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おやすみを言うその前に。
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「また出たんだって、“硝子の華”!」
期間限定、抹茶ベリー味。これもなかなかイケる、と思いながらアイスクリームに舌鼓を打っていた僕は、真後ろから聞こえてきた声に振り返った。
丸テーブルを挟んで座る、女子高校生らしき二人組。深緑色のチェックスカートは、確かT高校のものだっただろうか。制服が可愛いと女子に評判の学校だったはずだ。
「なんかちょっとロマン感じない?」
「ええ、トモミああいうの好きなの?人殺しじゃん」
「それはそうだけど、今回死んだのは悪質な煽り運転の常習犯だったっていうじゃん。なんか正義の味方が断罪したみたいでしょ。え、ナオはすっきりしなかった?」
「しなかったわけじゃないけどさー」
「でしょでしょ。なんか、闇の世界のヒーローってかんじ!」
ヒーロー。まさかそんな風に言われているとは。僕は少し呆れてため息をついた。確かに、先日殺したその男は、煽り運転を繰り返す地域でも有名な迷惑犯で、しかも何度か重傷者も出して問題になっていた人物である。煽り運転と、煽られた車の事故の因果関係が認められず、大した罪に問われなかったのだ。あのニュースを見てモヤっていた人間が想像以上に多かった、ということなのだろう。
だからって、人を殺してその罪を裁くのが正しいとは正直思えないわけだが。世間からすれば、“悪い人間に天罰が下る”様を見るのは、なかなかにして爽快なものなのかもしれない。
「どうやってるんだろうね、あの殺し方。死んだ人間は、瞳の中に硝子の華が咲いたみたいになるってんでしょ?一見傷もないのに、頭の中が硝子でズタズタになってるっていうー」
トモミと呼ばれた少女は、くるくると自分のこめかみで指を回して言った。
「暗殺者っていうより、魔法使いってカンジ?どんな人がやってるんだろうね。警察も全然しっぽが掴めないっていうし、殺し方も未だにわかってないっていうし?……あーイケメンだったらいいな、見てみたい!」
「“硝子の華”の顔が晒される時が来たら、それ逮捕された時でしょ。死刑になっちゃうわよ」
「あ、そりゃそうか。それは嫌だな。これからも悪い奴どんどん懲らしめて欲しいし!この間の、痴漢常習犯のロリコン教師が死んだのも爽快だったしさー」
他人事だと思って、好き勝手に言ってくれるものだ。こっちは依頼が殺到しすぎて困りに困っているというのに。
僕はミネラルウォーターが入った紙コップをじっと見つめ、そして一気に煽った。水面に映った自分の顔が“イケメン”かどうかなんて、自分じゃちっともわからないな、なんてことをぼんやりと思いながら。
主観に満ちた己や、贔屓が強い身内の言葉なんかアテにならないものである。容姿なんてものは、特に。
***
暇な日はとにかくスイーツショップめぐりをすることにしている。やや方向音痴のきらいがあるので(仕事の最中はそんなことないのに、非番の時はどうにもダメなのだ、不思議なことに)、自力で歩き回れる駅は極めて限られた場所だった。組織の本部がある最寄駅と、その隣駅くらい。その結果、駅周辺の美味しい食べ歩きの店は殆ど制覇してしまったきらいがある。
――そういえば、A店のクレープ屋、そろそろ期間限定が出るって話じゃなかったか。
駅前のベンチでスマホをいじりながら、僕は思い返していた。とにかく甘党、そして大食い。休みの日は本当に甘いものを食べてばっかりいる。
――口に合うかわからないが、行ってみるか。……前回のわさび味は微妙だったからな……今度は冒険してないといいんだが。
親に捨てられ、組織の長に拾われてから早十八年。例え、法に裁けぬ悪人を抹殺する闇の組織の長であろうと、そしてその長に人殺しスキルをみっちり叩きこまれることになろうと――僕にとって彼は父親も同然であり、人生の恩人でもある。やや若者が多くてうわついたこの町が僕の故郷だ。木曜日の夕方ということもあって、まだ人の数はそう多くはない。学校が終わった帰宅部の学生たちが、ちらほらと増え始める時間帯である。
A店は、この駅前交差点を渡って直進し、左に折れてすぐに場所にある。もっと遅い時間になると若者が増えて、かなり混み合ってしまう恐れがあった。行くなら早い方がいい、と僕は茶色のコートの裾を払って歩き出した。このコートもだいぶ古くなってきてしまった。もうそろそろどこかしらに穴でも空くかもしれない。長は新しいのを買ってやると言っていたが、どうしたものか――なんせ、彼のセンスは壊滅的である。妙に派手派手強いのを渡されてはたまらない。
