記憶違いの黒狼王弟殿下は婚約者の代わりに僕を溺愛してくる

雨宮里玖

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プロローグ1

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 大好きな人が、空から降ってきた。
 何もない闇夜の空間を切り裂いて、突然物体が目の前に現れた。
 猫獣人のエルヴィンのすぐ近く、さまざまな薬草が植えられている薬草畑の地面にドサッと獣人の身体が放り投げられる。そのとき巻き起こった風につられてエルヴィンの鼻をツンとかすめたのは血の匂い。
 びっくりしてエルヴィンは茶色の毛並みの猫耳をピンと立てた。空から落ちてきた獣人のもとへとすぐさま駆け寄り、その姿を見てつぶらな目を大きく見開いた。

「殿下っ!」

 ここは真っ暗闇で、明かりはエルヴィンの持つ燭台のロウソクの灯火だけ。
 それでも見間違えるわけがない。この御方は黒狼獣人のルーク・レイナルド王弟殿下に違いない。
 狼獣人らしく逞しい体躯に、麗しく整った顔。さらりとした漆黒の髪からのぞいている三角の双方の獣耳と、ふわふわの黒毛の尻尾。そのどれもがエルヴィンの記憶の中にある、ルーク王弟殿下のものと完璧に一致している。
 エルヴィンがいるのは、城の裏門を抜けた先にある薬草園だ。園の周りは塀に囲まれているし、城の敷地内ではあるが、少し離れているため夜は人影がない。

「どうして殿下がこんなところに……」

 これはおそらく空間移動魔法の仕業だろう。それ以外に獣人が突然何もないところから現れることなど考えられない。
 空間移動の魔法は高等魔法で、熟練した魔導師しか扱えない。さらに魔力を増幅させる魔法陣を必要とするので、簡単には扱えない特殊な魔法だ。
 だが王宮魔導師の上位者ならばそれが可能だろう。それを王弟であるルークに使った、というのならば納得ができる。
 ただ、いきなり現れたルークの身体には、斬られたあとが何ヶ所もあり、全身に傷を負っていた。どうして怪我を負った状態でルークが空間移動の魔法でここまで飛ばされてきたのかは、エルヴィンには皆目見当がつかない。

「なんとかしなくちゃ……」

 エルヴィンは治癒師の端くれだ。
 田舎の小国とはいえ、エルヴィンは猫獣人の第三王子だ。一応は王族と呼ばれる。
 小国なので、王族でありながら皆それぞれの仕事に就いている。エルヴィンは腕力も魔力もないし、頭もよくなくて、それでも何かひとつくらいは特技を身につけねばと治癒師の道を進んでいる半ばだ。
 今もひとりで薬草園にやってきて闇夜に光る薬草を探しに行く途中だった。
 見習いとはいえ、治癒師としての血が騒ぐ。ルークの傷の具合を素早く確認し、頭の出血部位を見つけて身につけていた白いシャツの袖を引きちぎって患部に当て、自らの腰紐を解いてそれで布を固定し止血する。
 ルークの容態は芳しくない。脈が弱く、呼びかけても反応はない。

「どうしよう……どうしよう……」

 周囲には誰もいない。城まで戻れば人を呼ぶことはできるかもしれない。だがその間、瀕死のルークを置いていくことになってしまう。

「うう……」

 ルークは苦しそうにうめき声を上げた。声を上げたのはそれきりで、ルークの身体は微動だにしない。
 判断に迷っているうちにも、ルークの呼吸は弱々しくなっていく。
 ルークはもちろん怪我をしているが、動けなくなるほどの出血ではないように見受けられる。それなのに身体を動かせない様子だ。体温が異常に低く、精巧な氷の彫刻のようにピクリとも動かない表情。
 そのときエルヴィンの頭の中でパッと光が射したように閃いた。
 この症状は習ったことがあるし、実際の治療を見たことがある。
 ルークは黒魔法による瘴気しょうきにやられたのだ。
 高等な黒魔法を身体に受けたのかもしれない。少しの瘴気ならばここまで瀕死の状態に陥るはずがない。ルークほどの強健な体躯を持ってしても身体の自由が効かないとは相当な魔力なのではないか。
 エルヴィンは脱兎のごとく走った。幸い薬草園のそばにある薬庫は、ここからかなり近い。
 思い切り薬庫の扉を開け放ち、エルヴィンが向かう先は鍵のかかった薬棚だ。
 エルヴィンは薬棚の鍵を隠し場所から取り出して開錠する。エルヴィンの目的とする薬は、瘴気を祓う効果のある茶色い瓶に入った液薬だ。
 この薬を飲むと身体が異常に熱くなる。体内にあるすべての悪いものを焼き尽くす、と表現されることがある薬で、自らの回復力を無理矢理活性化させる効果があるのだ。ただし、その力は脳内にも及び、熱にやられて記憶を混同してしまったりすることがある。
 だから普段は使わないが、瘴気にやられて命を失うとなったら話は別だ。
 エルヴィンは茶色い瓶を持って駆け出した。行く先はもちろんルークのもとだ。

「殿下っ!」

 ルークはさっきよりも命の灯火があきらかに弱くなっている。これは一刻を争う事態だ。

「こちらの薬をお飲みくださいっ」

 自らの身体を使ってルークの背中を起こし、口元へと茶色い瓶の口を近づける。だが反応の弱いルークは口を開くこともなく、液薬はこぼれていってしまう。

「飲んでくれない……どうしよう……」

 自力で液薬を飲むには、ルークは弱りすぎている。こうして見ているうちにも呼吸が止まってしまいそうだ。
 この人だけは絶対に助けたい。
 ルークはエルヴィンの憧れの人だ。
 ずっと、ずっと好きだった。
 自らの命に代えても救いたい、特別な人だ。
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