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第一章
第五話 春風の中に坐するが如し
しおりを挟む何も変わらず、落ち着いて過ごす。それが今日の目標だ。
どうか変なことが起こりませんようにと願いながら進む寮からクラスまでの十分程度後の道のりは、以前より随分と長く感じた。下駄箱に辿り着いて、やっと少しほっとしていた折り、願い虚しくも想定外にぶつかってしまつ。初っ端のことで、げんなりといった心持ちも隠せぬまま、眉を顰めて背後を向く。
「よかった、会えて!蓮見、おはよう」
声をかけられたのだ。
腫れ物に違いない自分に対し、ふわっとした爽やかな明るい声を。
第五話 春風の中に坐するが如し
「ぉ、はよう」
「体調は大丈夫か?怪我したと聞いてけど足は問題なさそうか?」
これまで挨拶をされたことがないというと語弊があるが、名指しで元気よくされたのは入学後初めてのことで、それに加えて以前よりもなまじか警戒心というものを持ってしまっているせいがぎこちない返しになった。
しかも、身長差も相まってつい睨みつけるような格好である。印象が悪いことこの上ない。
しかし相手は特に何も気になっている風でもなく、春の空気を擬人化してしまったような明るい表情崩さぬまま、立ち止まるこちらに近づいてくる。
持参していた室内履きに履き替え、ローファーは中学の時とは似ても似つかない鍵付きの自分のロッカーにしまった。その間なんと返そうが悩んでいるが、他人と話すなんてこと久しくしていないせいで全くもって思いつかない。
「…えっと」
「あー、しばらく会ってないし分かんねえよな。喋ってはなかったし」
「知ってるよ。学級委員の真田川くんだよね。ごめん、話仕掛けられるなんてないもんだと思ってて…」
背後から突然大きな声で挨拶をしてきた正体は、学年一の人気者といって過言でない、学級委員長の真田川春實だった。
暗い茶髪と揃いの色の精悍な瞳を柔らかく細めていた真田川は、言い訳をしながら頭を下げる和の両方の肩を、躊躇いもなしに掴んだ。力の強さにぎょっとするが、制服越しに伝わる熱い掌に敵意はまるでなく、振り払う気にはならない。
というか、ここ最近デジャブかのようにこんな感じで肩を捕まれ覗き込まれている気がする。
浮かぶ周や尾長の心配そうな顔は、真田川ともしっかり重なった。
「こちらこそ本当に悪かった」
「真田川くんに謝られるようなことされてないと思うけど…」
「関係はある。停学になった奴らは、俺の親衛隊だから」
ほう。親衛隊と来たか。
突如として持ち出された、学園特有の異様な文化の登場に、つい失笑した。
真田川は深く眉を寄せて、嫌悪感を滲ませた顔で口を歪めている。そんな顔をしてもやはり爽やかなのか。初めて真正面から顔を見たが、すごいな。そりゃ、親衛隊のひとつやふたつ抱えていても全く不思議では無い。
一応、この学園のなんたるかは兄二人から、そしてあの忌まわしき記憶と共に元同室者から粗方教わっていた。とはいえ、納得はしていない。中学時代にも顔の綺麗な生徒や人気な教師のファンクラブとかいうものはあったが様だが、もっと遠巻きに見守るコミュニティだった。
ここの親衛隊は、有り体に言えば醜い争いや抜け駆けを阻止する為に設けられた、なにかと過度で過激な集団だ。
「真田川くんは関係ないよ」
「でも、俺の」
「だって別に報復でもないし、ただ僕が気に触っただけっぽかったよ。もし仮に何かしらの報復だったとしても、真田川くんが指示した訳じゃあるまいし…ていうか初めて喋ったしね、今。何を報復すんだって話で」
彼の言うとおりだとしたら、あまりにちぐはぐで笑ってしまう。
本当に入学以来友達といった存在が出来ていない和にとって、クラスの中心と言える真田川の存在は余りに遠く、会話も義務的なものを交わしたかどうかあやふやなくらいには関わりがない。なのに報復とはこれ如何に。接点のない相手に手をあげる程気の触れた人々の集まりなのだろうか。
想像して、んはは~と呑気に笑ってから、はっとして掌で口を押えた。
恐る恐る見上げると、呆気た様子の真田川が逸らすことなく真っ直ぐこちらの顔を見つめてくる。迫力が凄くて思わず半歩ほど退く。
「ごめん、すごい、急に喋ったよね。変なとこで笑うのも、やめたいんだけど、癖で」
「は?全然いいだろ。笑えよ。意外で、ちょっとびっくりしただけだ。笑ってた方がいい」
「…それは、はじめて言われたな」
へらへらしていると、いつもあの兄達に微妙な顔をされるのだ。自他ともに認める過保護な彼らが苦々しく規制してくるくらいだから、余程酷いのだと思う。
鏡に向かって笑うのも躊躇うくらいには怖い。きっとだらしなくて、ぎこちなくて、見るに堪えないものなのだろうと。
思春期といわれる年齢になってからは特に、笑う度に怪奇な顔をされることが増えて、コンプレックスは加速した。だから本当に、初めて褒められてしまったことに驚く。
もしかして、本当にめちゃくちゃ優しい人なのだろうか。はっとして周囲を見ると、視線は集まってきていた。慌てる和を差し置いて、真田川は話を続けた。
「そうそう、本題だけど。友達になろう、蓮水」
「へ?」
「友達、なろ」
「いや、え?トモダチ…?」
はて。
脈略の無い提案に無意識に返事をしてから聞き返してしまった。ふざけた様子もない真田川は、思わず目を瞑りたくなる眩しい笑顔で言い放つ。