――みかんクレープでいいかな、長へのお土産は。
休日のスイーツ巡りを一通り堪能したら、最後に彼へのお土産を買って帰るのがいつもの習慣だった。僕の甘党は完全に彼譲りである。
――期間限定が美味しそうだったらそれでもいいけど、彼の好みの範囲は狭いから……。
交差点の前で信号待ちをしていた、その時である。
「よお」
唐突に、ポン、と肩を叩かれた。何だろうと思って振り向けば、大柄な髭面の中年男性がにんまりとこっちを見て微笑んでいる。着ているのは、ざっくりとした灰色のTシャツ。秋口なのに、寒くないのだろうか。
「どちら様?」
僕が尋ねると彼は、“頼みごとがあってだな”と言った。
「殺して欲しい奴がいるんだよ、硝子の華さん」
その言葉に。僕はじっと目を細めて、彼の顔を見つめたのだった。
***
闇の暗殺人、硝子の華。そう呼ばれる僕の顔を知る人間はそう多くはない。というか、そんな知られていたらあの女子高校生が言ったように“とっくに捕まっている”のだから当然である。
「依頼なら、組織を通してくれないか。それと、僕は今日非番なんだが」
一応、言うべきことは言っておく。すると彼は、“ちゃんと通したさ!”と肩をすくめた。
「じゃなきゃ、俺がお前さんの顔を知ってるわけがない」
「……それはそうだが」
「決まりだな、ボスさんの許可もあるんだからいいだろ?詳しい話は……えっと」
彼はスマホを取り出すと何かを慌てて調べ始める。そして。
「そうだそうだ、あそこのケーキ屋なんかどうだ。奢るからさ」
彼が指さしたのは、今日の朝一で行ったばかりのケーキ屋である。本日二度目になるが、まああの店の味は折り紙つきだし、奢ってくれるというのならもう一度行ってもいいだろう。
なんだかケーキに釣られた気がしないでもないが、ボスの紹介というのならそう簡単には断れない。わかった、と僕が言うと彼は、あまり日焼けしていない顔でぎこちなく笑った。
「良かった!えっとあんた名前は?なんで呼べばいい?」
「好きに呼べばいい。どうせ短い関係だ」
「……それもそうか。じゃあ、お前さんの名前は今から“ユキマサ”な!暫くよろしくなユキマサくん!」
「はあ……」
何でユキマサなんだ、と思ったがツッコむのはやめておいた。何故か男が、妙に嬉しそうに見えたからだ。
***
彼はイチゴのショートケーキ。自分はメロンシフォンケーキ。
イートインコーナーでケーキを二つ並べたところで、僕は“さっさと本題に入ってくれ”と促した。
「せっかくの非番なのに、仕事を押しつけられて僕は機嫌が良くない。さっさと話を進めてくれ」
「なんだよ、休日ったってどうせこのへんの店でぐるぐるするだけなんだろうが」
「とやかく言われる筋合いはない。それで、誰を殺して欲しいんだ、僕に」
「つれねえなあ」
奇妙な客だった。今まで僕がボスと一緒に向かい合ってきた依頼者の殆どは、その眼に冷たい炎を宿していることが多いからである。娘を凌辱した犯人を殺してほしい、痴漢冤罪をでっち上げて息子を自殺に追い込んだ女を八つ裂きにしてほしい、我が子をひき逃げしておきながら反省の色もないあの男に思い知らせて欲しい――などなど。
しかし、今目の前にいるこの男は違う。目つきも穏やかだし、どこか諦めの色はあるものの誰かを殺してやりたいという強い気概や憎悪を感じるでもない。孫に久々に逢いに来た祖父といった方がしっくりくるほどだ。いや、自分に祖父なんてものがいるのかどうかもわからないが。
「殺して欲しいのは、俺なんだよな」
彼は非常に遅々とした動作でショートケーキを切り崩して行きながら言った。
「あんたらの組織は、“未知の科学”の使い手だって聴いている。一般の連中が知らない、まったく新しい科学技術を用いて、悪人を裁き続けてるってな」
「そんな高尚なものじゃない。人殺しは人殺し、それで金を貰ってるだけだ」
「謙虚だねえ。……で、ユキマサ、おまえさんはおまえさんが自分でカスタマイズした銃を使って人を殺すんだろ。撃てば、極めて微細な硝子辺が相手の皮膚も頭蓋骨も貫通し、その脳みそをぐちゃぐちゃにかき回して死に至らしめる。その際網膜にその破片が出てくるから、瞳に“硝子の華”が咲いたようになる。標的は一瞬の激痛の後、あっという間に命を落とす……ってな。人生の幕引きを図るにはぴったりだ。ロマンのある死に方だ」
「それで、自分もそうやって死にたいと?」
「その通り。俺は、俺の死に方を自分で決めたいんだよな」
