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43 「落とし前はつけてもらわないとね?」
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研究室に戻ってきたヤスミンカの表情をみて、ヴェルナーは自然と、ぬくぬくとした日常が終わりを告げたことを悟った。
いまのヤスミンカに対しては、サプライヤ工場の空き状態も、事務的な手続きも、彼女の大好きな数学的知見でもとめようがなく、つまりはヤスミンカへ全面的に協力する以外に道はない。
なんなら、すぐにでもサプライヤの皆さまに連絡をとり、これからの地獄に備えて、今日一日くらいは家族団欒を過ごすように伝えてあげるべきではないかとすら、考えた。
ヤスミンカはギロリと視界の端にヴェルナーをとらえていう。
「予算が十倍になるわ」
「冗談だろ?」
ヴェルナーはできるだけ軽い口調でいう。
「陸と空が喧嘩したの。そしたら予算がつりあがったわ」
「まるで夢のような話だね」
「そうよね。まるで夢のような話よね」
ヤスミンカは、かつてないほどの微笑を浮かべていった。どんでもない危うさをはらんだ声だった。
「一月後の打ち上げを上手く乗り越えれば、だけど」
ヴェルナーの笑みがぴたりと固まった。ほらきたぞ、と聞き違いでることを願いながら、ヤスミンカに尋ねた。
壮絶に嫌な予感がする。
会話を進めれば、間違いなく無理難題が降りかかってくるという予感である。
ヴェルナーにとって悲しかったのは、それが不味いことだとわかっていても、足を踏み入れざるを得ない状況にあった。
いま、この研究室で会話を進められるのは、ヤスミンカと自分以外に、誰もいないのだから。
「一月後? 打ち上げは三日後に控えてるんじゃなかったっけ?」
「それは中止。とにかく飛距離を稼ぐ方法を考えないと」
「どのくらい?」
「誰の目でも捕らえられないくらい飛ぶだけでいいわ」
「聴き逃していたら申し訳ないんだけど、なにをするかもう一度教えてはもらえないだろうか」
「あなたの耳は正常よ、ヴェルナー。わたしはまだ、あなたが状況を理解できるようなことは何一つ口にしていないんだもの」
いや、とてつもなく悪い状況だということはよくわかるよ、ヴェルナーは叫び出したい気分だったが、懸命にもなにもいわなかった。
「あと七百二十時間もあるわ」
彼女はスケールをおきかえて表現する。デイからアワーに。
とてつもなく有利な条件であるように見せるのは、詐欺の常套手段である。もちろん、ヴェルナーは騙されなかった。
彼女の計算には睡眠時間は含まれていない。
「君の楽観さが、時々うらやましくなるよ」
「それか、お偉方の見ている前で自在に向きを変えられるとんでもロケットを造ってくれてもいいのだけれど」
「飛距離を伸ばす方を頑張らせていただきます」
「あなたが余分なことをしなければ、厳しいスケジュールにはならなかったはずなんだからね」
ヤスミンカが確かめるよう詰問した。
「なんのこと?」
青年はコーヒーを置く。
「あなたが空軍を呼んだのでしょう?」
ヤスミンカはたしなめるようにいった。
「はじめは大佐だと思ったんだけど。
会議のとき、すこし必死すぎるきらいがあったのよね。
解決策が投げやりだもの。焚きつけ方も随分とわかりやすかったし、何より、普通、科学者なら言わないでしょう?
確認されなければ、問題ないだなんて」
観念して、ヴェルナーは肩をすくめた。
「僕はリンドバーグ先輩に連絡をとっただけだよ。開発がうまくいってるから、一度見学に来いって。
そしたら上官がきたってところかな。
ヤースナがどれだけ新しいことをやっているかは、先輩なら十分承知していると思って。
陸より空を翔けるロケットなら、彼の出世にも役立つかな、と。
だから、大佐の名前を使わせてもらったけど」
「完全な確信犯で、立派な情報漏洩で、軍法会議ものよ。
そしてまさにわたしは、軍法会議のようなものを体験してきたところなのよ。
そして、皆の前で、まるでわたしが無能であるかのよう扱われた。
けれど、そんなことは、些細な問題なのよ」
そこまでいうと、ヤスミンカはふかぶかとため息をついて、黙り込んだ。あまりに静かなので、詰問されているはずのヴェルナーが声をかけるはめになった。
「どうしたの、ヤスミンカ?」
「ヴェルナー。わたし、ぜんぶ知っているのよ」
なんのことだ、とヴェルナーは考える。
心あたりはまったくなかったし、なにを探られているのか検討もつかない。
大佐の匂いとか仕草に少しだけドキドキしたとか、事務仕事でヘルプに入ってくれたお姉さんといい雰囲気になったとか、そういうこと?
