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24 「あなたたちの献身に、感謝を」

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 彼には感情がない。
 だが、感情をもっていたとしても、彼は気にもかけなかったに違いない。開発者の情熱というものは、彼にとって理解の範疇ではないのだから。
 従って、機体の表面状態を特異点にかえる落書きは、彼にはあまり好ましいものには思えなかった。
けれど、それも些細なことだと、彼は思い直すことにした。なぜなら、これから彼が生み出すエネルギーを前にすれば、考慮するには値しない。

 彼の至上命題は、何ものよりも、まっすぐにとぶことである。
 いま、彼が悩むべきは、その一点のみにある。

 外部から最初の指示がきた。命じられるがままに、モーターを駆動させる。複数のフライホイールが一斉に回転を始め、己の中に仮想的な一本の芯ができた。
 外殻だけで身体を支えることに一抹の不安を抱いてはいたが、フライホイールの力強い回転は、彼の不安をふきとばす頼もしさがあった。

 次の命令がきた。エンジンの点火だった。シリンダ内に燃料を供給し、点火プラクに火花を飛ばす。液体だった燃料らは間をおかず気化し、数千倍に膨れあがり、後方のノズルに殺到する。ノズルでさらに加速した気体が、前へ前へと彼を押しやった。

 彼を拘束していたくびきが解放される。
 彼は、勢いよく前へ飛び出した。
 やっと飛べる。彼は歓喜に打ち震えながら、発射した。

 けれど、その直後に屈辱的な事故が連続した。
 まず、尾翼の一枚が吹き飛んだ。
 空力の均衡が破れ、反動で機体が揺らいだ。
 フライホイールは安定状態を求めて復原力を発揮する。尾翼がなくとも、前進には一切影響しない。
 彼はエンジンの命ずるままに進行方向へと邁進した。
 速度が増しに増す。すると、翼が力を獲得しはじめ、はじめは些細な問題に思われた尾翼が妙な力を持ちはじめる。本来であれば、対称に取り付けられた四対の尾翼は、機体の制御に貢献する。しかし、その対称性が崩れたことで、力を打ち消すことができず、機体に回転方向を与える機能に成り果てたのである。
フライホイールは静止させようとし、尾翼は機体を大きく上下させる。この矛盾を受け持つのは、彼が不安を感じた、薄い外殻に他ならない。

 まったく、腹立たしい限りだった。
 彼が乱暴なエンジンを制御してやらないことには、大惨事へ向かってまっしぐらだ。
 彼は己の身体を探り、エンジンを停止させようと試み、致命的な欠陥を発見した。
 己の推進力の源であるエンジンは、彼の制御下にはないのである。
 外部から燃焼を命じらたエンジンは、彼の意に背いたまま、忠実に燃焼を続けている。彼自身は、順調に加速している。

 けれど、彼自身は、崩壊を先延ばしにするだけで手一杯だった。
 必死に己の重心を、エンジンの排気口に寄せようと試みる。翼がさらに振動する。彼の努力むなしく、外殻は不可逆な座屈をうけいれた。
 座屈したところで、エンジンの重心をとらえることはかなわない。
 事態は悪化の一途をたどる。想定外の空気抵抗が、機体をさらに変形させるようとする。エンジンの推力と相まって、制御不能な振動が、彼を襲った。
 さらに、直列に並んでいた燃料タンクらの位置がずれることで、主軸と重心の両方を、さらに複雑にした。
 ついに彼は、フライホイールを支えきれなくなり、きりもみの回転のさなか、手放してしまう。そしてフライホイールを失うことは、かろうじて保っていた機体のバランスを、完全に崩壊させることになった。
 彼にできる最後の仕事は、己の意思でどうにもならぬエンジンを無事に帰還させることだけであった。

 射出から数えて四・一秒後。
 三人の若き科学者の運と知力と体力を一身に受けた彼は、部品を撒き散らしながら崩壊した。



 機体の剛性を考慮し、板厚を増したSY-02が発射台に立ったのは、先の試験から五日後のことだった。
 SY-01が崩壊した直接の原因は、発射直後から尾翼の一枚が吹き飛んだことである。吹き飛んだ尾翼の断面から、筐体の剛性が十分ではなかったことが明らかになった。温度の上昇による材料特性の変化をあまく見積もりすぎていたためである。間接的には、極端な質量比の追求が招いた、強度不足といえなくもない。

 だが、姿勢制御にフライホイールが有効だと確認できたことは、紛れもない成果だった。
 また、幸運なことに、機体が炎上しておらず、奇跡的に損傷を免れたSY-01のエンジンを再利用することができた。五日という驚異的な日程でSY-02を組み上げることができたのは、エンジンが無事だったからである。

「あなたたちの献身に、感謝を」

 SY-02を前にして、ヤスミンカがいった。

「感謝を伝えるときは、もっとわかりやすい言葉を使うもんだぜ」

 リンドバーグが笑った。

「そうだよ、ヤースナ。こういう時は、ありがとうでいいんだ」

 ヴェルナーが言いそえた。二人とも、目元が黒い。徹夜の影響が色濃くでている。

「そういうことは」

 ヤスミンカは口ごもった。二人に不思議そうに見つめられ、ヤスミンカは顔を背けていった。

「そういうことは、うまくいってからよ」

 そういうと、ぷいと背を向けてしまった。けれど、彼女の耳は、今までに見たこともないほどに赤い。ヤスミンカの心が二人への賛嘆の念で満たされている、何よりの証である。ヴェルナーとリンドバーグは顔をみあわせ、破顔する。勲章をもらったような誇らしい気持ちになった。

「それじゃあ、はじめるよ」

 ヤスミンカは無言で首肯する。

「燃料バルブ、解放。燃料充填、よし」

 リンドバーグが宣言する。ヴェルナーがカウントを開始する。

「十、九、八」

「フライホイール始動」

 リンドバーグがフライホイールのモーターを駆動させた。
 機体が、ゆっくりと力をもつ。

「七、六、五」

「エンジン点火」

 ヴェルナーのカウントに合わせて、リンドバーグがエンジンを点火する。ロケットがガスを排出する。ぐっと機体が浮き上がりし、解き放たれる瞬間を待っている。

「四、三、二」

 ヤスミンカは無意識のうちに、拳を握りしめた。ごくりと生唾をのみこんだ。

「一」

 ヤスミンカが、力強く発射スイッチを押した。
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