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六 喧噪の酒場
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真っ昼間の酒場は、盛り上がっていた。
力自慢の腕が、子供を扱うようにねじ伏せられる。決着の瞬間、歓声と怒号が湧き出した。引きずられていく敗北者を見送った後、ヴィダーは戦場であるテーブルに足を乗せ、不遜に周囲を睥睨する。
「――次の負け犬はどいつだ?」
挑発的な態度に、周囲の喧噪は更に一段階増した。
どうしてこうなったのか、ハクロは分かるが分かりたくない。
喧嘩を売られたのはハクロだ。それを、ヴィダーが買った。ハクロとヴィダーとアンカルが並ぶと、体格差から自然と揶揄はハクロに向く。白髪小僧だの、ご立派な保護者付きだの、腹立たしい侮蔑のどれかが、ヴィダーの逆鱗に触れた。
けれど――それがなぜ腕力勝負大会になるのかは分かりたくない。
年を取るほど賢くなるものだと夢を見るハクロに、目の前の現実はつら過ぎた。
勝利の杯はすでに二桁だ。一杯ですら弱い人間なら倒れる、凶悪な度数の酒をヴィダーは一気に呷る。目が据わっているのは不機嫌さか酔いのせいか、壁際で存在を消すハクロには見極められない。
「なぁ、もう帰らないか?」
「……そうしたい」
必要なくなればふらりと一人街を離れるアンカルが希望止まりということは、どうやらこの騒ぎにも何か目的があると推測される。険しい横顔に、ハクロはまた大人しく観客に戻る。
勝利を祝う女性陣を脇に侍らし、強さに賛辞と奢りの一杯を送る男達に鷹揚に応える。視線の先でだらしない大人を代表する姿は、何かハクロの抱える想いを通り越して呆れしか呼び起こさない。むしろ我に返させる。
「……何で俺あんなジジイ」
次なる挑戦者が出た。規格外が横にいるせいでハクロは時々基準を間違えるが、ヴィダーに対して品のない侮蔑で焚き付けようとする男は、なかなかの体格だ。休憩のうちに並んだ空いたグラスがテーブルから落とされ、再び戦場が整う。男とヴィダーが手を組み合う。
たったそれだけの間で賭けが成り立ち、周辺が硬貨を握っているのに、ハクロは加齢に対する諦めを深める。
男が隙をつくように開始の合図と同時に攻めた。あと拳一つ分もない所まで押しやるが、そこで凍り付いたように綱引きが動かなくなる。男の顔に焦りが浮かぶ。対してヴィダーは余裕の笑みだ。じりじりと、男の反応を楽しむように均衡を真上まで戻す。どうする?とヴィダーが囁いて見せたのを、ハクロは唇で読んだ。男の自尊心を折る過程を楽しむのは悪趣味だ。
それに、男は何か言い放ったのだろう。
ヴィダーの表情が途端に変わった。目を細め、睨むでもなく冷ややかに見つめ、唇を引き結ぶ。馬鹿騒ぎにいくらか解消していた怒りが、暗く再燃した。
次の瞬間男の体は飛んだ。腕に加えられた衝撃が強過ぎて勢いが殺しきれず、床へと体が投げ出される。折れた腕に悶絶して床を這う男を、ヴィダーは見下す。
「俺一人にもこのザマで、何をどうまとめて相手するって? 思春期みたいな妄想は脳みそに留めとけよ、青二才」
男が何と言ったのか、ハクロには見えなかったし、聞こえなかった。
ただそこで行われてたやりとりに推測がついて、腹が立った。ヴィダーの怒りがどこにあったのかに気づいた。こんな下品な酒場では、憂さ晴らしになるどころか、藪蛇の方が多い。
「ヴィダー」
おもしろくもなさそうに勝利後の一杯を飲む傍らに近寄る。
「帰ろうぜ」
「……水を差すなよ。俺が潰れるのを待ってる連中が怒る」
