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第二幕
第十九話『紅花染の絹布』
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「呉乃よ、此度のこと、本当に良くやってくれた」
宇季恭子の邸で騒ぎがあった数日後、呉乃は恭子本人から直々に呼び出され、再び邸を訪れていた。
いつもの対屋の一室、御簾で仕切られた空間で呉乃は恭子と対峙している。
「私はただ呪いではないと助言しただけです。くだらぬ思い込みで恭子様の日々の暮らしに障りが出るなど、それこそ呪いですから」
「ふふふっ、そういう意味ではそなたに呪いを祓ってもらったというわけだ……まぁ、これで入内がなくなったというわけではないが、それでも不安は取り除けた。礼を言う」
あくまで口添えしただけという姿勢を崩さない呉乃。それに対し恭子は寂しそうに笑う。
そう、たとえ呉乃が騒ぎをおさめたからといって恭子を取り巻く環境が変わるわけではない。
結局彼女は入内をする。大納言の瀑男の藤原打倒の切り札として使われるだけなのだ。
自由になれたわけではない。本当の意味で恭子を救うことができない自身の力のなさに呉乃は「もったいないお言葉です」と言って頭を下げながらも歯噛みする。
「……そうじゃ、呉乃よ、そなたも入内すればいいのではないか? そうすれば私も退屈せずにすむ」
重くなりかけた空気を壊すかの如く、恭子があえて軽い口調で提案してきた。
思わぬ方向からの誘いに呉乃はくくっと忍び笑いをしてゆっくり顔をあげる。
「お戯れを、恭子様。私のような端女が入内などとありえない話でございます」
「そうか? そなたの真の名が知れれば入内どころか直接内裏を操ることも容易かろう」
「私にそのような才などございません。それに、今の私はただの側女。少将様の紅袖でございます」
「……そうか、いや、そうだったな……そう、その『紅袖』についてだが。そなたに贈ろうと思ってな」
もしもの話が終わったかと思えば、恭子がつづらからあるものを取り出した。
ふわりと目の前で広がる紅花染の絹布。ほんのりと赤みを帯びた柔らかい手触りのその絹には、丁子の香りの中に白檀の香りもかすかに感じる。
香りを焚きしめた香衣と調香済みの香包。ただの女官へ贈るにはあまりにも不釣り合いの高級な品に呉乃はうろたえてしまう。
「恭子様……こ、このような品、私のような端女には過ぎた物でございます」
「しかしそなたは紅袖なのだろう? ならばこれを身に着けていてもおかしくはあるまい」
「いえ……そもそも紅袖というのはですね……」
「分かっておる。呉乃という名の少将様の袖に控える女官。ゆえに紅袖であろう? しかしならばこそ、それを示す物を持っていてもおかしくあるまい」
楽しそうに笑って広げた絹布を差し出してくる恭子。ここまでされてしまったら断るなど逆に失礼だ。
そして女官が礼を失すれば主人である是実にも迷惑がかかる。
これ以上粘れば恭子にも恥をかかせることになる。呉乃は諦めて紅花染めの絹の香衣と香包を受け取った。
「呉乃よ、そなたがどんな道を選ぼうと私だけはそなたの味方でいよう」
花が咲くように恭子が柔らかく微笑む。呉乃の正体を知ってもなおここまで親身になってくれる彼女の優しさに呉乃は胸を打つ想いで深々と頭を下げる。
そのとき、ゆらりと袖が揺れ貰ったばかりの絹からふわりと香りが漂った。
「身に余るお言葉、光栄でございます。この紅袖も、恭子様のお幸せを日々お祈りさせていただきます」
~・~
都の東側、朱雀大路の近くを流れる堀川のすぐ側には藤原光経の邸があった。
広大で豪奢な造りの邸内には多くの家人が勤めており、その中には藤原ではない出自を持つ者もいる。