ああ、そういうこと。僕は納得すると同時に呆れてしまった。うちの組織に依頼するのは、相当な金がかかるはずである。そこまで知っているということは、彼がボス経由で来たのはほぼ間違いないだろう。そして僕の見た目の特徴を教えたということはつまり、彼は既に相応の金を長に積んできているはずである。
自分が望んだやり方で死ぬために、ウン十万以上の金をポンと出す。その神経が、僕には到底理解できなかった。
「……いいだろう。何処で死にたい?」
まあ、たまにこういう酔狂な客がいることは事実だ。ボスが許可を出したなら、僕からとやかく言うことはできない。尋ね返すと、彼は頭をぽりぽりと掻いて言った。
「それが、まだ決めてないんだよ。最後のシチュエーションだけは確定してあるんだけど、何処がいいかなあ」
「それくらい決めてから依頼したらどうなんだ」
「いいじゃねえかよ、別に。あんたと逢ってからゆっくり考えようと思ったんだ。どうせ人生最後の日になるなら、楽しまないと損だろ?」
というわけで、と彼は強引に話をしめくくった。
「俺の死に場所探し、夜まで付き合ってくれや。S駅の周辺にいい絶景スポットがあってよ。できればそういう綺麗なところで死にたいんだよなあ」
勝手に決めるなよ、と僕は思った。本当に、僕の休みは一体何処に行ってしまったのだろう。
とりあえず、今一番に言うべきことは一つである。
「……ここを出るのは、目の前のケーキをちゃんと食べ終わってからにしてくれ」
「あ。す、すまんユキマサ」
彼がケーキを食べる速度は、呆れるほど遅い。こっちのメロンケーキはあっという間に胃袋に消えたというのに。
***
おかしな男は、それからいろいろとかこつけて僕を様々な店に連れまわした。フルーツサンドが食べられる店だったり、パフェが食べられる店だったり。S駅は組織の最寄駅からだいぶ離れているので、僕もあまり廻ったことがなかった。男の案内で行く店はどこも初見で、楽しくなかったと言えば嘘になる。ほとんど僕ばっかりがご馳走になっていて男はほとんど食べなかったので、本当に何がしたいのかさっぱり分からないが。
金も相当持ってきているようだった。僕のコートがほつれているのを見るやいなや、新しいのを一着買ってやると強引に押しつけて来た。紺色の裾の長いコート。男が買い与えてきたそれはサイズもぴったりで、少々驚かされたものである。物に罪はない。貰ったからには使わせてもらうつもりではあるが、セール品とはいえ一着三万もするコートを初見の相手に買う神経はなかなか理解しがたいものがある。
「何がしたいんだ、あんたは」
あっという間に日が暮れて、いつの間にか周囲は真っ暗だ。S川橋を渡るところで男が立ち止まったので、ついに僕は耐え兼ねて尋ねた。
「まさかこんなことで、罪滅ぼしになるとでも思ってるんじゃないだろうな」
「……罪滅ぼし?」
「僕が気づかないとでも思ったか」
S川橋の上から見える町明かり。なかなかの絶景ではある。遊覧船らしき船が煌々と明かりを灯して川を北上していく。今日は快晴だ。月明かりも星明りもばっちり見ることができる。カップルがレストランで語り合うにはうってつけだったことだろう。
「組織の存在を知る方法はあるし、あんたが長に話をつけて僕に逢いに来たのも間違いないだろう。だが、長は今日僕が非番であることを知っていたはず。仕事にきっちりした人だ、よっぽどのことでもなければ非番の日の僕に仕事は回さない。あんたの存在は長にとって“よっぽどのこと”だったんだ。それこそ、細かな情報を伝えて、二人っきりにさせたいくらいには」
彼が僕の容姿だけ知っていたというのならともかく。長は、この男に僕の趣味趣向まで伝えていた。
『せっかくの非番なのに、仕事を押しつけられて僕は機嫌が良くない。さっさと話を進めてくれ』
『なんだよ、休日ったってどうせこのへんの店でぐるぐるするだけなんだろうが』
彼は、僕が休日どう過ごすのかを聴いていて、しかも僕のお気に入りのケーキ屋に入るよう促した。自分が頼んだのは一番安いショーケーキで、しかも本人が食べる速度は呆れるほど遅かった。つまり、本人はケーキがちっとも好きではなかったということである。それなのにケーキ屋に入ったのはひとえに、僕の好みに合わせたからに他ならない。
実際彼は、その後のスイーツショップでほとんどお菓子を食べなかった。甘いものそのものが根本的に好きではないのだ。あれは全部、S駅周辺を新鮮に感じているであろう僕へのサービス。全部僕を喜ばせるためだ。高いコートも同じ理由である。初めて会った、しかも今日限りの付き合いになるはずの暗殺者への対応とは到底思えない。
何故、ボスは彼にそこまでの情報を教えたのか?
そして何故彼は、僕にそこまでのことをしたのか?
