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第五幕
第五十八話『月夜の廃屋で』
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林を抜けて村のはずれまで出たところで雨が降ってきた。寒さに震えながら歩き、廃屋を見つけて飛び込む。
自身の痕跡を消しながら床下へと潜り込む。蜘蛛の巣が張られた狭い空間に葵子は背中に悪寒が走っても我慢して息を殺した。
やがて人の足音が聴こえてくる。ひとりだけだ。宗通の手の者だろうか。葵子は刀子を出していざというときに備える。
「はぁ……はぁ……ここまでくれば」
入ってきたのは女だった。息遣いと匂い、そして声でなんとなく理解する。察するにひとりで逃げてきたようだ。
どさっと大きな物が置かれた音がして床板が軋む。
「さぁもう大丈夫だからね。母ちゃん」
上から聴こえてきた女の言葉に葵子は息を呑む。
その声はまるで誰かに語りかけているようで、いや、まさしく子が母へ呼びかけているかのようだった。
(二人いる? 親子で逃げてきたってこと? でも足音はひとつだったような……)
葵子は集中して耳をすませるが、女以外の人間の息遣いは感じ取れない。床板の隙間から覗くが人影はひとつしか見えない。
「母ちゃん? どうしたの? さっきからずっと黙ってる。大丈夫だって。ここまでくればあいつらも追ってこないよ」
床板越しに聴こえてくる女の声は怯えも悲しみもなく優しい響きがする。
「あぁ、今夜はいい月。まん丸で明るくて……」
葵子は息を殺して佇み、そのまま時が過ぎるのをひたすらに待った。
虫の鳴く声と風が木々を揺らす音。遠くで獣の鳴き声も聴こえてくる。
もう夜は深い。できればこのままここで夜を過ごしたかったが、追手が来るかもしれないと思うとじっとしてもいられない。
(どうにかしてここを抜けて近くの村にでも……あれ?)
外へ出る機を伺っていると違和感に気付く。
さっきまで聴こえていた女の息遣いが聴こえない。それどころか匂いも気配すらも感じられなくなっている。
(出ていったのか? でも、足音も戸が開く音も聴こえなかった。いや、それどころか床板が軋む音すら……)
あの母娘に一体なにがあったのだろう。確認のため葵子はゆっくりと床下から這い出た。
廃屋の屋根は一部壊れていて穴が開いている。そこから月の光が室内を照らしている。
「……あぁ、やっぱり」
目の前の現実に葵子はぽつりと声を漏らす。
逃げてきた女、というより少女は既にこと切れていた。目をつぶって横になっている。
(私と同じくらいの年ごろだ。見たところ足は折れていない。だけど首に傷痕がある。隣には……木箱? 何も入ってない。衣だけだ。それも随分大きな衣……まさか)
到底背丈が合わない大人用の衣。血が飛んで汚れている。あまりにも辛い現実に娘はとうとう気が触れてしまったのだろう。そして傷の出血から見るに自分自身も――
「ごめんなさい、私のせいで」
呟いて膝をつき祈る。葵子は女人寺にいながらも御仏の存在を信じていなかったが、それでも、今自分ができることはこの娘のために祈ることだけだった。
目をつぶって祈っていると、かすかに獣の吠える声が聴こえてきた。狐とは違う、犬だ。
野犬かもしれないが追手が放った犬の可能性もある。どうやら宗通はまだ諦めていないらしい。
葵子はすぐ立ち上がり刀子を取り出そうとして袖を探る。だが触れたのは別の物だった。
柔らかな手触りの手布に包まれた螺鈿細工の櫛。葵子は咄嗟にそれを取り出し眺める。
『葵子……これを、持っていきなさい。これはこの世で私だけしか持ちえぬ物。これを使って……欺くのです』
母の言葉が蘇る。この世で唯一の母との繋がり。
「これを……使って……」
手放すことなんてできない。心では強くそう思っているのに、頭の中ではこれを利用する術を必死に模索している自分がいる。
(追手が来ているということはまだ私を見つけられていないということ。一体どこまで追ってくる? どうしたら奴らは諦める? 母上だったらこの状況――)
