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第二章 彼女との出会い
第六話
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「こんなことになるなら、あなたと出会わなければよかった」
誰かがそう言っている。
そんな気がして私は目が覚めた。
布団の横に読みかけの小説「春月夜」が乱雑に置かれている。
どうやらロマンス小説の夢を見ていたらしい。そう思って重い身体をゆっくりと起こす。昼夜逆転の生活を続けていた私の身体は悲鳴をあげ、何度寝ても頭がぼーっとして勉強もろくに手がつかない。
そんな言い訳を考えながら私は時計に目をやる。
八時十分前だ。
急がないと電車に乗り遅れてしまう。軽い朝食を済ませた後、シャワーを浴びたい欲を抑えリュックを手に取り外に出た。
四月下旬の曇りがかった空は、電車に乗り遅れるであろう私の未来を予知しているかのようにどんよりと感じられた。
一面ねずみ色のその雲を眺めていると日々の生活の不安だけでなく、この一ヶ月の私の浪人生活が酷く色味のない見窄らしいものに思えてきた。
家を出たかった私は猛反対する父親を何とか説得し、一年と言う条件付きで部屋を借りた。
しかし、月の家賃と最低限の仕送りのみの生活は、十八の私には少し物足りなく窮屈さを覚えた。
お金を稼がなくてならない。
そう思った私は週に三回午前中にコンビニでアルバイトをすることにした。
知り合いや家族にバレてしまうと面倒なので私は最寄りから三つほど離れた駅の、住宅地の中にひっそりと佇むその場所で働く事を決めた。
駅の近くに学校があるので学生が頻繁に利用する店なのだが、私の勤務時間は午前中なので、その間は近隣住民が主な相手になる。
と言っても、平日の午前中ともなると来店する客はおろか、道に人が通る気配もない。
そんな場所を学生時代にたまたま見つけた私は大学生になって働くことになったら絶対にここにしようと密かに決めていたのだ。
その時は浪人するなど考えもしてなかったので、まさかこんなにも早くここで働くことになるとは、
と私はこういう時に限って赤くなる信号の、直立した人型の記号をじっと眺めそんな事を考えていた。
駅の改札を駆け足で通り抜け、電光掲示板にチラッと目を向ける。
ちょうど八時だ。
私は電車の止まる音と共に押し寄せてくる波のような人混みを掻き分け、何とか階段を登る。
もうすぐホームに着く残り数段の所で、電車の発車アナウンスが鳴った。
これならギリギリで間に合いそうだ。
そう思って私は階段のすぐ横のドアから車中に入ろうと一歩踏み出した。
とその時
バタン
私の背後で大きな音がした。
その音に驚いた私は急いで後ろを振り向く。
七十代くらいだろう白髪の老婦人が倒れている。
老婦人は倒れたまま起き上がる様子がない。私はびっくりして駆け寄った。
「大丈夫ですかーー 大丈夫ですかーー」
私は声を荒げながら何度もそう叫んだ。
ホームを通りがかる人の視線が一斉に私に集まっているような気がした。
しかし、そんなことなど気にする余裕もなく私は必死になってその婦人の顔に叫び続けた。
二分ほどたった頃だろうか、いや三十秒かもしれない。会社員らしき男性が駅員を連れてやってきた。
「どうしましたか」
駅員が言う。
「えっと…急に音がしたので振り返ったら、おばあさんが倒れていて…今こうやって叫んでるんですけど返事がなくて…とにかく危ない状態かもしれないです」
私は言葉を詰まらせながらもゆっくりと落ち着いてそう言った。
駅員はわかりましたと言って老婦人に何回か声をかけた後、呼吸を確認し応援を呼んだ。
そのテキパキとした手際に圧倒された私はただそれを見守り続けることしかできなかった。
応援を呼んでから数秒もしないうちに担架を持った駅員が走ってきた。
きっと誰かが呼んでくれたのだろう。私は少し気持ちが軽くなったような気がした。駅員たちはそのまま老婦人を担架に乗せ、階段を下っていった。
たった五分間のその出来事は一瞬のように感じられ私は我に帰る。
電車に乗り遅れてしまった、バイトには遅刻だな。
と同時に私の心に恥ずかしさと後ろめたさが押し寄せてくる。
私は視線の感じる人混みの、薄れていくプラットホームの端に逃げるように移動した。
