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#03: The flawless guy
Real tastes bitter and spicy.
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すべてを話し終わって、大志朗はゴクッと生唾を嚥下した。
喉がカラカラに渇いており、虎宗に黙って独断で真相を告白してしまったことに対する罪悪感と、禮の反応を窺う臆病な緊張が入り混じった嫌な味で口腔内は満たされた。
「せやさかい……トラは何も悪うあれへんねん。トラがしとうてしとるわけちゃうんや」
嗚呼、覚悟を決めきれぬ自分は、何処までも情けなくみっともなく〝糸〟に縋ろうとする。虎宗の為とは言いながら、本当は自分の為だ。虎宗に代わって禮に許しを乞うているのではなくて、禮の許しを得たいのは自分も同じだ。否、それも少し違う。許されたいのは紛れもなく自分自身だ。
「何も悪うないわけあれへんやん」
禮はハッキリと言い放った。大志朗の鼓膜にはプツッと糸の途切れる音が聞こえた。それは紛れもなく、彼が縋った細い糸。
「不本意かもしれへんけど、やらされてんのかもしれへんけど、人殴って傷つけて、何も悪ないわけあれへんやん」
禮は俯き加減だったが、大志朗には禮が唇を噛んでいるのが見えた。年下の少女でさえも覚悟を決めて、何かを犠牲にして、敵対しているというのに、それに比べて自分がとても情けなく思えた。
「禮ちゃんだけや……」
大志朗は自分の爪先を見詰めて零した。
「トラをどうにかでけるんは禮ちゃんだけなんや。禮ちゃんが一言、お前は悪うないて言うてくれたらトラは…………」
その一言は免罪符だ。その一言で背負いこんだ罪はすべて洗い流される。禮への罪悪感も、倒してきた人間からの恨みも、無かったことにできる魔法の言葉。
憎くもない人間を攻撃し傷つけることが真実、罪悪であるかなどどうでもよい。禮と敵対するというそれだけが、禮と対岸に立たなければならないというそれだけが、虎宗を地獄の底に引き摺りこんで苦しめることを大志朗はよく知っている。
「ハッちゃんあんなにされて〝もうええよ〟なんて言えるワケないやん」
「トラかて好きでこんなことやってへん! 分かってくれ! 許したってくれやッ」
大志朗は禮の肩を捕まえて必死に縋りつく目を向けるが、禮はフルフルと首を横に振った。
「何言われても何聞いても……今のウチにはハッちゃんが一番大事。せやから許すなんて言えへん」
禮の頑なな態度を見ていると、大志朗の脳裏には不整合な歯列の菊池と、諦めたような虎宗の姿が浮かんできた。
――「オマエらも敵殴っとるんやろ、人殴ればどっかで恨み買うとる。恨み買うたら立派な悪人や」
「俺もお前ももう恨み買うとる。今更善人面もでけへんやろ」――
何でどいつもこいつも分かった風な口きくんや。ほんま解っとんか。それとも、俺だけが解ってへんのか。俺だけが腹括れんと、いつまでも子どもみたいにグズグズと駄々捏ねとるんか。
「トラのこと許してへんのに、会ってどうするつもりや。禮ちゃんはトラに何を言うつもりで此処に来たんや」
「それは……」
「能登さん」
西ノ宮に呼びかけられた虎宗は、顔を向けず「何や」とだけ短く答えた。相変わらず機嫌はよくないから、西ノ宮も本音では話しかけたくはないのだが、話さないわけにもいかなかった。
「俺、今そこのコンビニから戻ってきたんスけど、大志朗さんが通りで女と話してはって」
「またか。こんなところまで来ても忙しいヤツや」
「イヤ、それが……大志朗さんとやり合うた女に似てたんスけど。中学くらいの女だったんで」
それを聞いた瞬間、虎宗はカッと目を見開いた。それまでのまったく関心の無い態度を一変させ、突然店の入り口のほうにバッと目を向けた。半ば無意識で立ち上がっていた。
すぐ近くに禮がいると聞いたら居ても立ってもいられなかった。破かれても破かれても胸が疼く。砕かれても砕かれても胸が弾む。終止符が打たれたはずなのに、鼓動が早くなる心臓が痛い。
ガッシャン。――虎宗は荒々しい音を立てて店のドアを押し開いた。
西ノ宮や仲間たちがとめるのも聞かず、店外へ飛び出していった。
「大志朗!」
珍しく焦った声だった。大志朗と禮は同時に声のほうを振り返った。
禮と目が合った瞬間、虎宗は心臓がキュウと締め上げられた気がした。
――嗚呼、やはりキミを見れば愛しさが止め処なく湧いてくる。一度は背を向け道を別たれたキミが、夢幻ではなくそこにいる。キミを目の前にしてしまえば、敵対されても拒絶されても、自制しようとしても、愛しいと思ってしまう。
「禮ちゃん……何でここに……」
「トラちゃん。一生で一度のお願いやよ」
虎宗は、雰囲気、視線、声色、緊張で禮が何を言おうとしているのか悟った。だから、肩から力を抜いてトドメを刺されるを待つように禮から視線を逸らした。否、トドメはとっくに刺されているから、落ち着いて耳を傾けられた。
「ハッちゃんとケンカすんのやめて」
だから、悲痛さがシンシンと伝わってくる禮の頼みを聞いても、こんなにも落ち着いて口を開くことができるのだ。
「すまん……。それはでけへんわ」
禮は虎宗から拒否の言葉を聞いてもショックは受けなかった。大志朗同様に、禮も虎宗の性格をよく知っている。大志朗からこの件に関わった事情を聞いて尚更、虎宗が断ることは予見できた。
禮は動揺なく虎宗を直視し、虎宗はそれとは気づかれないように禮から目を逸らした。澄んだ檳榔子黒の純真な瞳から、愚かな所業を責められているような気がした。
「ちゅうか、もう終わった話や。あれだけええの喰らわしたんや。しばらくはよう動かれへんやろ」
「そうやったらわざわざお願いしにこおへんよ」
「アイツあれだけ食らって……」
「せやけど次も大丈夫やとは限らへん。今度こそ……今度こそ、取り返しのつかんことになってしまうかもしれへん」
「怪我すんのが嫌やったら引き下がったらええねん。看板なんかさっさと降ろして大人しゅうしとけばええ」
「それがでけへんからトラちゃんに頼んでるの」
禮が渋撥に怪我をしてほしくないと願うのは本心だが、真に重要なのは肉体のダメージではないことも知っている。禮は渋撥がどういう男であるのかとうに理解した。渋撥は怪我や苦痛などものともしない、プライドに命を懸ける男だ。虎宗の絶対的な強さはきっと渋撥のプライドを粉砕してしまう。虎宗への敗北を認めてしまったら、魂が死んでしまう。
ふーー、と虎宗の深い呼吸の音が聞こえた。
「なんぼ頼まれても、俺も引くわけにはいけへん」
虎宗にとっても禮の願いを断ち切ることは容易ではない。自分にできることなら何でも叶えてやりたい。薄情者と罵られても武雄を見捨てて、疎ましい柵を脱ぎ捨てて、自由に願いを叶えてやれたなら、どれほど満足か。
禮はきつく眉を寄せて固く瞼を閉じた。虎宗は一度決めたことを曲げない人だから、こうなる予感はしていた。「そう」と零し、静かに呼吸をし、最後の決意を自分のなかで縒り合わせた。
「仕方ないんやね……」
禮は目を開くと虎宗を真っ直ぐに見据えた。息を吸いながら両足を開き、ゆっくりと深く腰を下ろした。低い位置で腰を落ち着けると、長くゆっくりと息を吐いた。
虎宗が覗きこんだ禮の檳榔子黒の瞳は、外観どおりの可憐な少女のものではなく、武人のそれだった。
「どうしてもやるんか、俺と」
「トラちゃんゴメンやよ……。仕方あれへんのよ。ウチは、ハッちゃんが傷つくトコは見たないから」
――そこまであの男に惚れとるんか。何であの男なんや。何で俺ちゃうんや。
ほんまは俺とやり合うなんかイヤなんやろ。ツライの我慢して泣きそうなん我慢して、あの男の為に必死に拳握ってんねやろ。俺は禮ちゃんにそんなツライ思いさせへんさかい、禮ちゃんの為なら何でもしたるさかい、今からでもええから俺を好きやと言うてくれ。
ザザッ。――禮が動いたのを察知し、虎宗はハッと我に返った。
情けないことを星に願っている場合では、未練がましく恋心を振り返っている場合ではない。
禮の右足が地面を離れ、次の瞬間フッと消えた。
「クッ!」
虎宗は本能的に腕でガードを造った。感傷に浸っていても哀しいかな鍛え上げられた肉体は条件反射で動く。
ゴキィッ!
