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それは信憑性がなかった。材料自体の希少性は低いが試してみるには手間が多く、その上一年近くの時間を費やさねばならない。
「『聖水と数種類の薬草と馬糞、人の精液を馬の胎と同温で保管する。四十日程してそれが形を持ったら毎日血を与える。これを四十週行うことでホムンクルスが誕生する』……か」
後述された注意書きには常に温度を保ち、素材の品質は良い物を選ぶように記されている。行うならば一年近く、錬成に集中していられる環境が良いのだろう。
「工房はしばらく閉じるとして、食堂の仕事は辞めるしかないな」
必要な薬草はどれも知識として知っている物ばかりだった。品質に拘るなら自分で採集へ行った方がいいが、そうすると遠出になる物がいくつかある。
「装備をしっかり整えないと」
いつかの近所の森と違って、魔物避けの道具を忘れても助けてくれる騎士はいない。
馬糞は伝を辿れば名馬のものを譲ってもらえるだろう。血は毎日与えることから必然的にシミオンの血となる。残る素材、精液は。
「……品質に、こだわるなら……やっぱり……」
都で一番見目が良いと評判で、働きも良く老若男女に優しい好青年。シミオンの恋する男の物を使えば、きっと素晴らしいホムンクルスが生まれるに違いない。
ではどうやって彼の精液を手に入れるか。むむむ、と頭を悩ませても、名案は生まれなかった。
「とりあえず準備を始めよう。一年近く引きこもるなら保存食の量も凄いし、一年稼ぎがなくなるから……ああ、色々蓄えないと」
機会がなければ生まれてくるホムンクルスには申し訳ないが、シミオンの精液を使うしかない。けれどテオドアの精液を手に入れる妙案など、逆立ちしても思い浮かぶ筈がない。機会があるわけないと諦めていた。
錬金術とはすなわち金を練る術(すべ)である。初めてヘロイーズと会った時、彼女が言っていたそのままに、本来は『碑金属(いしころ)を貴金属(おうごん)に変える』ことを目的としていた。
神の領域に踏み込むと言われるだけあり錬金術は奥が深く、解明されていないことが多い。素材の性質・成分を融合させることで他の物質へ作り替えることが出来るが、全くの無から何かを生み出すことは出来ない。薬草から傷薬を作れても、石ころから黄金は作れない。
主目的の達成は未だ叶わないが、副産物は多く生み出された。シミオンがよく使う爆薬は勿論、薬や洗剤といった日用品や魔力を持った不思議な道具まで多岐に渡る。
錬金術師の作る物は効果の高い物が多く、重宝されるのだがシミオンは錬金術だけでは大きな稼ぎにはならない。都の一等地には王宮御用達の高名な錬金術師が工房を構えており、多くの人はそちらを利用する。
ヘロイーズは顔馴染みの商人に品物を卸し、最低限の生活が出来れば充分だとしていた。そこに転がり込んだシミオンはある程度の年になると食堂に貼られていた給仕募集の紙に食い付き、錬金術の修行の合間に働き始めた。少しでもヘロイーズの足しになればと思ったのだ。
「そこまで困ってない筈だから。自分の為に使いなさい」
初めての給料日。給金の入った袋を差し出すと、ヘロイーズはそう言って受け取らなかった。
「給仕の仕事は楽しいかい?」
給金袋を胸にしまっていると尋ねられ、シミオンは迷いつつ頷く。忙しく嫌な思いをすることもあるけれど、人と接するのは楽しかった。
シミオンの答えを聞いたヘロイーズは笑った。
「なら続けてみるといい。どの経験や選択が、どう、きみの為になって返って来るか。わからないものだ。気持ちは嬉しかったよ。ありがとう、シム」
ヘロイーズに言われたからというわけではなく、シミオン自身が決めてそのまま給仕を続けた。メリッサ達と打ち解けていって、彼らにも家族のような親愛を覚えた。
ヘロイーズが旅立つことを知ったビルに、シミオンは変わらずに錬金術師として工房で働きながら給仕の仕事も続けたいことを話すと、とある提案を受けた。食堂の一角にシミオンの作った物を置いて売らせてくれるというのだ。
