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<33・決断。>
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「納得がいかない」
亜林はむすっとした顔で、花林に不満を漏らした。
「どうして俺がどんなに頑張っても蝉見つからないのに、陸はああもポイポイ見つけんの?信じらんねー」
「そりゃ、亜林が探すのヘタなだけじゃない?」
朝ごはんのピザトーストをトースターから出しながら、花林は言った。と言っても、今日のピザトーストを作ったのは花林ではなく母である。自分がやったのは皿を出すことと材料のチーズを冷蔵庫から出すことくらいなものだ。
ピザトーストは、花林が苦手とする料理の一つだった。朝ご飯で出てくるとテンションが上がる好物なのは間違いないのだが、花林が自分で焼こうとすると悉く焦げるのである。亜林ならもう少し上手く焼けるというのに。
その亜林は一足先に父とともにテーブルについて、不貞腐れている真っ最中だ。
「下手って言われても、どう下手なのかわかんねー!そりゃ俺もチビではあるけど、それでも陸より小さいわけじゃねーんだぞ?」
クールなところもある賢い少年だが、虫取りともなると普通の小学生男子に戻ってしまうらしい。ましてや、今年の自由研究に蝉の観察を掲げたはいいものの、肝心の蝉が一匹も捕まえられない現状とあっては。
不思議な話だ。本人はかなり器用なはずなのに(少なくとも家事能力は全般的に花林より高い)、時々妙なところが苦手と言うのだから。虫取りならば、花林の方がもう少しうまくできる自信がある。まあそんな花林も、黒光りして飛ぶ例の虫と蜂だけはどうしてもお友達になれないタイプだったが。
「視点が違うってことじゃないか?捕まえられないんじゃなくて、見つけられないんだろ?」
そんな亜林を慰めながら、父が言う。
「上手く捕まえるのが得意な陸君に訊いてみろよ。どういうところを見るのがいいのかとか、コツを教えてくれるかもしれないぞ?」
「うーんそっか。……それもそうかもだけど」
ぴとり、と亜林は父の腕にひっついて言う。
「お父さんも夏休みだろ?一緒に虫取りしてくれねーの?」
「なんだ?久しぶりにやりたいのか?」
「うん」
「おー、亜林ってばあまえんぼー」
「うっせえよ姉貴」
からかってはみたものの、花林は複雑な気持ちだった。亜林が少しだけ母や父に甘えるようになった理由を、誰よりよく知っているからである。
彼は知ったのだろう。普段の日常ほど、壊れやすいものはないということを。愛する者が、ある日突然いなくなることもあるということを。両親と祖母をいっぺんに失った陸を見て、毎日のように気を使っているから尚更に。
あれから、約一ヶ月が過ぎた。
村は、子供達は夏休みを迎えている。色々あったので普段から少し長い夏休みは、九月の上旬まで続くことになっていた。
分校は色々あったことと、先生がみんな死んでしまったことによって廃校になることが決まっていた。自分達はみんな二学期から、村の外の学校に通うことになっている。中には、これを機会に村からの引っ越しを考えている家族も少なくないようだった。それもそうだろう。
惨劇によって、死んでしまった人は多い。おかしくなってしまった人も少なくない。家族全員が大きな後遺症もなく生き残った自分達は、本当の本当に幸運だったのだと今ならわかる。またあんなことが起きるかもしれないと思ったら、村から逃げたくなるのも道理だ。
『ジャクタ様に関わる儀式について、外部には他言無用でお願いします。インターネットに書き込むのも禁止です』
カウントがゼロになったあと、現れた御堂茅の甥だという男性は。生き残った村人達に、はっきりと告げたのだった。
『過去の儀式の際、村の外に情報を漏らした者にはジャクタ様の呪いが漏らさず降り掛かったと記録があります。死にたくなければ、村人以外には何一つ話さないことをお勧め致しますよ』
それに対して、異を唱える気力がある者は一人もいなかった。
全員が全員、全てに疲れ切っていたから。そして、ジャクタ様の恐ろしさを嫌というほど身に沁みていたということもあるだろう。
そもそも、ジャクタ様の呪いがなかったとて、恐らく公的機関を頼ることはできまい。儀式の最中に通報できなかったというのは、間違いなく御堂家が警察の上層部に通じていたということだろうから。逆に言えば儀式で人を殺した人間も一切罪に問われないということだろう。御堂茅と、御堂雫――二人を射殺した、花林達も含めて。