「ガッ……! カハッ」
虎宗は、蹴りは側頭部に飛んでくると直感した。しかし、予想に反して脇腹にめり込んだ。
imgRay-Tora_04
(動いたと思った瞬間に足が消えて視界の外から蹴りが来る! ここ二年、見てへん間にキレも速さも信じられへんくらいに増しとる。勘が鈍るなんか何の冗談や。格段に強うなっとる!)
虎宗は禮の掌打が眼前に迫り、カッと目を見開いた。
ガキャァンッ! ――禮の掌打が虎宗の鼻に直撃した。
「グハッ!」
ダメージというより鼻っ面の一撃は鋭い痛みで火花が散る。虎宗は蹌踉めきながら半歩下がった。
禮はその間に上半身を捻って半回転させた。虎宗が気づいた頃には禮の背中が見えた。肩越しに禮と目が合い、虎宗はマズイと直感した。
ガキィンッ!
「‼」
今度は禮が驚いて目を見開いた。禮の裏拳は虎宗の顔面を捉える直前で、虎宗の甲にぶち当たって防がれた。
今のは絶妙のタイミングだった。最高のスピードだった。完全に決まると確信していた一撃が防がれるなんて夢にも思わず、禮は一瞬困惑の色を見せた。
「あーぶなー……」
禮は虎宗の声で困惑から我に戻された。
拳を引き戻そうとしたがもう遅い。虎宗に素早く手首を掴まれた。ギョッとしているとそのままグイッと引っ張られ、踏み留まることはできなかった。
「うっ……!」
虎宗はやや身を屈めて素早く半回転して背中に禮を乗せたかと思うと、禮の両足は音もなく地面から浮いてしまった。虎宗の体格で、虎宗の腕力で、担ぎ上げられてしまえば禮のウエイトではどうやっても抗えない。
禮は地面に叩き落とされることを覚悟して歯を食い縛った。
ドサン。――虎宗は禮を背中からアスファルトに下ろした。
身動きと抵抗を封じる為にドンッと禮の胸座を押さえつけた。禮は衝撃もダメージもほぼ無かったと言ってよい。本来なら固いアスファルトの上に叩きつけられるところ、虎宗はわざわざ禮の体重を支えて柔らかく降ろした。
「…………」
禮は黙って虎宗の顔を仰ぎ見た。虎宗の目は穏やかであり、いくら覗きこんでも敵意も悪意も憎悪も見えない。ただほんの少し、悔恨が降ってくる。禮の瞳に注ぎこむようにサラサラと悔恨が降りかかる。
覚悟を決めたはずの虎宗すら悔恨や心残りが微塵もないというわけではなく、それが解ると禮は虎宗を許してしまいたくなった。虎宗が進んで自分の敵に回ったわけではなく運命がそうしたのだと、不都合を何もかも自分たち以外の誰かの所為にしてしまいたかった。そう例えば神様の所為にしてしまえばこんな悔しさやもどかしさを感じずに済むのに。
「何の……つもり?」
禮が口を開いたのは、胸座を押さえつける虎宗の手が弛み、離れていきそうなのを引き留める為だった。
「これでもウチ、今は師範代やよ。あんまナメんといてよ」
それを聞いた虎宗は、やや眉を下げて一層優しげな目を見せた。
「そうか……禮ちゃんが師範代か」
「ウチはトラちゃんの代わりやよ。ほんまやったらトラちゃんがなるべきモンやもん」
虎宗は禮から手を放してフッと笑みを零した。
禮にはそれが、とても敵に見せるような笑みには見えなかった。その穏やかで優しい笑みはまさに兄のものだと思った。成長を喜んでくれているとさえ感じた。虎宗は禮にとってはいつでも優しく、際限なく甘えさせてくれる存在だった。
「謙遜やな。禮ちゃんは強いで。師範代に充分……」
「ウチ、師範代なんて要れへんからっ……トラちゃんに返すから、こんなことやめてうちに帰ってきて!」
禮は虎宗が助け起こそうと差し伸べた手を捕まえ、虎宗の腕にしがみついた。
「やめてっ……ハッちゃんとケンカせんといて……っ」
虎宗に縋りついて哀願する禮は、武人ではなく女だった。愛する男の為ならば何をしても厭わない只の女。愛の為なら何でもできる、まさに女の性。
虎宗は禮の女の貌を初めて見た。純真無垢な少女であり清廉な武人である禮しか知らない。父である攘之内を除けば誰よりも長く傍にいたはずなのに、自分に対してこのような顔を見せたのは初めてだ。女が女として在るのは男がいるからだ。虎宗がそう振る舞ってきたとおり、禮にとって虎宗は幼い頃のまま兄でしかないのだから、女の禮を知らないのも当然だった。
何年経っても、互いにいくら成長しても、兄の枠から出られないのは、好きだと伝えそびれたからだろうか。
――俺があのとき行くなて言うたら、禮ちゃんはあそこで止まってくれたやろか。
アイツを捨てて、俺のほうについてくれたんやろか。
禮に投げられ踵を返され、後ろ髪の一筋も引かず立ち去られたときのことを思い出す。あの時、答を聞くのが恐くて胸の叫びを押し殺した。
虎宗は禮の腕を掴み返し、ヒョイッと身体を引き上げた。禮が自分の足で立っても虎宗は手を放さず、禮は訝しげな表情で虎宗の顔を見上げた。
「行くな」
虎宗は禮の瞳を真っ直ぐに見詰めてハッキリと口にした。
虎宗の一言を聞いた禮は、呼吸を止めて絶句した。
第一段階は驚愕が波濤となってぶち当たって飛散し、第二段階は困惑が押し寄せる。
「ここに……俺のところにおれ」
虎宗は、動揺して波間に揺れる禮の肩を両手でガシッと掴んだ。
「トラちゃん……?」
「あんな男と一緒におったらあかん」
禮が咄嗟に反論を失うほど、虎宗は力強く明確に言葉にした。
「禮ちゃんがやめて言うても聞けへんさかい、禮ちゃんがここに来て直接俺に言う羽目になってんねやろ。禮ちゃんの必死の頼みも聞けへん男に、禮ちゃんを幸福にでけるわけがない。そもそもアレは人の為に生きられるようなモンちゃう」
虎宗が対峙したとき渋撥から感じた、勝利への執着、傲慢な強者の威容、狂気じみた矜恃――――あのようなものは本能だけで生きている獣のようなものだ。
自身の内の〝暴〟を儘にして制御しようともしない。武人とは相反する存在であり相克すべき存在。本来ならば受容すべきではない、彼奴こそ彼岸に立つべきなのだ。
「殴り合いしかでけへん、ソレしか能のない男や。何よりも自分のプライドをとる男や。禮ちゃんを一番に考えられへんような男なんざ俺は認めへん!」
禮が懸命に腕を振っても虎宗は離そうとはしなかった。有無を言わさず言い聞かせようとする。それが現実だと、禮に押しつけようとする。
「せやけどウチは……プライド捨てるハッちゃんなんか見たないもん」
禮は、いいえそれは違う、とは言わなかった。禮とて武人の端くれ。渋撥がどのようなものであるか察知できていないわけがない。渋撥のプライドが異様であること、〝力〟そのものが常軌を逸していること、そのようなことは虎宗に言い聞かせられなくても理解している。そのようなことは一緒にいれば分かり切っている。渋撥は自身のそういった飛び抜けた特性、或る種の異常性を隠そうとしたことなどないのだから。
――それも含め、惹きつけられた。あんな人と知って恋した。