元々多くはなかった客は工房の扉に食堂での商品販売の貼り紙をすると食堂に来てくれるようになった。都の外れにある工房よりも町中の食堂の方が通いやすい。
庶民に好評の安くて早くて美味い食堂には客が多く、彼らは食堂の一角に新しく置かれた商品を目にするととりあえず見てみてくれた。興味を持って買ってくれる人もいて、そこから人伝に無名の錬金術師が知られていく。
高名な錬金術師の品を易々と手に入れられない層はシミオンの客になってくれた。
シミオンが問題なく暮らしていけるのはヘロイーズが作った基盤もあるが、食堂での働きが大きかった。
「何も辞めなくてもよぉ、一年休みゃいいだろ」
どうしても挑戦したい錬成が出来たこと。その準備と実践のおおよその期間。それらを話し、給仕を辞めることを伝えたシミオンにビルは厳つい顔を歪めて言った。怒ったように見えるが、実際は困った顔をしているのだと短くない付き合いから察せられた。
「でも、僕だけ一年間休ませてもらうなんて悪いですし……それならすっぱり辞めた方が」
「別に一年くらいなら今の面子でどうにかなる。戻ったら一年分働け。商品も残ってる分は店に置いといてやるからよ」
「……でも」
「メリッサもエイダも寂しがる。それともここで働くのはもう嫌だったか?」
勢い良く頭を振って否定する。それを見たビルは「決まりだ」と勝手に話を終わらせてしまう。シミオンとしても悪い話ではなかった。
「次の当番表から休みにしとく。その……ほむ? なんたら、ちゃんと作れよ」
「はい! ありがとうございます!」
「メリッサにはお前から話しとけ」
「はい。ご迷惑をお掛けします」
シミオンは本当に辞めるつもりだった。引き留められると思っていなかったのだ。親切な彼らの世話になって、勝手に親愛を覚えているのはシミオンだけだと思っていた。
ビルの顔は便利な従業員を引き留めるだけにしては真剣過ぎたし、言われた通りシミオン自ら一年間の休みを話すと、メリッサは酷く怒ってきた。
働き始めた頃のシミオンが皿を割ったり注文を間違えたりしても「大丈夫よ」「ゆっくり慣れていけばいいわ」と微笑んでくれさえしたメリッサが「どうして!」と詰め寄ってくる姿なんて見たことがない。
「凄く手間のかかる錬成がしたくて……」
「……錬金術の仕事なのね。でも……一年なんて……長いわ」
「うん。あの、僕でもいなかったら……忙しくなるよね。ごめんなさい」
「人手はどうでもいいのよ。私は……シミオンがいないと寂しいわ」
悲しむメリッサに精一杯謝るしかない。メリッサ達に会えなくて寂しいのはシミオンも同じだが、それ以上にホムンクルスを――シミオンの家族になってくれる存在を錬成したかった。
***
給仕の仕事は一月毎に勤務時間を割り当てられている。錬金術師としての仕事は規則的に決まったものは週に一度訪れる商人への納品くらいだ。たまにヘロイーズの知人が仕事の依頼に来てくれたり、客が直接工房を訪ねて来たりもする。
あらかじめわかっている範囲の予定表を作り、空いた時間で素材集めをする。または保存食の準備だ。
忙しく過ごしているうちに休みの始まりが三日後に迫り、僅かな時間も無駄にしたくなかった。
今日のシミオンは夕方から給仕の仕事があるので工房で保存食を作っていた。ホムンクルス錬成を行う一年近く、外出はしない。最低限の睡眠と風呂以外はホムンクルスを見守るつもりだ。
「一年……どのくらい作ればいいかなぁ」
呟きながらシミオンが買ってきたばかりのパンに、手にした小瓶の中身を足らす。透明な液体を吸ったパンはみるみるうちにしわしわと干からびてしまった。
これもシミオンの生み出した魔法薬であった。触れた物を瞬間的に乾燥させ、水をかければ元に戻る。素材には防腐成分のある薬草も含まれているので腐敗にも強い優れものだ。
保存食を作ったり、必要な素材の確認をするうちに日暮れが近付き、シミオンが出勤する時間になった。
ビルの食堂は昼前から夜遅くまで開いている。昼は幅広い年齢層の客が訪れる大衆食堂として親しまれるが、夕飯時が終わり夜が深まると一転、町の男達が集まる酒場に変わる。
