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26 「そう、自分の力だけで」

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 そこは、飾り窓通と呼ばれていた。文字通り、窓であふれている。

 はじまりは古く、十三世紀の終わりごろと伝わっている。
 小さな漁村だった村にやってくる商人のための憩いの場だったとされている。
 いまや、観光地とも呼べる賑わいをみせており、見世物通りに面するドアはほぼ全てガラス張りである。
 その中にはそれぞれの需要に応えるべく、白い身体を飾り付けた商品が展示されていたる。元の顔立ちがわからないほどに濃く塗りこめた女がいるかとおもえば、男ならはっと息をのむ顔立ちの女性まで、あるいは病的に痩せこけた女から両の手がまわらないほどの肥満まで、顧客の要望によく答えている。
 ところどころカーテンが閉まっていれば、客が入っているということで、ある意味わかりやすい。
 ゆえに飾り窓通。

 低俗にいうところ売春通りでる。

 メイン通りからひとつ奥まった通りの、パレスと呼ばれる売春宿の一室を借り、椅子に腰掛け、ガラス張りの扉の向こう側で人形のように自らを展示する少女がいた。

 ヤスミンカだ。

 彼女は赤と白を基調にしたサラファンと、頭飾りを身につけている。
 金糸銀糸で刺繍され、ビロードが縫い込まれた装いは、彼女の丈には少しばかり大きかった。ヤスミンカが最後まで手放さなかった、亡き母の形見である。

 彼女は愛嬌もふりまかず、かといって、恥ずかしがるふうもなく、小首をかしげて、背もたれに背中を預けていた。
 露出の多い服が多いなか、彼女のように身を固めた女性は珍しいのか、あるいは年齢からか、彼女を見つけたひとは、複雑な顔をするものが多かった。
 まだ日暮れ前のため、客がついてはいなかったが、それは時間の問題だろう。
 ヤスミンカのような青すぎる女性を好む人物は、確実に存在する。老人から幼女まで、男の欲望を取り揃えるところが、世界有数の歓楽街たる所以である。

 ヤスミンカの焦点を結ばない視点は夢でも見ているかのようである。
 宙を見つめる彼女からは、どこか白痴的な曖昧さがあった。
 未熟な色気にあふれて、鼻につく独特の甘い香りが、部屋を満たしている。
 ヤスミンカは大麻を呑んでいたのである。

 意識はあるが、身体がふわふわと浮き上がるようで頼りない。
 身体の芯はひやっとつめたく、まるで氷水につけられたようにさむい。
 だというのに、汗がとまらない。下着はおそらく、ぐしょぐしょに濡れていた。
 生まれてはじめて結った髪が突っ張るようで、ときどき小首を傾げて、ほつれ落ちた後れ髪をかきあげている。けれど、それ以外は、ときたま思い出したかのように瞬きするときをのぞいて、微動だにしていない。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 ヤスミンカの頭の中では、要らぬことがいくつも浮かんではきえた。
 爆発を思い出した。SY-02の炎上を。
 排熱を担うはずの循環ポンプがうまく働かなかったんだな、と思った。発射の加速に耐えられなかったのか、そもそも起動しなかったのか、あるいは他に原因があるかもしれない。けれど、それを確かめる術は、どこにもないのだ。
 ヤスミンカは思考を手放した。大麻は、ヤスミンカに一つのことを考えさせないように働いていたし、ヤスミンカ自身、なにも考えないでいられる方がありがたかった。ここでは、感情を押し殺さねば、現実に押し殺されるのだから。
 けれど、論理的な思考はできずとも、散発的な感情は、次々に湧き上がってくるのだ。ひとの脳は元来散発的なのだという説は、正しかったようである。

 ヤスミンカの中には工房での思い出があまりにも多く詰まっていた。
 それらは、少女の心の隙を虎視眈々とうかがっており、ひとたび緩むことがあれば、隙間をこじ開けてでも外へ飛び出そうとしていた。
そして少女は、思い出の奔流を押しとどめる術を知らなかった。

