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<20・手を繋ぎ、心を繋ぐ。>

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 遥はわざわざ家にウィッグを用意したらしい。一番最初に会った時には身に着けていなかったというのに、今日はちょっと外に出るためにウィッグ、帽子、サングラスの三段構えである。

「随分警戒してるね……」

 千鶴が思わず尋ねると、遥はドアポストを覗き込みながら言った。

「ま、まあね。この間のNEXT実況で、今まで以上に顔が売れちゃった感あるから念のためというか。本当に過去にはいろいろあったんだよ。実は元々普通のアパートに住んでたのに、オートロックに引っ越したのはそれも理由だったりするんだ」

 玄関を出てからも、通路の左右を警戒してきょろきょろしている。幸い人気はないことに気付いてほっとしていたが。
 そこまで気にしなくてもいいのに、なんて千鶴は思ってしまう。だってこのマンションの場合、二重でエントランスを通過しなければこの廊下には入れないのだ。鍵を持っているマンションの住人以外、踏み込むこともできないはずなのに。

「アパートに住んでた頃、ひょんなことからファンに住所がバレちゃったことがあって」

 エレベーターホールに向かいながら、遥がため息交じりに言う。

「妙に分厚い封筒を、送り付けられたことがあるんだ。消印も、本人の住所もなかった。つまり、アパートのポストに直接来て、その人がねじ込んでいったってことなんだけど」
「うわあ。え、不幸の手紙とかでも送り付けられたの?」
「まだその方がマシだったかも……。完全に、俺の恋人になったつもりでさ、夫婦生活はこういうプレイがしたいとか、子供は何人欲しいとか、浮気したら殺すとかまあそういうことを長ったらしく書いてあるわけ。十枚くらい入ってたかな?似たような、それでいて脈絡ない文章がずらーっと」
「う、うわあ」
「それだけでもイヤなんだけどそれ以上に嫌なのは手紙と一緒に入ってたものだよ。……大量の、生臭い臭いのする縮れた毛が入ってたわけ。しかもなんかべたべたしてんの。正直吐くかと思った」
「いやあああああああああああああ!?」

 それは、想像するだけでおぞましすぎる。ようは、考えるのもおぞましい体液にまみれた陰毛を大量に送り付けられたというわけだ。そこまで行くと、もはや警察に通報したくなるレベルである。

「一応警察の人に見回りはしてもらったけど、やっぱり安心できなくてさ。結局、ローン組んででもオートロックに引っ越した方がいいやってんで、このマンションに来たわけ。セキュリティって大事だなって本当に思うよ。このマンションのレベルだと、言っちゃなんだけどちょっとストーカーしたいだけの人なんかそうそう引っ越してこられないだろうし」
「……本当にご愁傷様です」

 そういうことがあったのでは、そりゃ日々警戒もしたくなるだろう。そのわりに、一番最初に千鶴と待ち合わせた時、変装が中途半端だったのはどういうわけなのかと気にならなくもないが。

「ただ、オートロックといってもそれだけで安心できるわけじゃない」

 エレベーターを呼び出しながら遥が言う。

「例えば、俺の家の鍵は開けられなくても、部屋の前までは部外者も来ようと思えば来られちゃうんだ。……マンションの住人が入る時に、センサーに鍵をかざすんだけどね。その時、住人と一緒に入っちゃえばいいんだよ」
「え!?それ、同行した住人の人に不審がられないの?」
「キョロキョロオドオドしてたら不審がられるだろうけどね。堂々と入ってくる人間は警戒されないもんなの。例えばマンションの住人だって鍵を忘れることはあるし……他の人がドアを開けてくれたら、わざわざ毎回自分は鍵をかざしたりしないから。自分は此処に住んでる人間なんですよーって顔して入っていけば誰も怪しまない。というのも、ここみたいな高層マンションで部屋も多いとなると、全住人の顔なんて誰も把握してないからさ」

 時々入れ替わるしね、と遥。

「駅からもそこそこ近いだろ?だから、部屋売ってくださいのチラシもしょっちゅう入る。見知らぬ顔があったところで“自分が知らない住人なんだな”とか“最近引っ越してきた人かな”くらいにしか思わない。だから、慢心は禁物ってわけ」
「うへえ……」

 一応覚えておこう、と思う千鶴である。まあ自分の経済力では、こんな高そうなマンションで暮らすことなどそうそうないだろうが。
 それこそ、遥の家に転がりこむようなことにもならなければ。