彼が自分につけた名前の意味は。
「ユキマサ。それが僕の本名なのか?」
「――!」
本気で、バレないとでも思っていたのか。男は肩を震わせ――そして頷いた。
「……辰巳雪雅。……俺と、嫁の名前から一文字ずつ取ったんだ」
意外性も何もない真実だった。目の前の男は自分の父親だった、それだけのこと。己が捨てた赤ん坊に、最期に一目逢いたいと思ったのだろう。
「呆れたな。自暴自棄になって、最期に息子に逢って詫びてから死のうとでも思ったか」
「そ、そんなんじゃ」
「木曜日の夕方にふらふら歩いていることからして、一般的な週休二日制の仕事はしてない。勿論、木曜休みで土日に働く仕事はあるだろうが、あんたはあまり筋肉もついていないし日焼けもしていない。工場や工事現場で仕事をしていないことは明らかだ。さらにはその無精髭。接客・営業もないな。……元々は何かの事務職でもやっていたところ、リストラでもされたか。金の使い方も相当荒くなっているようだしな」
僕が淡々と告げると、そこまでわかっちまうかよ、と彼は苦笑いを浮かべた。
「そうだな。……ほんとその通りだ。俺はひでえ人間だよ。嫁がノイローゼになって死んで、自分一人で赤ん坊育てる自信がなくてよ……結局お前を、行きずりの人間に預けちまった。まさかそいつが、闇の業界の人間だなんて思ってもみなかったよ……赤ちゃんポストとか、孤児院とか、なんでせめてもっとまともな選択肢がなかったんだろうって後悔した。いや、そもそも俺が、俺がちゃんと子育てしてればよ。子供を捨てるなんてことをするから……唯一の生き甲斐だった仕事も失うことになるんだよな……」
頭をガリガリと掻いて、彼は勢いよく僕に頭を下げてきた。
「本当に、本当にすまん、雪雅。せめてお前には……お前にはきちんと、恨みを晴らして欲しい。俺も、お前の手で殺されたいんだ」
「僕の手で?」
「そうだ、お前の手で、だ」
ふらふらと橋の高欄に寄りかかる男。手すりの上で両手を広げて、頼むよ、と繰り返した。
「一つだけ、決めてるシチュエーションがあるって言っただろ?俺な。……子供が出来た時には、いろいろ夢見てたんだ。嫁とガキと俺、三人で川の字になって寝てよ。おやすみ、ってお互いに言いながら安い布団で寝るんだ。ああ家族だなって、家族っていいなって思いながら眠りにつくんだ。そういう家庭をな、作りたいってずっと思ってた。俺達は弱くて、すげえ弱い人間で、結局理想が欠片も叶わないままこんな形になっちまったけど、せめて……っ」
この時間帯、駅からやや離れたこの橋を通る人影は多くはない。時折トラックや軽自動車が後ろを通り過ぎるが、こんな場所で立ち話をしている男二人なんぞを気に掛けることなどしないだろう。
「せめてな。夢見て、死にたい。勝手だろ、わかってるよ。でも……ただ、お前に。“おやすみ”って言われてから、少しだけ家族に戻れた気分になって死にたいんだ。それでいい。そうしたらもう、未練はないからよ……!」
きっと。
彼の身には、僕には想像もつかないようなたくさんの苦労があったのだろう。赤ん坊を育てるというのは並大抵のことじゃない。妻が育児ノイローゼで死に、不慣れな子育てを頑張ろうにも自分には仕事があって、頑張っても頑張ってもうまくいかなくて。それでどうしても子供を捨てるしかない、という発想に至ってしまったのかもしれない。
はっきり言って、許されることではないだろう。なんせそんな親の都合など、産まれてきた子供にはまったく関係のないことであるのだから。
彼がした行為を“無責任”と詰るのは簡単だ。それを十八年も過ぎた今になって逢いに来て、父親として死なせてくれなんて身勝手もいいところだ、とも。もしも仕事を、生き甲斐を失わなかったらこんな日も来なかったのではないか、自分を忘れて生きるつもりだったのではないか、とも。
だが。
「あんたは一つ、勘違いをしている」
僕は、胸ポケットから銃を取り出すと。手すりにもたれて立つ男に向かって、構えた。
「あんたのことを勝手だと思うし、憎たらしいと思わないわけではない。でも……あんたを殺して復讐を遂げたいなどと、思ったことは一度もない。何故なら」
引き金を、引く。
飛び出した微細な硝子の弾丸は超速で男の頭の真横を抜け――川の水面に、着弾した。パリン!と硝子が割れるような音。
「僕は、自分が不幸だと思ったことはないからだ。……見てみろ」
「!?」
彼は外れた弾に驚き、次に川面を振り返ってさらに声を上げた。
川面に浮かび上がったのは、青白い光。キラキラと輝くそれは、まるで巨大な雪の結晶のような様相を呈している。特別性の“硝子”は、水に触れると一瞬熱を持って光り、やがて水に溶けて消滅する。その刹那の命のきらめきが、何よりも美しいのだ。初めてこの研究に着手した時、ボスにフラスコの中で魅せてもらった奇跡に――僕は心動かされたのである。
今は人を殺すための技術だけれど、いつか。
いつかこの力を、多くの人の幸せを守るために使えるようになればいい、と。