ひらりと片手を上げて示す観衆は、ここまでの負け続けを挽回したい連中だ。ヴィダーの酒量から絶対に訪れるその瞬間を、みんな手ぐすね引いて待っている。先程からの勝利の奢りは賞賛半分、工作半分だ。ここで仕舞いなど、許されない。
「じゃあ俺がやる」
店内に、冷やな笑いが広がった。ハクロはそういったものに慣れている。暴言も嘲笑も、投げられ過ぎて体にこびりついている。
けれどそれらを洗い流してくれる男がいる。
椅子にかけたハクロが本気だと悟ったヴィダーは、片眉を上げて見せた後、ゆっくりと口角を持ち上げた。瞳が、ちゃんと笑っている。
「いいな」
目の前の男が、自分を理解してさえくれれば、ハクロは構わなかった。
重ね合わせた掌は覚えがあるものだが、こういう重ね方は初めてだ。
「……テーブルの端掴んで堪えるなよ。壊しちまうからな」
囁かれる言葉は忠告だ。いかさまじみているが、ヴィダーは筋力だけで戦っているわけではない。治安が良いとは言い難い酒場で、そのことはハクロもどうでもいい。大体、それを除外しろと言われると、意識しているわけではないハクロの方が困ってしまう。
合図の声が上がる。均衡は頂点のまま、派手な攻防もなく、ただ小さい震えと互いの呼吸がある。先程までうるさいぐらいだった周囲が、不思議な緊張感に固唾を呑む。
「はっ、マジだな……」
ねじ伏せきれない強さに何か改めて得心したのか、ヴィダーが湧き上がった吐息に笑いを乗せて吐いた。
ハクロは意図的に呼吸を細かく繰り返す。
額が触れるほどの距離で小さく、言葉を交わす。
「あんなにちっこかったってのに、随分立派になりやがって」
「ジジイは、そろそろ、耄碌してきたか?」
「俺が爺なら、お前は乳飲みの坊やだな。添い寝までは付き合ってやるが、お漏らしは勘弁しろよ」
「くそジジイっ、長生きし過ぎでアンタこそシモがゆるゆるだろ。何……百年だか知らないが、そこら中に種蒔きやがって、その内血縁と寝るハメになんぞ」
「……? ガキを無責任に仕込むクソ野郎だと思われてんのは心外だ。つーか……」
訝しげに一度言い淀む。
「俺まだ三十過ぎたとこだが」
「――はぁ!?」
驚いた。驚いて力が入った。変な瞬間の襲撃に対応の力が遅れ、均衡がヴィダー側へと傾いた。どよめきが起こる。
「なんっ……どんだけ驚いてんだ、お前っ。爺扱い本気だったのかよ……!?」
「嘘だろっ、アンタ、だって……!?」
零れる単語を垂れ流しながら、傾いたヴィダーの掌に体重をかける。
「物知りだし、経験豊富だし、いつも冷静だし……」
「やめろ、なんだ、作戦か、やめろ」
「貫禄あるし、包容力あるし」
「本気でっ、やめろッ」
小声のやりとりが徐々に平常の声になって、弱るヴィダーの声は近くにいるものにも聞こえた。ハクロの声は捉えられなくとも、ヴィダーの窮地は周りにも察せられた。褒め殺しに恥ずかしくて歪む表情が、傍からは追い詰められているように見える。
ヴィダーが最後の防衛戦で息を止めた。背水の陣で力を反転に込める。
そんなヴィダーを容赦なく攻めながら、ハクロは若干心ここにあらずだった。
「……――三百歳くらいかと思ってた」
へにょんと、最後は力なく押し切られた。
「おまえなぁ……」
大穴の勝利に怒号九割九分、歓喜の声一分がこだました。
* *
「最悪だ……」
酒場の上階、また喧騒の名残が階下に聞こえる宿の部屋で、ヴィダーは俯せに呻いている。
「何だよ、ちゃんと世話役だっておっさんに最後は声かけられただろ?」
「言葉責めで負けた奴呼ばわりだぞ、おい王者さんよ」
「なんであんなことなってんだろうな」
「お前のせいだろが!」