――よ、よく考えたら私の場合それも可能ではある……。あのアパートも借家だし、私は会社勤めでもないから通勤とか考えなくてもいいし。

 そう、遥が許してくれるなら。一緒にこのマンションに住む日も、いつか来るのかもしれないではないか。思わずもわもわもわー、と頭の中にピンク色の煙が広がる。買い物から帰ってくる自分。がちゃりと開く玄関。待っていてくれるのは、奥さんよろしくエプロンをつけた遥。

『お帰り、ちーちゃん。買い物ありがとう!今ご飯できたところだよ』

 キッチンからは夕食の良い香りが漂っている。千鶴からスーパーのビニール袋を受け取ったところで、彼はやや頬を染めて上目遣いでこんなことを言ってくるのだ。

『ねえ、ダーリン。ご飯にする?お風呂にする?それとも……俺?』

――うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああかかかかかわ、かわ、かわEEEEEEEEEEEEEEEE!貴方一択でおねがいしやすううううううううううううううう!!

 一般的には逆だろとか言われそうだけれどなんのその、遥の女子力が高すぎるのがいけないのだ!
 思わず妄想して、頭をぶんぶん振って悶えてしまった。いけない、このままでは鼻血を吹きかねない。

「ち、ちーちゃん?どうしたの?」
「はっ!」

 気づけば、二人でマンションのエントランスを出たところである。いけない、ついすっかり乙女の妄想が爆発してしまった。ややドン引きした様子の遥。もしや、声に出ていたりはしなかっただろうか?

「な、ななな、なんでもないヨ!?遥に萌えエプロンつけてお出迎えしてもらう旦那になってみたいとかそんなこと考えてないですヨ!?」
「語るに落ちてますが!?」
「んがああああああああああっ!」

 ダメだ、本当にダメだ自分。何でこんなに舞い上がっているのか。それもこれも――駅まで好きな人に送って貰うという、夢のシチュエーションを体験しているせいだろうか。

「ご、ごめん。……その、ちょっと妄想がノンストップだった。その……いつか、一緒に暮らせる日が来たりするのかなあ、なんて……」

 無論、本当に結婚まで行くことができたならそんな日も来るのだろうが。彼は大人気ユーチューバーで、自分はしがない貧乏なWEBライターでしかない。安定した収入があるというほどではなく、それ以外に何か大きな取り柄があるわけでもないのだ。せめて、彼の隣を歩けるほどの美人だという自負があれば話は別だったのかもしれないが。
 一緒に暮らしたいなんて。そんな図々しいことを言ったら、それこそ嫌われてしまうだろうか。重たいと思われたら嫌だな、と考えた途端――胸の奥がつきん、と痛んだ。

――ああ、そっか。……好きって、そういうことなのかもしれない。

 友情と愛情の境目。はっきりと、区別できたと断言できる自信はない。でも、彼ならば恥ずかしいところもみっともないところも見せたいと思ったのは確かで――何より、嫌われて離れられたらどうしよう、なんて不安に思うようになったのも事実なのだ。
 彼のことを、これからも好きでいたい。同時に、これからも好きでいてほしい。その隣を、誰かに奪われてしまったらと思うともやもやと胸の奥に黒いものが沸き上がる。
 そうだ。こんな感情、前の彼氏の時には抱かなかった。一緒にいるだけで幸せで、とても楽しかったけれど――他の女の子が傍にいたら嫉妬するなんて、そういうことはなくて。
 でも遥相手だったら、今の自分はきっと。

――恋って、きっとそういうもの。……綺麗なだけじゃない。嫉妬とか、欲望とか、いろんなものが入り混じってる。だからこそ、本物だって言うこともできるんだ……きっと、そうなんだ。

 ちょっとずつ、自分の中でも答えを見つけていけているような気がする。ふと、左手に触れるものがあった。遥の手だ。

「ち、ちーちゃんその。……手、繋いじゃ、だめ、かな」

 たどたどしく言う遥。夕闇に染まり始めた空。街灯の下であっても、彼の真っ赤に染まった顔がわかる。
 キスもしたし、なんならそれよりももっとすごいことだってしたのに。最中は男らしい顔もたくさん見せてくれたのに――こんな風に、手を繋ぐこと一つで照れてしまう彼が可愛くて。

「うん」

 それとなく道路側を歩いてくれるその存在が、なんと愛おしいものであることか。駅に辿り着くまで二人、本当に他愛のない話をしたのだった。
 当たり前のように、隣で生きていく未来が描けること。幸せとは、きっとそういうカタチをしている。

「いつか、二人だけのおうちでも建てちゃおうっか。マンションもいいけど、一戸建てもいいよね」
「ふふふ、犬も飼うよ、私。でかいやつがいい。サモエドとかゴールデンとか」
「いいねえ」

 二人の歩く道を、三日月が優しく照らしてくれている。そんな気がしたのだった。

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