「あの男にとって禮ちゃんが一番やのォても、禮ちゃんはあの男がええんか」
すべてを理解した上で渋撥を肯定する禮は、虎宗には異常に見えているのかもしれない。悪魔に拐かされた哀れな少女にでも見えているのかもしれない。それこそが、女の性だというのに。
「最初に好きになったときから、ハッちゃんはそういう人やよ。せやけど……好きになったのはウチやから……」
虎宗は禮の肩からスルリと手を下ろした。禮の目許から、口許から、零れる笑みが優しくて哀しくて、それ以上かける言葉を失ってしまった。
禮に恋したことを、真摯に想い続けることを、悔やんだりは決してしないけれど、胸のど真ん中に居座り続ける痛みに苛まれるのは流石につらい。つらさからは解放されたいのに、この細い腕をいつまでも離したくないと思ってしまう。
「ソレ、《荒菱館の近江》のオンナなんやて?」
大嫌いな声が聞こえ、虎宗と大志朗は声のほうを振り返った。
菊池はいつもどおり数人を従えて立っていた。虎宗が慌ただしく喫茶店を出て行ったのは当然見ていたはずだから、気になって手下に確認させたのだろう。
菊池の不整合な前歯がギリギリと左右に揺れ、何やら算段をしていることは明らかだ。虎宗は菊池の視線から隠すように禮の前に立った。
「禮ちゃん。帰ったほうがええ」
大志朗の声から緊張が伝わってきて、禮は眉を顰めた。
菊池がジリッと爪先を三人のほうへ向けると、途端に虎宗も大志朗もピリッと雰囲気を変えた。
「もしかしてあの人が……」
禮は、これが元凶だとピンと来た。虎宗からも大志朗からも返答はなくても、到底仲間とは思えない警戒心だ。
天下を得ようと画策して質を取り、兄妹の如く育った三人を敵味方に引き裂き、恋人の渋撥と兄の虎宗を衝突させ、取り返しのつかない争乱を引き起こしたすべての元凶は、嫌な笑みを浮かべて此方に不躾な目を向けてくるこの男だ。
「《荒菱館の近江》にヤラレたヤツらが言うてるで。近江と一緒におった女やてな。それが何で今オマエらとおるんや」
「禮ちゃん。帰りい」
大志朗はもう一度言い聞かせるように言った。己の野心を満たす為なら下卑た策を弄することを何とも思わない男だ、禮を目の前にして考えそうなことなど知れている。
「あの人なんやろ、トラちゃんとシロちゃんにこんなことさせ――」
パンッパンッパンッ。――菊池が唐突に手を打った。
禮の顔は彼のほうへ引き戻された。
「《荒菱館の近江》のオンナ捕まえるなんか、オマエらにしちゃ随分協力的やなあ。お手柄お手柄」
大志朗は拳を握り、菊池を睨みつけ、完全に菊池に反抗する姿勢を取った。
「この子は関係あれへん。今から家に帰す」
「《荒菱館の近江》のオンナと分かってそのまま帰すわけにはいけへんがな。知り合いなら積もる話もあるやろ。もうちょおゆっくりしてってもらおか」
菊池は冗談のように軽く大志朗に言ったあと、自分の周りにいる男たちに何やら小声で伝えた。
「その女、逃がそうとか考えんほうがええで。こんだけ人数いてるんや、オマエら押さえて女追いかけてひっ捕まえるくらい何てことあれへんでな。大事の前やで、なるべく手はかけさせんでほしいところやけどな」
「全員殺す」
短い言葉だったか、その一言には虎宗の気魄が籠もっていた。
菊池から何やら指示を受けたであろう男たちは、ギクッとした。明らかに狼狽えてチラチラと菊池に視線を送った。
虎宗の実力は皆が知るところであり、脅し文句にも信憑性がある。東光高校では他の追随を許さない、ずば抜けた実力を持つ虎宗と大志朗の相手をしたい者などいなかった。
「女引っ付けとるときはゴリ押しせんほうがええで」
「ゴリ押しかどうか試してみたらええ」
虎宗は頑なに言い放った。
菊池は話にならないとでも言いたげに首を縮めた。
「俺かてオマエらとは仲良うやりたいと思ってるんやで。大切な兵隊やからな」
菊池の口振りを耳にして、禮は眉間に皺を刻んだ。
百歩譲って、渋撥を狙う者が虎宗の対等な仲間ならば仕方ないと思うこともできたかもしれない。渋撥が傷つくのは嫌だが、それが男の宿命だと思いこませることもできたかもしれない。しかし、口調や語彙から推測する菊池は正真正銘の悪党であり、その上、虎宗や大志朗を対等にも扱ってはいない無礼な男だと判じた。
「俺は約束は守る。女は関係あれへん」
菊池は、虎宗から飛んでくる殺気のような気魄を躱すように、目線を外して肩を竦めた。
「そーやな。能登があんじょう《荒菱館の近江》を潰してくれたら関係あれへんな。ソレが一番ええわ。せやかて世の中、万が一っちゅうこともあるでな」
「俺がやられたときの保険か。俺がやられたら次はオドレやもんな。やり合う前から負けたときの算段とは、ほんま小っさい男やなワレ」
「そーや。俺はオマエみたいに腕っ節に自信あれへんさかいの」
菊池は意外にも虎宗の厭味に対して直ぐさま言い返してきた。それから、スッと手を上げて自分の蟀谷辺りを人差し指で指差した。
「せやけどな、よう覚えとけ能登。戦争っちゅうのは腕力だけじゃ生き残れへん。損せんように生き残るには頭が要んねん。結局最後は用心深いヤツが生き残るんじゃダアホッ」
一理ある。腕力だけが判断基準なら、武雄や虎宗は菊池よりも正しいことになる。菊池よりも東光高校を統べるに相応しいことになる。しかし、現実はどうだ。自由気儘なパラダイスは廃れ、狡賢いだけの男が実権を握り、見せかけだけの平和に丸く収まっている。現実は目を背けたくなるほど、虫唾が走るほど、世知辛い。
「臆病モンの間違いやろ」
虎宗は吐き捨てるように言った。その批難と共に、口内を占める苦いものや辛いものも本当に吐き出してしまいたかった。
菊池が近づいてきて、爪先同士がぶつかるまでもうあと十数センチというところまで接近しても、虎宗は一歩も動かなかった。そのような反抗的な態度を見ても菊池は笑っていた。虎宗ならそうするであろうことなど短い付き合いでもとうに理解している。もう善人面はできないと大志朗に諦めたように言ってみても、悪党になどなりきれない男だ。幼気な少女を捕まえようとしている自分に与するなどしない。
虎宗の気魄が充満するこの場では、鼻孔をツンと突く正義と信念の匂いがする。そんなものは菊池には疎ましい以外の何物でもない。
菊池は虎宗から目を逸らし、禮の姿を見る為に上半身を大きく傾けて虎宗の背中を覗きこんだ。
「お嬢ォー。《荒菱館の近江》のオンナなんか?」
大志朗は半歩動いて禮の姿を菊池の視界から完全に隠した。
「オイ。この子は関係あれへん言うてるやろ。トラは必ず約束を守る。それで全部終いや」
「せやったら何?」
禮はソッと大志朗の腕に手を置いた。それは柔らかくも、退いてという意味であり、大志朗は自然と促されたとおりに身体を動かしてしまった。
菊池は禮の顔を拝めると不整合な歯を剥き出しにしてニイッと笑った。