ホームの端は人がまばらでやっと落ち着くことができた。私はすぐ店長に遅れる趣旨を伝え、電光掲示板に目をやる。
八時八分。
次の電車まで後二分もある。私はなるべく人と目を合わさないように斜め下を向きながら反対側のホームに視点を合わせた。
通勤ラッシュの山場を越えた駅は反対ホームも人はまばらで、指で数えるほどしかいない。
そんなプラットホームの先頭に、一人の女子高生が立っているのを見つけた。
姿勢良く先頭に立つ彼女は下を向き、本を読んでいる。
電車の待ち時間に携帯を触らない女子高生は希少だ。
それにしてもこんな時間に学生がいるのは珍しい。
今から電車に乗って果たして学校に遅刻しないのだろうか。
そう思いながら反対ホームの点字ブロックをぼんやりと眺めていた。
「まもなく 一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の…」
電車のアナウンスと共に軽い風が起こる。その風は段々と強さを増しながら、音を立ててこちらにやってくる。下からは救急車の高いサイレンが聞こえてきた。
あの老婦人は無事だろうか。そう物思いにふけっていたその時だった。
「あ。」
思わず心の中でそう叫んだ。私から数メートル先の彼女の手に色褪せた表紙の「春月夜」の文字が見える。
と同時に私は彼女の顔をパッと覗いた。
幼い顔立ちにかかる真っ黒な髪と対照的な白い肌。
宝石のように光るその瞳は、一瞬だけ私の方を向いたような気がした。
轟音と強風を巻き起こしながら銀色の車体が私の視界に入り込む。
その車体の銀と水色の線が徐々に鮮明になっていく。
最後の乗客が降りるのと同時に私は急いで電車に乗り込み、反対ドアから彼女を目で追った。
しかし、反対ホームにも電車が入ってきていた。
鋭い音が鳴り響きドアが閉まる。ドアガラス越しに反対ホームの車内を覗くが、混んでいるせいで中々彼女を見つけることができない。
ゆっくりと動き出した電車の、そのドアに寄りかかりながら私は進行方向とは逆を行く電車をただ眺めていた。
上からは救急車の赤く光ったランプが回っているのが見えた。
彼女はどうしてあの本を読んでいるのだろう。
動き出した電車に揺られながら私はそのことで頭がいっぱいだった。
誰かがそう言っている。
そんな気がして私は目が覚めた。
布団の横に読みかけの小説「春月夜」が乱雑に置かれている。
どうやらロマンス小説の夢を見ていたらしい。そう思って重い身体をゆっくりと起こす。昼夜逆転の生活を続けていた私の身体は悲鳴をあげ、何度寝ても頭がぼーっとして勉強もろくに手がつかない。
そんな言い訳を考えながら私は時計に目をやる。
八時十分前だ。
急がないと電車に乗り遅れてしまう。軽い朝食を済ませた後、シャワーを浴びたい欲を抑えリュックを手に取り外に出た。
四月下旬の曇りがかった空は、電車に乗り遅れるであろう私の未来を予知しているかのようにどんよりと感じられた。
一面ねずみ色のその雲を眺めていると日々の生活の不安だけでなく、この一ヶ月の私の浪人生活が酷く色味のない見窄らしいものに思えてきた。
家を出たかった私は猛反対する父親を何とか説得し、一年と言う条件付きで部屋を借りた。
しかし、月の家賃と最低限の仕送りのみの生活は、十八の私には少し物足りなく窮屈さを覚えた。
お金を稼がなくてならない。
そう思った私は週に三回午前中にコンビニでアルバイトをすることにした。
知り合いや家族にバレてしまうと面倒なので私は最寄りから三つほど離れた駅の、住宅地の中にひっそりと佇むその場所で働く事を決めた。
駅の近くに学校があるので学生が頻繁に利用する店なのだが、私の勤務時間は午前中なので、その間は近隣住民が主な相手になる。
と言っても、平日の午前中ともなると来店する客はおろか、道に人が通る気配もない。
そんな場所を学生時代にたまたま見つけた私は大学生になって働くことになったら絶対にここにしようと密かに決めていたのだ。
その時は浪人するなど考えもしてなかったので、まさかこんなにも早くここで働くことになるとは、
と私はこういう時に限って赤くなる信号の、直立した人型の記号をじっと眺めそんな事を考えていた。
駅の改札を駆け足で通り抜け、電光掲示板にチラッと目を向ける。
ちょうど八時だ。