「あんたの判断は正しかった。闇の組織のボスに赤ん坊を託してしまったことを悔いているようだが……僕はあの人に育てて貰えたことを誇りに思っている。僕の父は、あの人だ。今の僕は、あの人の力と、願いと、祈りで出来ている」
「ゆ、雪雅……」
「だから僕はあんたを恨まないどころか、いっそ感謝しているほどだ。だからあんたを殺さない。僕の父はあの人だが、それでもあんたと血が繋がっているのは確かだ。親殺し、なんてことを意味もなくやりたいとは思えない」
僕が銃を下ろすと、彼はその場にへたりこんだ。その頬を濡らすのは、一体どんな種類の涙だろうか。
「後で返金の手続きはしてもらう。僕に少しでも申し訳ないと思うなら。……あんたはその未練を後悔を抱えて生きるんだな。少しでも、一秒でも長く」
ゆきまさ、と彼がもう一度僕を呼んだが、僕はもう振り返らなかった。今の僕はもう、彼が望んだ“ユキマサ”ではない。そして僕も、今の僕こそが本当の僕だと信じている。だからこそ、投げかける言葉が一つなのだ。
「あんたに必要なのは、“おやすみ”じゃなくて、“おはよう”だ。あんたもいい加減、新しい朝を迎える時が来たんじゃないのか」
残酷でも、時に悲劇があっても。生きていれば、得られる奇跡に際限はない。思いがけない幸福に、出逢えることもあるように。
銃をしまって、僕は今日も夜の町を歩きだす。
自分なりに生きる、次の朝へと向かうために。
期間限定、抹茶ベリー味。これもなかなかイケる、と思いながらアイスクリームに舌鼓を打っていた僕は、真後ろから聞こえてきた声に振り返った。
丸テーブルを挟んで座る、女子高校生らしき二人組。深緑色のチェックスカートは、確かT高校のものだっただろうか。制服が可愛いと女子に評判の学校だったはずだ。
「なんかちょっとロマン感じない?」
「ええ、トモミああいうの好きなの?人殺しじゃん」
「それはそうだけど、今回死んだのは悪質な煽り運転の常習犯だったっていうじゃん。なんか正義の味方が断罪したみたいでしょ。え、ナオはすっきりしなかった?」
「しなかったわけじゃないけどさー」
「でしょでしょ。なんか、闇の世界のヒーローってかんじ!」
ヒーロー。まさかそんな風に言われているとは。僕は少し呆れてため息をついた。確かに、先日殺したその男は、煽り運転を繰り返す地域でも有名な迷惑犯で、しかも何度か重傷者も出して問題になっていた人物である。煽り運転と、煽られた車の事故の因果関係が認められず、大した罪に問われなかったのだ。あのニュースを見てモヤっていた人間が想像以上に多かった、ということなのだろう。
だからって、人を殺してその罪を裁くのが正しいとは正直思えないわけだが。世間からすれば、“悪い人間に天罰が下る”様を見るのは、なかなかにして爽快なものなのかもしれない。
「どうやってるんだろうね、あの殺し方。死んだ人間は、瞳の中に硝子の華が咲いたみたいになるってんでしょ?一見傷もないのに、頭の中が硝子でズタズタになってるっていうー」
トモミと呼ばれた少女は、くるくると自分のこめかみで指を回して言った。
「暗殺者っていうより、魔法使いってカンジ?どんな人がやってるんだろうね。警察も全然しっぽが掴めないっていうし、殺し方も未だにわかってないっていうし?……あーイケメンだったらいいな、見てみたい!」
「“硝子の華”の顔が晒される時が来たら、それ逮捕された時でしょ。死刑になっちゃうわよ」
「あ、そりゃそうか。それは嫌だな。これからも悪い奴どんどん懲らしめて欲しいし!この間の、痴漢常習犯のロリコン教師が死んだのも爽快だったしさー」
他人事だと思って、好き勝手に言ってくれるものだ。こっちは依頼が殺到しすぎて困りに困っているというのに。
僕はミネラルウォーターが入った紙コップをじっと見つめ、そして一気に煽った。水面に映った自分の顔が“イケメン”かどうかなんて、自分じゃちっともわからないな、なんてことをぼんやりと思いながら。
主観に満ちた己や、贔屓が強い身内の言葉なんかアテにならないものである。容姿なんてものは、特に。
***
暇な日はとにかくスイーツショップめぐりをすることにしている。やや方向音痴のきらいがあるので(仕事の最中はそんなことないのに、非番の時はどうにもダメなのだ、不思議なことに)、自力で歩き回れる駅は極めて限られた場所だった。組織の本部がある最寄駅と、その隣駅くらい。その結果、駅周辺の美味しい食べ歩きの店は殆ど制覇してしまったきらいがある。
――そういえば、A店のクレープ屋、そろそろ期間限定が出るって話じゃなかったか。
駅前のベンチでスマホをいじりながら、僕は思い返していた。とにかく甘党、そして大食い。休みの日は本当に甘いものを食べてばっかりいる。
――口に合うかわからないが、行ってみるか。……前回のわさび味は微妙だったからな……今度は冒険してないといいんだが。