「ちょっとの間、俺らと一緒にいてもらうで。能登が俺との約束果たしてくれるまで」
「ウチを人質にするいうこと?」
「賢いなあーお嬢。サスガは能登の知り合いや」
「ハッちゃんは負けへんし、ウチは人質になんかなれへんよ」
禮は何を臆することなく目を見てハッキリと言い、菊池の顔から笑みが消えた。この少女もまた、虎宗と同じ崇高な正義と信念の匂いがした。心底面白くない。そのような崇高な人間などそう何人もいてよいはずがないのに、虎宗もこの少女も、到底常人では持ち合わせていない気高さで反抗してくる。
「ウチは自分の意思で、ここにいたげる」
その発言は虎宗も大志朗も予想していなかった。
「禮ちゃん?」
虎宗が禮のほうに視線を向けると、禮も虎宗を見ていた。その檳榔子黒の瞳で何を考えている。こんなにも禮の思考を解りたいと思ったことも、解らないと思ったことも、生まれて初めてかもしれない。
――キミはその瞳で、一世一代の願いをきいてやれない俺を責めているんじゃないのか。
「そう深刻そうなツラすなよ。話は何も変わってへん。オマエが約束を守ってくれればええだけや。武雄もこのお嬢も、オマエ次第やで」
菊池は虎宗の肩に手を置いた。
この男が此方側にいる限り、思惑が外れるなど、計算が狂うなど、星の軌道が逸れるくらいに有り得ないことだ。若干のハプニングと飛び入り参加のエキストラを加えながらも、シナリオは思い描いたとおりに進行しているはず。
虎宗は目だけで菊池を見ながらグッと拳を握った。この歯並びの悪い男をぶん殴って暴れ回って、すべてをぶち壊してしまえばどれだけ爽快なことだろう。しかし、禮の顔と武雄の顔、それに憎いはずの渋撥の顔までちらついて、それもできなかった。
嗚呼、世の中はなんて世知辛い。情況はいつも交換条件付きで、手枷足枷をはめられて満足に身動きもできないのに、こなさなければならない要求は次々にお目見えする。オマケに、どんな無理難題をこなしても本当に欲しいものは手に入らないときている。
§ § §
東光が占領する喫茶店。
禮は一番奥のテーブルにて、両脇を虎宗と大志朗に守られ、対面には菊池が座った。
菊池は頬杖を突いてジッと禮の顔を観察した。いくら顔見知りで飛び切り腕の立つふたりに守られていると言っても、女子中学生にしては動揺も緊張もなさすぎる。彼の暴君の寵姫たる貫禄、というにはあまりにもあどけないというのに。
「お嬢が《荒菱館の近江》のオンナなあ……。とてもそうは見えへんで」
夜空に星屑を鏤めたような綺麗な瞳が印象的な、色白の端正な容貌。菊池は半ば見蕩れ、無意識に禮の顔に向かって手を伸ばした。
「あのツラにしちゃええ女捕まえとる。相当なメンクイ――」
パァンッ! ――禮は近づいてきた菊池の手を弾き返した。
虎宗と大志朗は当然という表情で何も言わなかったが、一同は驚いて目を見開いた。
「お嬢。もちっと自分の立場考えたほうがええで」
「ウチは人質ちゃうて、さっき言うたよ」
「ほな友だちの能登クンがあんじょうようやってくれるよう祈っとき。そしたらお嬢の出番はあれへんで、無事に家帰れるで」
「ハッちゃんは負けへんよ」
顔面の造形は見事なまでに愛らしいが、率直すぎる物言いは菊池には面白くなかった。チッと舌打ちして叩かれた手を引っこめた。
「能登が負けたら自分がどうなるか分かってへんのか、ガキが」
「トラちゃんに守ってもらわへんでも、ウチは帰ろ思たらいつでも自分の足で帰れる。ここにいてるのはハッちゃんが勝つトコ見る為やよ」
禮が強がっていることなど、この場にいる何人が気づくことができただろう。禮は実に堂々としていた。渋撥が虎宗に敗北することを、プライドが打ち砕かれ渋撥が渋撥でなくなってしまうことを、誰よりも恐れているのは禮なのに、微塵も表情に出さなかった。この菊池という男は、紛れもなく禮の敵。敵地に乗りこむのなら、弱味を見せるようなことだけはしない。
「分かった? 歯並び悪いお兄ちゃん」
菊池は突然立ち上がって右手を振りかぶり、禮はそれよりも早く拳を突き出した。
ビュオッ。――禮の拳は菊池の眼前でビタリと停止した。
菊池のほうがリーチも腕力も断然有利であるはずなのに、禮の拳が菊池の鼻先を捉えるほうが格段に速い。
「ウチね、ハッちゃんに出っ歯や歯並び悪いヤツは殴るなて言われてんの。歯で手ぇケガするから」
「コイツ……ッ」
禮は拳を引き戻し、再び元の位置、虎宗の隣へストンと腰を下ろした。ツンと菊池から顔を逸らした。
にわかに男たちがざわめく中、虎宗と大志朗は肩を揺すってクックッと笑う。
「妙な真似はやめといたほうがええで。タイマンやったらこのなかのだーれもこの子に敵わへんで」
諸悪の根源である菊池へ些細な意趣返しが成功したわけだが、禮の気分は一向に晴れなかった。禮の実力ならば此処で菊池を叩き伏せることも可能だろう。それをしてしまえばおそらく、虎宗と大志朗は是も非もなく禮を守ってくれるだろう。
しかしながら、きっと何をしても渋撥と虎宗の衝突は避けられない。その点に関しては最早菊池の存在などあってもなくても同じだ。虎宗は一度誓ってしまえば何があっても約束を反故にしない。渋撥は己の逆鱗に触れた虎宗を決してこのままにしない。
(……イヤ、怒らしたのはウチもや)
――「禮は俺がアイツに負ける思うとんやろ」
「それが一番腹立つんじゃッ‼」――
禮は不意に激怒した渋撥を思い出し、涙が込み上げてきそうになった。思えば、渋撥に面と向かって怒鳴られたことなど初めてだ。真面に怒られたことすらなかった。
――あの人を怒らせたのは、あの人をとめられなかったのは、わたしが負うべき責。だからきっと、わたしは一番近いところで見届けなければならない。
熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
喉がカラカラに渇いており、虎宗に黙って独断で真相を告白してしまったことに対する罪悪感と、禮の反応を窺う臆病な緊張が入り混じった嫌な味で口腔内は満たされた。
「せやさかい……トラは何も悪うあれへんねん。トラがしとうてしとるわけちゃうんや」
嗚呼、覚悟を決めきれぬ自分は、何処までも情けなくみっともなく〝糸〟に縋ろうとする。虎宗の為とは言いながら、本当は自分の為だ。虎宗に代わって禮に許しを乞うているのではなくて、禮の許しを得たいのは自分も同じだ。否、それも少し違う。許されたいのは紛れもなく自分自身だ。
「何も悪うないわけあれへんやん」
禮はハッキリと言い放った。大志朗の鼓膜にはプツッと糸の途切れる音が聞こえた。それは紛れもなく、彼が縋った細い糸。
「不本意かもしれへんけど、やらされてんのかもしれへんけど、人殴って傷つけて、何も悪ないわけあれへんやん」
禮は俯き加減だったが、大志朗には禮が唇を噛んでいるのが見えた。年下の少女でさえも覚悟を決めて、何かを犠牲にして、敵対しているというのに、それに比べて自分がとても情けなく思えた。