酒の入った人間は普段と違う顔を見せたりもする。訳もなく笑ったり怒ったり泣いたり。
素面では出来ないことをする。それは常ならかかる抑止が働かなくなるということだ。路地裏にゴミを出しに行っていたシミオンが店に戻ると、異様な雰囲気が漂っていた。
「――だからよぉメリッサァ!! オレと結婚してくれよ!」
「……いつも言ってるでしょう。私は強くて優しい人が好きなの。貴方、ちっとも強くないじゃない」
店に毎晩のように通ってはメリッサに絡んでいる男だった。ビルより大きい屈強な体躯の男に腕を掴まれているというのに、メリッサは少しも退かずに言い返している。
「あ!? オレよりつぇえ奴なんていねぇよ!!」
メリッサの答えに激昂した様子を見て、シミオンが飛び出す前に二人に割って入る人がいた。仕事帰りか休憩中か、騎士の制服に身を包んだ涼しげな顔の美青年――テオドアは、メリッサを捕える男の腕を掴む。男は短い悲鳴を上げてメリッサから手を離した。
「私よりは弱いようだが」
悪漢に絡まれる美女を背に庇い立つ騎士。絵物語のワンシーンのような光景だった。
騎士を睨み付ける悪漢が動くより先に、ビルからの目配せを受け取ったシミオンは今度こそ動いた。
「メリッサが好きなのはお酒に強くて気風がいい男だよ! さあ今から飲み比べだ! 見事優勝した暁にはメリッサから称賛の言葉が貰えるよ!」
一触即発だった空気が呆気に取られる。参加者を募るシミオンに向けて、ちらほらと手が上がる。
「私も参加するよ」
テオドアが手を上げればメリッサに絡んでいた男も手を上げる。聴衆によりテーブルが酒場の真ん中に寄せ集められ、即席の決闘場となる。参加者が席に着く中、見物客は賭けを始めた。
「シミオンも参加するんだね」
「変な奴が勝ってメリッサに変なことされると困るからね」
シミオンの隣にはテオドアが座った。明らかに機嫌の悪いビルよって果実酒の入ったジョッキが運ばれてくる。
エイダがカウンターベルを鳴らせば闘いの始まりだった。一杯毎にベルが鳴る。杯が進む毎に倒れる者が増えていく。あの男は一番始めに沈んだ。
最後まで残ったのは顔色を変えずに飲み続けるシミオンと、その隣で顔を赤らめるテオドアだった。
シミオンはザルだった。どれだけ飲んでも酔わない。二日酔いとも縁遠い。酒場で何か揉め事が起きるととりあえず飲み比べ大会を開いてあやふやにさせようとするのがビルの手だった。なるべく穏便に済ませたいのだ。
(でも今日のは危なかった。テオドアがいなかったらビルさんが殴りに行ってたろうなぁ)
ベルが鳴る。新しく置かれたジョッキを持ち、一息に飲み干す。
可愛い娘の危機とあらば、ビルは自分より若く強そうな男相手でも戦うだろう。抑止の外れた酔っ払い相手ではビルの方が危ないのでテオドアが居合わせてくれたのも助けに入ってくれたのも幸運だった。
(……負けてあげた方がいいんだろうな)
ベルが鳴る。新しいジョッキを飲み干す。
テオドアがメリッサを助けたのは騎士としての義務感だけではないのだろう。だって。
(飲み比べにまで参加する必要はないよ)
ベルが鳴る。新しいジョッキを飲み干――そうとして、迷っている間に。隣から倒れる音がする。シミオン同様新しいジョッキを手にしたテオドアが、テーブルに伏せってしまっていた。
テオドアのジョッキには赤紫色の酒が残っている。
「おう。飲めシミオン」
ビルに言われて自分の酒を飲み干す。駆け寄ってきたメリッサから「シミオン、すごいわ!」と称賛の言葉を貰い、飲み比べはシミオンが優勝した。
常連客達には勝者の予想が付いていたので特に盛り上がりはなかった。
敗者達がテーブルに放っておかれる中、メリッサに絡んでいた男はビルと有志の手によって店先に蹴り転がされた。
「シミオン。あいつの顔覚えとけ。出禁だ出禁」
「はぁ。了解です」
「あー。助けてくれた騎士様をよ、送ってってやってくれねぇか。今日はもう上がりでいい」
シミオンは頷いた。変な声を出したりしてないか心配だったけれど、ビルが何も言ってこないからきちんと反応出来たのだろう。
