体の知れない人物と行動するのを避けたいというのは当然ではないですか」
それはそうですよね……、とビシュラはオタカルから逃げるように目を逸らした。オタカルの考えは充分に理解できる。しかし、彼の望む経緯を話す気にはどうしてもなれなかった。大隊入隊に至った経緯をヴァルトラムとの間であったことに触れずに説明することは困難だからだ。
ビシュラは俯いて黙りこんでしまった。オタカルは「はあーっ」とかなり盛大な溜息を吐いた。それによりビシュラが萎縮することなど彼が配慮すべきことではなかった。
「得体が知れない上に、愚図でノロマで無知でオドオドして勘も悪そうだ。同行者としては最低の部類です」
「申し訳ございません……」
「ここまで言われても腹が立ちませんか。本当に歩兵長はどうして貴女を引き抜いたのか」
俯いているビシュラの視界からオタカルの爪先が消えた。オタカルはビシュラに背を向けて歩き出した。
「精々怪我をしないようにおっかなびっくりついてくればいい、お嬢さん」
歩兵隊第一詰所。
褐色の肌を持つ大男が、応接セットにひとりで陣取っていた。テーブルの上にブーツごと足を乗せ、煙管を銜えていた。立ち上る煙で周囲は仄白くなっていた。
そこへ桃色の短髪の女性がやって来た。彼女は、ソファで偉そうに踏ん反り返っている褐色の大男の傍で足を停めた。顔にかかる煙管の煙をうざったそうに手で払った。
「ビシュラが〝竜の壁〟へ行くそうだ」
緋は前置きもなくそう切り出した。
ヴァルトラムは緋へ目線を向けることもしなかった。気怠そうにゆったりとした動作で煙管から口を離してフーッと煙を吹き出した。
「騎兵隊だっつーんだからいずれそうなるだろ」
「放っておいていいのか」
緋が腕組みをし、たゆんっと胸が上下に揺れた。腰を屈めてヴァルトラムに顔を近づけた。
「〝竜の壁〟への案内人はオタカルだ。あのオタカルとビシュラだぞ。相性は最悪に決まってる」
「あー……」
ヴァルトラムは天井を仰ぎ、ソファの背凭れに後頭部を置いた。
ヴァルトラムと緋はトラジロの部屋を訪れた。
トラジロはデスクで何やら書類仕事をしていた。コンコンとノックオンがしたと思ったら、此方の返答も待たず「入るぞ」とドアが開いた。トラジロは書類に落としていた目を開いたドアへと移した。
ドアが開け放たれ、褐色の大男が鴨居を潜って入室してきた。朱色の髪を揺らしながらズカズカとドアから真っ直ぐにトラジロに向かった。デスクの前に立ち、高圧的な態度でトラジロを見下ろした。
「俺も行く」
(またこのパターンですか)
開口一番、己の主張のみ突きつける。威圧的で厚顔で慇懃無礼。トラジロは最早この男に礼節など求めはせず、呆れた溜息を吐いた。
「何処へ……と訊く必要はありませんね。ビシュラが〝竜の壁〟へ行く件でしょう」
トラジロがチラッと視線を送り、緋はコクッと頷いた。
「ヴァルトラムの同行は必要ありません。オタカルが案内し、同行します。オタカルはあそこに誰よりも詳しい」
「だから、俺も行く」
トラジロとヴァルトラムはデスクを挟んで睨み合った。互いに聞く耳を持たないといった態度だ。このふたりだけでは話は一歩たりとも進展しないことは火を見るより明らかだ。
緋がヴァルトラムの横から進み出て、デスクに手を突いた。
「ビシュラを見たオタカルの反応はどうだった?」
「どう、とは?」
「おかしなところはなかったか」
「いつもより突っかかっている感じはしましたが……。多少の反感で仕事を忘れるような男ではありませんよ」
「歩兵長の話をしていなかったか」
トラジロは、目の前で威丈高に腕組みをしている大男を眼球を動かして見た。
「ビシュラがヴァルトラムの恋人だと知っていました。それについてはビシュラ自身が否定しました。ヴァルトラムはビシュラを庇護していることを隠してはいないですし、特段不都合はないでしょう」
緋は額を押さえて溜息を吐いた。
