生き急ぐオメガの献身

雨宮里玖

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9.遠い昔の記憶

 オメガでもアルファでもないころ、ふたりは親友だった。
 シノンの遠い記憶の中では、寂しがり屋のシノンを笑顔にしてくれたのはいつもヘリオスだった。

 物心ついたころから勉学に剣術、帝王学まで施されるつまらない英才教育。保護という名の厳しい監視に晒される毎日の中、唯一の楽しみはヘリオスと過ごす時間だった。

 三歳年上のヘリオスと出会ったのは、偶然だったと思う。
 当時のシノンの立場は公爵令息ではない。名前はニア・フォアフィールド。貴族の端くれみたいな立場で、辺境の地に暮らし、身分は決して高くはなかった。

 裁縫も、料理も、身の回りのことは全部自分自身でやった。侍女や料理人など家にはひとりもいない。雇う金がなかったのだ。
 それでも見栄っ張りな両親は、有り金をつぎ込んで子どもたちを貴族学校に通わせた。貴族学校に子どもを通わせることが貴族の常識、底辺貴族たちのひとつのステータスになっていたからだ。

 そして、そこにヘリオスも通っていた。

 九歳のシノンことニアは、課外授業で大勢の生徒たちと一緒に海に来ていた。

「痛っ!」

 素足で海に入っていたニアは、棘で身を守る生き物をうっかり踏んでしまったのだ。
 教師から棘には毒があるから、履き物を脱がないようにと注意を受けていた。それなのに砂の感触を直に味わいたくて、靴を脱いだニアのせいだ。

 どうしよう、怒られる、と思った。

 この怪我は黙っていなければならない。でもニアの足の裏には棘が刺さっているし、傷口はジンジンと痺れてきた。

 ニアが泣きそうになっていたときに「どうした?」と声をかけてきたのがヘリオスだ。

 ヘリオスはすぐに状況を察知し、ニアを海から引っ張り上げ、横抱きにした。
 ヘリオスは当時十二歳。体格のいいヘリオスは、細身のニアなど軽々と抱き上げ、岩の上に座らせた。

「放っておくと全身に毒が回るぞ」

 ヘリオスは容赦なくニアの足から棘を引き抜いた。鋭い痛みを感じたが、潔く抜いてくれたおかげで痛みは一瞬で済んだ。

「早く先生に……」
「嫌だ! 言わないでっ、成績が下がるから……」

 少しでも成績が下がるとニアの親はふたり揃って恐ろしい顔をする。学校の成績は常に上位でいないと自分たちの息子だと認めたくないような人たちだ。

「でも、このままじゃ……」

 ヘリオスは一考したあと「毒を吸い出すしかない」とニアの傷口へ唇を押し当ててきた。

「えぇっ!」

 驚いたのはニアだ。まさかヘリオスが自らの口で毒を吸い出そうとするとは思わなかった。

「そんなことさせられないよ……」
「いいからじっとしてろっ」

 ヘリオスはニアの足の裏に唇を当てて患部を強く吸い上げる。ヘリオスは何度も何度も、毒の混ざったニアの血液を吸い上げては吐き出した。

「このくらいやれば大丈夫だ」

 海水で口をすすいだヘリオスは、首に巻いていた布を取り、怪我をしたニアの足をキツく縛る。

「お前、靴は?」
「あっちにあるけど……」

 ニアがおずおずと指差すと、ヘリオスは「そこまで連れてってやる」とニアを再び横抱きにして運んでくれた。
 ヘリオスの腕に抱かれながら、ニアはそっとヘリオスのことを盗み見る。
 ヘリオスの金色の髪は日に照らされてキラキラ光っている。深い海のような色をした濃碧の瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だ。
 見ているだけでニアの胸がドクンドクンと高鳴っていく。

 誰かに対してこんな気持ちになるのは初めてだ。頭がふわふわするような、高揚感に包まれる不思議な感覚だった。

「ありがとう……」

 ニアはそっとヘリオスの首に腕を回してしがみつく。
 ヘリオスはすごくいい匂いがした。あれは、後になって思えば、アルファのフェロモンの香りだったのかもしれない。

 それがヘリオスとの出会いで、ニアはそのときからヘリオスを慕い、行動を共にするようになった。
 勉強を教えてもらったり、放課後の僅かな時間にお互いの話をしたり、ヘリオスと過ごした時間は本当に楽しかった。
 そしてヘリオスも同じ気持ちでいてくれたようで、ニアをいつも可愛がってくれた。


 ニアが十二歳、ヘリオスが十五歳のときのことだ。ニアはまだバース性の判別前、ヘリオスはすでにバース性がアルファと判明しており、ますます男らしくなっていた。

 ヘリオスは性別関係なしに大人気だった。美麗な容姿で、一見クールそうに見えるヘリオスだが、話すと意外に面白い。人の話もよく聞いていて、「休みの日に伯父の家に行くと言っていたよな? どうだった?」とヘリオスのほうから気さくに話しかけるタイプだった。

