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第2章 異世界(トゥートゥート)
15. 天使の逆鱗
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まだまだパーティーを楽しむには宵の口という時間帯。
昼間とはうって変わって人通りのない静かなメイン通りでは、俺たちの乗った馬車の足音だけがやけに大きく響いていた。
さっきからじっと窓の外を眺めるブラッドは、何か深刻な顔で考え事をしている。
まるでデジャヴかと思うほど行きの姿と酷似しているポーズだが、そこから醸し出す雰囲気は重苦しく馬車の中はピンと張り詰めていた。
つい今しがた、これまで知り得なかった冷酷の美丈夫を垣間見た俺は、触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼の気が収まるのを息を潜めてじっと待つ。
原因は分からないが、良からぬことを口走って更に機嫌を損ねるのだけは避けたい。
それはとても面倒臭いことだと思えるから。
しかし参った……。
初めての舞踏会、あれだけ張り切って使用人が着飾ってくれたと言うのに、下を見れば、クリーム色の美しい絹サテンはくすんだ赤い染みで台無しである。
こんな姿で帰ったら、ガッカリするだろうな。
そういえば俺の顔はどうなってんだ?
ふと、化粧が気になり唇に指を添えて、触れた指先を見るが、そこには何もついていない。
どうやら綺麗に塗ってもらった瑞々しい果実のようなピンク色のリップも、すべて剥がれ落ちてしまい跡形も無いようだ。
俺のひどい姿を見て、悲しそうに眉を下げる使用人の顔を想像したら、思わずため息を零していた。
俺自身はこれがきっかけで友達も出来たし、舞踏会に参加したこと自体はそんなに悪くなかったと思っているが、一生懸命準備して笑顔で送り出してくれた彼女達の事を思うと申し訳ない。
だがまぁ、起こってしまったことを悔やんでも仕方ない。
元来楽観主義な俺は、さっさと気持ちを切り替えて他に彼女達が喜びそうな事を考える。
みんなには全力で謝って、今度街に行った時にでも美味しいお菓子を買って差し入れしよう。
そうと決まればゲンキンなもので、今度はなんだかワクワクしてくる。
ボンボン・ショコラや一口サイズのケーキやタルトなんてどうだろうか?
彼女たちは量があって美味ければいい俺と違って、見た目も華やかで少しずつ色々な種類を楽しむのが好きだ。
機嫌良く頭の中で目ぼしい店に算段をつけながらお菓子を妄想していると、いきなり横から手首を掴まれた。
隣を見れば、何やらブラッドが恐ろしい顔をしてこちらを睨みつけている……。
「……ブラッド?どうしたの?」
眉間に皺を寄せて怒りをあらわにするブラッドは、まるで自分の衝動を押さえ込むように俺の手首をギュッと握り締める。
なかなか結構な力だ。
「えっと……痛いのだけど……。」
ブラッドを見上げながら、恐る恐る主張してみたが、離してくれる様子はない。
なにか気に触るようなことしたか?
ぼうっと指先を見つめながら考え事をしていた俺には、思い返したところで全く見当も付かない。
「そんなに奴が好きなのか?」
「え……?」
絞り出したような低い声で聞いてきたブラッドに、意味が分からず困惑していると、今まで規則正しくリズムを刻んでいた馬蹄の音が鳴り止んだ。
外を見れば自宅のアプローチが目の前まできている。
行きは随分時間がかかったのに、帰りはあっという間だ。
道が空いていたからだろう。
そんなどうでもいい事を考えて若干現実逃避をしていたら、御者が来るのも待たずにブラッドが勢いよくドアを開けた。
普段にない荒々しい行動にギョッと驚くと、腕を掴んだブラッドが俺を強引に馬車から引きずり出し、屋敷の中へと連れていく。
廊下を歩けば、こんなに早く帰宅するとは思っていなかった使用人達が、早足にすれ違っていく只事でない様子の俺たちを見て、目をむいて見送っていた。
「ちょ……っ、ブラッド??何をそんなに怒っているの?離して……危ないわっ……」
俺はただでさえ動きにくいドレスにヒヤヒヤしながら、絡まる裾を捌きながら苦労して階段を登る。
もつれて転んだらどうしてくれる。ここで受け身をとる自信はないぞ。
がっちりと腕を取られ問答無用で歩くブラッドは、そんな事は御構い無しだ。
全身から怒りを滾らせて、無言で前を見据えたきり、まるで取りつく島もない。
一体どうしたというのか。
車中では不穏な空気を感じとり、おとなしくしていたはずだったのに、それが裏目に出たのだろうか?