周囲にハクロの声が聞こえなかったせいか、憶測が憶測を呼んでひどいことになっている。圧倒的強者だった男が、若い男に言われてたじたじになる言葉。酒場の話題にはちょうどいいだろう。つまり今夜を越えれば、より状況は悪くなる。
「……最悪だぁ、もうこの街出る……」
「おいっ、しばらく稼ぐからってあそこまで大事にして世話役引っ張り出したんだろ!?」
永遠に続きそうなやりとりに、アンカルが口を挟む。
「理解できたか?」
「……身にしみて」
腕力勝負で確定した。長命種の加護のあるヴィダーに、色々と変則的だったが対応できたのは、ハクロにも長命種の加護があるからだ。
アンカルはすでに気づいていた。衝撃の事実にあっさり頷きが返って、言えよぉとヴィダーが嘆いたのはこの間のことだ。
アンカルの見立てでは、ハクロの加護は今まで生命の保守に注力されていた。劣悪過ぎる環境でハクロが死ななかった理由だ。そしてヴィダーに拾われ、肉体の成長に今度は割り振られた。体も安定し、特定の補助を必要としなくなると、ヴィダーと同じ肉体強化、治癒促進を中心に働き始めた。
「黒剣を扱えた時点で気づけ」
「器用な奴だなぁと」
実際、加重の制御は普通の人間にも制限していなかった。ただあれほど頻繁かつ巧みに制御できたのは、加護の補助だと今なら分かる。黒剣を使い始めた時期と、加護の発揮し始めが重なり、徐々に巧みになる扱いを修練の結果と誤認した。なまじか弱いハクロと接し過ぎていたせいで、変化を見逃した。
「お前は時々一周回って馬鹿だな」
一番強い可能性以外もおしなべて考察する。その習性に、思い込みは致命的だ。
「記録偏重野郎は思考回路が単純で羨ましい限りだ。副次的効果を置いてけぼりに力技で解決だな」
「力は裏切らん」
「嫌みを解す頭もないとは哀れだよ」
二人は二人で喧嘩腰にやりとりするが、ハクロにはまだ全容が把握できていない。
「なぁ結局、俺は長命種なのか……?」
「いいや」
「人間だ」
心構えをして口にしたハクロの問いは、あっさり否定された。
「加護を持ってることと、長命種であることは違う。どこで拾ったかは分からないが、多分お前の先祖のどこかに下野した長命種がいたって辺りだろう。権限はないに等しいが、承認不要に切り替わってるお陰で今のお前にも扱えてる」
何だと、ハクロは肩を落とす。ヴィダーと同じではなかった。
「お前の、権限と総量が最底辺の下位互換か?」
「まぁ人間の体で加護持ちってならそうだが、お前、俺が星座持ちって認識どっかにやってるな?」
「……今は無職の放浪者だろう」
「……割と痛いな、その一言」
意気消沈している。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。アンタってそうなのか……?」
「お前まで無職放浪者扱いすんのかよ」
ヴィダーは少し傷ついていた。
「いや、そうじゃなくて、ヴィダーはちゃんと長命種なんだろ? 何で人間扱いなんだ?」
あっとヴィダーが驚きを、あぁとアンカルが納得をもらす。
ヴィダーが寝台から体を起こし、立っているハクロを見上げる。
「俺はあいのこだ。あと長命種は生物じゃない」
衝撃の事実に、ハクロは固まる。
「え」
「人間が勝手に種なんて言ってるが、あれは、なんつったらいい……、機能と権限を持つ管理個体だ」
「びっくりするぐらい意味が分からない」
「お伽話の精霊みたいなもんだ。見た目は人間で性行為もできるが、生殖機能はない」
「……なんか眠くなってきた」
「頑張れ。糖分とれ」
荷物を探ったアンカルが、袋から取った一粒をハクロの口に放り込んでくる。舌の上に甘さが広がった。馴染みつつあるこの飴という物が高級品であることを、ハクロはあの日から随分遅れて知った。それでも頭の働きに必要なものだと、ヴィダーは常備している。