親に捨てられ、組織の長に拾われてから早十八年。例え、法に裁けぬ悪人を抹殺する闇の組織の長であろうと、そしてその長に人殺しスキルをみっちり叩きこまれることになろうと――僕にとって彼は父親も同然であり、人生の恩人でもある。やや若者が多くてうわついたこの町が僕の故郷だ。木曜日の夕方ということもあって、まだ人の数はそう多くはない。学校が終わった帰宅部の学生たちが、ちらほらと増え始める時間帯である。
A店は、この駅前交差点を渡って直進し、左に折れてすぐに場所にある。もっと遅い時間になると若者が増えて、かなり混み合ってしまう恐れがあった。行くなら早い方がいい、と僕は茶色のコートの裾を払って歩き出した。このコートもだいぶ古くなってきてしまった。もうそろそろどこかしらに穴でも空くかもしれない。長は新しいのを買ってやると言っていたが、どうしたものか――なんせ、彼のセンスは壊滅的である。妙に派手派手強いのを渡されてはたまらない。
――みかんクレープでいいかな、長へのお土産は。
休日のスイーツ巡りを一通り堪能したら、最後に彼へのお土産を買って帰るのがいつもの習慣だった。僕の甘党は完全に彼譲りである。
――期間限定が美味しそうだったらそれでもいいけど、彼の好みの範囲は狭いから……。
交差点の前で信号待ちをしていた、その時である。
「よお」
唐突に、ポン、と肩を叩かれた。何だろうと思って振り向けば、大柄な髭面の中年男性がにんまりとこっちを見て微笑んでいる。着ているのは、ざっくりとした灰色のTシャツ。秋口なのに、寒くないのだろうか。
「どちら様?」
僕が尋ねると彼は、“頼みごとがあってだな”と言った。
「殺して欲しい奴がいるんだよ、硝子の華さん」
その言葉に。僕はじっと目を細めて、彼の顔を見つめたのだった。
***
闇の暗殺人、硝子の華。そう呼ばれる僕の顔を知る人間はそう多くはない。というか、そんな知られていたらあの女子高校生が言ったように“とっくに捕まっている”のだから当然である。
「依頼なら、組織を通してくれないか。それと、僕は今日非番なんだが」
一応、言うべきことは言っておく。すると彼は、“ちゃんと通したさ!”と肩をすくめた。
「じゃなきゃ、俺がお前さんの顔を知ってるわけがない」
「……それはそうだが」
「決まりだな、ボスさんの許可もあるんだからいいだろ?詳しい話は……えっと」
彼はスマホを取り出すと何かを慌てて調べ始める。そして。
「そうだそうだ、あそこのケーキ屋なんかどうだ。奢るからさ」
彼が指さしたのは、今日の朝一で行ったばかりのケーキ屋である。本日二度目になるが、まああの店の味は折り紙つきだし、奢ってくれるというのならもう一度行ってもいいだろう。
なんだかケーキに釣られた気がしないでもないが、ボスの紹介というのならそう簡単には断れない。わかった、と僕が言うと彼は、あまり日焼けしていない顔でぎこちなく笑った。
「良かった!えっとあんた名前は?なんで呼べばいい?」
「好きに呼べばいい。どうせ短い関係だ」
「……それもそうか。じゃあ、お前さんの名前は今から“ユキマサ”な!暫くよろしくなユキマサくん!」
「はあ……」
何でユキマサなんだ、と思ったがツッコむのはやめておいた。何故か男が、妙に嬉しそうに見えたからだ。
***
彼はイチゴのショートケーキ。自分はメロンシフォンケーキ。
イートインコーナーでケーキを二つ並べたところで、僕は“さっさと本題に入ってくれ”と促した。
「せっかくの非番なのに、仕事を押しつけられて僕は機嫌が良くない。さっさと話を進めてくれ」
「なんだよ、休日ったってどうせこのへんの店でぐるぐるするだけなんだろうが」
「とやかく言われる筋合いはない。それで、誰を殺して欲しいんだ、僕に」
「つれねえなあ」
奇妙な客だった。今まで僕がボスと一緒に向かい合ってきた依頼者の殆どは、その眼に冷たい炎を宿していることが多いからである。娘を凌辱した犯人を殺してほしい、痴漢冤罪をでっち上げて息子を自殺に追い込んだ女を八つ裂きにしてほしい、我が子をひき逃げしておきながら反省の色もないあの男に思い知らせて欲しい――などなど。
しかし、今目の前にいるこの男は違う。目つきも穏やかだし、どこか諦めの色はあるものの誰かを殺してやりたいという強い気概や憎悪を感じるでもない。孫に久々に逢いに来た祖父といった方がしっくりくるほどだ。いや、自分に祖父なんてものがいるのかどうかもわからないが。
「殺して欲しいのは、俺なんだよな」
彼は非常に遅々とした動作でショートケーキを切り崩して行きながら言った。
「あんたらの組織は、“未知の科学”の使い手だって聴いている。一般の連中が知らない、まったく新しい科学技術を用いて、悪人を裁き続けてるってな」
「そんな高尚なものじゃない。人殺しは人殺し、それで金を貰ってるだけだ」
「謙虚だねえ。……で、ユキマサ、おまえさんはおまえさんが自分でカスタマイズした銃を使って人を殺すんだろ。撃てば、極めて微細な硝子辺が相手の皮膚も頭蓋骨も貫通し、その脳みそをぐちゃぐちゃにかき回して死に至らしめる。その際網膜にその破片が出てくるから、瞳に“硝子の華”が咲いたようになる。標的は一瞬の激痛の後、あっという間に命を落とす……ってな。人生の幕引きを図るにはぴったりだ。ロマンのある死に方だ」