「陸君は、強い子ね。……麻耶ちゃんの家に暫くいて秋から遠くの親戚のところに引っ越すという話だけど」
「空元気だよ、あれは。だからせめて、村にいるうちは俺が助けてやらないと」
「亜林……」
母がテーブルに座りながら、亜林と、それから花林を見て言った。
「お友達を気遣おうという二人の気持ちは素敵だし、私もこの村の自然が好きよ。でもね。……あの話は、真剣に考えて頂戴ね。私とお父さんがこの村に来なければ、二人は酷い目に遭わずに済んだんだから」
「お母さん……」
亜林と顔を見合わせ、花林は押し黙るしかなかった。
旅行から帰ってきて全てを娘と息子から、そして御堂の家から聞いた両親は。自分達にはっきりと告げたのである。
マイホームを手放してでも、転職してでも引っ越そうと。
愛する我が子達の安全に勝るものはないのだから、と。
花林と亜林はまだその提案に対して――答えが出せずにいる。
今でも思い出すからだ。雫を撃った、あの日のことを。
***
泣きながら引いた引き金は重くて、胸が締め付けられるように苦しかった。
雫の左手、左足、右手、右足。
突き刺さった銃弾と共に青年の手足は踊り、血飛沫が舞った。仰向けに倒れた彼に、あとは最後の一発を撃ち込むだけ。
雫の心臓を撃ち抜けば、全ては終わる。なんせ、茅を殺しただけで、手の甲のカウントは一気に5まで減った。雫の思惑が考えが正しかったことは、既に証明されているのだから。
――早く……早く、早く撃たないと。
これで終わる。何もかも救われる。わかっているのに、花林は最後の一発をすぐに撃ち込むことが出来なかった。
彼は血まみれになって苦しんでいる。早くトドメを刺さなければもっと苦しませるだけと、そうわかっているというのに。
『花林……』
そんな花林を、倒れた状態で見上げて。荒い息の下、雫は言ったのだった。
『君は、泣いてくれるのか。私は妹も、村の人も、誰のことも救えなかった男だというのに』
『そんなことないです!そんなことない……ない!』
花林は泣きながら、首をブンブンと横に振った。
『貴方は……雫さんは!私達を助けてくれた……そして、私達に勇気をくれました。貴方の妹さんの子供で、本当に良かったです』
この村では楽しいことも悲しいこともたくさんあって。一概にこの村に生まれたことを喜べる状況ではなくなってしまったけれど、それでも。
『貴方に出会えて、本当に良かった。心から今、そう思います』
さようなら、私の初恋。
『……ありがとう』
花林の言葉に、彼は。
『またな』
最期に彼は、微笑っていた。
そして、銃声。
胸元から血を吹き出して、雫は動かなくなった。瞬間、場の空気が変わったことを花林たちは知ったのである。
『!!』
息を呑んで見守る中、仏壇の左隣に設置された鋼の扉が――ゆっくりと、音を立てて開いて言ったのだった。
その向こうに見えたのは、赤い赤い空。
そしてどす黒い泥の海。
唖然とする花林たちの前で、ゆっくりと白く光る二つの人影が、開いた扉を潜っていくのが見えた。
それは今より髪の短い雫と――十歳の少女の姿に戻った、茅。茅の子供の頃の姿など知らないはずなのに、花林はそう確信できたのだ。
二人の手が固く、愛おしそうに繋がれているのを見たから。
『雫、さん』
花林が呼ぶと、髪の短い――恐らく六十年前の姿に戻った雫は。振り返って、笑ったのである。
心の底から、幸せそうに。
『ああ……』
開いた扉が閉まるのを見届けて、花林はその場に座り込んだのだった。
抜け殻となった、雫と茅の遺体の前で。
***
「来てくれてありがとう、花林ちゃん。お母さんが、花林ちゃんと一緒なら電車乗ってもいいって言うから」
「いや、私も嬉しいよ。一人だと心細かったもん」
「ほんと?麻耶と一緒だと花林ちゃんも不安じゃない?」
「うんうん、心強いよー」
花林が告げると、やったぁ!と麻耶は笑顔を浮かべた。この子も、強い子だ。おじいちゃんや従姉があんなことになって、本音は悲しくて悔しくてたまらないはずなのに。恐らくは自分のためではなく、花林を慰めるために今日のお出かけに誘ってくれたのだ。つまり、村の外の、ちょっと大きな町までお出かけすることを。
町に行くにはバスに乗って駅まで行き、そこから電車に乗る必要がある。夏休みだからできるちょっとした日帰り旅行のようなものだった。夕方に帰ってもきっと、帰りはそれなりの時間になってしまうだろう。尺汰村は、それほどまでに不便なところにあるのだから。