 基地に初めて出向いてロケットを打ち上げたときの、あまりの見込み通りな反応は、とてもおかしかった。ヴェルナーなんか口をあんぐりあけて、負けたって顔をしていたのを鮮やかに思い出せる。
 反対を黙殺してはじめた燃焼試験で、工房の屋根を吹き飛ばしたとき。自分を抱えて逃げてくれなかったら、わたしの人生はとっくに終わっていたに違いない。まだ、ちゃんとお礼を言えていなかったかもしれない。

 試作屋さんの取引を中断してまで、どうしようもなく『科学者』だった自分を叱ってくれたこともあった。あのときにヴェルナーが言ってくれた期待しているという言葉は、気づけば自分を突き動かす強力な原動力になってしまっている。うれしかった。

 どの瞬間にも、彼は、こんなわがままな自分に、ちゃんと向きあってくれていた。
 そう、あのときも。
 帰る家がなくなって、ホテルに泊まるお金もなくなって、基地にこっそり泊まることを決めたあのときも。

 帰るところがなくて、怖くてたまらなかった暗闇から、引っ張り出してくれたヴェルナー。

 わたしの髪をわしゃわしゃとかき乱してくれた、ヴェルナー。

 わたしを大好きだといってくれたヴェルナー。

 どのくらい好きか、もっとちゃんと訊いておけばよかった。
 いや、訊かないでおいてよかったのかもしれない。いまこの瞬間に思い出しでもしたら、わたしはきっと、耐えられない。
 彼の、いたわるような手の温もり。
 ささくれだった心を和ませ、いやしてくれた。
 彼のイメージは、奔流となってヤスミンカを飲み込み、彼女の身体そのものも奇妙な場所へと押し流していった。

 気がつけば、もう日が暮れていた。
 自分を見つめる這い回るような視線を、否応なしに意識させられる。やめて欲しいと心から願った。しかしガラスの中のヤスミンカには、彼らを拒絶する権利はない。
 むしろ、よく観察していただくべき立場である。
 彼らにガラス張りの部屋ともいえぬ個室のなかで、殿方を待つ身である。三つ指をついて、頭を下げねばならぬ立場である。そうしなければ、お金がもらえない。ロケットの開発が続けられない。ヴェルナーと一緒にいられない。だから、歯を食いしばってでも、成さねばならないことなのだ。
 いまの自分は、一方的な蹂躙をうけいれる立場なのだ。そして、自分が選んだ結末でもあった。詳細はしらずとも、知識としては、自分の身体がお金に替えられることを知っていた。短時間で大金を得るには、身体を売る以外には知らない。
 それが具体的にどういうものかもわからない。
 けれど、きっと取り返しのつかないことなのだという、確かな予感がヤスミンカを襲った。

 ヤスミンカは、ひとりで泣いた。

 自分がどれほど無気力で、弱くて情けなくて、どこにも行けない迷子のように思えて仕方がなかった。
涙をみせるつもりはない。
 自分を哀れんでなくような、情けない人間にはなりたくなかったから。
 けれど、大麻がもたらす発汗作用とともに、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 一切がっさいを流し切ると、胸のむかつきと、気持ちの悪さが残った。
 大麻の力は強力だった。
 先ほどから思い浮かぶのは、はるか昔に、無駄だと切り捨てた、おとぎ話ばかりである。
 どの話でも、お姫さまを救い出してくれる、王子さまがいた。幼心に、うらやましく思った、甘酸っぱい感覚。
 けれど、同世代の誰よりもはやく大人の世界に飛び込んだヤスミンカは、現実を知っている。この世界に、王子さまのように、助けてくれるひとなんかいない。