いくら考えてもさっぱり分からないまま、俺はブラッドの部屋へと連れてこられ、そのままベッドの上に乱暴に押し倒された。
「っ……!」
ドサリと横たわった俺の顔の横にブラッドが手をついて覆いかぶさる。
相手をすくみあげるような威圧的な眼差しに、息を飲みその瞳から目が離せない。
きっと、蛇に睨まれたカエルというのはこういう気分を言うのだろう。
「…………ブラッド……」
なんとかこの尋常じゃない空気を打開したくて、内心焦りながらかける言葉を探していると、ふと思った。
そういえば俺はなんで、ブラッドとはっきり目を合わせているんだ?
急に帰って来たせいで、室内にはまだ明かりが灯っていない。
顔の認識だってほとんど出来ないくらいの薄暗闇で、本来なら細かい造作までは分からないはずだ。
よくよく見ると、気のせいか俺を見おろすブラッドの瞳が僅かに赤く発光しているように見える。
彼は普段、深い海を思わせる紺碧の瞳をしていた。
それが薄暗い室内で、ほんのりと赤く灯っているのだ。
「………」
暗いところで赤く光る体質なのか?
光によって虹彩の色が変わって見える人はいるが、光る瞳なんてのはこっちの世界でも初めて見る。
そんな不思議な瞳を凝視していたら、前世で見た昼と夜で色を変える珍しい宝石の記憶が蘇ってきた。
確か、太陽や蛍光灯の明かりでは青緑色なのだが、蝋燭や白熱灯の明かりでは赤色に変化するアレキサンドライトという美しい宝石だ。
その神秘的な石を、いつだか知り合いに見せてもらったことがある。
アレキサンドライトは『宝石の王様』だとその人は言っていたっけ。
この世界にも存在するのだろうか?
貴いブラッドには、なんだかとてもお似合いの石に思える。
そうやってぼんやりと見入っていると、俺の回顧を遮るようにいきなり顎を掴まれた。
「余裕だな……何を考えている。期待しても誰も助けになど来ないぞ」
「え……」
助け?
何を言ってるんだ、俺は助けなんて……、そう思ったのも束の間、改めて今の状況を認識したところで俺は思わずのけぞった。
近っ!!
気づけばブラッドの顔が俺の目の前まで迫っていた。
あと少しでも動けばお互いの唇が重なるという距離だ。
まるで、休憩室でアルにからかわれた時と同じ体勢じゃないか!?
ようやく今の状況を理解した俺は、まさかブラッドがアルのような悪ふざけをするはずがないと思いつつも、一抹の不安から身動いでいた。
「こんなに早急に事を進めるつもりはなかったんだがな……極度に鈍い君が人の好意に気付くはずがないと油断していた」
「ちょっ……退いてブラッド」
話しながらも、やんわりと逃げ道を塞いでは抵抗を抑えていくブラッドに俺の危機感はますます募っていく。
「随分親しそうだったな。今日が初対面という感じではなかった。第一部隊の隊長などと一体どこで出会うことがあるんだか」
太ももの上に体重をかけられ、両手首を捉えられると完全に動きを封じられる。
「おおかた街の食堂あたりで目をつけられたか」
寄り道していた後ろめたさでブラッドから目を逸らしていたが、すんなりと言い当てられてしまった。
俺の行動なんてお見通しのようだ。
「やはり君を外へなんか出すべきではなかったな」
ブラットの声が一層低くなる。
「これからはもっと厳しくさせてもらう。外出は最低限に控える」
「……っ!?」
聞き捨てならない発言に俺は抵抗も忘れ、慌ててブラッドに顔を向けた。
門限があるとはいえ、今まで自由に行き来していた庶民街へこれからは行けなくなるということだろうか??
それじゃ教会のみんなや、街の親しい人たちになかなか会えなくなってしまう。
子供達の喜ぶ顔だって見たいし、菜園の様子だって気になるじゃないか!