それをわかっていて、娘を行かせてくれた彼女の母親(牢屋に閉じ込められていたのを、使者に食われる寸前で助かったのだ)にも感謝している。いろいろあって、娘から目を離すのが不安でたまらなかったろうに。
「ねえ、花林ちゃん」
バス停に来るバスは、一時間に一本。これでも増えた方だと聞いている。昔は四時間に一本だった時もあったそうだから。
「なあに、麻耶ちゃん」
二人でベンチに座り、蝉時雨を聞く。八月の終わりになってもまだ、彼らは喧しく鳴き続けている。まだ夏を忘れるなと訴えるように、あるいはなくしかけたものを取り戻すように。
そういえば、儀式の日は蝉がやけに大人しかった。彼らも本能的に何かを感じ取っていたのだろうか。
「麻耶ね、この村に残ることにしたの。ママとパパは引っ越したかったみたいだけど」
「!」
目を見開く花林に、麻耶は笑って言った。
「麻耶の故郷はここだから。麻耶ね。雫お兄ちゃんを信じようと思うの。お兄ちゃん、きっと頑張ってくれる。きっと、麻耶が生きてる間に悲しいことはもう起こらない。だからね、麻耶は……たくさん勉強して、ジャクタ様のことを調べるの。それで、もうジャクタ様が悲しいことを起こさない方法を見つける研究者になるの」
「麻耶ちゃん……」
「それは、村の外ではできないこと、でしょ?ジャクタ様も村の中で調べるなら、きっと許してくれるから」
あの恐ろしい惨劇の中。この小さな女の子は、そこまで考えていたのか。
花林は心の底から驚いていた。この子がここまで強い人間だとはまったく知らなかったから。
「麻耶は、雫お兄ちゃんに、陸君に、亜林にいに、花林ちゃんに……たくさん、勇気を教えて貰ったの。ねえ」
ふるり、と彼女のツインテールが揺れる。大きな瞳がまっすぐ花林を見ていた。
「花林ちゃんは、どうしたい?本当の心で、決めてみようよ」
「私は……」
暫く悩んで、やがて口にした“本当の気持ち”は。そのタイミングで通ったトラックの走る音にかき消されていった。
雫は、村の外に出ていって、自分たちに安全に幸せに暮らしてほしいのかもしれないけれど。
それでも、自分は。
――そうだね。自分の心に、嘘はつけないから。
青い空の向こう。
小さく彼が、笑った気がした。
亜林はむすっとした顔で、花林に不満を漏らした。
「どうして俺がどんなに頑張っても蝉見つからないのに、陸はああもポイポイ見つけんの?信じらんねー」
「そりゃ、亜林が探すのヘタなだけじゃない?」
朝ごはんのピザトーストをトースターから出しながら、花林は言った。と言っても、今日のピザトーストを作ったのは花林ではなく母である。自分がやったのは皿を出すことと材料のチーズを冷蔵庫から出すことくらいなものだ。
ピザトーストは、花林が苦手とする料理の一つだった。朝ご飯で出てくるとテンションが上がる好物なのは間違いないのだが、花林が自分で焼こうとすると悉く焦げるのである。亜林ならもう少し上手く焼けるというのに。
その亜林は一足先に父とともにテーブルについて、不貞腐れている真っ最中だ。
「下手って言われても、どう下手なのかわかんねー!そりゃ俺もチビではあるけど、それでも陸より小さいわけじゃねーんだぞ?」
クールなところもある賢い少年だが、虫取りともなると普通の小学生男子に戻ってしまうらしい。ましてや、今年の自由研究に蝉の観察を掲げたはいいものの、肝心の蝉が一匹も捕まえられない現状とあっては。
不思議な話だ。本人はかなり器用なはずなのに(少なくとも家事能力は全般的に花林より高い)、時々妙なところが苦手と言うのだから。虫取りならば、花林の方がもう少しうまくできる自信がある。まあそんな花林も、黒光りして飛ぶ例の虫と蜂だけはどうしてもお友達になれないタイプだったが。
「視点が違うってことじゃないか?捕まえられないんじゃなくて、見つけられないんだろ?」
そんな亜林を慰めながら、父が言う。
「上手く捕まえるのが得意な陸君に訊いてみろよ。どういうところを見るのがいいのかとか、コツを教えてくれるかもしれないぞ?」
「うーんそっか。……それもそうかもだけど」
ぴとり、と亜林は父の腕にひっついて言う。
「お父さんも夏休みだろ?一緒に虫取りしてくれねーの?」
「なんだ?久しぶりにやりたいのか?」
「うん」
「おー、亜林ってばあまえんぼー」
「うっせえよ姉貴」