 自分の力だけで、道を切り開くより他はないのだ。

 そう。自分の力だけで。

 心を沈めた。何回も深呼吸をした。そのうちに、だんだんと、心が動かなくなった。動き方を忘れたみたいだった。

 天才だから、自分の心の動きさえも思いのままなのよ。

 ヤスミンカは、かすむ意識を鼓舞して、そう言いきかせる。そうしないと、ひととしての最後の尊厳までをも、無くしてしまいそうな気がしたからだ。
 彼女は通りをみた。
 瞳はなにも映さなかった。
 ただ、肌を這い回るような視線だけが、自分を舐め回していくようで、嫌悪感が増していく。
 ヤスミンカにできることは、ただ手を握りしめ、必死に身体の震えを抑えながら、視線が通り過ぎていくのを祈ることだけだった。そして矛盾することに、視線よりも恐ろしいことが己に降りかからぬことには、お金は稼げないのだ。

 もう完全に、日が暮れていた。昼見世はあまり客がこないが、これからは違う。
 見ず知らずの誰かが、この鏡の扉をひらいて、自分の世界を侵すだろう。
 行き交う男たちが、おそろしい。石畳に響く足音が、心臓まで響いてくるようで吐きそうだった。

 扉がきしんだ。
 誰かがついに、やってくる。
 ヤスミンカは世界のすべてを拒絶するかのように、ギュッと目を閉じた。

 隣の部屋だった。
 束の間の安堵の息。
 肩が細かく震えている。
 深呼吸をしようにも、浅く早い呼吸にしかならない。
 心臓が、わしずかみにされたようで、怖くてたまらない。

 助けて。

 暢気で脳天気な彼の顔が思い浮かんだ。
 ヤスミンカは、拳を握りしめて、意識を振り払った。
 
 また、扉がきしんだ。
 今度は、間違いなかった。逆光で、顔は見えない。

 いや……。

 腕を掴まれた。全身がこわばった。
 陸の上にいるのに、溺れているみたいだ。
 呼吸の仕方すら忘れてしまったようだ。
 まるで言うことをきかないし、嫌だと思っても、身体のどこにも力がはいらない。
 振り払うことも、声をだすこともできない。

 ヤスミンカは唇を噛んで、顔を背けた。
 少しでも、恐ろしい何かから、遠ざかりたかった。
 けれど、現実は非情なのだ。乱暴に上着を脱がされ、下着を剥ぎ取られるだろう。
 声もでないままに、組み敷かれ、そして。
 想像するのが恐ろしくて、思考を手放す。
 深くてそこの見えない穴に、突き落とされるようだ。

 震えがとまらない。

 怖い。

 たすけて。ヴェル……。

「ヤスミンカ!」

 幻聴がした。
 わたしが一番聴きたいと思うものを聴かせてくれる、脳の防衛本能。
 けれど、どきりとした。頭の中だけで響いたその声が、もう一度、今度は優しくささやかれたからだ。
 その声は、彼女の緊張を解きほぐした。ヤスミンカは弱々しく顔をあげ、恐るおそるまぶたを開く。
 視界が捉えたのは、なよなよして、慣れ親しんだ顔だった。
 ちっとも頼りになるようには見えないのに、とっても頼りになる青年の顔。
 ヤスミンカが、誰よりもみたかった顔だった。おとぎ話のどんな英雄よりも、頼もしくみえる。

「なんで君は、そんなにも」

 夢にまでみた、夢のような、現実だった。

 手を握っているのは、ヴェルナーだ。
 夢のなかで、手を伸ばした先にいた、頼もしい青年だった。
 彼は、ヤスミンカの手をひき、抱き寄せる。身体を無遠慮に抱きしめられた。
 ちっとも嫌な感じはしない。むしろ。

 ヤスミンカの瞳から、枯れてしまったと思われた涙が、次々とあふれてくる。
 ヴェルナーが、抱きしめる手に力をこめた。
 苦しい。苦しいと思えて、幸せだった。

 懐かしい匂いがした。
 胸いっぱいに、彼の匂いを吸い込んだ。大麻とはちがう、真に甘くかぐわしい香りだった。

 ヤスミンカは、彼の背に手をまわして、抱きついた。彼は応えるように、背中をぽんぽんと叩いてくれた。
 心がどうしようもなく揺さぶられた。
 彼の気づかいがどうしようもなく暖かくて、ヤスミンカはわんわんと声をあげてないた。
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