「それで、自分もそうやって死にたいと?」
「その通り。俺は、俺の死に方を自分で決めたいんだよな」
ああ、そういうこと。僕は納得すると同時に呆れてしまった。うちの組織に依頼するのは、相当な金がかかるはずである。そこまで知っているということは、彼がボス経由で来たのはほぼ間違いないだろう。そして僕の見た目の特徴を教えたということはつまり、彼は既に相応の金を長に積んできているはずである。
自分が望んだやり方で死ぬために、ウン十万以上の金をポンと出す。その神経が、僕には到底理解できなかった。
「……いいだろう。何処で死にたい?」
まあ、たまにこういう酔狂な客がいることは事実だ。ボスが許可を出したなら、僕からとやかく言うことはできない。尋ね返すと、彼は頭をぽりぽりと掻いて言った。
「それが、まだ決めてないんだよ。最後のシチュエーションだけは確定してあるんだけど、何処がいいかなあ」
「それくらい決めてから依頼したらどうなんだ」
「いいじゃねえかよ、別に。あんたと逢ってからゆっくり考えようと思ったんだ。どうせ人生最後の日になるなら、楽しまないと損だろ?」
というわけで、と彼は強引に話をしめくくった。
「俺の死に場所探し、夜まで付き合ってくれや。S駅の周辺にいい絶景スポットがあってよ。できればそういう綺麗なところで死にたいんだよなあ」
勝手に決めるなよ、と僕は思った。本当に、僕の休みは一体何処に行ってしまったのだろう。
とりあえず、今一番に言うべきことは一つである。
「……ここを出るのは、目の前のケーキをちゃんと食べ終わってからにしてくれ」
「あ。す、すまんユキマサ」
彼がケーキを食べる速度は、呆れるほど遅い。こっちのメロンケーキはあっという間に胃袋に消えたというのに。
***
おかしな男は、それからいろいろとかこつけて僕を様々な店に連れまわした。フルーツサンドが食べられる店だったり、パフェが食べられる店だったり。S駅は組織の最寄駅からだいぶ離れているので、僕もあまり廻ったことがなかった。男の案内で行く店はどこも初見で、楽しくなかったと言えば嘘になる。ほとんど僕ばっかりがご馳走になっていて男はほとんど食べなかったので、本当に何がしたいのかさっぱり分からないが。
金も相当持ってきているようだった。僕のコートがほつれているのを見るやいなや、新しいのを一着買ってやると強引に押しつけて来た。紺色の裾の長いコート。男が買い与えてきたそれはサイズもぴったりで、少々驚かされたものである。物に罪はない。貰ったからには使わせてもらうつもりではあるが、セール品とはいえ一着三万もするコートを初見の相手に買う神経はなかなか理解しがたいものがある。
「何がしたいんだ、あんたは」
あっという間に日が暮れて、いつの間にか周囲は真っ暗だ。S川橋を渡るところで男が立ち止まったので、ついに僕は耐え兼ねて尋ねた。
「まさかこんなことで、罪滅ぼしになるとでも思ってるんじゃないだろうな」
「……罪滅ぼし?」
「僕が気づかないとでも思ったか」
S川橋の上から見える町明かり。なかなかの絶景ではある。遊覧船らしき船が煌々と明かりを灯して川を北上していく。今日は快晴だ。月明かりも星明りもばっちり見ることができる。カップルがレストランで語り合うにはうってつけだったことだろう。
「組織の存在を知る方法はあるし、あんたが長に話をつけて僕に逢いに来たのも間違いないだろう。だが、長は今日僕が非番であることを知っていたはず。仕事にきっちりした人だ、よっぽどのことでもなければ非番の日の僕に仕事は回さない。あんたの存在は長にとって“よっぽどのこと”だったんだ。それこそ、細かな情報を伝えて、二人っきりにさせたいくらいには」
彼が僕の容姿だけ知っていたというのならともかく。長は、この男に僕の趣味趣向まで伝えていた。
『せっかくの非番なのに、仕事を押しつけられて僕は機嫌が良くない。さっさと話を進めてくれ』
『なんだよ、休日ったってどうせこのへんの店でぐるぐるするだけなんだろうが』
彼は、僕が休日どう過ごすのかを聴いていて、しかも僕のお気に入りのケーキ屋に入るよう促した。自分が頼んだのは一番安いショーケーキで、しかも本人が食べる速度は呆れるほど遅かった。つまり、本人はケーキがちっとも好きではなかったということである。それなのにケーキ屋に入ったのはひとえに、僕の好みに合わせたからに他ならない。
実際彼は、その後のスイーツショップでほとんどお菓子を食べなかった。甘いものそのものが根本的に好きではないのだ。あれは全部、S駅周辺を新鮮に感じているであろう僕へのサービス。全部僕を喜ばせるためだ。高いコートも同じ理由である。初めて会った、しかも今日限りの付き合いになるはずの暗殺者への対応とは到底思えない。
何故、ボスは彼にそこまでの情報を教えたのか?
そして何故彼は、僕にそこまでのことをしたのか?