テーブルに伏せるテオドアへ視線を向ける。彼に関われて嬉しい。彼の恋を察して悲しい。相手がメリッサなら仕方ない。他にも。シミオンの小さな胸は複雑な感情で溢れていた。
「『聖水と数種類の薬草と馬糞、人の精液を馬の胎と同温で保管する。四十日程してそれが形を持ったら毎日血を与える。これを四十週行うことでホムンクルスが誕生する』……か」
後述された注意書きには常に温度を保ち、素材の品質は良い物を選ぶように記されている。行うならば一年近く、錬成に集中していられる環境が良いのだろう。
「工房はしばらく閉じるとして、食堂の仕事は辞めるしかないな」
必要な薬草はどれも知識として知っている物ばかりだった。品質に拘るなら自分で採集へ行った方がいいが、そうすると遠出になる物がいくつかある。
「装備をしっかり整えないと」
いつかの近所の森と違って、魔物避けの道具を忘れても助けてくれる騎士はいない。
馬糞は伝を辿れば名馬のものを譲ってもらえるだろう。血は毎日与えることから必然的にシミオンの血となる。残る素材、精液は。
「……品質に、こだわるなら……やっぱり……」
都で一番見目が良いと評判で、働きも良く老若男女に優しい好青年。シミオンの恋する男の物を使えば、きっと素晴らしいホムンクルスが生まれるに違いない。
ではどうやって彼の精液を手に入れるか。むむむ、と頭を悩ませても、名案は生まれなかった。
「とりあえず準備を始めよう。一年近く引きこもるなら保存食の量も凄いし、一年稼ぎがなくなるから……ああ、色々蓄えないと」
機会がなければ生まれてくるホムンクルスには申し訳ないが、シミオンの精液を使うしかない。けれどテオドアの精液を手に入れる妙案など、逆立ちしても思い浮かぶ筈がない。機会があるわけないと諦めていた。
錬金術とはすなわち金を練る術(すべ)である。初めてヘロイーズと会った時、彼女が言っていたそのままに、本来は『碑金属(いしころ)を貴金属(おうごん)に変える』ことを目的としていた。
神の領域に踏み込むと言われるだけあり錬金術は奥が深く、解明されていないことが多い。素材の性質・成分を融合させることで他の物質へ作り替えることが出来るが、全くの無から何かを生み出すことは出来ない。薬草から傷薬を作れても、石ころから黄金は作れない。
主目的の達成は未だ叶わないが、副産物は多く生み出された。シミオンがよく使う爆薬は勿論、薬や洗剤といった日用品や魔力を持った不思議な道具まで多岐に渡る。
錬金術師の作る物は効果の高い物が多く、重宝されるのだがシミオンは錬金術だけでは大きな稼ぎにはならない。都の一等地には王宮御用達の高名な錬金術師が工房を構えており、多くの人はそちらを利用する。
ヘロイーズは顔馴染みの商人に品物を卸し、最低限の生活が出来れば充分だとしていた。そこに転がり込んだシミオンはある程度の年になると食堂に貼られていた給仕募集の紙に食い付き、錬金術の修行の合間に働き始めた。少しでもヘロイーズの足しになればと思ったのだ。
「そこまで困ってない筈だから。自分の為に使いなさい」
初めての給料日。給金の入った袋を差し出すと、ヘロイーズはそう言って受け取らなかった。
「給仕の仕事は楽しいかい?」
給金袋を胸にしまっていると尋ねられ、シミオンは迷いつつ頷く。忙しく嫌な思いをすることもあるけれど、人と接するのは楽しかった。
シミオンの答えを聞いたヘロイーズは笑った。
「なら続けてみるといい。どの経験や選択が、どう、きみの為になって返って来るか。わからないものだ。気持ちは嬉しかったよ。ありがとう、シム」
ヘロイーズに言われたからというわけではなく、シミオン自身が決めてそのまま給仕を続けた。メリッサ達と打ち解けていって、彼らにも家族のような親愛を覚えた。
ヘロイーズが旅立つことを知ったビルに、シミオンは変わらずに錬金術師として工房で働きながら給仕の仕事も続けたいことを話すと、とある提案を受けた。食堂の一角にシミオンの作った物を置いて売らせてくれるというのだ。
