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39 「明日から本気をだしていいわけね」
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どんな時間であっても、宿舎を見上げると、自分の部屋に明かりがついていることは、ヴェルナーにとっての日常である。
鍵穴に鍵を差し込むことなく、ドアノブを回すことは習慣であり、扉の開く音とともに、ヤスミンカが駆けてくるところはお約束だった。
腰のあたりに抱きついてくるので、ヴェルナーは髪をわしゃわしゃとかき回す。
からからと声をあげて笑うヤスミンカを見ていると、ヴェルナーは、尻尾を振ってくる子犬を飼っているような気持ちになってくる。
密かに癒される瞬間で、これはこれで嬉しいのだけれど、いつになったら落ちつくのだろう、とも思っている。
ヴェルナーが制服を脱いでいるあいだじゅう、ヤスミンカはずっと、愉快さに満ちた笑みを浮かべている。
「だから、幾何学と代数学と解析学がひとつの式で繋がりを持ってしまったところに、みんなは感動するわけ。
乗法と加法の単位元も一緒に登場するあたり、たしかに綺麗だと思わなくもないわ。
でもわたしとしては、ひとの純粋な思考の上にのみ成り立つ空間というのは、まだまだ広がりが浅い気がするわけよ」
ヤスミンカの説明をヴェルナーは疲れたあたまで追いかけてようとして、やめた。
「端的にいうと」
「幾何学的な問題を代数学的に扱うツールを勉強しましょう」
「なるほど」
ヴェルナーはうなずいた。ヤスミンカは意気揚々ときっかけを語る。
「あなたの数学への興味をかき立てるにはどうすればいいかと思って。
機体の波動なり振動は、これからフーリエ解析で把握していくわけだから、複素平面の利便性を実感しておいた方がいいと思うのよね。
被積分関数で記述される世界だから、複素解析の留数定理はほとんど必須みたいなものだし。
だから、どうすれば複素数がとっつきやすいものになるか考えていたの」
どう、と目を輝かせたヤスミンカが無言で問う。
ヤスミンカは彼我の実力差をはっきりと見極められるようになるべきなんじゃないだろうか。
ヴェルナーはそう思ったけれど、あまりに建設的ではないので口にはださなかった。
夕食のハムを切りわけながらヴェルナーは尋ねた。
「とりいそぎ、どこで使うのか教えてくれないかな。励みになるから」
「そりゃあもちろん、ロケットの飛行状況、特に想定外の振動を特定するためよ。
現実空間を定性的でなく定量的に理解するためには、つまり数式で記述していったとき、式が出てきても、計算できなかったら困るでしょう」
ヤスミンカはベッドに倒れ込みながらいった。
ぼふん、という小さな音が部屋に響く。
軍の寮とはいえど、嘱託の科学者に与えられる居室はヴェルナーのボロアパートと大差なく、一人分のベッドと、一人分の勉強机と、ひとつだけ窓があるだけである。
水まわりは共用で、台所もシャワーも共用だった。二人の生活がアパートと変わったところは、着替えに気を使わなくてよくなったことと、ヴェルナーの眠る場所がぼろぼろのソファーから、敷物をした床に変わったことくらいである。
もちろん、ヤスミンカも部屋をもらってはいる。けれど、気がつけばヴェルナーの部屋に入り浸っていたし、ひとりで寝るのが怖いといわれてから、なにもいわなくなった。
ヤスミンカがベッドで枕を抱きかかえながら横になるのが、ヴェルナーが今日一日の出来事を話し始める合図である。ヴェルナーの話はちょうどいい安眠剤になるのだとヤスミンカが言ってから、それが習慣になっていた。
いつものように、とりとめのない話をする。
火薬製造元に連絡をしても、取り合ってくれなかったとか。
関係者じゃないはずなのに、研究所移管の会議に巻き込まれたとか。
陸軍兵器開発者の集いに呼ばれて、技術交流をさせてもらったとか。
給料泥棒しないで働けという嫌味を言われたことはだまっておく。
一切の書類仕事をひとに任せることにした、という話をすると、ヤスミンカが眠気の乗った甘えた声で尋ねた。
「ねえ、ヴェルナー」
「なに」
「明日から本気をだしていいわけね」
「もちろん」
「わかったわ」
そういうと、枕に顔を埋めた。
まもなく、規則正しい寝息が聞こえてくる。帰りが遅くなるから先に寝ててもいいよ、というのに起きて待っていてくれるところが、ヤスミンカのいじらしいところである。