「長命種と人間がイイ仲になると、人間の情報だけを基に子供は生まれる。ただし加護が容姿を筆頭とした半端じゃないいじりを加わえるお陰で、俺みたいなのができる」
舌の上で飴を転がす。甘さが染みていく。
「なのに長命種?」
「一番偉い存在に認められると、権限が与えられる。あくまで名乗る許可をいただけた程度で、機能的にはおこがましいが」
「……じゃあホントに三十歳?」
「厳密には前半な。まだ疑ってたのか……?」
「だって長命種なんていうから年寄りだと思うだろ!?」
「長命種だって一から歳取るだろが」
「だって!」
勢い込んで先程と同じ言葉を口にしようとしたのが分かったのか、ヴィダーは両手を宥めるように動かした。
「俺の体は人間で、少し便利な体なのは加護のお陰だ。で、十年以上旅すりゃ肝も座れば世慣れ感も出る」
それからと、頭を指し示す。
「ここは加護なし掛け値なしの自前だ」
「うそだぁ」
「何でだよ」
「そんなに便利なのに頭に使わないのおかしいだろ?」
「説明が難しいとこ突いてくるな……」
悩むヴィダーに、珍しくアンカルが助け船を出す。
「俺は基本的にこの体と、竜の体しか使わない」
漕ぎ出す先が不明の船に、ヴィダーは乗船を躊躇う。空気が分かったのか、アンカルは不服げに言葉を足す。
「頭の構成が変わり過ぎると俺という意識が揺らぐ」
「……人間も、手足をなくしてもそいつはそいつだが、頭をなくすとただの肉片になるだろ。頭ってのはそれだけ繊細で、自分を認識するために大事な部分だ。安易に加護を使う訳にはいかないのさ」
何となく腑に落ちる。口の中の飴を噛み砕く。
「急に頭良くなったら俺じゃないもんな」
「そういう……ことかぁ? ……まぁもうそれでいいか」
諦めを滲ませて、ヴィダーは寝台に伏した。
「じゃあアンタ、もとから頭良いんだな」
「褒めそやしてくれていいぜ。『楽園』で加護の修練を邪魔されてたお陰で、知識と知能に関しては磨き込んだ」
「もう知識と知能って一緒だろって、俺なんか感じるもんな」
「……なんか酒場の二の舞いになりそうなんで、やっぱり褒めなくていい」
* *
宿屋の主人の案内通り、酒場の裏手には贅沢なことに専用の井戸があった。言葉に甘えて日が暮れない内にと、着衣を解いて濡らした布で体の汚れを拭う。ハクロ自身はさほど綺麗好きではない。それでも小まめに身綺麗にするのは、そうでないと不満を言う男がいるからだ。
隣、肌を伝う雫を見る。しなやかさのある筋肉は決して無骨な凹凸にはならず、滑らかな曲線で繋がっている。雫は腹筋の隆起を辿って臍下を過ぎ、纏ったままの下穿きに消えた。
慌てて目を逸らし、頭から桶の水を浴びる。井戸水はぬるく、冷やすには至らなかった。
「何してんだ」
「……精神統一」
急に飛んだ派手な飛沫に訝しげだったヴィダーは事態を察した顔をする。
「勃たないようにってか?」
揶揄めいた物言いだが、非難や忌避の色はない。
「……嫌じゃないのか?」
「勃ってようが寝てようが、ただの部位だ。俺にもついてる」
ヴィダーの言葉は安心させる言葉で、同時に挑発的でもある。
「お前こそ」
「何」
「寝るだけ」
無防備に見えて理解はしているのだと、ハクロは一度口を噤む。
誤解を解消した後から、二人はまた、ハクロが小さかった頃と同じように一つの寝台で眠るようになった。一番難易度の易しい、承認の方法として。
「……思うとこがないわけではないけど」
ヴィダーの腕の中、体を包む温かさは許しのようで心を安らがせ、鼻腔に届く匂いは頭の芯をぼやかす。余計な考え事をかき消して、そこにある感情にだけ向き合わせる。