彼が自分につけた名前の意味は。
「ユキマサ。それが僕の本名なのか?」
「――!」
本気で、バレないとでも思っていたのか。男は肩を震わせ――そして頷いた。
「……辰巳雪雅。……俺と、嫁の名前から一文字ずつ取ったんだ」
意外性も何もない真実だった。目の前の男は自分の父親だった、それだけのこと。己が捨てた赤ん坊に、最期に一目逢いたいと思ったのだろう。
「呆れたな。自暴自棄になって、最期に息子に逢って詫びてから死のうとでも思ったか」
「そ、そんなんじゃ」
「木曜日の夕方にふらふら歩いていることからして、一般的な週休二日制の仕事はしてない。勿論、木曜休みで土日に働く仕事はあるだろうが、あんたはあまり筋肉もついていないし日焼けもしていない。工場や工事現場で仕事をしていないことは明らかだ。さらにはその無精髭。接客・営業もないな。……元々は何かの事務職でもやっていたところ、リストラでもされたか。金の使い方も相当荒くなっているようだしな」
僕が淡々と告げると、そこまでわかっちまうかよ、と彼は苦笑いを浮かべた。
「そうだな。……ほんとその通りだ。俺はひでえ人間だよ。嫁がノイローゼになって死んで、自分一人で赤ん坊育てる自信がなくてよ……結局お前を、行きずりの人間に預けちまった。まさかそいつが、闇の業界の人間だなんて思ってもみなかったよ……赤ちゃんポストとか、孤児院とか、なんでせめてもっとまともな選択肢がなかったんだろうって後悔した。いや、そもそも俺が、俺がちゃんと子育てしてればよ。子供を捨てるなんてことをするから……唯一の生き甲斐だった仕事も失うことになるんだよな……」
頭をガリガリと掻いて、彼は勢いよく僕に頭を下げてきた。
「本当に、本当にすまん、雪雅。せめてお前には……お前にはきちんと、恨みを晴らして欲しい。俺も、お前の手で殺されたいんだ」
「僕の手で?」
「そうだ、お前の手で、だ」
ふらふらと橋の高欄に寄りかかる男。手すりの上で両手を広げて、頼むよ、と繰り返した。
「一つだけ、決めてるシチュエーションがあるって言っただろ?俺な。……子供が出来た時には、いろいろ夢見てたんだ。嫁とガキと俺、三人で川の字になって寝てよ。おやすみ、ってお互いに言いながら安い布団で寝るんだ。ああ家族だなって、家族っていいなって思いながら眠りにつくんだ。そういう家庭をな、作りたいってずっと思ってた。俺達は弱くて、すげえ弱い人間で、結局理想が欠片も叶わないままこんな形になっちまったけど、せめて……っ」
この時間帯、駅からやや離れたこの橋を通る人影は多くはない。時折トラックや軽自動車が後ろを通り過ぎるが、こんな場所で立ち話をしている男二人なんぞを気に掛けることなどしないだろう。
「せめてな。夢見て、死にたい。勝手だろ、わかってるよ。でも……ただ、お前に。“おやすみ”って言われてから、少しだけ家族に戻れた気分になって死にたいんだ。それでいい。そうしたらもう、未練はないからよ……!」
きっと。
彼の身には、僕には想像もつかないようなたくさんの苦労があったのだろう。赤ん坊を育てるというのは並大抵のことじゃない。妻が育児ノイローゼで死に、不慣れな子育てを頑張ろうにも自分には仕事があって、頑張っても頑張ってもうまくいかなくて。それでどうしても子供を捨てるしかない、という発想に至ってしまったのかもしれない。
はっきり言って、許されることではないだろう。なんせそんな親の都合など、産まれてきた子供にはまったく関係のないことであるのだから。
彼がした行為を“無責任”と詰るのは簡単だ。それを十八年も過ぎた今になって逢いに来て、父親として死なせてくれなんて身勝手もいいところだ、とも。もしも仕事を、生き甲斐を失わなかったらこんな日も来なかったのではないか、自分を忘れて生きるつもりだったのではないか、とも。
だが。
「あんたは一つ、勘違いをしている」
僕は、胸ポケットから銃を取り出すと。手すりにもたれて立つ男に向かって、構えた。
「あんたのことを勝手だと思うし、憎たらしいと思わないわけではない。でも……あんたを殺して復讐を遂げたいなどと、思ったことは一度もない。何故なら」
引き金を、引く。
飛び出した微細な硝子の弾丸は超速で男の頭の真横を抜け――川の水面に、着弾した。パリン!と硝子が割れるような音。
「僕は、自分が不幸だと思ったことはないからだ。……見てみろ」
「!?」
彼は外れた弾に驚き、次に川面を振り返ってさらに声を上げた。
川面に浮かび上がったのは、青白い光。キラキラと輝くそれは、まるで巨大な雪の結晶のような様相を呈している。特別性の“硝子”は、水に触れると一瞬熱を持って光り、やがて水に溶けて消滅する。その刹那の命のきらめきが、何よりも美しいのだ。初めてこの研究に着手した時、ボスにフラスコの中で魅せてもらった奇跡に――僕は心動かされたのである。
今は人を殺すための技術だけれど、いつか。
いつかこの力を、多くの人の幸せを守るために使えるようになればいい、と。
「あんたの判断は正しかった。闇の組織のボスに赤ん坊を託してしまったことを悔いているようだが……僕はあの人に育てて貰えたことを誇りに思っている。僕の父は、あの人だ。今の僕は、あの人の力と、願いと、祈りで出来ている」
「ゆ、雪雅……」
「だから僕はあんたを恨まないどころか、いっそ感謝しているほどだ。だからあんたを殺さない。僕の父はあの人だが、それでもあんたと血が繋がっているのは確かだ。親殺し、なんてことを意味もなくやりたいとは思えない」
僕が銃を下ろすと、彼はその場にへたりこんだ。その頬を濡らすのは、一体どんな種類の涙だろうか。
「後で返金の手続きはしてもらう。僕に少しでも申し訳ないと思うなら。……あんたはその未練を後悔を抱えて生きるんだな。少しでも、一秒でも長く」
ゆきまさ、と彼がもう一度僕を呼んだが、僕はもう振り返らなかった。今の僕はもう、彼が望んだ“ユキマサ”ではない。そして僕も、今の僕こそが本当の僕だと信じている。だからこそ、投げかける言葉が一つなのだ。
「あんたに必要なのは、“おやすみ”じゃなくて、“おはよう”だ。あんたもいい加減、新しい朝を迎える時が来たんじゃないのか」
残酷でも、時に悲劇があっても。生きていれば、得られる奇跡に際限はない。思いがけない幸福に、出逢えることもあるように。
銃をしまって、僕は今日も夜の町を歩きだす。
自分なりに生きる、次の朝へと向かうために。
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