「そんなっ……約束と違うわ!教会へ行くのはお父様も了承済みのことよ!?ブラッドが勝手に決めないで!!」
そもそも俺が公爵家へ養子に来る条件だって、自由に故郷や教会を訪ねられるということだったはず。
なんで今になって、それを覆そうとするのか。
「それが君を養子にする条件だったからな。だか養子じゃなくなれば話は別になる」
「どういうこと……」
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あなたは私を家族から外すというの?」
今世ではたったの1年強という短い間だったが、それでも前世からの深い繋がりを感じている俺は、彼らに対して特別な親愛を持っている。
彼はもう俺のことを家族と思えないというのだろうか。
見限られる程の酷い事を、俺は何かしてしまったというのか……。
ブラッドの言葉にショックを隠しきれずにいると、彼はおもむろに否定した。
「いや……、そうじゃない」
「……?」
俺が訝しげに見ると、ブラッドが皮肉な笑みを浮かべる。
心なしか仄かだった瞳の赤味がグッと強みを増す。
「むしろ君にとって一番近い存在になるんだ。もうどこにも逃れられないようにな」
「一番近い……?」
どういう意味だ?
すでに俺たちは一つ屋根の下で暮らす家族だと言うのに、それ以上に近い存在なんてあるのだろうか?
「分からないわ、あなたは何がしたいの?」
「俺を受け入れないというのなら、力付くで手に入れるまでだ。あんな後からのこのこ出てきた奴に奪われてたまるか……君は俺だけのもの、未来永劫……誰にも邪魔させはしない」
どこまでも一方通行な彼の独白は、はなから俺の理解など得ようとしていないように感じる。
俺の気持ちを置き去りにして、ブラッドは一体何を考えているのか……。
そして俺は誰に奪われ、いつブラッドのものになったというんだ。
ブラッドが顔の角度を変えたと思った時には、すでに唇が重なっていた。
「……んんっ!!ちょっ……ブラッド!?やめてっ!」
慌てて引き離そうと体を捻った。
「大人しくするんだ。そうすれば最高の気持ちにしてやる。」
本気で言っているのだろうか??
こんな強引に押さえつけられて、とてもそんな気分にはなれそうにない。
抵抗する俺の両手をひとまとめに捕らえ、顎を捕むと貪るように口付けられた。
「んんっ……ふ……ンンッ…!?」
驚いた俺が思わず開いた唇に、ブラッドの舌が器用に滑り込んでくる。
体重をかけられ、手で顔を固定されていては、ロクに抵抗も出来ないままいいように口内を蹂躙されるだけだ。
息苦しさに酸素を求めて更に開いた口を、被さるように深く唇を合わされ、巧みな舌が強引に快感を引き出していく。
2人の間からは粘着質な水音が響いている。
あまりの隙のなさに翻弄される俺は、それがまるで自ら求めている行為のような錯覚すら感じさせられ、羞恥と罪悪感で胸が苦しくなった。
これは兄妹でする口付けじゃない。
いつもの挨拶とはまるで違う、ハッキリとした性的意図をもつ口付けに、俺の思考は完全にパニックになっていた。
ジタバタと暴れ、全力で振り切ろうともがく。
「んっ……!やめてっ……いやっ!!」
体力の差は歴然だ。
男だった前世ならここまで手応えなく翻弄されることもなかっただろうに。
なんだか自分がとても無力で惨めな存在になったようで嫌だった。
俺は懲りずに何度も何度も抵抗を続けるが、まるで猫が小さな獲物を弄ぶように軽くいなされてしまう。
「……いや……やっ……」
息の上がった熱い体が、快感のせいなのか疲労のせいなのかも分からずに、抵抗はだんだん弱々しいものへと変わっていく。
わずかに体重を傾けたブラッドが、ドレスの裾を搔きあげ俺の太ももを撫でる。
上部では濃厚なキスを与えながら、下半身をねっとりと辿っていた指先が、やがて臀部に行き着くと下着に指を掛けた。
頭のどこかで、まだこの現状を何かの間違いだと思いたかった俺は、ここにきてようやくそれが甘い望みだということを悟る。
ブラッドは本気で俺を犯すつもりだ。
体の高ぶりに反比例するように、俺の心はどんどん冷えていく。
なぜ……こんなひどい裏切りはない。
握り締めた掌に、爪が食い込んだ。
悔しさで涙が溢れそうになるが、それを凌駕する感情が涙を引き止めている。
体の内側からは轟々と押し寄せる、濁流のような激情が俺を飲み込もうとしていた。
まるで氷河が崩れ落ちていくように、理性がボロボロと削がれていく。
もう抑えようもない。
今俺の心に渦巻くもの、それは目の前が真っ赤になる程の途方もない怒りだった。
昼間とはうって変わって人通りのない静かなメイン通りでは、俺たちの乗った馬車の足音だけがやけに大きく響いていた。
さっきからじっと窓の外を眺めるブラッドは、何か深刻な顔で考え事をしている。
まるでデジャヴかと思うほど行きの姿と酷似しているポーズだが、そこから醸し出す雰囲気は重苦しく馬車の中はピンと張り詰めていた。
つい今しがた、これまで知り得なかった冷酷の美丈夫を垣間見た俺は、触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼の気が収まるのを息を潜めてじっと待つ。
原因は分からないが、良からぬことを口走って更に機嫌を損ねるのだけは避けたい。
それはとても面倒臭いことだと思えるから。
しかし参った……。
初めての舞踏会、あれだけ張り切って使用人が着飾ってくれたと言うのに、下を見れば、クリーム色の美しい絹サテンはくすんだ赤い染みで台無しである。
こんな姿で帰ったら、ガッカリするだろうな。
そういえば俺の顔はどうなってんだ?