これは端から見るとかなり奇異なことであった。京に住まう貴族にとって藤原は藤原しか認めない。それ以外の氏族はおろか、身分が卑しい者などもってのほかという共通認識があったからだ。
そもそも、そんな思想を見え隠れさせているのは他でもない藤原北家の者達だ。太政大臣の宗通に至っては近くに数人しか人を置かず、さらにその数人や義理の息子である光経にさえも一切の心を開いていない。
だというのに、義理の息子である光経のもとには出自が不確かなものまでいた。
「光経様」
薄暗い私室で香を焚いていると視界の端の暗闇から声が聞こえてくる。
光経はそちらを向くことなく香炉の中の灰を混ぜる。薄く色のついた香煙が立ち上り、光経の周りを漂う。
「宇季恭子の邸での騒ぎはやはり千波の仕業だったようです」
板敷に跪いた状態で密偵の男が報告を挙げる。
光経は色付きの香煙を身体にまといながら横目で男を見た。
「千波……あぁ、あの女官か。そうか。大納言は?」
「今のところなにも。どうやらとある女官が解決したようです」
「とある女官? なんだそれは。大納言の手の者ではないのか?」
「権少将高篠是実の側女だそうです。なんでも暑気払いで偶然邸を訪れていたようで」
「ほっ、是実とな」
思ってもいなかった名前が出てきて光経は思わず声を上げる。
かつて義理の父である宗通の策略によって臣籍降下した色狂いの犬。思わぬところでの邪魔だてだ。
「あれはもはや牙を抜かれたものだと思うたが、まだ嗅ぎまわる元気があるらしい」
「……今のうちに始末をつけておきますか?」
「よい、今のところはな。ところでその騒ぎの犯人である千波とかいう女官はどうなったのだ」
「宇季恭子は大ごとにしたくないようで、暇を出しただけで終わらせました」
「……ぬるいな」
暗闇に向かって吐き捨てる光経。しばらくして香炉の火を消した。
「大した情報など持っておらぬが放っておく道理もない。始末しておけ」
「はっ、ただちに」
そう言って密偵は再び暗闇の中へと溶け込んでいく。
部屋で一人になった光経は無音の空間で妖しい笑みを漏らした。
「是実の女官か……ふむ」
宇季恭子の邸で騒ぎがあった数日後、呉乃は恭子本人から直々に呼び出され、再び邸を訪れていた。
いつもの対屋の一室、御簾で仕切られた空間で呉乃は恭子と対峙している。
「私はただ呪いではないと助言しただけです。くだらぬ思い込みで恭子様の日々の暮らしに障りが出るなど、それこそ呪いですから」
「ふふふっ、そういう意味ではそなたに呪いを祓ってもらったというわけだ……まぁ、これで入内がなくなったというわけではないが、それでも不安は取り除けた。礼を言う」
あくまで口添えしただけという姿勢を崩さない呉乃。それに対し恭子は寂しそうに笑う。
そう、たとえ呉乃が騒ぎをおさめたからといって恭子を取り巻く環境が変わるわけではない。
結局彼女は入内をする。大納言の瀑男の藤原打倒の切り札として使われるだけなのだ。
自由になれたわけではない。本当の意味で恭子を救うことができない自身の力のなさに呉乃は「もったいないお言葉です」と言って頭を下げながらも歯噛みする。
「……そうじゃ、呉乃よ、そなたも入内すればいいのではないか? そうすれば私も退屈せずにすむ」
重くなりかけた空気を壊すかの如く、恭子があえて軽い口調で提案してきた。
思わぬ方向からの誘いに呉乃はくくっと忍び笑いをしてゆっくり顔をあげる。
「お戯れを、恭子様。私のような端女が入内などとありえない話でございます」
「そうか? そなたの真の名が知れれば入内どころか直接内裏を操ることも容易かろう」
「私にそのような才などございません。それに、今の私はただの側女。少将様の紅袖でございます」
「……そうか、いや、そうだったな……そう、その『紅袖』についてだが。そなたに贈ろうと思ってな」
もしもの話が終わったかと思えば、恭子がつづらからあるものを取り出した。
