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第1章 深緋の衝撃
第3話
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西暦二〇一九年七月二十六日。
目覚まし時計のアラームが部屋に響き渡る。一般的で健全な高校生としては珍しく伊形慧は朝型なので、無遠慮な独唱はすぐに幕を下ろした。
カーテンを開けて朝日を受ける。ベッドと勉強机がほとんどを占拠する小さな部屋に人型の影が落ちた。
「…………」
二階から見る外は快晴。年を追うごとに凶暴性を増す夏の日差しに思わず顔をしかめた。
顔を洗ってから階下のリビングへ。朝食は昨日の夕飯の残り物。レンジで温めたご飯は少し硬い。
ここまでは毎朝のルーティンワーク。
頭を起こすためにテレビを点ける。ニュース番組は天気予報の時間。「今日も全国各地で記録的な暑さ」などとお決まりの台詞で注意を呼び掛けていた。
「…………」
慧は自室で制服に着替えながら、今日一日の予定を何となくシミュレーションする。
今日の主なイベントは二つ。一つは、年に二回の長期休みを前にして行われる校舎の大掃除。もう一つはきわめて個人的な用事だ。
スクールバッグを軽々と肩にかけ、短い廊下を玄関に向かって歩く慧。横目に見るのはリビングの奥の小さな仏壇。そこに立てかけられた二つの写真に目を合わせる。
「行ってきます……でいいのか?」
今日は年に一度、その言葉に悩む日である。結局今年も正しい答えが見つからず、慧は家を出ることになった。
朝とはいえ、じめじめとした暑さが慧を襲う。慧が通う県立桐葉高校までは自転車で十五分ほど。なるべく建物の影に入るようにして学校指定の通学路であるアーケードを行く。
昼になってもほとんどシャッターが開かない商店街。人々の営みが薄れゆく街は最後の仕事だと言わんばかりに、若者たちを夏の日差しから守っていた。
始業時刻が迫る通学路。校舎に近づくにつれて桐葉生の数も多くなっていく。
慧と同じ制服姿の生徒、部活着を着た運動部。
友人と登校する上級生、イヤホンで耳を塞いで歩く下級生。
校則の穴を突いて個性を出そうとする女子、とにかく涼しくしようとボタンを開けて袖をまくる男子。
ローファーとアスファルトのリズム、自転車のブレーキ、朝の挨拶、笑い声。柔軟剤、日焼け止め、制汗剤の見本市。
個の数だけ慧の感覚は刺激を受ける。
人間観察は誰も知らない彼の数少ない趣味の一つであるが、それが高じてなにか得をした経験などは一度もない。そればかりか、ここ最近彼の感覚、とりわけ視覚にいささか奇妙な現象が起きていた。
──今日も試すか。
ここ二ヶ月の日課。慧は目の奥に力を込める。
「…………」
やはり。道を行く生徒たちの周囲に“光の靄”のようなものが見える。
生徒一人一人から発せられた微かな靄は大抵が白色であり、稀に薄く青や赤、緑といった色が付いている。色の他にも、靄の量や揺らぎ方に僅かながら違いが見てとれた。
慧がはじめて光の靄を見たのは六月あたまの中間テスト初日だった。
柄にもなく徹夜などをして体調が悪かったせいか、その日の登校は太陽がやけに眩しく感じた。手で庇をつくっても効果はない。眩しいのは太陽ではなく、一緒に登校している桐葉生だったのだ。
彼ら彼女らが放つ光は靄よりも輝かしく強烈で、慧の眼球の奥にまで到達し、ジワジワと網膜が焼けていくような痛みをもたらした。
欠席する訳にもいかなかった慧は結局、極限まで目を細めてテストを受ける羽目になった。
傍から見ればまさに鬼の形相で、その日のテストを作成した教師全員が、質問されたわけでもないのに、自発的に問題の不備を探したほどだった。
一夜明けると目の痛みは若干の違和感を残して退いていた。登校中に生徒を見ても昨日のような眩しい光は跡形もなかった。
しかし、微かな違和感が残る目の奥に意識を集中した途端、再び生徒達から光が滲みだした。
この日を境に、慧は「目の奥に力を込めると人から湧き出る光の靄が見える」という、謎で奇怪で意味不明な感覚を覚えたのだった。
慧は当初、この異常状態は人生初の徹夜による体調不良のせいだと考え、それほど気にしていなかった。
目に力を込めるのはかなりキツいうえ、意識しなければ景色は普段と変わらないからだ。
しかし数週間前、気まぐれで目に力を込め続けた先で“あるもの”を見てしまってから、この視覚の異常は身体的な不調ではなく、自分の心の問題なのではないかと思うようになっていた。
学校に到着。クラスごとに分けられたスペースに自転車を停めて玄関へ向かう。終業式を明日に控え、生徒たちの足取りは心なしか軽いように感じられた。
校内は生徒で溢れかえっており、浮足立った雰囲気が一層強まっていた。慧は再び靄を見ようと目に力を入れる。
「…………」
通学路では個人から放たれていた光は、ここにきて一つの流れに沿うようにまとまっている。
支流がいくつも合わさって大きな川を形成するように、光の靄は帯となって“ある方向”へと流れていく。