 なによりも優しい。誰に対しても優しいのだ。困っている様子の人がいるとすぐに「どうしたんだ?」と声をかけ、親身になって一緒に解決してくれる。
 誰も行きたがらない学生のモンスター討伐ボランティアも、「このクラスの誰かがやらなきゃいけないなら」と手を挙げる。

 ニアに対してもそうだ。
 成績が落ちて親から食事抜きにされたニアが、昼に食べる物が何もないことをからかわれるのが嫌で、校舎の裏でひとり座り込んでいたときだ。

「見つけた」

 ヘリオスはニアを見つけて、隣に座った。

「なんでここにいるのがわかったの?」
「ニアの居場所ならすぐにわかるさ。……なんて嘘だ。学校中を探し回った」

 ヘリオスはタイミングのいい男だ。ニアが心細くて、ヘリオスに会いたいと思っていたら、ヒーローのように目の前に現れた。
 いつもは学年が違うから、昼間はあまり会わないのに。

「あ、のさ、これ、昨日俺が作ったんだけど、もらってくれないかな」

 ヘリオスは綺麗な藍色の紙に包まれたものを手渡してきた。中を開けるとチョコレートが挟んであるビスケットがいくつか入っていた。

「これを、ニアに渡したかった。チョコレートが手に入ったから、ニアに食べさせたくて」
「ヘリオスって、お菓子を作れるのっ?」

 正直驚いた。ヘリオスが繊細にお菓子を作っているところを想像すると、なんだか可愛く思えてくる。

「そりゃあ、できるさ。まったく、ニアは俺をなんにもできない奴だって思ってるんだろ」

 拗ねるヘリオスを見てニアは笑顔になる。ひとりきりで寂しかった校舎の裏が、ヘリオスがいるだけで明るくなった。まるで、ふたりだけの秘密の隠れ家みたいに思えてきた。

「思ってない。ヘリオスはなんでもできる英雄だよ」

 その気持ちは嘘じゃない。人気者で、優しくて、かっこよくて、文武両道のヘリオスはニアのヒーローだ。

「英雄はビスケットも作れるんだぞ」
「すごいね、英雄は。たくさん作ったの? みんなに配った?」
「そんなことしない。ニアのために作ったんだ。チョコレートを見たらニアの顔が浮かんで、贈り物をしたくなった」
「なんでチョコレートで俺の顔が浮かぶんだよ」

 ニアは笑う。ヘリオスといるといつも笑っている自分がいることに気がついた。

「いいから、食べてみて」
「うん」

 丸一日何も食べていないニアは、ビスケットに口をつける。ひと口頬張ると、小麦の香りにチョコレートの甘みが相まって口の中に広がる。

「おいしい……すごく、おいしい……」

 食べながら、なぜか涙が溢れてくる。久しぶりの食べ物に身体も心も満たされていく感覚を味わった。

「ニア? もしかしてまた親から何も食べ物をもらってないのか……?」

 ヘリオスは鋭い。観察眼と洞察力に優れているのだろう。単純なニアの気持ちなど、すぐに察せられてしまう。
 ニアが頷くと、ヘリオスは「ちょうどパンを持ってる。ニアと昼食を食べようと思って」と提げていた鞄からパンとチーズを取り出した。

「全部やる。遠慮なく食べろ」

 ヘリオスは持っていた食べ物を全部ニアに握らせる。

「まったくお前の親は何を考えているんだ。ニアにこんなひどい真似をして」

 ヘリオスはニアの代わりに怒ってくれている。こうやって親身になってくれるヘリオスのことは好きだ。

「成績が下がった俺が悪いんだよ。うちは没落寸前なんだから、俺が頑張らないといけないのに、役立たずだから……」
「ニアが役立たず? そんなはずがない。こんなに必死で努力して、いい子なニアのどこが? 本当に許せない。ニア……ニア……」

 ヘリオスは優しい腕でニアの身体を包み込む。

「俺はニアのこと大好きだよ」

 ヘリオスの慰めの言葉が心にしみる。
 親に愛されなくても、ひとりきりが急に寂しくなっても、ヘリオスさえいてくれればいい。
 強く、そう思った。

「ヘリオス、ありがとう……」

 ニアがヘリオスに寄りかかると、ヘリオスはそれを受け止めてくれる。
 ヘリオスの金色の髪と、柔らかい色のニアの金髪が触れて重なる。それが少しだけこそばゆかった。

 本当にヘリオスのことが大好きだった。
 今思い出してみても、初めて出会ったあのときから、運命のようにヘリオスに惹かれていったのだと思う。
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