「禮ちゃんだけや……」
大志朗は自分の爪先を見詰めて零した。
「トラをどうにかでけるんは禮ちゃんだけなんや。禮ちゃんが一言、お前は悪うないて言うてくれたらトラは…………」
その一言は免罪符だ。その一言で背負いこんだ罪はすべて洗い流される。禮への罪悪感も、倒してきた人間からの恨みも、無かったことにできる魔法の言葉。
憎くもない人間を攻撃し傷つけることが真実、罪悪であるかなどどうでもよい。禮と敵対するというそれだけが、禮と対岸に立たなければならないというそれだけが、虎宗を地獄の底に引き摺りこんで苦しめることを大志朗はよく知っている。
「ハッちゃんあんなにされて〝もうええよ〟なんて言えるワケないやん」
「トラかて好きでこんなことやってへん! 分かってくれ! 許したってくれやッ」
大志朗は禮の肩を捕まえて必死に縋りつく目を向けるが、禮はフルフルと首を横に振った。
「何言われても何聞いても……今のウチにはハッちゃんが一番大事。せやから許すなんて言えへん」
禮の頑なな態度を見ていると、大志朗の脳裏には不整合な歯列の菊池と、諦めたような虎宗の姿が浮かんできた。
――「オマエらも敵殴っとるんやろ、人殴ればどっかで恨み買うとる。恨み買うたら立派な悪人や」
「俺もお前ももう恨み買うとる。今更善人面もでけへんやろ」――
何でどいつもこいつも分かった風な口きくんや。ほんま解っとんか。それとも、俺だけが解ってへんのか。俺だけが腹括れんと、いつまでも子どもみたいにグズグズと駄々捏ねとるんか。
「トラのこと許してへんのに、会ってどうするつもりや。禮ちゃんはトラに何を言うつもりで此処に来たんや」
「それは……」
「能登さん」
西ノ宮に呼びかけられた虎宗は、顔を向けず「何や」とだけ短く答えた。相変わらず機嫌はよくないから、西ノ宮も本音では話しかけたくはないのだが、話さないわけにもいかなかった。
「俺、今そこのコンビニから戻ってきたんスけど、大志朗さんが通りで女と話してはって」
「またか。こんなところまで来ても忙しいヤツや」
「イヤ、それが……大志朗さんとやり合うた女に似てたんスけど。中学くらいの女だったんで」
それを聞いた瞬間、虎宗はカッと目を見開いた。それまでのまったく関心の無い態度を一変させ、突然店の入り口のほうにバッと目を向けた。半ば無意識で立ち上がっていた。
すぐ近くに禮がいると聞いたら居ても立ってもいられなかった。破かれても破かれても胸が疼く。砕かれても砕かれても胸が弾む。終止符が打たれたはずなのに、鼓動が早くなる心臓が痛い。
ガッシャン。――虎宗は荒々しい音を立てて店のドアを押し開いた。
西ノ宮や仲間たちがとめるのも聞かず、店外へ飛び出していった。
「大志朗!」
珍しく焦った声だった。大志朗と禮は同時に声のほうを振り返った。
禮と目が合った瞬間、虎宗は心臓がキュウと締め上げられた気がした。
――嗚呼、やはりキミを見れば愛しさが止め処なく湧いてくる。一度は背を向け道を別たれたキミが、夢幻ではなくそこにいる。キミを目の前にしてしまえば、敵対されても拒絶されても、自制しようとしても、愛しいと思ってしまう。
「禮ちゃん……何でここに……」
「トラちゃん。一生で一度のお願いやよ」
虎宗は、雰囲気、視線、声色、緊張で禮が何を言おうとしているのか悟った。だから、肩から力を抜いてトドメを刺されるを待つように禮から視線を逸らした。否、トドメはとっくに刺されているから、落ち着いて耳を傾けられた。
「ハッちゃんとケンカすんのやめて」
だから、悲痛さがシンシンと伝わってくる禮の頼みを聞いても、こんなにも落ち着いて口を開くことができるのだ。
「すまん……。それはでけへんわ」
禮は虎宗から拒否の言葉を聞いてもショックは受けなかった。大志朗同様に、禮も虎宗の性格をよく知っている。大志朗からこの件に関わった事情を聞いて尚更、虎宗が断ることは予見できた。
禮は動揺なく虎宗を直視し、虎宗はそれとは気づかれないように禮から目を逸らした。澄んだ檳榔子黒の純真な瞳から、愚かな所業を責められているような気がした。
「ちゅうか、もう終わった話や。あれだけええの喰らわしたんや。しばらくはよう動かれへんやろ」
「そうやったらわざわざお願いしにこおへんよ」
「アイツあれだけ食らって……」
「せやけど次も大丈夫やとは限らへん。今度こそ……今度こそ、取り返しのつかんことになってしまうかもしれへん」
「怪我すんのが嫌やったら引き下がったらええねん。看板なんかさっさと降ろして大人しゅうしとけばええ」
「それがでけへんからトラちゃんに頼んでるの」
禮が渋撥に怪我をしてほしくないと願うのは本心だが、真に重要なのは肉体のダメージではないことも知っている。禮は渋撥がどういう男であるのかとうに理解した。渋撥は怪我や苦痛などものともしない、プライドに命を懸ける男だ。虎宗の絶対的な強さはきっと渋撥のプライドを粉砕してしまう。虎宗への敗北を認めてしまったら、魂が死んでしまう。
ふーー、と虎宗の深い呼吸の音が聞こえた。
「なんぼ頼まれても、俺も引くわけにはいけへん」
虎宗にとっても禮の願いを断ち切ることは容易ではない。自分にできることなら何でも叶えてやりたい。薄情者と罵られても武雄を見捨てて、疎ましい柵を脱ぎ捨てて、自由に願いを叶えてやれたなら、どれほど満足か。
禮はきつく眉を寄せて固く瞼を閉じた。虎宗は一度決めたことを曲げない人だから、こうなる予感はしていた。「そう」と零し、静かに呼吸をし、最後の決意を自分のなかで縒り合わせた。
「仕方ないんやね……」
禮は目を開くと虎宗を真っ直ぐに見据えた。息を吸いながら両足を開き、ゆっくりと深く腰を下ろした。低い位置で腰を落ち着けると、長くゆっくりと息を吐いた。
虎宗が覗きこんだ禮の檳榔子黒の瞳は、外観どおりの可憐な少女のものではなく、武人のそれだった。
「どうしてもやるんか、俺と」
「トラちゃんゴメンやよ……。仕方あれへんのよ。ウチは、ハッちゃんが傷つくトコは見たないから」
――そこまであの男に惚れとるんか。何であの男なんや。何で俺ちゃうんや。
ほんまは俺とやり合うなんかイヤなんやろ。ツライの我慢して泣きそうなん我慢して、あの男の為に必死に拳握ってんねやろ。俺は禮ちゃんにそんなツライ思いさせへんさかい、禮ちゃんの為なら何でもしたるさかい、今からでもええから俺を好きやと言うてくれ。
ザザッ。――禮が動いたのを察知し、虎宗はハッと我に返った。
情けないことを星に願っている場合では、未練がましく恋心を振り返っている場合ではない。
禮の右足が地面を離れ、次の瞬間フッと消えた。
「クッ!」
虎宗は本能的に腕でガードを造った。感傷に浸っていても哀しいかな鍛え上げられた肉体は条件反射で動く。
ゴキィッ!