けれど、思案しているまもなく、ヤスミンカの目に涙が溜まっていくのをみて、ヴェルナーは本気で慌てた。
これからいそがしくなるとか、無意味に当たり散らされるとか、そんな些細なことはどうでも良くなるくらいに動揺した。
ヤスミンカに泣かれることほど、恐ろしいことはない。肉体的にはともかく、精神的に、とても辛いのだから。
「ほんとに、なんのことなんだい、ヤースナ」
「あなたは、わたしのものなのよ」
くしゃくしゃと表情をゆがませて、崩れ落ちるように、ヴェルナーにすがりついた。
「居なくならないでよぉ。ずっとそばにいてよぉ。なんだってしてあげるから」
しばらくして顔をあげたヤスミンカは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
ヤスミンカは、瞳を真っ赤にしていう。
「ヴェルナー」
「なんだい」
ヤスミンカはヴェルナーの袖をしっかりとつかんだまま、上目遣いで彼を見上げる。
「あの女のことなんて、これっぽっちも思っていないわよね?」
「誰のこと?」
「カミナギ大佐」
ヴェルナーはなんとなく察する。焚きつけたのが誰か。
ヤスミンカが情緒不安定になってしまった原因が誰であるか。
ヴェルナーは深々とため息を吐き出してから、安心させるように頭をなでた。
「別になんとも」
「本当?」
「本当」
ヤスミンカは、涙で真っ赤にしたまま、探るような眼差しを向け続けている。
ヴェルナーが、そっと頭に触れる。
ゆっくり、優しく撫でる。
さらさらな髪を手ぐしする。
ヴェルナーはそのまま、ヤスミンカをそっと抱きしめた。
腕の中で、彼女の肩の強張りが、すっと抜けていく感覚が伝わってきて、ヴェルナーはやっと緊張の糸を解いた。
彼は、腕の中ですすり泣く愛おしい女の子がが落ち着くまで、ゆっくりと背中を撫でてやった。
ヤスミンカの温もりを胸の中に感じながら数刻。少しずつ落ち着いてくる。
袖で目元をぬぐってやると、気持ちよさそうに目を細めて、されるがままになっている。
だが、涙を拭ったあとの彼女の瞳は、闘志に燃えていた。
「ヴェルナー。わたし、少し拗ねてもいいかしら」
「今度はどうしたの?」
「あなたのせいで、わたし、あの女に、こけにされたのよ。落とし前はつけてもらわないとね?」
「へ?」
ヴェルナーは、自分が罠にはまっていたことを、唐突に思い出した。
さっと身をひいたが、ヤスミンカは、逃がさないぞと言うように、袖を強く引いた。
思いの他強い力で、つんのめるヴェルナーを受け止めると、ヤスミンカは彼の耳元に、甘い声でささやいたのだった。
「だから、飛距離だけじゃなくて、操舵も頑張って作ってね。大丈夫、構想だけは準備してあげるから」
軍は、そのときの詳細な試験記録を、残してはいない。
特筆すべきことはない。
SY-04改は無事に完成し、打ち上げ後、順調に飛距離を伸ばし、地平線に見事到達した。
はじめて発射を見学する誰もが、ロケットの可能性に圧倒された。
操舵されたかどうか誰一人として気にする者はいなかった。
SY-04改の速度、高度、飛距離はそんな些細なことなど問題にならないほどに革新的であったのである。
ちなみに、ヤスミンカはその後何年も、自律制御技術の獲得に苦しむことになるのだが、それは別の話である。
あっさり開発し、あっさり予算を十倍にしたヤスミンカは、財布のひもが緩くなった軍に、あっさりと新しい研究所の建造を約束させた。
そうして立ち上がったのが、のちに近代ロケットの聖地と呼ばれるようになる、ペーネミュンデ研究所である。
いまのヤスミンカに対しては、サプライヤ工場の空き状態も、事務的な手続きも、彼女の大好きな数学的知見でもとめようがなく、つまりはヤスミンカへ全面的に協力する以外に道はない。
なんなら、すぐにでもサプライヤの皆さまに連絡をとり、これからの地獄に備えて、今日一日くらいは家族団欒を過ごすように伝えてあげるべきではないかとすら、考えた。