私は電車の止まる音と共に押し寄せてくる波のような人混みを掻き分け、何とか階段を登る。
もうすぐホームに着く残り数段の所で、電車の発車アナウンスが鳴った。
これならギリギリで間に合いそうだ。
そう思って私は階段のすぐ横のドアから車中に入ろうと一歩踏み出した。
とその時
バタン
私の背後で大きな音がした。
その音に驚いた私は急いで後ろを振り向く。
七十代くらいだろう白髪の老婦人が倒れている。
老婦人は倒れたまま起き上がる様子がない。私はびっくりして駆け寄った。
「大丈夫ですかーー 大丈夫ですかーー」
私は声を荒げながら何度もそう叫んだ。
ホームを通りがかる人の視線が一斉に私に集まっているような気がした。
しかし、そんなことなど気にする余裕もなく私は必死になってその婦人の顔に叫び続けた。
二分ほどたった頃だろうか、いや三十秒かもしれない。会社員らしき男性が駅員を連れてやってきた。
「どうしましたか」
駅員が言う。
「えっと…急に音がしたので振り返ったら、おばあさんが倒れていて…今こうやって叫んでるんですけど返事がなくて…とにかく危ない状態かもしれないです」
私は言葉を詰まらせながらもゆっくりと落ち着いてそう言った。
駅員はわかりましたと言って老婦人に何回か声をかけた後、呼吸を確認し応援を呼んだ。
そのテキパキとした手際に圧倒された私はただそれを見守り続けることしかできなかった。
応援を呼んでから数秒もしないうちに担架を持った駅員が走ってきた。
きっと誰かが呼んでくれたのだろう。私は少し気持ちが軽くなったような気がした。駅員たちはそのまま老婦人を担架に乗せ、階段を下っていった。
たった五分間のその出来事は一瞬のように感じられ私は我に帰る。
電車に乗り遅れてしまった、バイトには遅刻だな。
と同時に私の心に恥ずかしさと後ろめたさが押し寄せてくる。
私は視線の感じる人混みの、薄れていくプラットホームの端に逃げるように移動した。
ホームの端は人がまばらでやっと落ち着くことができた。私はすぐ店長に遅れる趣旨を伝え、電光掲示板に目をやる。
八時八分。
次の電車まで後二分もある。私はなるべく人と目を合わさないように斜め下を向きながら反対側のホームに視点を合わせた。
通勤ラッシュの山場を越えた駅は反対ホームも人はまばらで、指で数えるほどしかいない。
そんなプラットホームの先頭に、一人の女子高生が立っているのを見つけた。
姿勢良く先頭に立つ彼女は下を向き、本を読んでいる。
電車の待ち時間に携帯を触らない女子高生は希少だ。
それにしてもこんな時間に学生がいるのは珍しい。
今から電車に乗って果たして学校に遅刻しないのだろうか。
そう思いながら反対ホームの点字ブロックをぼんやりと眺めていた。
「まもなく 一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の…」
電車のアナウンスと共に軽い風が起こる。その風は段々と強さを増しながら、音を立ててこちらにやってくる。下からは救急車の高いサイレンが聞こえてきた。
あの老婦人は無事だろうか。そう物思いにふけっていたその時だった。
「あ。」
思わず心の中でそう叫んだ。私から数メートル先の彼女の手に色褪せた表紙の「春月夜」の文字が見える。
と同時に私は彼女の顔をパッと覗いた。
幼い顔立ちにかかる真っ黒な髪と対照的な白い肌。
宝石のように光るその瞳は、一瞬だけ私の方を向いたような気がした。
轟音と強風を巻き起こしながら銀色の車体が私の視界に入り込む。
その車体の銀と水色の線が徐々に鮮明になっていく。
最後の乗客が降りるのと同時に私は急いで電車に乗り込み、反対ドアから彼女を目で追った。
しかし、反対ホームにも電車が入ってきていた。
鋭い音が鳴り響きドアが閉まる。ドアガラス越しに反対ホームの車内を覗くが、混んでいるせいで中々彼女を見つけることができない。
ゆっくりと動き出した電車の、そのドアに寄りかかりながら私は進行方向とは逆を行く電車をただ眺めていた。
上からは救急車の赤く光ったランプが回っているのが見えた。
彼女はどうしてあの本を読んでいるのだろう。
動き出した電車に揺られながら私はそのことで頭がいっぱいだった。
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