「ガッ……! カハッ」
虎宗は、蹴りは側頭部に飛んでくると直感した。しかし、予想に反して脇腹にめり込んだ。
imgRay-Tora_04
(動いたと思った瞬間に足が消えて視界の外から蹴りが来る! ここ二年、見てへん間にキレも速さも信じられへんくらいに増しとる。勘が鈍るなんか何の冗談や。格段に強うなっとる!)
虎宗は禮の掌打が眼前に迫り、カッと目を見開いた。
ガキャァンッ! ――禮の掌打が虎宗の鼻に直撃した。
「グハッ!」
ダメージというより鼻っ面の一撃は鋭い痛みで火花が散る。虎宗は蹌踉めきながら半歩下がった。
禮はその間に上半身を捻って半回転させた。虎宗が気づいた頃には禮の背中が見えた。肩越しに禮と目が合い、虎宗はマズイと直感した。
ガキィンッ!
「‼」
今度は禮が驚いて目を見開いた。禮の裏拳は虎宗の顔面を捉える直前で、虎宗の甲にぶち当たって防がれた。
今のは絶妙のタイミングだった。最高のスピードだった。完全に決まると確信していた一撃が防がれるなんて夢にも思わず、禮は一瞬困惑の色を見せた。
「あーぶなー……」
禮は虎宗の声で困惑から我に戻された。
拳を引き戻そうとしたがもう遅い。虎宗に素早く手首を掴まれた。ギョッとしているとそのままグイッと引っ張られ、踏み留まることはできなかった。
「うっ……!」
虎宗はやや身を屈めて素早く半回転して背中に禮を乗せたかと思うと、禮の両足は音もなく地面から浮いてしまった。虎宗の体格で、虎宗の腕力で、担ぎ上げられてしまえば禮のウエイトではどうやっても抗えない。
禮は地面に叩き落とされることを覚悟して歯を食い縛った。
ドサン。――虎宗は禮を背中からアスファルトに下ろした。
身動きと抵抗を封じる為にドンッと禮の胸座を押さえつけた。禮は衝撃もダメージもほぼ無かったと言ってよい。本来なら固いアスファルトの上に叩きつけられるところ、虎宗はわざわざ禮の体重を支えて柔らかく降ろした。
「…………」
禮は黙って虎宗の顔を仰ぎ見た。虎宗の目は穏やかであり、いくら覗きこんでも敵意も悪意も憎悪も見えない。ただほんの少し、悔恨が降ってくる。禮の瞳に注ぎこむようにサラサラと悔恨が降りかかる。
覚悟を決めたはずの虎宗すら悔恨や心残りが微塵もないというわけではなく、それが解ると禮は虎宗を許してしまいたくなった。虎宗が進んで自分の敵に回ったわけではなく運命がそうしたのだと、不都合を何もかも自分たち以外の誰かの所為にしてしまいたかった。そう例えば神様の所為にしてしまえばこんな悔しさやもどかしさを感じずに済むのに。
「何の……つもり?」
禮が口を開いたのは、胸座を押さえつける虎宗の手が弛み、離れていきそうなのを引き留める為だった。
「これでもウチ、今は師範代やよ。あんまナメんといてよ」
それを聞いた虎宗は、やや眉を下げて一層優しげな目を見せた。
「そうか……禮ちゃんが師範代か」
「ウチはトラちゃんの代わりやよ。ほんまやったらトラちゃんがなるべきモンやもん」
虎宗は禮から手を放してフッと笑みを零した。
禮にはそれが、とても敵に見せるような笑みには見えなかった。その穏やかで優しい笑みはまさに兄のものだと思った。成長を喜んでくれているとさえ感じた。虎宗は禮にとってはいつでも優しく、際限なく甘えさせてくれる存在だった。
「謙遜やな。禮ちゃんは強いで。師範代に充分……」
「ウチ、師範代なんて要れへんからっ……トラちゃんに返すから、こんなことやめてうちに帰ってきて!」
禮は虎宗が助け起こそうと差し伸べた手を捕まえ、虎宗の腕にしがみついた。
「やめてっ……ハッちゃんとケンカせんといて……っ」
虎宗に縋りついて哀願する禮は、武人ではなく女だった。愛する男の為ならば何をしても厭わない只の女。愛の為なら何でもできる、まさに女の性。
虎宗は禮の女の貌を初めて見た。純真無垢な少女であり清廉な武人である禮しか知らない。父である攘之内を除けば誰よりも長く傍にいたはずなのに、自分に対してこのような顔を見せたのは初めてだ。女が女として在るのは男がいるからだ。虎宗がそう振る舞ってきたとおり、禮にとって虎宗は幼い頃のまま兄でしかないのだから、女の禮を知らないのも当然だった。
何年経っても、互いにいくら成長しても、兄の枠から出られないのは、好きだと伝えそびれたからだろうか。
――俺があのとき行くなて言うたら、禮ちゃんはあそこで止まってくれたやろか。
アイツを捨てて、俺のほうについてくれたんやろか。
禮に投げられ踵を返され、後ろ髪の一筋も引かず立ち去られたときのことを思い出す。あの時、答を聞くのが恐くて胸の叫びを押し殺した。
虎宗は禮の腕を掴み返し、ヒョイッと身体を引き上げた。禮が自分の足で立っても虎宗は手を放さず、禮は訝しげな表情で虎宗の顔を見上げた。
「行くな」
虎宗は禮の瞳を真っ直ぐに見詰めてハッキリと口にした。
虎宗の一言を聞いた禮は、呼吸を止めて絶句した。
第一段階は驚愕が波濤となってぶち当たって飛散し、第二段階は困惑が押し寄せる。
「ここに……俺のところにおれ」
虎宗は、動揺して波間に揺れる禮の肩を両手でガシッと掴んだ。
「トラちゃん……?」
「あんな男と一緒におったらあかん」
禮が咄嗟に反論を失うほど、虎宗は力強く明確に言葉にした。
「禮ちゃんがやめて言うても聞けへんさかい、禮ちゃんがここに来て直接俺に言う羽目になってんねやろ。禮ちゃんの必死の頼みも聞けへん男に、禮ちゃんを幸福にでけるわけがない。そもそもアレは人の為に生きられるようなモンちゃう」
虎宗が対峙したとき渋撥から感じた、勝利への執着、傲慢な強者の威容、狂気じみた矜恃――――あのようなものは本能だけで生きている獣のようなものだ。
自身の内の〝暴〟を儘にして制御しようともしない。武人とは相反する存在であり相克すべき存在。本来ならば受容すべきではない、彼奴こそ彼岸に立つべきなのだ。
「殴り合いしかでけへん、ソレしか能のない男や。何よりも自分のプライドをとる男や。禮ちゃんを一番に考えられへんような男なんざ俺は認めへん!」
禮が懸命に腕を振っても虎宗は離そうとはしなかった。有無を言わさず言い聞かせようとする。それが現実だと、禮に押しつけようとする。
「せやけどウチは……プライド捨てるハッちゃんなんか見たないもん」
禮は、いいえそれは違う、とは言わなかった。禮とて武人の端くれ。渋撥がどのようなものであるか察知できていないわけがない。渋撥のプライドが異様であること、〝力〟そのものが常軌を逸していること、そのようなことは虎宗に言い聞かせられなくても理解している。そのようなことは一緒にいれば分かり切っている。渋撥は自身のそういった飛び抜けた特性、或る種の異常性を隠そうとしたことなどないのだから。