「今は、昔みたいにアンタと眠れるだけで嬉しい」
「……そうか」
返される声は穏やかだった。
力自慢の腕が、子供を扱うようにねじ伏せられる。決着の瞬間、歓声と怒号が湧き出した。引きずられていく敗北者を見送った後、ヴィダーは戦場であるテーブルに足を乗せ、不遜に周囲を睥睨する。
「――次の負け犬はどいつだ?」
挑発的な態度に、周囲の喧噪は更に一段階増した。
どうしてこうなったのか、ハクロは分かるが分かりたくない。
喧嘩を売られたのはハクロだ。それを、ヴィダーが買った。ハクロとヴィダーとアンカルが並ぶと、体格差から自然と揶揄はハクロに向く。白髪小僧だの、ご立派な保護者付きだの、腹立たしい侮蔑のどれかが、ヴィダーの逆鱗に触れた。
けれど――それがなぜ腕力勝負大会になるのかは分かりたくない。
年を取るほど賢くなるものだと夢を見るハクロに、目の前の現実はつら過ぎた。
勝利の杯はすでに二桁だ。一杯ですら弱い人間なら倒れる、凶悪な度数の酒をヴィダーは一気に呷る。目が据わっているのは不機嫌さか酔いのせいか、壁際で存在を消すハクロには見極められない。
「なぁ、もう帰らないか?」
「……そうしたい」
必要なくなればふらりと一人街を離れるアンカルが希望止まりということは、どうやらこの騒ぎにも何か目的があると推測される。険しい横顔に、ハクロはまた大人しく観客に戻る。
勝利を祝う女性陣を脇に侍らし、強さに賛辞と奢りの一杯を送る男達に鷹揚に応える。視線の先でだらしない大人を代表する姿は、何かハクロの抱える想いを通り越して呆れしか呼び起こさない。むしろ我に返させる。
「……何で俺あんなジジイ」
次なる挑戦者が出た。規格外が横にいるせいでハクロは時々基準を間違えるが、ヴィダーに対して品のない侮蔑で焚き付けようとする男は、なかなかの体格だ。休憩のうちに並んだ空いたグラスがテーブルから落とされ、再び戦場が整う。男とヴィダーが手を組み合う。
たったそれだけの間で賭けが成り立ち、周辺が硬貨を握っているのに、ハクロは加齢に対する諦めを深める。
男が隙をつくように開始の合図と同時に攻めた。あと拳一つ分もない所まで押しやるが、そこで凍り付いたように綱引きが動かなくなる。男の顔に焦りが浮かぶ。対してヴィダーは余裕の笑みだ。じりじりと、男の反応を楽しむように均衡を真上まで戻す。どうする?とヴィダーが囁いて見せたのを、ハクロは唇で読んだ。男の自尊心を折る過程を楽しむのは悪趣味だ。
それに、男は何か言い放ったのだろう。
ヴィダーの表情が途端に変わった。目を細め、睨むでもなく冷ややかに見つめ、唇を引き結ぶ。馬鹿騒ぎにいくらか解消していた怒りが、暗く再燃した。
次の瞬間男の体は飛んだ。腕に加えられた衝撃が強過ぎて勢いが殺しきれず、床へと体が投げ出される。折れた腕に悶絶して床を這う男を、ヴィダーは見下す。
「俺一人にもこのザマで、何をどうまとめて相手するって? 思春期みたいな妄想は脳みそに留めとけよ、青二才」
男が何と言ったのか、ハクロには見えなかったし、聞こえなかった。
ただそこで行われてたやりとりに推測がついて、腹が立った。ヴィダーの怒りがどこにあったのかに気づいた。こんな下品な酒場では、憂さ晴らしになるどころか、藪蛇の方が多い。
「ヴィダー」
おもしろくもなさそうに勝利後の一杯を飲む傍らに近寄る。
「帰ろうぜ」
「……水を差すなよ。俺が潰れるのを待ってる連中が怒る」
ひらりと片手を上げて示す観衆は、ここまでの負け続けを挽回したい連中だ。ヴィダーの酒量から絶対に訪れるその瞬間を、みんな手ぐすね引いて待っている。先程からの勝利の奢りは賞賛半分、工作半分だ。ここで仕舞いなど、許されない。
