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1.最期の言葉
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それからふたりはDom/Subのパートナーとなり、頻繁にプレイをするようになった。三年半の付き合いの間に、和泉は尚紘に絶対の信頼を寄せ、自身の身体の隅々まで尚紘に許すようになっていた。
和泉は大学でも自分はNormalと公言していた。さらに男同士のパートナーだったため、ふたりがそのような間柄だということは他の誰にも言わなかった。周囲からはふたりは仲のいい先輩後輩だと思われていただろう。
尚紘と過ごす時間はいつも幸せだった。自分にも人並みにパートナーが見つかるなんて思ってもみなかった。
どんなことがあっても、尚紘さえいれば生きていけると強く思っていた。
「理人は可愛い」
尚紘はそう言って和泉を抱き締めて優しいコマンドをくれる。
早くに両親を無くした和泉は周囲の顔色を伺いながら生きてきたせいか、自己表現が苦手だ。だが尚紘は素直に甘えられず、可愛げのない和泉のことを理解し、受け入れてくれた。
「理人って、本当に綺麗な顔してるよね。茶色がかった髪も目も、綺麗な形の耳も鼻も、全部好みだよ」
そう言われると、とても安心する。周囲は和泉の容姿を褒めてくれることがあるので、悪くない見た目なのかもしれないが、和泉は自分の顔はあまり好きじゃない。
見た目だけでも尚紘の好みだと知ると嬉しくなる。
恋人、ではなかったと思う。尚紘と「付き合おう」や「愛してる」の言葉は一度も交わしていない。こんな自分が尚紘に本気で愛してもらえるとは考え難い。
和泉は尚紘のことを、性欲を発散させるためのDom/Subのパートナーだと思っていた。
和泉が大学五年生になり、尚紘が就職し働き始めた頃の出来事だった。
和泉は大学のカリキュラムに従い、二ヶ月半に及ぶ病院実習の最中だった。
その日は金曜日だったが、尚紘は有給休暇を取得したと言っていた。そのため尚紘は「実習が終わるころに、理人を車で迎えに行くよ。理人と一緒に行きたい店があるんだ」と言って、和泉もそれを了承した。
その日の天気は覚えている。六月の冷たい雨の日だった。病院の植え込みには青紫の紫陽花が綺麗に咲いていたことを鮮明に記憶している。
実習を終え、病院を出た和泉は傘を差し、尚紘との待ち合わせの場所へ急ぐ。だが、そこには尚紘の車はなかった。
そのときだった。派手な衝突音が聞こえて周囲がざわついた。和泉も胸騒ぎがして野次馬とともに音のしたほうへと駆けていく。
目の前にあった見覚えのある車の車体は、国道脇のカードレールにぶつかり、前面が見事にひしゃげていた。
まさかと思ったが、車種だけじゃない、車のナンバーも尚紘の車と一致していることに気がついて和泉の足は迷わず動いていた。
「尚紘っ!」
手にしていた傘を放り投げ、和泉は必死で叫んで運転席へと向かう。早く尚紘を助けて治療を受けさせねばならない。
運転席にいた尚紘は見るも無残な姿だった。頭からは血を流し、血まみれでせっかくの男前が台無しになっていた。
運転席の窓が割れ、開いていたことだけが救いで、和泉はそこから尚紘の救出を試みようと必死で思考する。
「理人……」
「尚紘っ! 俺がわかるかっ?」
尚紘が声を発したことにとても安堵した。
意識もあるし、大丈夫だ。絶対に助けてやる。
「危ないから車から離れろ……」
「嫌だ! 離れるもんか。お前を必ず助けてやる、待ってろよ!」
そう言って運転席にいる尚紘の状態をまじまじと確認して気がついた。ひしゃげた車体に潰された尚紘の腹部から下は、人としての原型がない。素人目で見ても駄目だとわかるくらいだった。
その事実を目の当たりにした途端、和泉の目からとめどなく涙が溢れ出す。
今、この瞬間が、尚紘との最後となる。
あんなに一緒に過ごして、尚紘としかできないようなこともたくさんしてきた。
尚紘との思い出が走馬灯のように和泉の頭の中を駆け巡っていく。
「最後に俺にKiss」
尚紘はこの後に及んでコマンドを使ってきた。その力はいつも味わっている尚紘のコマンドとは思えないくらいに弱々しかった。
「な、なお……」
和泉は縋るように尚紘に顔を寄せ、必死で尚紘の要求に応えた。
これが尚紘との最後のキスだった。いつもは甘美に溺れるはずのキスなのに、このときのキスは酷い血の味がした。
「Goodboy」
いつも尚紘はケアのときに和泉の頭や身体を撫でてくれるのに、身体が動かせないようで尚紘に撫でてもらえなかった。
「尚紘、尚紘……」
嘘だ。信じたくない。この世から尚紘がいなくなるなんてことはありえない。
「理人。愛してる」
初めて尚紘の口からそんな言葉を聞いた。ただのDom/Subのプレイをするためのパートナーだと思っていたのに。