――それも含め、惹きつけられた。あんな人と知って恋した。
「あの男にとって禮ちゃんが一番やのォても、禮ちゃんはあの男がええんか」
すべてを理解した上で渋撥を肯定する禮は、虎宗には異常に見えているのかもしれない。悪魔に拐かされた哀れな少女にでも見えているのかもしれない。それこそが、女の性だというのに。
「最初に好きになったときから、ハッちゃんはそういう人やよ。せやけど……好きになったのはウチやから……」
虎宗は禮の肩からスルリと手を下ろした。禮の目許から、口許から、零れる笑みが優しくて哀しくて、それ以上かける言葉を失ってしまった。
禮に恋したことを、真摯に想い続けることを、悔やんだりは決してしないけれど、胸のど真ん中に居座り続ける痛みに苛まれるのは流石につらい。つらさからは解放されたいのに、この細い腕をいつまでも離したくないと思ってしまう。
「ソレ、《荒菱館の近江》のオンナなんやて?」
大嫌いな声が聞こえ、虎宗と大志朗は声のほうを振り返った。
菊池はいつもどおり数人を従えて立っていた。虎宗が慌ただしく喫茶店を出て行ったのは当然見ていたはずだから、気になって手下に確認させたのだろう。
菊池の不整合な前歯がギリギリと左右に揺れ、何やら算段をしていることは明らかだ。虎宗は菊池の視線から隠すように禮の前に立った。
「禮ちゃん。帰ったほうがええ」
大志朗の声から緊張が伝わってきて、禮は眉を顰めた。
菊池がジリッと爪先を三人のほうへ向けると、途端に虎宗も大志朗もピリッと雰囲気を変えた。
「もしかしてあの人が……」
禮は、これが元凶だとピンと来た。虎宗からも大志朗からも返答はなくても、到底仲間とは思えない警戒心だ。
天下を得ようと画策して質を取り、兄妹の如く育った三人を敵味方に引き裂き、恋人の渋撥と兄の虎宗を衝突させ、取り返しのつかない争乱を引き起こしたすべての元凶は、嫌な笑みを浮かべて此方に不躾な目を向けてくるこの男だ。
「《荒菱館の近江》にヤラレたヤツらが言うてるで。近江と一緒におった女やてな。それが何で今オマエらとおるんや」
「禮ちゃん。帰りい」
大志朗はもう一度言い聞かせるように言った。己の野心を満たす為なら下卑た策を弄することを何とも思わない男だ、禮を目の前にして考えそうなことなど知れている。
「あの人なんやろ、トラちゃんとシロちゃんにこんなことさせ――」
パンッパンッパンッ。――菊池が唐突に手を打った。
禮の顔は彼のほうへ引き戻された。
「《荒菱館の近江》のオンナ捕まえるなんか、オマエらにしちゃ随分協力的やなあ。お手柄お手柄」
大志朗は拳を握り、菊池を睨みつけ、完全に菊池に反抗する姿勢を取った。
「この子は関係あれへん。今から家に帰す」
「《荒菱館の近江》のオンナと分かってそのまま帰すわけにはいけへんがな。知り合いなら積もる話もあるやろ。もうちょおゆっくりしてってもらおか」
菊池は冗談のように軽く大志朗に言ったあと、自分の周りにいる男たちに何やら小声で伝えた。
「その女、逃がそうとか考えんほうがええで。こんだけ人数いてるんや、オマエら押さえて女追いかけてひっ捕まえるくらい何てことあれへんでな。大事の前やで、なるべく手はかけさせんでほしいところやけどな」
「全員殺す」
短い言葉だったか、その一言には虎宗の気魄が籠もっていた。
菊池から何やら指示を受けたであろう男たちは、ギクッとした。明らかに狼狽えてチラチラと菊池に視線を送った。
虎宗の実力は皆が知るところであり、脅し文句にも信憑性がある。東光高校では他の追随を許さない、ずば抜けた実力を持つ虎宗と大志朗の相手をしたい者などいなかった。
「女引っ付けとるときはゴリ押しせんほうがええで」
「ゴリ押しかどうか試してみたらええ」
虎宗は頑なに言い放った。
菊池は話にならないとでも言いたげに首を縮めた。
「俺かてオマエらとは仲良うやりたいと思ってるんやで。大切な兵隊やからな」
菊池の口振りを耳にして、禮は眉間に皺を刻んだ。
百歩譲って、渋撥を狙う者が虎宗の対等な仲間ならば仕方ないと思うこともできたかもしれない。渋撥が傷つくのは嫌だが、それが男の宿命だと思いこませることもできたかもしれない。しかし、口調や語彙から推測する菊池は正真正銘の悪党であり、その上、虎宗や大志朗を対等にも扱ってはいない無礼な男だと判じた。
「俺は約束は守る。女は関係あれへん」
菊池は、虎宗から飛んでくる殺気のような気魄を躱すように、目線を外して肩を竦めた。
「そーやな。能登があんじょう《荒菱館の近江》を潰してくれたら関係あれへんな。ソレが一番ええわ。せやかて世の中、万が一っちゅうこともあるでな」
「俺がやられたときの保険か。俺がやられたら次はオドレやもんな。やり合う前から負けたときの算段とは、ほんま小っさい男やなワレ」
「そーや。俺はオマエみたいに腕っ節に自信あれへんさかいの」
菊池は意外にも虎宗の厭味に対して直ぐさま言い返してきた。それから、スッと手を上げて自分の蟀谷辺りを人差し指で指差した。
「せやけどな、よう覚えとけ能登。戦争っちゅうのは腕力だけじゃ生き残れへん。損せんように生き残るには頭が要んねん。結局最後は用心深いヤツが生き残るんじゃダアホッ」
一理ある。腕力だけが判断基準なら、武雄や虎宗は菊池よりも正しいことになる。菊池よりも東光高校を統べるに相応しいことになる。しかし、現実はどうだ。自由気儘なパラダイスは廃れ、狡賢いだけの男が実権を握り、見せかけだけの平和に丸く収まっている。現実は目を背けたくなるほど、虫唾が走るほど、世知辛い。
「臆病モンの間違いやろ」
虎宗は吐き捨てるように言った。その批難と共に、口内を占める苦いものや辛いものも本当に吐き出してしまいたかった。
菊池が近づいてきて、爪先同士がぶつかるまでもうあと十数センチというところまで接近しても、虎宗は一歩も動かなかった。そのような反抗的な態度を見ても菊池は笑っていた。虎宗ならそうするであろうことなど短い付き合いでもとうに理解している。もう善人面はできないと大志朗に諦めたように言ってみても、悪党になどなりきれない男だ。幼気な少女を捕まえようとしている自分に与するなどしない。
虎宗の気魄が充満するこの場では、鼻孔をツンと突く正義と信念の匂いがする。そんなものは菊池には疎ましい以外の何物でもない。