「じゃあ俺がやる」
店内に、冷やな笑いが広がった。ハクロはそういったものに慣れている。暴言も嘲笑も、投げられ過ぎて体にこびりついている。
けれどそれらを洗い流してくれる男がいる。
椅子にかけたハクロが本気だと悟ったヴィダーは、片眉を上げて見せた後、ゆっくりと口角を持ち上げた。瞳が、ちゃんと笑っている。
「いいな」
目の前の男が、自分を理解してさえくれれば、ハクロは構わなかった。
重ね合わせた掌は覚えがあるものだが、こういう重ね方は初めてだ。
「……テーブルの端掴んで堪えるなよ。壊しちまうからな」
囁かれる言葉は忠告だ。いかさまじみているが、ヴィダーは筋力だけで戦っているわけではない。治安が良いとは言い難い酒場で、そのことはハクロもどうでもいい。大体、それを除外しろと言われると、意識しているわけではないハクロの方が困ってしまう。
合図の声が上がる。均衡は頂点のまま、派手な攻防もなく、ただ小さい震えと互いの呼吸がある。先程までうるさいぐらいだった周囲が、不思議な緊張感に固唾を呑む。
「はっ、マジだな……」
ねじ伏せきれない強さに何か改めて得心したのか、ヴィダーが湧き上がった吐息に笑いを乗せて吐いた。
ハクロは意図的に呼吸を細かく繰り返す。
額が触れるほどの距離で小さく、言葉を交わす。
「あんなにちっこかったってのに、随分立派になりやがって」
「ジジイは、そろそろ、耄碌してきたか?」
「俺が爺なら、お前は乳飲みの坊やだな。添い寝までは付き合ってやるが、お漏らしは勘弁しろよ」
「くそジジイっ、長生きし過ぎでアンタこそシモがゆるゆるだろ。何……百年だか知らないが、そこら中に種蒔きやがって、その内血縁と寝るハメになんぞ」
「……? ガキを無責任に仕込むクソ野郎だと思われてんのは心外だ。つーか……」
訝しげに一度言い淀む。
「俺まだ三十過ぎたとこだが」
「――はぁ!?」
驚いた。驚いて力が入った。変な瞬間の襲撃に対応の力が遅れ、均衡がヴィダー側へと傾いた。どよめきが起こる。
「なんっ……どんだけ驚いてんだ、お前っ。爺扱い本気だったのかよ……!?」
「嘘だろっ、アンタ、だって……!?」
零れる単語を垂れ流しながら、傾いたヴィダーの掌に体重をかける。
「物知りだし、経験豊富だし、いつも冷静だし……」
「やめろ、なんだ、作戦か、やめろ」
「貫禄あるし、包容力あるし」
「本気でっ、やめろッ」
小声のやりとりが徐々に平常の声になって、弱るヴィダーの声は近くにいるものにも聞こえた。ハクロの声は捉えられなくとも、ヴィダーの窮地は周りにも察せられた。褒め殺しに恥ずかしくて歪む表情が、傍からは追い詰められているように見える。
ヴィダーが最後の防衛戦で息を止めた。背水の陣で力を反転に込める。
そんなヴィダーを容赦なく攻めながら、ハクロは若干心ここにあらずだった。
「……――三百歳くらいかと思ってた」
へにょんと、最後は力なく押し切られた。
「おまえなぁ……」
大穴の勝利に怒号九割九分、歓喜の声一分がこだました。
* *
「最悪だ……」
酒場の上階、また喧騒の名残が階下に聞こえる宿の部屋で、ヴィダーは俯せに呻いている。
「何だよ、ちゃんと世話役だっておっさんに最後は声かけられただろ?」
「言葉責めで負けた奴呼ばわりだぞ、おい王者さんよ」
「なんであんなことなってんだろうな」
「お前のせいだろが!」
周囲にハクロの声が聞こえなかったせいか、憶測が憶測を呼んでひどいことになっている。圧倒的強者だった男が、若い男に言われてたじたじになる言葉。酒場の話題にはちょうどいいだろう。つまり今夜を越えれば、より状況は悪くなる。
「……最悪だぁ、もうこの街出る……」