ふと、化粧が気になり唇に指を添えて、触れた指先を見るが、そこには何もついていない。
どうやら綺麗に塗ってもらった瑞々しい果実のようなピンク色のリップも、すべて剥がれ落ちてしまい跡形も無いようだ。
俺のひどい姿を見て、悲しそうに眉を下げる使用人の顔を想像したら、思わずため息を零していた。
俺自身はこれがきっかけで友達も出来たし、舞踏会に参加したこと自体はそんなに悪くなかったと思っているが、一生懸命準備して笑顔で送り出してくれた彼女達の事を思うと申し訳ない。
だがまぁ、起こってしまったことを悔やんでも仕方ない。
元来楽観主義な俺は、さっさと気持ちを切り替えて他に彼女達が喜びそうな事を考える。
みんなには全力で謝って、今度街に行った時にでも美味しいお菓子を買って差し入れしよう。
そうと決まればゲンキンなもので、今度はなんだかワクワクしてくる。
ボンボン・ショコラや一口サイズのケーキやタルトなんてどうだろうか?
彼女たちは量があって美味ければいい俺と違って、見た目も華やかで少しずつ色々な種類を楽しむのが好きだ。
機嫌良く頭の中で目ぼしい店に算段をつけながらお菓子を妄想していると、いきなり横から手首を掴まれた。
隣を見れば、何やらブラッドが恐ろしい顔をしてこちらを睨みつけている……。
「……ブラッド?どうしたの?」
眉間に皺を寄せて怒りをあらわにするブラッドは、まるで自分の衝動を押さえ込むように俺の手首をギュッと握り締める。
なかなか結構な力だ。
「えっと……痛いのだけど……。」
ブラッドを見上げながら、恐る恐る主張してみたが、離してくれる様子はない。
なにか気に触るようなことしたか?
ぼうっと指先を見つめながら考え事をしていた俺には、思い返したところで全く見当も付かない。
「そんなに奴が好きなのか?」
「え……?」
絞り出したような低い声で聞いてきたブラッドに、意味が分からず困惑していると、今まで規則正しくリズムを刻んでいた馬蹄の音が鳴り止んだ。
外を見れば自宅のアプローチが目の前まできている。
行きは随分時間がかかったのに、帰りはあっという間だ。
道が空いていたからだろう。
そんなどうでもいい事を考えて若干現実逃避をしていたら、御者が来るのも待たずにブラッドが勢いよくドアを開けた。
普段にない荒々しい行動にギョッと驚くと、腕を掴んだブラッドが俺を強引に馬車から引きずり出し、屋敷の中へと連れていく。
廊下を歩けば、こんなに早く帰宅するとは思っていなかった使用人達が、早足にすれ違っていく只事でない様子の俺たちを見て、目をむいて見送っていた。
「ちょ……っ、ブラッド??何をそんなに怒っているの?離して……危ないわっ……」
俺はただでさえ動きにくいドレスにヒヤヒヤしながら、絡まる裾を捌きながら苦労して階段を登る。
もつれて転んだらどうしてくれる。ここで受け身をとる自信はないぞ。
がっちりと腕を取られ問答無用で歩くブラッドは、そんな事は御構い無しだ。
全身から怒りを滾らせて、無言で前を見据えたきり、まるで取りつく島もない。
一体どうしたというのか。
車中では不穏な空気を感じとり、おとなしくしていたはずだったのに、それが裏目に出たのだろうか?