からかってはみたものの、花林は複雑な気持ちだった。亜林が少しだけ母や父に甘えるようになった理由を、誰よりよく知っているからである。
彼は知ったのだろう。普段の日常ほど、壊れやすいものはないということを。愛する者が、ある日突然いなくなることもあるということを。両親と祖母をいっぺんに失った陸を見て、毎日のように気を使っているから尚更に。
あれから、約一ヶ月が過ぎた。
村は、子供達は夏休みを迎えている。色々あったので普段から少し長い夏休みは、九月の上旬まで続くことになっていた。
分校は色々あったことと、先生がみんな死んでしまったことによって廃校になることが決まっていた。自分達はみんな二学期から、村の外の学校に通うことになっている。中には、これを機会に村からの引っ越しを考えている家族も少なくないようだった。それもそうだろう。
惨劇によって、死んでしまった人は多い。おかしくなってしまった人も少なくない。家族全員が大きな後遺症もなく生き残った自分達は、本当の本当に幸運だったのだと今ならわかる。またあんなことが起きるかもしれないと思ったら、村から逃げたくなるのも道理だ。
『ジャクタ様に関わる儀式について、外部には他言無用でお願いします。インターネットに書き込むのも禁止です』
カウントがゼロになったあと、現れた御堂茅の甥だという男性は。生き残った村人達に、はっきりと告げたのだった。
『過去の儀式の際、村の外に情報を漏らした者にはジャクタ様の呪いが漏らさず降り掛かったと記録があります。死にたくなければ、村人以外には何一つ話さないことをお勧め致しますよ』
それに対して、異を唱える気力がある者は一人もいなかった。
全員が全員、全てに疲れ切っていたから。そして、ジャクタ様の恐ろしさを嫌というほど身に沁みていたということもあるだろう。
そもそも、ジャクタ様の呪いがなかったとて、恐らく公的機関を頼ることはできまい。儀式の最中に通報できなかったというのは、間違いなく御堂家が警察の上層部に通じていたということだろうから。逆に言えば儀式で人を殺した人間も一切罪に問われないということだろう。御堂茅と、御堂雫――二人を射殺した、花林達も含めて。
「陸君は、強い子ね。……麻耶ちゃんの家に暫くいて秋から遠くの親戚のところに引っ越すという話だけど」
「空元気だよ、あれは。だからせめて、村にいるうちは俺が助けてやらないと」
「亜林……」
母がテーブルに座りながら、亜林と、それから花林を見て言った。
「お友達を気遣おうという二人の気持ちは素敵だし、私もこの村の自然が好きよ。でもね。……あの話は、真剣に考えて頂戴ね。私とお父さんがこの村に来なければ、二人は酷い目に遭わずに済んだんだから」
「お母さん……」
亜林と顔を見合わせ、花林は押し黙るしかなかった。
旅行から帰ってきて全てを娘と息子から、そして御堂の家から聞いた両親は。自分達にはっきりと告げたのである。
マイホームを手放してでも、転職してでも引っ越そうと。
愛する我が子達の安全に勝るものはないのだから、と。
花林と亜林はまだその提案に対して――答えが出せずにいる。
今でも思い出すからだ。雫を撃った、あの日のことを。
***
泣きながら引いた引き金は重くて、胸が締め付けられるように苦しかった。
雫の左手、左足、右手、右足。
突き刺さった銃弾と共に青年の手足は踊り、血飛沫が舞った。仰向けに倒れた彼に、あとは最後の一発を撃ち込むだけ。
雫の心臓を撃ち抜けば、全ては終わる。なんせ、茅を殺しただけで、手の甲のカウントは一気に5まで減った。雫の思惑が考えが正しかったことは、既に証明されているのだから。
――早く……早く、早く撃たないと。
これで終わる。何もかも救われる。わかっているのに、花林は最後の一発をすぐに撃ち込むことが出来なかった。
彼は血まみれになって苦しんでいる。早くトドメを刺さなければもっと苦しませるだけと、そうわかっているというのに。
『花林……』
そんな花林を、倒れた状態で見上げて。荒い息の下、雫は言ったのだった。
『君は、泣いてくれるのか。私は妹も、村の人も、誰のことも救えなかった男だというのに』
『そんなことないです!そんなことない……ない!』
花林は泣きながら、首をブンブンと横に振った。
『貴方は……雫さんは!私達を助けてくれた……そして、私達に勇気をくれました。貴方の妹さんの子供で、本当に良かったです』
この村では楽しいことも悲しいこともたくさんあって。一概にこの村に生まれたことを喜べる状況ではなくなってしまったけれど、それでも。