「次からは友達として、絶対俺が守る。心強いだろ?」
「え、あ、はい」
「あはは、冗談だよ。でも、本当に守るつもりだし、同じ目には絶対合わせない。頼って欲しいんだ、俺のことを」
「ウッス…」
少女漫画から飛び出してきたみたいなセリフの数々に気圧され、無意識に友達になる提案を受け入れてしまっていた。動揺のあまり、生まれて初めて体育会系みたいな返事をしてしまったではないか。
承けた真田川はにっと白い歯を見せて、肩を組んできた。パーソナルスペースが異様に近い真田川に戸惑いさり気なくその手から逃げる和を気にかけているのか居ないのか、その後もやけに楽しそうに声を掛けてくる。
中学はどこだったとか、部活は何かやっていたかだとか、趣味だとか。都会の方ではあったと思うとか、部活は幽霊部員だったとか、趣味といえるほど熱狂してるものはないとか、全てにぼんやりとした答えをしていたら、あっという間に教室の前だった。
リラックスが瞬時にして吹き飛び、体が緊張する。フラッシュバックってあるんだな、と和は自分事ながら驚く。
瞬間的に、あの日に掛けられた全てのストレスが場面写真集のように瞬時に移り変わりながら脳内に流れてきて、思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。どうしよう。手足に嫌な汗が滲んで動かない。
すると、肩にずっしりとした重みが乗り、驚きでに目を開く。再びがっしりと肩を組んだ真田川は、きれいな笑顔を浮かべて、安心させるように顔を覗き込んでくる。
「大丈夫。俺がいる」
初めて喋ったとは思えない顔と心の距離から発せられた言葉に返せたのは、ギリギリ声にもなっていない「はゎ…」という息だけで。またしても、にっと歯を覗かせる真田川は和を押し込むように教室内に一緒に入ってくれた。
「おはよー」
なんとも力の抜けたラフな挨拶だったと言うのに、訓練されたかのように一斉に顔がこちらを、正しくは真田川を向く。本人はそれに驚くこともなく、教室に入っていく。普段なら皆彼の挨拶に元気よく返している気がするが、今日は静まり返っている。肩に回されていた手が腕を掴んだ。
最初はしっかり掴まれたことに驚くが、引っ張るというより、手を引いてくれるような強さに安心を覚える。
「蓮水の席は俺の隣になったから」
以前は真田川と席は近くなかったはずだ。
なった、という言い方も気になったものの、緊張感のせいで何も聞けない。小さく頷くと、また歯を見せる笑顔で見てくる。ヒッ、と小動物の悲鳴ような声がいくつか聞こえるが、やはり真田川は何も気にしていない。有り得ないくらい鈍感なのか、何もかも慣れっ子なのか。
しかし、こうして改めてクラスにいる彼を見ると、背が高くて体格もよく、凛々しいけれど爽やかで、人気があるのも頷ける。
「あの」
「どうかした?」
「ううん。落ち着いたから大丈夫。もう、お構いなく…」
何より、人の心の機微を嫌という程感じてしまうタイプなのは、すぐに分かった。そして少々気障なことを言ってでもこちらの緊張を解きほぐそうとして、笑顔を絶やさず手を引いてくれたのだろう。
けれど、同情というのは時に暴力的だ。今の自分に届く代物ではない。
友達と気軽に言われて、傷付く人間もいる。
しん、と静まり返った教室で、視線がこちらに突き刺さる。
「ん、わかった。なんかあったら声掛けて」
言葉もなく小さく頷くと、やっと会話が終わった。
クラスがざわめきを取り戻し、真田川の周りに人が集まる。どこまでも優しくて、なんだか力が抜ける。始業までの時間は、教科書を取りだして復習をする事にした。机にわざと当ってくる生徒もいたが、こんなことを気にしていてはきりが無い。
そもそも、蓮水和は場違いな生徒だった。
一年一組、通称1S。一組はどの学園も特別で、Sクラスの人材のみがいられる場所ということらしい。ここにいるのは皆、成績も家柄も文句のない、正真正銘の恵まれた生徒の揃う学園の上澄み、更に優れた人間だけが入ることの出来る特別なクラスに和はいる。逆に言えば今までは自分が一番だった世界から、突然同クラスだけの場所で過ごすことになった子供だ。気に食わないやつは徹底的に。だから和はああいう目にあってしまったのだろう。
勉強と兄の七光でここにいる和が疎まれるのも当然なのかもしれない。
どこにでもいそうな人間が、美しいものばかりの空間にいる違和感は正直本人すら感じるものあった。
やはり、息苦しい。前と変わらない、これが当たり前だというのに、時間が空いたというだけでこうも居ずらいものか。
小さくため息を漏らす和の横顔を見つめるものがいるなんて本人は知る由もなく、ホームルームのチャイムが鳴り、担任がクラスに入ってきた。騒動後に就任したその教師は、気怠げに出席を取っていく。特に復帰した和に対する追求はなくほっとした。
とりあえず、まだ大きな問題は起こったわけではない。
よくよく考えてみれば、真田川が話しかけてきたのだって教師の差し向けの可能性も大いにある。和にとっては余計な世話だっただけ。
なんだかな。でもまあ、いい。合間の時間はなるべく復習に当てよう。勉強まで置いていかれたら、和の居場所は本当になくなってしまう。
まずもう一度、ここに慣れるしかないのだと決意を決めた。
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