稲妻が駆けるように葵子の思考が弾ける。倒れている娘と廃屋にある物資。そして手の中にある螺鈿細工の櫛を見下ろし息を呑んだ。
自身の痕跡を消しながら床下へと潜り込む。蜘蛛の巣が張られた狭い空間に葵子は背中に悪寒が走っても我慢して息を殺した。
やがて人の足音が聴こえてくる。ひとりだけだ。宗通の手の者だろうか。葵子は刀子を出していざというときに備える。
「はぁ……はぁ……ここまでくれば」
入ってきたのは女だった。息遣いと匂い、そして声でなんとなく理解する。察するにひとりで逃げてきたようだ。
どさっと大きな物が置かれた音がして床板が軋む。
「さぁもう大丈夫だからね。母ちゃん」
上から聴こえてきた女の言葉に葵子は息を呑む。
その声はまるで誰かに語りかけているようで、いや、まさしく子が母へ呼びかけているかのようだった。
(二人いる? 親子で逃げてきたってこと? でも足音はひとつだったような……)
葵子は集中して耳をすませるが、女以外の人間の息遣いは感じ取れない。床板の隙間から覗くが人影はひとつしか見えない。
「母ちゃん? どうしたの? さっきからずっと黙ってる。大丈夫だって。ここまでくればあいつらも追ってこないよ」
床板越しに聴こえてくる女の声は怯えも悲しみもなく優しい響きがする。
「あぁ、今夜はいい月。まん丸で明るくて……」
葵子は息を殺して佇み、そのまま時が過ぎるのをひたすらに待った。
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もう夜は深い。できればこのままここで夜を過ごしたかったが、追手が来るかもしれないと思うとじっとしてもいられない。
(どうにかしてここを抜けて近くの村にでも……あれ?)
外へ出る機を伺っていると違和感に気付く。
さっきまで聴こえていた女の息遣いが聴こえない。それどころか匂いも気配すらも感じられなくなっている。
(出ていったのか? でも、足音も戸が開く音も聴こえなかった。いや、それどころか床板が軋む音すら……)
あの母娘に一体なにがあったのだろう。確認のため葵子はゆっくりと床下から這い出た。
廃屋の屋根は一部壊れていて穴が開いている。そこから月の光が室内を照らしている。
「……あぁ、やっぱり」
目の前の現実に葵子はぽつりと声を漏らす。
逃げてきた女、というより少女は既にこと切れていた。目をつぶって横になっている。
(私と同じくらいの年ごろだ。見たところ足は折れていない。だけど首に傷痕がある。隣には……木箱? 何も入ってない。衣だけだ。それも随分大きな衣……まさか)
到底背丈が合わない大人用の衣。血が飛んで汚れている。あまりにも辛い現実に娘はとうとう気が触れてしまったのだろう。そして傷の出血から見るに自分自身も――
「ごめんなさい、私のせいで」
呟いて膝をつき祈る。葵子は女人寺にいながらも御仏の存在を信じていなかったが、それでも、今自分ができることはこの娘のために祈ることだけだった。
目をつぶって祈っていると、かすかに獣の吠える声が聴こえてきた。狐とは違う、犬だ。
野犬かもしれないが追手が放った犬の可能性もある。どうやら宗通はまだ諦めていないらしい。
葵子はすぐ立ち上がり刀子を取り出そうとして袖を探る。だが触れたのは別の物だった。
柔らかな手触りの手布に包まれた螺鈿細工の櫛。葵子は咄嗟にそれを取り出し眺める。
『葵子……これを、持っていきなさい。これはこの世で私だけしか持ちえぬ物。これを使って……欺くのです』
母の言葉が蘇る。この世で唯一の母との繋がり。
「これを……使って……」
手放すことなんてできない。心では強くそう思っているのに、頭の中ではこれを利用する術を必死に模索している自分がいる。
(追手が来ているということはまだ私を見つけられていないということ。一体どこまで追ってくる? どうしたら奴らは諦める? 母上だったらこの状況――)
稲妻が駆けるように葵子の思考が弾ける。倒れている娘と廃屋にある物資。そして手の中にある螺鈿細工の櫛を見下ろし息を呑んだ。
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