小さな肩まで毛布をかけてやるところまでが、毎日の日常だった。
そう、日常なのだ。
ヴェルナーの部屋に入り浸るようになってから、毎日、ヤスミンカは数学の話をする。
まるでそれが、住まわせてくれることに対する自分の義務であるかのように。彼女なりに、ヴェルナーの、知らなかった、をなくそうとしてくれているのだろう。
ヤスミンカは、ヴェルナーに学べ、と強要したことは一度もない。
道具をならべて、使ってみる気があるならどうぞ、と言っているだけなのだ。
学びとるのはヴェルナーの努力次第であり、結果的に、自分の時間が無駄になっても構わないとすらおもっている節があった。
やれ、と強制される学校が、どれだけ親切なシステムであるか、今なら理解できる。
定期的に学力を測る試験があり、懇切丁寧に解説してくれる教師陣がおり、なにより一日の大半を学ぶことに費やしても許される立場のありがたみが、働くようになったいまなら理解できる。
ヴェルナーが誘惑に負けて、ベッドに横になったとしても、ヤスミンカはなにも言わないだろう。
わたしは特別だから、ギフテッドだから。常人のあなたは、無理をしなくてもいいんだよ。
そんな意味合いの、子どもらしくない割り切りをして、にへらと子どもらしく笑う。
ヴェルナーがサボっても、きっと、それだけ。
学問という世界で、ヤスミンカはどうしようもなく孤独であり、孤独に慣れすぎていた。
頭をわしゃわしゃとしていても、甘えるようにしなだれかかってきていても、心のどこかが、ひとりぼっちだと感じている。なお悪いことに、それを不幸だとはこれっぽっちも考えていないのだ。
ならばせめて、誰かが君を追いかけているんだと、伝える努力はすべきではないだろうか。
誰もやらないのなら、自分がやるしかない。
ヴェルナーが勉強する理由は、ここにある。もちろん、その延長でロケットの開発が進められるようになることは、嬉しいことではあるけれど。
帰って眠れとカミナギ大佐にはいわれたけれど、眠るわけにはいかない事情がある。
ヤスミンカは、毎日のように、自分を前へ進めてしまうのだ。
しかも、彼女が十を学ぶ間に、自分は一しか学べなない。
だから、彼女に追いつくためには、彼女以上に時間を使って、努力するしかない。
よし、じゃあ今日は、複素関数にしよう。
ヴェルナーの夜は、パンとハムと机をかじりながら、ふけていくのである。
鍵穴に鍵を差し込むことなく、ドアノブを回すことは習慣であり、扉の開く音とともに、ヤスミンカが駆けてくるところはお約束だった。
腰のあたりに抱きついてくるので、ヴェルナーは髪をわしゃわしゃとかき回す。
からからと声をあげて笑うヤスミンカを見ていると、ヴェルナーは、尻尾を振ってくる子犬を飼っているような気持ちになってくる。
密かに癒される瞬間で、これはこれで嬉しいのだけれど、いつになったら落ちつくのだろう、とも思っている。
ヴェルナーが制服を脱いでいるあいだじゅう、ヤスミンカはずっと、愉快さに満ちた笑みを浮かべている。
「だから、幾何学と代数学と解析学がひとつの式で繋がりを持ってしまったところに、みんなは感動するわけ。
乗法と加法の単位元も一緒に登場するあたり、たしかに綺麗だと思わなくもないわ。
でもわたしとしては、ひとの純粋な思考の上にのみ成り立つ空間というのは、まだまだ広がりが浅い気がするわけよ」
ヤスミンカの説明をヴェルナーは疲れたあたまで追いかけてようとして、やめた。
「端的にいうと」
「幾何学的な問題を代数学的に扱うツールを勉強しましょう」
「なるほど」
ヴェルナーはうなずいた。ヤスミンカは意気揚々ときっかけを語る。
「あなたの数学への興味をかき立てるにはどうすればいいかと思って。
機体の波動なり振動は、これからフーリエ解析で把握していくわけだから、複素平面の利便性を実感しておいた方がいいと思うのよね。
被積分関数で記述される世界だから、複素解析の留数定理はほとんど必須みたいなものだし。
だから、どうすれば複素数がとっつきやすいものになるか考えていたの」
どう、と目を輝かせたヤスミンカが無言で問う。
ヤスミンカは彼我の実力差をはっきりと見極められるようになるべきなんじゃないだろうか。
ヴェルナーはそう思ったけれど、あまりに建設的ではないので口にはださなかった。
夕食のハムを切りわけながらヴェルナーは尋ねた。
「とりいそぎ、どこで使うのか教えてくれないかな。励みになるから」
「そりゃあもちろん、ロケットの飛行状況、特に想定外の振動を特定するためよ。