「おいっ、しばらく稼ぐからってあそこまで大事にして世話役引っ張り出したんだろ!?」
永遠に続きそうなやりとりに、アンカルが口を挟む。
「理解できたか?」
「……身にしみて」
腕力勝負で確定した。長命種の加護のあるヴィダーに、色々と変則的だったが対応できたのは、ハクロにも長命種の加護があるからだ。
アンカルはすでに気づいていた。衝撃の事実にあっさり頷きが返って、言えよぉとヴィダーが嘆いたのはこの間のことだ。
アンカルの見立てでは、ハクロの加護は今まで生命の保守に注力されていた。劣悪過ぎる環境でハクロが死ななかった理由だ。そしてヴィダーに拾われ、肉体の成長に今度は割り振られた。体も安定し、特定の補助を必要としなくなると、ヴィダーと同じ肉体強化、治癒促進を中心に働き始めた。
「黒剣を扱えた時点で気づけ」
「器用な奴だなぁと」
実際、加重の制御は普通の人間にも制限していなかった。ただあれほど頻繁かつ巧みに制御できたのは、加護の補助だと今なら分かる。黒剣を使い始めた時期と、加護の発揮し始めが重なり、徐々に巧みになる扱いを修練の結果と誤認した。なまじか弱いハクロと接し過ぎていたせいで、変化を見逃した。
「お前は時々一周回って馬鹿だな」
一番強い可能性以外もおしなべて考察する。その習性に、思い込みは致命的だ。
「記録偏重野郎は思考回路が単純で羨ましい限りだ。副次的効果を置いてけぼりに力技で解決だな」
「力は裏切らん」
「嫌みを解す頭もないとは哀れだよ」
二人は二人で喧嘩腰にやりとりするが、ハクロにはまだ全容が把握できていない。
「なぁ結局、俺は長命種なのか……?」
「いいや」
「人間だ」
心構えをして口にしたハクロの問いは、あっさり否定された。
「加護を持ってることと、長命種であることは違う。どこで拾ったかは分からないが、多分お前の先祖のどこかに下野した長命種がいたって辺りだろう。権限はないに等しいが、承認不要に切り替わってるお陰で今のお前にも扱えてる」
何だと、ハクロは肩を落とす。ヴィダーと同じではなかった。
「お前の、権限と総量が最底辺の下位互換か?」
「まぁ人間の体で加護持ちってならそうだが、お前、俺が星座持ちって認識どっかにやってるな?」
「……今は無職の放浪者だろう」
「……割と痛いな、その一言」
意気消沈している。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。アンタってそうなのか……?」
「お前まで無職放浪者扱いすんのかよ」
ヴィダーは少し傷ついていた。
「いや、そうじゃなくて、ヴィダーはちゃんと長命種なんだろ? 何で人間扱いなんだ?」
あっとヴィダーが驚きを、あぁとアンカルが納得をもらす。
ヴィダーが寝台から体を起こし、立っているハクロを見上げる。
「俺はあいのこだ。あと長命種は生物じゃない」
衝撃の事実に、ハクロは固まる。
「え」
「人間が勝手に種なんて言ってるが、あれは、なんつったらいい……、機能と権限を持つ管理個体だ」
「びっくりするぐらい意味が分からない」
「お伽話の精霊みたいなもんだ。見た目は人間で性行為もできるが、生殖機能はない」
「……なんか眠くなってきた」
「頑張れ。糖分とれ」
荷物を探ったアンカルが、袋から取った一粒をハクロの口に放り込んでくる。舌の上に甘さが広がった。馴染みつつあるこの飴という物が高級品であることを、ハクロはあの日から随分遅れて知った。それでも頭の働きに必要なものだと、ヴィダーは常備している。
「長命種と人間がイイ仲になると、人間の情報だけを基に子供は生まれる。ただし加護が容姿を筆頭とした半端じゃないいじりを加わえるお陰で、俺みたいなのができる」