菊池は虎宗から目を逸らし、禮の姿を見る為に上半身を大きく傾けて虎宗の背中を覗きこんだ。
「お嬢ォー。《荒菱館の近江》のオンナなんか?」
大志朗は半歩動いて禮の姿を菊池の視界から完全に隠した。
「オイ。この子は関係あれへん言うてるやろ。トラは必ず約束を守る。それで全部終いや」
「せやったら何?」
禮はソッと大志朗の腕に手を置いた。それは柔らかくも、退いてという意味であり、大志朗は自然と促されたとおりに身体を動かしてしまった。
菊池は禮の顔を拝めると不整合な歯を剥き出しにしてニイッと笑った。
「ちょっとの間、俺らと一緒にいてもらうで。能登が俺との約束果たしてくれるまで」
「ウチを人質にするいうこと?」
「賢いなあーお嬢。サスガは能登の知り合いや」
「ハッちゃんは負けへんし、ウチは人質になんかなれへんよ」
禮は何を臆することなく目を見てハッキリと言い、菊池の顔から笑みが消えた。この少女もまた、虎宗と同じ崇高な正義と信念の匂いがした。心底面白くない。そのような崇高な人間などそう何人もいてよいはずがないのに、虎宗もこの少女も、到底常人では持ち合わせていない気高さで反抗してくる。
「ウチは自分の意思で、ここにいたげる」
その発言は虎宗も大志朗も予想していなかった。
「禮ちゃん?」
虎宗が禮のほうに視線を向けると、禮も虎宗を見ていた。その檳榔子黒の瞳で何を考えている。こんなにも禮の思考を解りたいと思ったことも、解らないと思ったことも、生まれて初めてかもしれない。
――キミはその瞳で、一世一代の願いをきいてやれない俺を責めているんじゃないのか。
「そう深刻そうなツラすなよ。話は何も変わってへん。オマエが約束を守ってくれればええだけや。武雄もこのお嬢も、オマエ次第やで」
菊池は虎宗の肩に手を置いた。
この男が此方側にいる限り、思惑が外れるなど、計算が狂うなど、星の軌道が逸れるくらいに有り得ないことだ。若干のハプニングと飛び入り参加のエキストラを加えながらも、シナリオは思い描いたとおりに進行しているはず。
虎宗は目だけで菊池を見ながらグッと拳を握った。この歯並びの悪い男をぶん殴って暴れ回って、すべてをぶち壊してしまえばどれだけ爽快なことだろう。しかし、禮の顔と武雄の顔、それに憎いはずの渋撥の顔までちらついて、それもできなかった。
嗚呼、世の中はなんて世知辛い。情況はいつも交換条件付きで、手枷足枷をはめられて満足に身動きもできないのに、こなさなければならない要求は次々にお目見えする。オマケに、どんな無理難題をこなしても本当に欲しいものは手に入らないときている。
§ § §
東光が占領する喫茶店。
禮は一番奥のテーブルにて、両脇を虎宗と大志朗に守られ、対面には菊池が座った。
菊池は頬杖を突いてジッと禮の顔を観察した。いくら顔見知りで飛び切り腕の立つふたりに守られていると言っても、女子中学生にしては動揺も緊張もなさすぎる。彼の暴君の寵姫たる貫禄、というにはあまりにもあどけないというのに。
「お嬢が《荒菱館の近江》のオンナなあ……。とてもそうは見えへんで」
夜空に星屑を鏤めたような綺麗な瞳が印象的な、色白の端正な容貌。菊池は半ば見蕩れ、無意識に禮の顔に向かって手を伸ばした。
「あのツラにしちゃええ女捕まえとる。相当なメンクイ――」
パァンッ! ――禮は近づいてきた菊池の手を弾き返した。
虎宗と大志朗は当然という表情で何も言わなかったが、一同は驚いて目を見開いた。
「お嬢。もちっと自分の立場考えたほうがええで」
「ウチは人質ちゃうて、さっき言うたよ」
「ほな友だちの能登クンがあんじょうようやってくれるよう祈っとき。そしたらお嬢の出番はあれへんで、無事に家帰れるで」
「ハッちゃんは負けへんよ」
顔面の造形は見事なまでに愛らしいが、率直すぎる物言いは菊池には面白くなかった。チッと舌打ちして叩かれた手を引っこめた。
「能登が負けたら自分がどうなるか分かってへんのか、ガキが」
「トラちゃんに守ってもらわへんでも、ウチは帰ろ思たらいつでも自分の足で帰れる。ここにいてるのはハッちゃんが勝つトコ見る為やよ」
禮が強がっていることなど、この場にいる何人が気づくことができただろう。禮は実に堂々としていた。渋撥が虎宗に敗北することを、プライドが打ち砕かれ渋撥が渋撥でなくなってしまうことを、誰よりも恐れているのは禮なのに、微塵も表情に出さなかった。この菊池という男は、紛れもなく禮の敵。敵地に乗りこむのなら、弱味を見せるようなことだけはしない。
「分かった? 歯並び悪いお兄ちゃん」
菊池は突然立ち上がって右手を振りかぶり、禮はそれよりも早く拳を突き出した。
ビュオッ。――禮の拳は菊池の眼前でビタリと停止した。
菊池のほうがリーチも腕力も断然有利であるはずなのに、禮の拳が菊池の鼻先を捉えるほうが格段に速い。
「ウチね、ハッちゃんに出っ歯や歯並び悪いヤツは殴るなて言われてんの。歯で手ぇケガするから」
「コイツ……ッ」
禮は拳を引き戻し、再び元の位置、虎宗の隣へストンと腰を下ろした。ツンと菊池から顔を逸らした。
にわかに男たちがざわめく中、虎宗と大志朗は肩を揺すってクックッと笑う。
「妙な真似はやめといたほうがええで。タイマンやったらこのなかのだーれもこの子に敵わへんで」
諸悪の根源である菊池へ些細な意趣返しが成功したわけだが、禮の気分は一向に晴れなかった。禮の実力ならば此処で菊池を叩き伏せることも可能だろう。それをしてしまえばおそらく、虎宗と大志朗は是も非もなく禮を守ってくれるだろう。
しかしながら、きっと何をしても渋撥と虎宗の衝突は避けられない。その点に関しては最早菊池の存在などあってもなくても同じだ。虎宗は一度誓ってしまえば何があっても約束を反故にしない。渋撥は己の逆鱗に触れた虎宗を決してこのままにしない。
(……イヤ、怒らしたのはウチもや)
――「禮は俺がアイツに負ける思うとんやろ」
「それが一番腹立つんじゃッ‼」――
禮は不意に激怒した渋撥を思い出し、涙が込み上げてきそうになった。思えば、渋撥に面と向かって怒鳴られたことなど初めてだ。真面に怒られたことすらなかった。
――あの人を怒らせたのは、あの人をとめられなかったのは、わたしが負うべき責。だからきっと、わたしは一番近いところで見届けなければならない。
熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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