元々多くはなかった客は工房の扉に食堂での商品販売の貼り紙をすると食堂に来てくれるようになった。都の外れにある工房よりも町中の食堂の方が通いやすい。
庶民に好評の安くて早くて美味い食堂には客が多く、彼らは食堂の一角に新しく置かれた商品を目にするととりあえず見てみてくれた。興味を持って買ってくれる人もいて、そこから人伝に無名の錬金術師が知られていく。
高名な錬金術師の品を易々と手に入れられない層はシミオンの客になってくれた。
シミオンが問題なく暮らしていけるのはヘロイーズが作った基盤もあるが、食堂での働きが大きかった。
「何も辞めなくてもよぉ、一年休みゃいいだろ」
どうしても挑戦したい錬成が出来たこと。その準備と実践のおおよその期間。それらを話し、給仕を辞めることを伝えたシミオンにビルは厳つい顔を歪めて言った。怒ったように見えるが、実際は困った顔をしているのだと短くない付き合いから察せられた。
「でも、僕だけ一年間休ませてもらうなんて悪いですし……それならすっぱり辞めた方が」
「別に一年くらいなら今の面子でどうにかなる。戻ったら一年分働け。商品も残ってる分は店に置いといてやるからよ」
「……でも」
「メリッサもエイダも寂しがる。それともここで働くのはもう嫌だったか?」
勢い良く頭を振って否定する。それを見たビルは「決まりだ」と勝手に話を終わらせてしまう。シミオンとしても悪い話ではなかった。
「次の当番表から休みにしとく。その……ほむ? なんたら、ちゃんと作れよ」
「はい! ありがとうございます!」
「メリッサにはお前から話しとけ」
「はい。ご迷惑をお掛けします」
シミオンは本当に辞めるつもりだった。引き留められると思っていなかったのだ。親切な彼らの世話になって、勝手に親愛を覚えているのはシミオンだけだと思っていた。
ビルの顔は便利な従業員を引き留めるだけにしては真剣過ぎたし、言われた通りシミオン自ら一年間の休みを話すと、メリッサは酷く怒ってきた。
働き始めた頃のシミオンが皿を割ったり注文を間違えたりしても「大丈夫よ」「ゆっくり慣れていけばいいわ」と微笑んでくれさえしたメリッサが「どうして!」と詰め寄ってくる姿なんて見たことがない。
「凄く手間のかかる錬成がしたくて……」
「……錬金術の仕事なのね。でも……一年なんて……長いわ」
「うん。あの、僕でもいなかったら……忙しくなるよね。ごめんなさい」
「人手はどうでもいいのよ。私は……シミオンがいないと寂しいわ」
悲しむメリッサに精一杯謝るしかない。メリッサ達に会えなくて寂しいのはシミオンも同じだが、それ以上にホムンクルスを――シミオンの家族になってくれる存在を錬成したかった。
***
給仕の仕事は一月毎に勤務時間を割り当てられている。錬金術師としての仕事は規則的に決まったものは週に一度訪れる商人への納品くらいだ。たまにヘロイーズの知人が仕事の依頼に来てくれたり、客が直接工房を訪ねて来たりもする。
あらかじめわかっている範囲の予定表を作り、空いた時間で素材集めをする。または保存食の準備だ。
忙しく過ごしているうちに休みの始まりが三日後に迫り、僅かな時間も無駄にしたくなかった。
今日のシミオンは夕方から給仕の仕事があるので工房で保存食を作っていた。ホムンクルス錬成を行う一年近く、外出はしない。最低限の睡眠と風呂以外はホムンクルスを見守るつもりだ。
「一年……どのくらい作ればいいかなぁ」
呟きながらシミオンが買ってきたばかりのパンに、手にした小瓶の中身を足らす。透明な液体を吸ったパンはみるみるうちにしわしわと干からびてしまった。
これもシミオンの生み出した魔法薬であった。触れた物を瞬間的に乾燥させ、水をかければ元に戻る。素材には防腐成分のある薬草も含まれているので腐敗にも強い優れものだ。
保存食を作ったり、必要な素材の確認をするうちに日暮れが近付き、シミオンが出勤する時間になった。
ビルの食堂は昼前から夜遅くまで開いている。昼は幅広い年齢層の客が訪れる大衆食堂として親しまれるが、夕飯時が終わり夜が深まると一転、町の男達が集まる酒場に変わる。