光の帯に沿って慧は階段を上る。帯の流れの先は、登校した高校生が皆等しく向かうべき場所でもあった。
目覚まし時計のアラームが部屋に響き渡る。一般的で健全な高校生としては珍しく伊形慧は朝型なので、無遠慮な独唱はすぐに幕を下ろした。
カーテンを開けて朝日を受ける。ベッドと勉強机がほとんどを占拠する小さな部屋に人型の影が落ちた。
「…………」
二階から見る外は快晴。年を追うごとに凶暴性を増す夏の日差しに思わず顔をしかめた。
顔を洗ってから階下のリビングへ。朝食は昨日の夕飯の残り物。レンジで温めたご飯は少し硬い。
ここまでは毎朝のルーティンワーク。
頭を起こすためにテレビを点ける。ニュース番組は天気予報の時間。「今日も全国各地で記録的な暑さ」などとお決まりの台詞で注意を呼び掛けていた。
「…………」
慧は自室で制服に着替えながら、今日一日の予定を何となくシミュレーションする。
今日の主なイベントは二つ。一つは、年に二回の長期休みを前にして行われる校舎の大掃除。もう一つはきわめて個人的な用事だ。
スクールバッグを軽々と肩にかけ、短い廊下を玄関に向かって歩く慧。横目に見るのはリビングの奥の小さな仏壇。そこに立てかけられた二つの写真に目を合わせる。
「行ってきます……でいいのか?」
今日は年に一度、その言葉に悩む日である。結局今年も正しい答えが見つからず、慧は家を出ることになった。
朝とはいえ、じめじめとした暑さが慧を襲う。慧が通う県立桐葉高校までは自転車で十五分ほど。なるべく建物の影に入るようにして学校指定の通学路であるアーケードを行く。
昼になってもほとんどシャッターが開かない商店街。人々の営みが薄れゆく街は最後の仕事だと言わんばかりに、若者たちを夏の日差しから守っていた。
始業時刻が迫る通学路。校舎に近づくにつれて桐葉生の数も多くなっていく。
慧と同じ制服姿の生徒、部活着を着た運動部。
友人と登校する上級生、イヤホンで耳を塞いで歩く下級生。
校則の穴を突いて個性を出そうとする女子、とにかく涼しくしようとボタンを開けて袖をまくる男子。
ローファーとアスファルトのリズム、自転車のブレーキ、朝の挨拶、笑い声。柔軟剤、日焼け止め、制汗剤の見本市。
個の数だけ慧の感覚は刺激を受ける。
人間観察は誰も知らない彼の数少ない趣味の一つであるが、それが高じてなにか得をした経験などは一度もない。そればかりか、ここ最近彼の感覚、とりわけ視覚にいささか奇妙な現象が起きていた。
──今日も試すか。
ここ二ヶ月の日課。慧は目の奥に力を込める。
「…………」
やはり。道を行く生徒たちの周囲に“光の靄”のようなものが見える。
生徒一人一人から発せられた微かな靄は大抵が白色であり、稀に薄く青や赤、緑といった色が付いている。色の他にも、靄の量や揺らぎ方に僅かながら違いが見てとれた。
慧がはじめて光の靄を見たのは六月あたまの中間テスト初日だった。
柄にもなく徹夜などをして体調が悪かったせいか、その日の登校は太陽がやけに眩しく感じた。手で庇をつくっても効果はない。眩しいのは太陽ではなく、一緒に登校している桐葉生だったのだ。
彼ら彼女らが放つ光は靄よりも輝かしく強烈で、慧の眼球の奥にまで到達し、ジワジワと網膜が焼けていくような痛みをもたらした。
欠席する訳にもいかなかった慧は結局、極限まで目を細めてテストを受ける羽目になった。
傍から見ればまさに鬼の形相で、その日のテストを作成した教師全員が、質問されたわけでもないのに、自発的に問題の不備を探したほどだった。
一夜明けると目の痛みは若干の違和感を残して退いていた。登校中に生徒を見ても昨日のような眩しい光は跡形もなかった。
しかし、微かな違和感が残る目の奥に意識を集中した途端、再び生徒達から光が滲みだした。
この日を境に、慧は「目の奥に力を込めると人から湧き出る光の靄が見える」という、謎で奇怪で意味不明な感覚を覚えたのだった。
慧は当初、この異常状態は人生初の徹夜による体調不良のせいだと考え、それほど気にしていなかった。
目に力を込めるのはかなりキツいうえ、意識しなければ景色は普段と変わらないからだ。
しかし数週間前、気まぐれで目に力を込め続けた先で“あるもの”を見てしまってから、この視覚の異常は身体的な不調ではなく、自分の心の問題なのではないかと思うようになっていた。
学校に到着。クラスごとに分けられたスペースに自転車を停めて玄関へ向かう。終業式を明日に控え、生徒たちの足取りは心なしか軽いように感じられた。
校内は生徒で溢れかえっており、浮足立った雰囲気が一層強まっていた。慧は再び靄を見ようと目に力を入れる。
「…………」
通学路では個人から放たれていた光は、ここにきて一つの流れに沿うようにまとまっている。
支流がいくつも合わさって大きな川を形成するように、光の靄は帯となって“ある方向”へと流れていく。
光の帯に沿って慧は階段を上る。帯の流れの先は、登校した高校生が皆等しく向かうべき場所でもあった。
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