僕らが怪奇と出会う場所

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もやの向こう

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「あのもやの向こうに何が見える?」

タケシが突然、教室の窓を指さしながらそう言った。窓の方に目をやると、煙っているような霧雨の中で、ぼんやりと立ってる大きな山があるだけだった。

「何もないけど」

 ぼくがそう答えて、しばらく教室が静寂に包まれる。さらさらと細かい雨の流れる音だけが薄暗い校舎に響いてる。

「まあ、山なら見える」

 そう答えたのは部長のクミコだ。それを聞いて、タケシが力なく苦笑する。

「確かに、でもその向こう、もっと遠くの話」

バリバリッ、クミコは先ほどまで舐めていた飴玉をかみ砕き、少しの間口をもごもごさせる。

「意味わかんないんだけど」

若干イライラした様子で彼女は水筒を手に取り、茶を乱暴にごくごくと飲み下す。ぼくは黙ってうんうんと考え込む。

「いや、そのままの意味。あの霧の向こうに何が見える? って、うーん、想像力的な?」
「強いて言うなら」
「うん」
「青い空が見える」
「なるほど、ちょっと哲学的だな」

 タケシが噴き出す。明美は少しむっとする。

「あんたには何が見えるってのよ」
 
 ふと、タケシが小難しそうな顔をして、右頬を右の手のひらでじっと抑える。

「いや、何も見えないんだよな。それが」
「何ソレ」

 フンッとクミコが鼻で笑う。彼女はポッキーを手に取ってポリポリと食べ始める。時折、ガタガタと強風が教室の窓を激しく揺らす。雨足が急に強くなって、山の姿はますますおぼろげになっていく。その頂上には、重たい雲がずっしりと黒くのしかかっていて、じっと目を凝らしてみても、やはり何も見えてはこない。

 「飛行機があればなあ」

 ぼくが、ふふと少し微笑みながらそう言うが、教室の重苦しい空気は一向に変わらない。むしろ、ちょっとだけ息苦しさを増したくらいだ。パラパラと、雨がうるさく校舎を叩く。

「うーん、いや、何て言えばいいかなあ。そういうんじゃなくて、子供の時とかって、あの雲の向こうに、とか考えたわけじゃん。天空の城とか、この宇宙の観測者の大きな瞳だとか、今にも地球に落ちそうな巨大隕石だとか、次の瞬間人類滅亡、的な」
「まあ、そんな気がしないこともない」
 クミコはすでにポッキーを一袋空にしていた。僕はむやみに、こくこくと頷いている。ぼくらの反応に少しだけ気をよくしたのか、先ほどよりも深く椅子に座り込んで、ピシッと綺麗に背筋を伸ばす。表情は、いつも通りにやにやと薄ら笑いを浮かべている。
「最近、そんなのがないってことだよ。想像っていうか、空想? 妄想みたいな。これってなんかさびしいし、オカ研としてちょっとやばくない?」
 クミコがはははと笑い出す。タケシもつられてか、ワハハと笑う。
「いや、ここのオカ研なんて形だけじゃん」
「今はな」
「うん、まあ、特に今は」
「いやー、とにかく、高一の時はそんな空想力があって、高三の今じゃさっぱり何もなくなってる。これ何ていうかな。伝わらないかなぁこの感じ」
 彼は腕を組んで、ドサリと、背もたれにもたれかかる。椅子のきしむ音が大きく教室中に響きわたる。
「私も、分からなくは無い気も」

 バサッ、今度はポテトチップの袋を開ける。横からタケシがひょいと手を伸ばし、それをいくらかつまんで口に運ぶ。パリパリ、ボリボリ。


「天空の城とか、最初に考えた人ってすごいよな」

 タケシがまたそう言い始めたのは、ポテチの袋が空になってから数分経ってのことだった。クミコはスマホから、ちらりとタケシに目を移した。

「なんか、今日はいつにもまして、変なことばっか喋るね」
「そりゃ喋りたくもなるだろ」
「そりゃ、まあ」

 少し間が開く。

「ってか、天空の城とか、みんな考えてたんじゃない? 未知の国とか、竜宮城とか、ガリバー旅行記みたいな、そんな想像はたぶん誰だってするんじゃない」
 クミコは依然変わらず、気だるそうにスマホをいじり続ける。タケシは憮然と深く椅子に腰かけている。
「じゃあ、その想像を形あるものにするのがすごいってこと」
「はあ?」
「形あるものっていうか、一つの可能性としての空想を創りあげて、提示し、皆を熱狂させて、その中に自分もいるって感じの人」
「ちょっと意味わかんない」