舌の上で飴を転がす。甘さが染みていく。
「なのに長命種?」
「一番偉い存在に認められると、権限が与えられる。あくまで名乗る許可をいただけた程度で、機能的にはおこがましいが」
「……じゃあホントに三十歳?」
「厳密には前半な。まだ疑ってたのか……?」
「だって長命種なんていうから年寄りだと思うだろ!?」
「長命種だって一から歳取るだろが」
「だって!」
勢い込んで先程と同じ言葉を口にしようとしたのが分かったのか、ヴィダーは両手を宥めるように動かした。
「俺の体は人間で、少し便利な体なのは加護のお陰だ。で、十年以上旅すりゃ肝も座れば世慣れ感も出る」
それからと、頭を指し示す。
「ここは加護なし掛け値なしの自前だ」
「うそだぁ」
「何でだよ」
「そんなに便利なのに頭に使わないのおかしいだろ?」
「説明が難しいとこ突いてくるな……」
悩むヴィダーに、珍しくアンカルが助け船を出す。
「俺は基本的にこの体と、竜の体しか使わない」
漕ぎ出す先が不明の船に、ヴィダーは乗船を躊躇う。空気が分かったのか、アンカルは不服げに言葉を足す。
「頭の構成が変わり過ぎると俺という意識が揺らぐ」
「……人間も、手足をなくしてもそいつはそいつだが、頭をなくすとただの肉片になるだろ。頭ってのはそれだけ繊細で、自分を認識するために大事な部分だ。安易に加護を使う訳にはいかないのさ」
何となく腑に落ちる。口の中の飴を噛み砕く。
「急に頭良くなったら俺じゃないもんな」
「そういう……ことかぁ? ……まぁもうそれでいいか」
諦めを滲ませて、ヴィダーは寝台に伏した。
「じゃあアンタ、もとから頭良いんだな」
「褒めそやしてくれていいぜ。『楽園』で加護の修練を邪魔されてたお陰で、知識と知能に関しては磨き込んだ」
「もう知識と知能って一緒だろって、俺なんか感じるもんな」
「……なんか酒場の二の舞いになりそうなんで、やっぱり褒めなくていい」
* *
宿屋の主人の案内通り、酒場の裏手には贅沢なことに専用の井戸があった。言葉に甘えて日が暮れない内にと、着衣を解いて濡らした布で体の汚れを拭う。ハクロ自身はさほど綺麗好きではない。それでも小まめに身綺麗にするのは、そうでないと不満を言う男がいるからだ。
隣、肌を伝う雫を見る。しなやかさのある筋肉は決して無骨な凹凸にはならず、滑らかな曲線で繋がっている。雫は腹筋の隆起を辿って臍下を過ぎ、纏ったままの下穿きに消えた。
慌てて目を逸らし、頭から桶の水を浴びる。井戸水はぬるく、冷やすには至らなかった。
「何してんだ」
「……精神統一」
急に飛んだ派手な飛沫に訝しげだったヴィダーは事態を察した顔をする。
「勃たないようにってか?」
揶揄めいた物言いだが、非難や忌避の色はない。
「……嫌じゃないのか?」
「勃ってようが寝てようが、ただの部位だ。俺にもついてる」
ヴィダーの言葉は安心させる言葉で、同時に挑発的でもある。
「お前こそ」
「何」
「寝るだけ」
無防備に見えて理解はしているのだと、ハクロは一度口を噤む。
誤解を解消した後から、二人はまた、ハクロが小さかった頃と同じように一つの寝台で眠るようになった。一番難易度の易しい、承認の方法として。
「……思うとこがないわけではないけど」
ヴィダーの腕の中、体を包む温かさは許しのようで心を安らがせ、鼻腔に届く匂いは頭の芯をぼやかす。余計な考え事をかき消して、そこにある感情にだけ向き合わせる。
「今は、昔みたいにアンタと眠れるだけで嬉しい」
「……そうか」
返される声は穏やかだった。
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