いくら考えてもさっぱり分からないまま、俺はブラッドの部屋へと連れてこられ、そのままベッドの上に乱暴に押し倒された。
「っ……!」
ドサリと横たわった俺の顔の横にブラッドが手をついて覆いかぶさる。
相手をすくみあげるような威圧的な眼差しに、息を飲みその瞳から目が離せない。
きっと、蛇に睨まれたカエルというのはこういう気分を言うのだろう。
「…………ブラッド……」
なんとかこの尋常じゃない空気を打開したくて、内心焦りながらかける言葉を探していると、ふと思った。
そういえば俺はなんで、ブラッドとはっきり目を合わせているんだ?
急に帰って来たせいで、室内にはまだ明かりが灯っていない。
顔の認識だってほとんど出来ないくらいの薄暗闇で、本来なら細かい造作までは分からないはずだ。
よくよく見ると、気のせいか俺を見おろすブラッドの瞳が僅かに赤く発光しているように見える。
彼は普段、深い海を思わせる紺碧の瞳をしていた。
それが薄暗い室内で、ほんのりと赤く灯っているのだ。
「………」
暗いところで赤く光る体質なのか?
光によって虹彩の色が変わって見える人はいるが、光る瞳なんてのはこっちの世界でも初めて見る。
そんな不思議な瞳を凝視していたら、前世で見た昼と夜で色を変える珍しい宝石の記憶が蘇ってきた。
確か、太陽や蛍光灯の明かりでは青緑色なのだが、蝋燭や白熱灯の明かりでは赤色に変化するアレキサンドライトという美しい宝石だ。
その神秘的な石を、いつだか知り合いに見せてもらったことがある。
アレキサンドライトは『宝石の王様』だとその人は言っていたっけ。
この世界にも存在するのだろうか?
貴いブラッドには、なんだかとてもお似合いの石に思える。
そうやってぼんやりと見入っていると、俺の回顧を遮るようにいきなり顎を掴まれた。
「余裕だな……何を考えている。期待しても誰も助けになど来ないぞ」
「え……」
助け?
何を言ってるんだ、俺は助けなんて……、そう思ったのも束の間、改めて今の状況を認識したところで俺は思わずのけぞった。
近っ!!
気づけばブラッドの顔が俺の目の前まで迫っていた。
あと少しでも動けばお互いの唇が重なるという距離だ。
まるで、休憩室でアルにからかわれた時と同じ体勢じゃないか!?
ようやく今の状況を理解した俺は、まさかブラッドがアルのような悪ふざけをするはずがないと思いつつも、一抹の不安から身動いでいた。
「こんなに早急に事を進めるつもりはなかったんだがな……極度に鈍い君が人の好意に気付くはずがないと油断していた」
「ちょっ……退いてブラッド」
話しながらも、やんわりと逃げ道を塞いでは抵抗を抑えていくブラッドに俺の危機感はますます募っていく。
「随分親しそうだったな。今日が初対面という感じではなかった。第一部隊の隊長などと一体どこで出会うことがあるんだか」
太ももの上に体重をかけられ、両手首を捉えられると完全に動きを封じられる。
「おおかた街の食堂あたりで目をつけられたか」
寄り道していた後ろめたさでブラッドから目を逸らしていたが、すんなりと言い当てられてしまった。
俺の行動なんてお見通しのようだ。
「やはり君を外へなんか出すべきではなかったな」
ブラットの声が一層低くなる。
「これからはもっと厳しくさせてもらう。外出は最低限に控える」
「……っ!?」
聞き捨てならない発言に俺は抵抗も忘れ、慌ててブラッドに顔を向けた。
門限があるとはいえ、今まで自由に行き来していた庶民街へこれからは行けなくなるということだろうか??
それじゃ教会のみんなや、街の親しい人たちになかなか会えなくなってしまう。
子供達の喜ぶ顔だって見たいし、菜園の様子だって気になるじゃないか!