ヤスミンカはギロリと視界の端にヴェルナーをとらえていう。
「予算が十倍になるわ」
「冗談だろ?」
ヴェルナーはできるだけ軽い口調でいう。
「陸と空が喧嘩したの。そしたら予算がつりあがったわ」
「まるで夢のような話だね」
「そうよね。まるで夢のような話よね」
ヤスミンカは、かつてないほどの微笑を浮かべていった。どんでもない危うさをはらんだ声だった。
「一月後の打ち上げを上手く乗り越えれば、だけど」
ヴェルナーの笑みがぴたりと固まった。ほらきたぞ、と聞き違いでることを願いながら、ヤスミンカに尋ねた。
壮絶に嫌な予感がする。
会話を進めれば、間違いなく無理難題が降りかかってくるという予感である。
ヴェルナーにとって悲しかったのは、それが不味いことだとわかっていても、足を踏み入れざるを得ない状況にあった。
いま、この研究室で会話を進められるのは、ヤスミンカと自分以外に、誰もいないのだから。
「一月後? 打ち上げは三日後に控えてるんじゃなかったっけ?」
「それは中止。とにかく飛距離を稼ぐ方法を考えないと」
「どのくらい?」
「誰の目でも捕らえられないくらい飛ぶだけでいいわ」
「聴き逃していたら申し訳ないんだけど、なにをするかもう一度教えてはもらえないだろうか」
「あなたの耳は正常よ、ヴェルナー。わたしはまだ、あなたが状況を理解できるようなことは何一つ口にしていないんだもの」
いや、とてつもなく悪い状況だということはよくわかるよ、ヴェルナーは叫び出したい気分だったが、懸命にもなにもいわなかった。
「あと七百二十時間もあるわ」
彼女はスケールをおきかえて表現する。デイからアワーに。
とてつもなく有利な条件であるように見せるのは、詐欺の常套手段である。もちろん、ヴェルナーは騙されなかった。
彼女の計算には睡眠時間は含まれていない。
「君の楽観さが、時々うらやましくなるよ」
「それか、お偉方の見ている前で自在に向きを変えられるとんでもロケットを造ってくれてもいいのだけれど」
「飛距離を伸ばす方を頑張らせていただきます」
「あなたが余分なことをしなければ、厳しいスケジュールにはならなかったはずなんだからね」
ヤスミンカが確かめるよう詰問した。
「なんのこと?」
青年はコーヒーを置く。
「あなたが空軍を呼んだのでしょう?」
ヤスミンカはたしなめるようにいった。
「はじめは大佐だと思ったんだけど。
会議のとき、すこし必死すぎるきらいがあったのよね。
解決策が投げやりだもの。焚きつけ方も随分とわかりやすかったし、何より、普通、科学者なら言わないでしょう?
確認されなければ、問題ないだなんて」
観念して、ヴェルナーは肩をすくめた。
「僕はリンドバーグ先輩に連絡をとっただけだよ。開発がうまくいってるから、一度見学に来いって。
そしたら上官がきたってところかな。
ヤースナがどれだけ新しいことをやっているかは、先輩なら十分承知していると思って。
陸より空を翔けるロケットなら、彼の出世にも役立つかな、と。
だから、大佐の名前を使わせてもらったけど」
「完全な確信犯で、立派な情報漏洩で、軍法会議ものよ。
そしてまさにわたしは、軍法会議のようなものを体験してきたところなのよ。
そして、皆の前で、まるでわたしが無能であるかのよう扱われた。
けれど、そんなことは、些細な問題なのよ」
そこまでいうと、ヤスミンカはふかぶかとため息をついて、黙り込んだ。あまりに静かなので、詰問されているはずのヴェルナーが声をかけるはめになった。
「どうしたの、ヤスミンカ?」
「ヴェルナー。わたし、ぜんぶ知っているのよ」
なんのことだ、とヴェルナーは考える。
心あたりはまったくなかったし、なにを探られているのか検討もつかない。
大佐の匂いとか仕草に少しだけドキドキしたとか、事務仕事でヘルプに入ってくれたお姉さんといい雰囲気になったとか、そういうこと?