 クミコは少し呆れたような表情をしているが、スマホはいつの間にか机の上に置きっぱなしになっていた。このあたりから、僕はただ首をかしげるばかりだった。

「たとえば、山の上に雲があるじゃん?」
「うん」
「その先に、何かあるかもしれないって思うじゃん、何かあればいいって。でも何があるかは分かんないし、そもそも何かあるのかもよく分からない。でも、やっぱりその雲の向こうに城か何かを『見る』かもしれない人だっているわけなんだよ」
「かもね」
「例えばファフロツキーズ現象」
「1862年、二月、シンガポールの市内各地で魚の雨が降った。1901年、七月、アメリカのなんちゃら州、ミネアポリスに蛙の雨が降った」

 少しばかり得意げに、クミコがタケシの言葉を横取りする。

「そう、そんなあり得ない現象を見て、『やっぱり空に何かあるんじゃないか』ってみんな想像をめぐらした。未確認飛行物体、宇宙人の仕業、天使とか神の贈り物。それとも、雲の上のどこかには真空状態からなる無重力空間があって、そこに浮遊している物体が落ちてきたんだって考えて。それならば、きっとそこには、かなり古びた大きな城も丸々浮いていて、黒々と湿り気を帯びている巨大な土の塊に、そこから生えている苔むした大樹だって、あるいは一つの生態系も、幾筋かの川すら流れていたりして。そこは想像の及ばない楽園のようになっているとか、ひょっとしたらとんでもないディストピアだとか想像してた人もいる」
「まあ、今は竜巻説とか飛行機原因説とか、そもそも錯覚なんじゃないのかという説もある」
「そう、そこなんだよ。好奇心から真実を知ろうとして、結果的に好奇心を殺した人もいれば、それでもいろんな説に夢を殺されずに、やっぱりまだ愚直にも信じ続けてた人だってきっといた。そしてその人たちには、たぶん本当に雲の上の世界が『見えて』いた」
「そんな、信じてた人たちがすごいって?」
「凄いっていうか、良いっていうか、純粋に羨ましいっていうか」
「それなら、ちょっとだけ分かるかも」
「アメリカの農場でキャトルミュ―ティレーションが起きて、ミステリーサークルが作られて、ノストラダムスの詩を読んで、これは予言なんだって騒いで。熱狂して、新しい作品だって生みだしたりなんかも」
「日本でも、エクトプラズムだとか、人体発火現象だとか、口寄せとかこっくりさん、都市伝説だとか」
「はあ」
クミコとタケシが力なくため息をつく。
「まあ、ほぼ否定できるというか、信じる方がちょっとおかしいみたいな感じね」
「事実はどうでもよかったんだよ、夢だったんだ、ただの夢!」
 少し熱くなる彼をみて、ふふとクミコは笑みを漏らす。
「今じゃ、信じる信じないのレベルじゃなくて、信じられるか信じることができないかの話だって考えてみたら、少し面白いかもね」
話題に乗り始めた彼女を見て、タケシは少し嬉しそうな表情をしている。
「それで、お前は?」
 クミコは少し口角を下げて、またスマホを手に取る。タケシの両眉の間に軽くしわが寄る。
「まあ、どっちかと言ったら、信じられない側の人間」
「やっぱりなあ」

 彼は全身から力が抜けたようにぐったりと机に突っ伏す。パタパタと、教室前の廊下を誰かが通り過ぎる。足音は次第にゆっくり遠ざかって、またしんとした沈黙が教室全体に覆いかぶさる。
 クミコは退屈そうに足を組んで、ぼくは、ほう、と一つ小さな欠伸をする。いつの間にか雨は小降りになって、雨音はほとんど聞こえなくなっていた。
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