「理人は……? Say」
言えるものか。和泉は尚紘に支配されていたい。これからも、ずっと。自分が死ぬまで一生。
ふたりの間で最初に決めたセーフワードは《愛してる》だった。
それは和泉が希望した言葉だ。
ふたりの関係は突然のプレイ行為から始まった。そのため尚紘には本気にならない、という自らの意思表示のための言葉だった。
セーフワードとはDom/Subのプレイの前にふたりの間で決めておくもので、Subがプレイ中にDomの支配に耐えきれなくなったときにセーフワードを言うことで、Domの支配から完全に切り離されるという、Subを守るためのものだ。
「言いたくない。頼むから俺をずっと支配して。よそ見をするなって、俺だけを想えって命令してくれよ……」
これは年老いたDom/Subのパートナー間で行われることがある方法だ。
パートナーのDomが先に亡くなるとわかったとき、残されたSubが体調不良に陥らないように、わざと一生効力を持つコマンドをSubに与えて死ぬのだ。そうすることでSubはDomを失っても、ずっとDomの支配下にいることができ、新たなパートナーなしに生涯を安定して過ごすことができる。
「そんなことしない……俺がいなくなっても理人には新しいパートナーができるよ」
「無理だっ」
尚紘以上のDomなんてこの先現れるわけがない。尚紘のことを忘れる自分など想像がつかない。
「理人、愛してるよ。お前は? 俺のこと嫌いか? 俺じゃ、お前の恋人には相応しくなかった……?」
「恋人……? 尚紘は俺のこと恋人だと思ってたのか?」
「違うの……?」
和泉は恋人関係だとは思っていなかった。でも、尚紘はそう思ってくれていた。
どうしてもっと早く、そのことをお互い確認し合わなかったのだろう。和泉だって尚紘を唯一無二の存在にしたいと願っていたのに。
「俺の最後の願いを叶えてよ……理人、Say ……」
尚紘の声はこのやり取りの間にも弱々しくなっていく。
「あ、う……ぁ……!」
和泉の感情も思考もめちゃくちゃだ。目の前で起きた、この現実を受け入れられない。だが、和泉が混乱しているうちにも刻一刻と尚紘との別れが近づいている。
「尚紘……っ」
和泉の目の前には大好きだった尚紘の瞳があって、その双眼は今にも閉じられてしまいそうだ。うつらうつらしながらも、それでも尚紘は和泉を見つめている。
「尚紘、《愛してる》。俺も、尚紘のこと愛してるよ」
Subである和泉の口からセーフワードが放たれた。これで、Domである尚紘からの支配は終わる。
尚紘は口角を上げ、満足そうな顔で息を引き取り、和泉は最愛のパートナーを失った。
和泉は大学でも自分はNormalと公言していた。さらに男同士のパートナーだったため、ふたりがそのような間柄だということは他の誰にも言わなかった。周囲からはふたりは仲のいい先輩後輩だと思われていただろう。
尚紘と過ごす時間はいつも幸せだった。自分にも人並みにパートナーが見つかるなんて思ってもみなかった。
どんなことがあっても、尚紘さえいれば生きていけると強く思っていた。
「理人は可愛い」
尚紘はそう言って和泉を抱き締めて優しいコマンドをくれる。
早くに両親を無くした和泉は周囲の顔色を伺いながら生きてきたせいか、自己表現が苦手だ。だが尚紘は素直に甘えられず、可愛げのない和泉のことを理解し、受け入れてくれた。
「理人って、本当に綺麗な顔してるよね。茶色がかった髪も目も、綺麗な形の耳も鼻も、全部好みだよ」
そう言われると、とても安心する。周囲は和泉の容姿を褒めてくれることがあるので、悪くない見た目なのかもしれないが、和泉は自分の顔はあまり好きじゃない。
見た目だけでも尚紘の好みだと知ると嬉しくなる。
恋人、ではなかったと思う。尚紘と「付き合おう」や「愛してる」の言葉は一度も交わしていない。こんな自分が尚紘に本気で愛してもらえるとは考え難い。
和泉は尚紘のことを、性欲を発散させるためのDom/Subのパートナーだと思っていた。
和泉が大学五年生になり、尚紘が就職し働き始めた頃の出来事だった。
和泉は大学のカリキュラムに従い、二ヶ月半に及ぶ病院実習の最中だった。
その日は金曜日だったが、尚紘は有給休暇を取得したと言っていた。そのため尚紘は「実習が終わるころに、理人を車で迎えに行くよ。理人と一緒に行きたい店があるんだ」と言って、和泉もそれを了承した。
その日の天気は覚えている。六月の冷たい雨の日だった。病院の植え込みには青紫の紫陽花が綺麗に咲いていたことを鮮明に記憶している。
実習を終え、病院を出た和泉は傘を差し、尚紘との待ち合わせの場所へ急ぐ。だが、そこには尚紘の車はなかった。
そのときだった。派手な衝突音が聞こえて周囲がざわついた。和泉も胸騒ぎがして野次馬とともに音のしたほうへと駆けていく。
目の前にあった見覚えのある車の車体は、国道脇のカードレールにぶつかり、前面が見事にひしゃげていた。