ふわりと目の前で広がる紅花染の絹布。ほんのりと赤みを帯びた柔らかい手触りのその絹には、丁子の香りの中に白檀の香りもかすかに感じる。
香りを焚きしめた香衣と調香済みの香包。ただの女官へ贈るにはあまりにも不釣り合いの高級な品に呉乃はうろたえてしまう。
「恭子様……こ、このような品、私のような端女には過ぎた物でございます」
「しかしそなたは紅袖なのだろう? ならばこれを身に着けていてもおかしくはあるまい」
「いえ……そもそも紅袖というのはですね……」
「分かっておる。呉乃という名の少将様の袖に控える女官。ゆえに紅袖であろう? しかしならばこそ、それを示す物を持っていてもおかしくあるまい」
楽しそうに笑って広げた絹布を差し出してくる恭子。ここまでされてしまったら断るなど逆に失礼だ。
そして女官が礼を失すれば主人である是実にも迷惑がかかる。
これ以上粘れば恭子にも恥をかかせることになる。呉乃は諦めて紅花染めの絹の香衣と香包を受け取った。
「呉乃よ、そなたがどんな道を選ぼうと私だけはそなたの味方でいよう」
花が咲くように恭子が柔らかく微笑む。呉乃の正体を知ってもなおここまで親身になってくれる彼女の優しさに呉乃は胸を打つ想いで深々と頭を下げる。
そのとき、ゆらりと袖が揺れ貰ったばかりの絹からふわりと香りが漂った。
「身に余るお言葉、光栄でございます。この紅袖も、恭子様のお幸せを日々お祈りさせていただきます」
~・~
都の東側、朱雀大路の近くを流れる堀川のすぐ側には藤原光経の邸があった。
広大で豪奢な造りの邸内には多くの家人が勤めており、その中には藤原ではない出自を持つ者もいる。
これは端から見るとかなり奇異なことであった。京に住まう貴族にとって藤原は藤原しか認めない。それ以外の氏族はおろか、身分が卑しい者などもってのほかという共通認識があったからだ。
そもそも、そんな思想を見え隠れさせているのは他でもない藤原北家の者達だ。太政大臣の宗通に至っては近くに数人しか人を置かず、さらにその数人や義理の息子である光経にさえも一切の心を開いていない。
だというのに、義理の息子である光経のもとには出自が不確かなものまでいた。
「光経様」
薄暗い私室で香を焚いていると視界の端の暗闇から声が聞こえてくる。
光経はそちらを向くことなく香炉の中の灰を混ぜる。薄く色のついた香煙が立ち上り、光経の周りを漂う。
「宇季恭子の邸での騒ぎはやはり千波の仕業だったようです」
板敷に跪いた状態で密偵の男が報告を挙げる。
光経は色付きの香煙を身体にまといながら横目で男を見た。
「千波……あぁ、あの女官か。そうか。大納言は?」
「今のところなにも。どうやらとある女官が解決したようです」
「とある女官? なんだそれは。大納言の手の者ではないのか?」
「権少将高篠是実の側女だそうです。なんでも暑気払いで偶然邸を訪れていたようで」
「ほっ、是実とな」
思ってもいなかった名前が出てきて光経は思わず声を上げる。
かつて義理の父である宗通の策略によって臣籍降下した色狂いの犬。思わぬところでの邪魔だてだ。
「あれはもはや牙を抜かれたものだと思うたが、まだ嗅ぎまわる元気があるらしい」
「……今のうちに始末をつけておきますか?」
「よい、今のところはな。ところでその騒ぎの犯人である千波とかいう女官はどうなったのだ」
「宇季恭子は大ごとにしたくないようで、暇を出しただけで終わらせました」
「……ぬるいな」
暗闇に向かって吐き捨てる光経。しばらくして香炉の火を消した。
「大した情報など持っておらぬが放っておく道理もない。始末しておけ」
「はっ、ただちに」
そう言って密偵は再び暗闇の中へと溶け込んでいく。
部屋で一人になった光経は無音の空間で妖しい笑みを漏らした。
「是実の女官か……ふむ」
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