「そんなっ……約束と違うわ!教会へ行くのはお父様も了承済みのことよ!?ブラッドが勝手に決めないで!!」
そもそも俺が公爵家へ養子に来る条件だって、自由に故郷や教会を訪ねられるということだったはず。
なんで今になって、それを覆そうとするのか。
「それが君を養子にする条件だったからな。だか養子じゃなくなれば話は別になる」
「どういうこと……」
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あなたは私を家族から外すというの?」
今世ではたったの1年強という短い間だったが、それでも前世からの深い繋がりを感じている俺は、彼らに対して特別な親愛を持っている。
彼はもう俺のことを家族と思えないというのだろうか。
見限られる程の酷い事を、俺は何かしてしまったというのか……。
ブラッドの言葉にショックを隠しきれずにいると、彼はおもむろに否定した。
「いや……、そうじゃない」
「……?」
俺が訝しげに見ると、ブラッドが皮肉な笑みを浮かべる。
心なしか仄かだった瞳の赤味がグッと強みを増す。
「むしろ君にとって一番近い存在になるんだ。もうどこにも逃れられないようにな」
「一番近い……?」
どういう意味だ?
すでに俺たちは一つ屋根の下で暮らす家族だと言うのに、それ以上に近い存在なんてあるのだろうか?
「分からないわ、あなたは何がしたいの?」
「俺を受け入れないというのなら、力付くで手に入れるまでだ。あんな後からのこのこ出てきた奴に奪われてたまるか……君は俺だけのもの、未来永劫……誰にも邪魔させはしない」
どこまでも一方通行な彼の独白は、はなから俺の理解など得ようとしていないように感じる。
俺の気持ちを置き去りにして、ブラッドは一体何を考えているのか……。
そして俺は誰に奪われ、いつブラッドのものになったというんだ。
ブラッドが顔の角度を変えたと思った時には、すでに唇が重なっていた。
「……んんっ!!ちょっ……ブラッド!?やめてっ!」
慌てて引き離そうと体を捻った。
「大人しくするんだ。そうすれば最高の気持ちにしてやる。」
本気で言っているのだろうか??
こんな強引に押さえつけられて、とてもそんな気分にはなれそうにない。
抵抗する俺の両手をひとまとめに捕らえ、顎を捕むと貪るように口付けられた。
「んんっ……ふ……ンンッ…!?」
驚いた俺が思わず開いた唇に、ブラッドの舌が器用に滑り込んでくる。
体重をかけられ、手で顔を固定されていては、ロクに抵抗も出来ないままいいように口内を蹂躙されるだけだ。
息苦しさに酸素を求めて更に開いた口を、被さるように深く唇を合わされ、巧みな舌が強引に快感を引き出していく。
2人の間からは粘着質な水音が響いている。
あまりの隙のなさに翻弄される俺は、それがまるで自ら求めている行為のような錯覚すら感じさせられ、羞恥と罪悪感で胸が苦しくなった。
これは兄妹でする口付けじゃない。
いつもの挨拶とはまるで違う、ハッキリとした性的意図をもつ口付けに、俺の思考は完全にパニックになっていた。
ジタバタと暴れ、全力で振り切ろうともがく。
「んっ……!やめてっ……いやっ!!」
体力の差は歴然だ。
男だった前世ならここまで手応えなく翻弄されることもなかっただろうに。
なんだか自分がとても無力で惨めな存在になったようで嫌だった。
俺は懲りずに何度も何度も抵抗を続けるが、まるで猫が小さな獲物を弄ぶように軽くいなされてしまう。
「……いや……やっ……」
息の上がった熱い体が、快感のせいなのか疲労のせいなのかも分からずに、抵抗はだんだん弱々しいものへと変わっていく。
わずかに体重を傾けたブラッドが、ドレスの裾を搔きあげ俺の太ももを撫でる。
上部では濃厚なキスを与えながら、下半身をねっとりと辿っていた指先が、やがて臀部に行き着くと下着に指を掛けた。
頭のどこかで、まだこの現状を何かの間違いだと思いたかった俺は、ここにきてようやくそれが甘い望みだということを悟る。
ブラッドは本気で俺を犯すつもりだ。
体の高ぶりに反比例するように、俺の心はどんどん冷えていく。
なぜ……こんなひどい裏切りはない。
握り締めた掌に、爪が食い込んだ。
悔しさで涙が溢れそうになるが、それを凌駕する感情が涙を引き止めている。
体の内側からは轟々と押し寄せる、濁流のような激情が俺を飲み込もうとしていた。
まるで氷河が崩れ落ちていくように、理性がボロボロと削がれていく。
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