けれど、思案しているまもなく、ヤスミンカの目に涙が溜まっていくのをみて、ヴェルナーは本気で慌てた。
これからいそがしくなるとか、無意味に当たり散らされるとか、そんな些細なことはどうでも良くなるくらいに動揺した。
ヤスミンカに泣かれることほど、恐ろしいことはない。肉体的にはともかく、精神的に、とても辛いのだから。
「ほんとに、なんのことなんだい、ヤースナ」
「あなたは、わたしのものなのよ」
くしゃくしゃと表情をゆがませて、崩れ落ちるように、ヴェルナーにすがりついた。
「居なくならないでよぉ。ずっとそばにいてよぉ。なんだってしてあげるから」
しばらくして顔をあげたヤスミンカは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
ヤスミンカは、瞳を真っ赤にしていう。
「ヴェルナー」
「なんだい」
ヤスミンカはヴェルナーの袖をしっかりとつかんだまま、上目遣いで彼を見上げる。
「あの女のことなんて、これっぽっちも思っていないわよね?」
「誰のこと?」
「カミナギ大佐」
ヴェルナーはなんとなく察する。焚きつけたのが誰か。
ヤスミンカが情緒不安定になってしまった原因が誰であるか。
ヴェルナーは深々とため息を吐き出してから、安心させるように頭をなでた。
「別になんとも」
「本当?」
「本当」
ヤスミンカは、涙で真っ赤にしたまま、探るような眼差しを向け続けている。
ヴェルナーが、そっと頭に触れる。
ゆっくり、優しく撫でる。
さらさらな髪を手ぐしする。
ヴェルナーはそのまま、ヤスミンカをそっと抱きしめた。
腕の中で、彼女の肩の強張りが、すっと抜けていく感覚が伝わってきて、ヴェルナーはやっと緊張の糸を解いた。
彼は、腕の中ですすり泣く愛おしい女の子がが落ち着くまで、ゆっくりと背中を撫でてやった。
ヤスミンカの温もりを胸の中に感じながら数刻。少しずつ落ち着いてくる。
袖で目元をぬぐってやると、気持ちよさそうに目を細めて、されるがままになっている。
だが、涙を拭ったあとの彼女の瞳は、闘志に燃えていた。
「ヴェルナー。わたし、少し拗ねてもいいかしら」
「今度はどうしたの?」
「あなたのせいで、わたし、あの女に、こけにされたのよ。落とし前はつけてもらわないとね?」
「へ?」
ヴェルナーは、自分が罠にはまっていたことを、唐突に思い出した。
さっと身をひいたが、ヤスミンカは、逃がさないぞと言うように、袖を強く引いた。
思いの他強い力で、つんのめるヴェルナーを受け止めると、ヤスミンカは彼の耳元に、甘い声でささやいたのだった。
「だから、飛距離だけじゃなくて、操舵も頑張って作ってね。大丈夫、構想だけは準備してあげるから」
軍は、そのときの詳細な試験記録を、残してはいない。
特筆すべきことはない。
SY-04改は無事に完成し、打ち上げ後、順調に飛距離を伸ばし、地平線に見事到達した。
はじめて発射を見学する誰もが、ロケットの可能性に圧倒された。
操舵されたかどうか誰一人として気にする者はいなかった。
SY-04改の速度、高度、飛距離はそんな些細なことなど問題にならないほどに革新的であったのである。
ちなみに、ヤスミンカはその後何年も、自律制御技術の獲得に苦しむことになるのだが、それは別の話である。
あっさり開発し、あっさり予算を十倍にしたヤスミンカは、財布のひもが緩くなった軍に、あっさりと新しい研究所の建造を約束させた。
そうして立ち上がったのが、のちに近代ロケットの聖地と呼ばれるようになる、ペーネミュンデ研究所である。
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