「アタシも歩兵長を行かせるほうに賛成だ。ふたりきりで誰の目も届かないところへなんか行かせてみろ、オタカルはビシュラを捨ててきてもおかしくない」
「まさか。同じ騎兵隊員ですよ」
トラジロは信じられないという表情だった。それを見た緋は、少し参ってしまったように微かに笑みを零した。
トラジロは他隊からも年若い割りには有能と評判だが、人の気持ちについては不勉強だ。それは彼が年若い所為ではなく、性格上の問題のような気がするけれど。彼は論理的・合理的であることを好む。人の上に立つ者としては戦闘戦術的な勉強ばかりでなく、情緒についても学んでほしいものだ。
「トラジロ。ヒトはお前が思っているより遥かに感情によって行動する生き物なんだよ」
緋に説得されたトラジロは、ビシュラとオタカルを隊長室へ呼び出した。ヴァルトラムはさておき緋の助言を無碍にはしなかった。
トラジロは自身の判断に意見されても反感を抱く質ではない。誰が発案したものであれ、的を射ており有用であれば積極的に採用することを信条としている。また、他者の感情に疎い点について多少の自覚はある。緋がオタカルとビシュラのみの行動を危険だと判断したならその可能性は否めない。
何度も呼び出して申し訳ない、とトラジロはデスクの前に並んでいるビシュラとオタカルに断った。
トラジロはデスクの上に両肘を突いて両手の指を交互に組み、その上に自分の顎を置いた。こうしてふたつの顔を並べて見ても、緋と同等の緊急度の懸念を汲み取ることはできなかった。本当に、人の感情とは奇怪で不可解で正しく捉えることが難しい。
「ヴァルトラムが〝竜の壁〟へ行くとしたら……オタカル、あなたはどう思いますか」
「歩兵長がッッッ」
オタカルの復唱は素早かった。それまで冷徹一辺倒を貫いていたのに明らかに顔色を変えた。
ビシュラはオタカルのことをまだよく知らないが、態度や物言いからして品行方正を重んじる厳粛な性格だろうと考えている。唯我独尊、傍若無人なヴァルトラムとは相容れないだろう。故に、本音を言えばヴァルトラムと行動をともにすることを回避したいのかもしれないと思った。
オタカルはぷるぷると微かに震えており、ビシュラは絶句した。そこまで嫌でも私情を殺さなければいけないのが兵士の宿命なのだとしたら何と過酷なことかと。
「私が歩兵長のお伴を? このッ私ッオタカルがッ」
「まだ決定していません。行くとしたら、です。……ヴァルトラムが足を踏み入れることによって〝竜の壁〟での危険が増すことを危惧しています」
「危険? そうでしょうね。ドラゴンが歩兵長を嫌う可能性はあります」
ドラゴンはヴァルトラムを嫌う――、そう聞いてビシュラは自ずと疑問が湧いたが、何故、どうして、と口を挟める雰囲気ではなかった。飛竜に騎乗するエキスパート集団の長であるトラジロと、そのトラジロが信頼する部下であるオタカル、両者が飛竜について語るのだから信憑性は高い。
「ですが、何も問題はありません。歩兵長は何があっても私がお守りします。この身に代えましても」
オタカルは胸の上に手を置き、迷いなく断言した。そこにはもうヴァルトラムを忌避する感情は消え失せたように見えた。
(オタカルさんはどうして歩兵長のことをそこまで……? やはりマクシミリアンさんが仰有っていたように、歩兵長を消耗させないことが隊にとって大事なことだからでしょうか)
ビシュラ、とトラジロから声をかけられ、完全に意識がオタカルの方へ向いていたビシュラは「はいっ」と慌てて返事をした。
トラジロはビシュラと目を合わせ、少々困ったような表情で微笑んだ。
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「はい! 承知いたしました」
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