酒の入った人間は普段と違う顔を見せたりもする。訳もなく笑ったり怒ったり泣いたり。
素面では出来ないことをする。それは常ならかかる抑止が働かなくなるということだ。路地裏にゴミを出しに行っていたシミオンが店に戻ると、異様な雰囲気が漂っていた。
「――だからよぉメリッサァ!! オレと結婚してくれよ!」
「……いつも言ってるでしょう。私は強くて優しい人が好きなの。貴方、ちっとも強くないじゃない」
店に毎晩のように通ってはメリッサに絡んでいる男だった。ビルより大きい屈強な体躯の男に腕を掴まれているというのに、メリッサは少しも退かずに言い返している。
「あ!? オレよりつぇえ奴なんていねぇよ!!」
メリッサの答えに激昂した様子を見て、シミオンが飛び出す前に二人に割って入る人がいた。仕事帰りか休憩中か、騎士の制服に身を包んだ涼しげな顔の美青年――テオドアは、メリッサを捕える男の腕を掴む。男は短い悲鳴を上げてメリッサから手を離した。
「私よりは弱いようだが」
悪漢に絡まれる美女を背に庇い立つ騎士。絵物語のワンシーンのような光景だった。
騎士を睨み付ける悪漢が動くより先に、ビルからの目配せを受け取ったシミオンは今度こそ動いた。
「メリッサが好きなのはお酒に強くて気風がいい男だよ! さあ今から飲み比べだ! 見事優勝した暁にはメリッサから称賛の言葉が貰えるよ!」
一触即発だった空気が呆気に取られる。参加者を募るシミオンに向けて、ちらほらと手が上がる。
「私も参加するよ」
テオドアが手を上げればメリッサに絡んでいた男も手を上げる。聴衆によりテーブルが酒場の真ん中に寄せ集められ、即席の決闘場となる。参加者が席に着く中、見物客は賭けを始めた。
「シミオンも参加するんだね」
「変な奴が勝ってメリッサに変なことされると困るからね」
シミオンの隣にはテオドアが座った。明らかに機嫌の悪いビルよって果実酒の入ったジョッキが運ばれてくる。
エイダがカウンターベルを鳴らせば闘いの始まりだった。一杯毎にベルが鳴る。杯が進む毎に倒れる者が増えていく。あの男は一番始めに沈んだ。
最後まで残ったのは顔色を変えずに飲み続けるシミオンと、その隣で顔を赤らめるテオドアだった。
シミオンはザルだった。どれだけ飲んでも酔わない。二日酔いとも縁遠い。酒場で何か揉め事が起きるととりあえず飲み比べ大会を開いてあやふやにさせようとするのがビルの手だった。なるべく穏便に済ませたいのだ。
(でも今日のは危なかった。テオドアがいなかったらビルさんが殴りに行ってたろうなぁ)
ベルが鳴る。新しく置かれたジョッキを持ち、一息に飲み干す。
可愛い娘の危機とあらば、ビルは自分より若く強そうな男相手でも戦うだろう。抑止の外れた酔っ払い相手ではビルの方が危ないのでテオドアが居合わせてくれたのも助けに入ってくれたのも幸運だった。
(……負けてあげた方がいいんだろうな)
ベルが鳴る。新しいジョッキを飲み干す。
テオドアがメリッサを助けたのは騎士としての義務感だけではないのだろう。だって。
(飲み比べにまで参加する必要はないよ)
ベルが鳴る。新しいジョッキを飲み干――そうとして、迷っている間に。隣から倒れる音がする。シミオン同様新しいジョッキを手にしたテオドアが、テーブルに伏せってしまっていた。
テオドアのジョッキには赤紫色の酒が残っている。
「おう。飲めシミオン」
ビルに言われて自分の酒を飲み干す。駆け寄ってきたメリッサから「シミオン、すごいわ!」と称賛の言葉を貰い、飲み比べはシミオンが優勝した。
常連客達には勝者の予想が付いていたので特に盛り上がりはなかった。
敗者達がテーブルに放っておかれる中、メリッサに絡んでいた男はビルと有志の手によって店先に蹴り転がされた。
「シミオン。あいつの顔覚えとけ。出禁だ出禁」
「はぁ。了解です」
「あー。助けてくれた騎士様をよ、送ってってやってくれねぇか。今日はもう上がりでいい」
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