まさかと思ったが、車種だけじゃない、車のナンバーも尚紘の車と一致していることに気がついて和泉の足は迷わず動いていた。
「尚紘っ!」
手にしていた傘を放り投げ、和泉は必死で叫んで運転席へと向かう。早く尚紘を助けて治療を受けさせねばならない。
運転席にいた尚紘は見るも無残な姿だった。頭からは血を流し、血まみれでせっかくの男前が台無しになっていた。
運転席の窓が割れ、開いていたことだけが救いで、和泉はそこから尚紘の救出を試みようと必死で思考する。
「理人……」
「尚紘っ! 俺がわかるかっ?」
尚紘が声を発したことにとても安堵した。
意識もあるし、大丈夫だ。絶対に助けてやる。
「危ないから車から離れろ……」
「嫌だ! 離れるもんか。お前を必ず助けてやる、待ってろよ!」
そう言って運転席にいる尚紘の状態をまじまじと確認して気がついた。ひしゃげた車体に潰された尚紘の腹部から下は、人としての原型がない。素人目で見ても駄目だとわかるくらいだった。
その事実を目の当たりにした途端、和泉の目からとめどなく涙が溢れ出す。
今、この瞬間が、尚紘との最後となる。
あんなに一緒に過ごして、尚紘としかできないようなこともたくさんしてきた。
尚紘との思い出が走馬灯のように和泉の頭の中を駆け巡っていく。
「最後に俺にKiss」
尚紘はこの後に及んでコマンドを使ってきた。その力はいつも味わっている尚紘のコマンドとは思えないくらいに弱々しかった。
「な、なお……」
和泉は縋るように尚紘に顔を寄せ、必死で尚紘の要求に応えた。
これが尚紘との最後のキスだった。いつもは甘美に溺れるはずのキスなのに、このときのキスは酷い血の味がした。
「Goodboy」
いつも尚紘はケアのときに和泉の頭や身体を撫でてくれるのに、身体が動かせないようで尚紘に撫でてもらえなかった。
「尚紘、尚紘……」
嘘だ。信じたくない。この世から尚紘がいなくなるなんてことはありえない。
「理人。愛してる」
初めて尚紘の口からそんな言葉を聞いた。ただのDom/Subのプレイをするためのパートナーだと思っていたのに。
「理人は……? Say」
言えるものか。和泉は尚紘に支配されていたい。これからも、ずっと。自分が死ぬまで一生。
ふたりの間で最初に決めたセーフワードは《愛してる》だった。
それは和泉が希望した言葉だ。
ふたりの関係は突然のプレイ行為から始まった。そのため尚紘には本気にならない、という自らの意思表示のための言葉だった。
セーフワードとはDom/Subのプレイの前にふたりの間で決めておくもので、Subがプレイ中にDomの支配に耐えきれなくなったときにセーフワードを言うことで、Domの支配から完全に切り離されるという、Subを守るためのものだ。
「言いたくない。頼むから俺をずっと支配して。よそ見をするなって、俺だけを想えって命令してくれよ……」
これは年老いたDom/Subのパートナー間で行われることがある方法だ。
パートナーのDomが先に亡くなるとわかったとき、残されたSubが体調不良に陥らないように、わざと一生効力を持つコマンドをSubに与えて死ぬのだ。そうすることでSubはDomを失っても、ずっとDomの支配下にいることができ、新たなパートナーなしに生涯を安定して過ごすことができる。
「そんなことしない……俺がいなくなっても理人には新しいパートナーができるよ」
「無理だっ」
尚紘以上のDomなんてこの先現れるわけがない。尚紘のことを忘れる自分など想像がつかない。
「理人、愛してるよ。お前は? 俺のこと嫌いか? 俺じゃ、お前の恋人には相応しくなかった……?」
「恋人……? 尚紘は俺のこと恋人だと思ってたのか?」
「違うの……?」
和泉は恋人関係だとは思っていなかった。でも、尚紘はそう思ってくれていた。
どうしてもっと早く、そのことをお互い確認し合わなかったのだろう。和泉だって尚紘を唯一無二の存在にしたいと願っていたのに。
「俺の最後の願いを叶えてよ……理人、Say ……」
尚紘の声はこのやり取りの間にも弱々しくなっていく。
「あ、う……ぁ……!」
和泉の感情も思考もめちゃくちゃだ。目の前で起きた、この現実を受け入れられない。だが、和泉が混乱しているうちにも刻一刻と尚紘との別れが近づいている。
「尚紘……っ」
和泉の目の前には大好きだった尚紘の瞳があって、その双眼は今にも閉じられてしまいそうだ。うつらうつらしながらも、それでも尚紘は和泉を見つめている。
「尚紘、《愛してる》。俺も、尚紘のこと愛してるよ」
Subである和泉の口からセーフワードが放たれた。これで、Domである尚紘からの支配は終わる。
尚紘は口角を上げ、満足そうな顔で息を引き取り、和泉は最愛のパートナーを失った。
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