現実空間を定性的でなく定量的に理解するためには、つまり数式で記述していったとき、式が出てきても、計算できなかったら困るでしょう」
ヤスミンカはベッドに倒れ込みながらいった。
ぼふん、という小さな音が部屋に響く。
軍の寮とはいえど、嘱託の科学者に与えられる居室はヴェルナーのボロアパートと大差なく、一人分のベッドと、一人分の勉強机と、ひとつだけ窓があるだけである。
水まわりは共用で、台所もシャワーも共用だった。二人の生活がアパートと変わったところは、着替えに気を使わなくてよくなったことと、ヴェルナーの眠る場所がぼろぼろのソファーから、敷物をした床に変わったことくらいである。
もちろん、ヤスミンカも部屋をもらってはいる。けれど、気がつけばヴェルナーの部屋に入り浸っていたし、ひとりで寝るのが怖いといわれてから、なにもいわなくなった。
ヤスミンカがベッドで枕を抱きかかえながら横になるのが、ヴェルナーが今日一日の出来事を話し始める合図である。ヴェルナーの話はちょうどいい安眠剤になるのだとヤスミンカが言ってから、それが習慣になっていた。
いつものように、とりとめのない話をする。
火薬製造元に連絡をしても、取り合ってくれなかったとか。
関係者じゃないはずなのに、研究所移管の会議に巻き込まれたとか。
陸軍兵器開発者の集いに呼ばれて、技術交流をさせてもらったとか。
給料泥棒しないで働けという嫌味を言われたことはだまっておく。
一切の書類仕事をひとに任せることにした、という話をすると、ヤスミンカが眠気の乗った甘えた声で尋ねた。
「ねえ、ヴェルナー」
「なに」
「明日から本気をだしていいわけね」
「もちろん」
「わかったわ」
そういうと、枕に顔を埋めた。
まもなく、規則正しい寝息が聞こえてくる。帰りが遅くなるから先に寝ててもいいよ、というのに起きて待っていてくれるところが、ヤスミンカのいじらしいところである。
小さな肩まで毛布をかけてやるところまでが、毎日の日常だった。
そう、日常なのだ。
ヴェルナーの部屋に入り浸るようになってから、毎日、ヤスミンカは数学の話をする。
まるでそれが、住まわせてくれることに対する自分の義務であるかのように。彼女なりに、ヴェルナーの、知らなかった、をなくそうとしてくれているのだろう。
ヤスミンカは、ヴェルナーに学べ、と強要したことは一度もない。
道具をならべて、使ってみる気があるならどうぞ、と言っているだけなのだ。
学びとるのはヴェルナーの努力次第であり、結果的に、自分の時間が無駄になっても構わないとすらおもっている節があった。
やれ、と強制される学校が、どれだけ親切なシステムであるか、今なら理解できる。
定期的に学力を測る試験があり、懇切丁寧に解説してくれる教師陣がおり、なにより一日の大半を学ぶことに費やしても許される立場のありがたみが、働くようになったいまなら理解できる。
ヴェルナーが誘惑に負けて、ベッドに横になったとしても、ヤスミンカはなにも言わないだろう。
わたしは特別だから、ギフテッドだから。常人のあなたは、無理をしなくてもいいんだよ。
そんな意味合いの、子どもらしくない割り切りをして、にへらと子どもらしく笑う。
ヴェルナーがサボっても、きっと、それだけ。
学問という世界で、ヤスミンカはどうしようもなく孤独であり、孤独に慣れすぎていた。
頭をわしゃわしゃとしていても、甘えるようにしなだれかかってきていても、心のどこかが、ひとりぼっちだと感じている。なお悪いことに、それを不幸だとはこれっぽっちも考えていないのだ。
ならばせめて、誰かが君を追いかけているんだと、伝える努力はすべきではないだろうか。
誰もやらないのなら、自分がやるしかない。
ヴェルナーが勉強する理由は、ここにある。もちろん、その延長でロケットの開発が進められるようになることは、嬉しいことではあるけれど。
帰って眠れとカミナギ大佐にはいわれたけれど、眠るわけにはいかない事情がある。
ヤスミンカは、毎日のように、自分を前へ進めてしまうのだ。
しかも、彼女が十を学ぶ間に、自分は一しか学べなない。
だから、彼女に追いつくためには、彼女以上に時間を使って、努力するしかない。
よし、じゃあ今日は、複素関数にしよう。
ヴェルナーの夜は、パンとハムと机をかじりながら、ふけていくのである。
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