『貴方に出会えて、本当に良かった。心から今、そう思います』
さようなら、私の初恋。
『……ありがとう』
花林の言葉に、彼は。
『またな』
最期に彼は、微笑っていた。
そして、銃声。
胸元から血を吹き出して、雫は動かなくなった。瞬間、場の空気が変わったことを花林たちは知ったのである。
『!!』
息を呑んで見守る中、仏壇の左隣に設置された鋼の扉が――ゆっくりと、音を立てて開いて言ったのだった。
その向こうに見えたのは、赤い赤い空。
そしてどす黒い泥の海。
唖然とする花林たちの前で、ゆっくりと白く光る二つの人影が、開いた扉を潜っていくのが見えた。
それは今より髪の短い雫と――十歳の少女の姿に戻った、茅。茅の子供の頃の姿など知らないはずなのに、花林はそう確信できたのだ。
二人の手が固く、愛おしそうに繋がれているのを見たから。
『雫、さん』
花林が呼ぶと、髪の短い――恐らく六十年前の姿に戻った雫は。振り返って、笑ったのである。
心の底から、幸せそうに。
『ああ……』
開いた扉が閉まるのを見届けて、花林はその場に座り込んだのだった。
抜け殻となった、雫と茅の遺体の前で。
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「来てくれてありがとう、花林ちゃん。お母さんが、花林ちゃんと一緒なら電車乗ってもいいって言うから」
「いや、私も嬉しいよ。一人だと心細かったもん」
「ほんと?麻耶と一緒だと花林ちゃんも不安じゃない?」
「うんうん、心強いよー」
花林が告げると、やったぁ!と麻耶は笑顔を浮かべた。この子も、強い子だ。おじいちゃんや従姉があんなことになって、本音は悲しくて悔しくてたまらないはずなのに。恐らくは自分のためではなく、花林を慰めるために今日のお出かけに誘ってくれたのだ。つまり、村の外の、ちょっと大きな町までお出かけすることを。
町に行くにはバスに乗って駅まで行き、そこから電車に乗る必要がある。夏休みだからできるちょっとした日帰り旅行のようなものだった。夕方に帰ってもきっと、帰りはそれなりの時間になってしまうだろう。尺汰村は、それほどまでに不便なところにあるのだから。
それをわかっていて、娘を行かせてくれた彼女の母親(牢屋に閉じ込められていたのを、使者に食われる寸前で助かったのだ)にも感謝している。いろいろあって、娘から目を離すのが不安でたまらなかったろうに。
「ねえ、花林ちゃん」
バス停に来るバスは、一時間に一本。これでも増えた方だと聞いている。昔は四時間に一本だった時もあったそうだから。
「なあに、麻耶ちゃん」
二人でベンチに座り、蝉時雨を聞く。八月の終わりになってもまだ、彼らは喧しく鳴き続けている。まだ夏を忘れるなと訴えるように、あるいはなくしかけたものを取り戻すように。
そういえば、儀式の日は蝉がやけに大人しかった。彼らも本能的に何かを感じ取っていたのだろうか。
「麻耶ね、この村に残ることにしたの。ママとパパは引っ越したかったみたいだけど」
「!」
目を見開く花林に、麻耶は笑って言った。
「麻耶の故郷はここだから。麻耶ね。雫お兄ちゃんを信じようと思うの。お兄ちゃん、きっと頑張ってくれる。きっと、麻耶が生きてる間に悲しいことはもう起こらない。だからね、麻耶は……たくさん勉強して、ジャクタ様のことを調べるの。それで、もうジャクタ様が悲しいことを起こさない方法を見つける研究者になるの」
「麻耶ちゃん……」
「それは、村の外ではできないこと、でしょ?ジャクタ様も村の中で調べるなら、きっと許してくれるから」
あの恐ろしい惨劇の中。この小さな女の子は、そこまで考えていたのか。
花林は心の底から驚いていた。この子がここまで強い人間だとはまったく知らなかったから。
「麻耶は、雫お兄ちゃんに、陸君に、亜林にいに、花林ちゃんに……たくさん、勇気を教えて貰ったの。ねえ」
ふるり、と彼女のツインテールが揺れる。大きな瞳がまっすぐ花林を見ていた。
「花林ちゃんは、どうしたい?本当の心で、決めてみようよ」
「私は……」
暫く悩んで、やがて口にした“本当の気持ち”は。そのタイミングで通ったトラックの走る音にかき消されていった。
雫は、村の外に出ていって、自分たちに安全に幸せに暮らしてほしいのかもしれないけれど。
それでも、自分は。
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