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3.水音《みなと》

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◇  ◇  ◇


 雨が降り出してきたというのに猫が見当たらない。俺はアパートの周辺を探してまわった。体が濡れるのを極端に嫌う奴だから、こんな日に脱走するなんて思ってもいなかった。そうでなくてもインドアな猫だ。外に出たがりもしないし、出したこともない。だから油断してた。家を開けて15分。コンビニに出かけてたちょっとの間に、あんな隙間から出て行ってしまうなんて。脱走のチャンスを狙ってたとしか思えない。

 雨で濡れそぼった奴を無条件に部屋に上げたくない。最悪、泥だらけになってるかも。だけど簡単にシャンプーもさせてくれないだろう。本降りになる前に見つけたい。

 「クリーム!クリーム!」

 俺は猫が好きそうな路地や植え込みの隙間を覗いてまわった。まさか大きな通りに出て、車に轢かれたりしてやいないだろうか。雨はいつの間にかどしゃ降りになっていた。一旦、部屋に帰ろう。もしかしたら戻ってきているかもしれない。

 アパートにとって戻り、もう一度、部屋の中を確認した。ベッドの下、ソファの下、冷蔵庫と壁の隙間、脱衣カゴの中。やっぱりいない。キッチンの窓を少しだけ開けておく。奴が戻って来ても、なんとか入れるだろう隙間。

 出て行けたんだから多分入れるだろう。湿った靴下を替え、パーカーを羽織った。スニーカーに履き替え、奴のキャリーケースを出した。お気に入りのオヤツも持っていこう。2つしかない傘の大きい方を手にとり、俺は玄関ドアを勢いよく開けた。だがドアは開ききらない内に、大きな音を立てて跳ね返ってきた。

 まずい。誰かに当たったみたいだ。

 恐る恐る…とはいえ、こっちも別の理由で切羽詰っている。のんびりはしていられない。俺は再びドアを、今度はそっと開け、顔だけ出して確認した。そこに立っていたのは、俺の知るかぎり、このアパートの住人の誰でもなかった。

 「あの、すみません。大丈夫ですか?」

 彼は驚いた顔のまま、目を見開いて、俺の顔をまじまじと見た後、一息置いて「あ…大丈夫です。足に当たっただけだから…」と言い、照れたように少し笑った。

 歳は多分、俺と同じか少し下、雰囲気は”その辺によくいる”高校か大学生といったところか。やたらと青白い、お世辞にも健康そうとはいえない風体だった。

 「あの、こちらで猫を探してるって聞いたから…」

 そう言って、彼は胸に抱えたデイパックを、俺の目線に合わせるように持ち上げた。ジッパーの隙間から黒い頭が出ていた。黒猫と呼ばれる種類の猫は、ぱっと見、個体を見分けるのに苦労する。だが彼が抱いていたのは紛れもない俺の猫だった。

 「クリーム!」

 奴は、俺と目が合うと、悪びれもせずに「ふるるるるっ」と鼻を鳴らした。

 猫を探してるって聞いたって?誰にだよ?

 不審に思いはしたが、彼が俺の飼い猫を抱いていることは疑いようのない事実だ。

 「それはどうも」

 ぶっきらぼうだったかもしれない。俺が持っていたキャリーを足元に置いて両手を出すと、彼はこちらを伺うように笑顔を作って、おずおずと猫を差し出した。

 「ありがとう」

 受け取りざまに不意に触れた彼の手の冷たさに、俺はぎょっとした。思わず目を上げ、彼の背後を見た。外は水煙が立つほどの、どしゃ降りの雨。猫は濡れてはいなかった。

 だが彼は、春先といってもまだかなり寒い日だというのに、やけに薄着だった。その上、雫を滴らした髪、重く垂れ下がるシャツ、彼は傘を持っていなかったらしい。それに体重8kg越えの猫を胸に抱えて、傘を差すのはちょっと難しいかもしれない。

 「あの、良かったら入ります?タオルくらいならあるから…」

 考えるより先に声に出してしまっていた。彼は、大きな目を驚いたように丸くして、直ぐにほっとしたように笑った。

 「いいんですか?!」

 そんなに嬉しそうな反応をされるとは思っていなかったから、俺は一瞬たじろいだが、言ったことはいまさら翻せない。

 なんだろう、この"決まった台詞"を言わされてる感じは。

 俺はドアを開け放ち、ひとまず玄関へと彼を招き入れた。

 「ちょっとまってね。タオル、取ってくる、あ、入って」

 小さな靴脱ぎだけの玄関と、すぐ脇にアパートの通路に面したキッチン、バスルーム、奥に4、6畳の二間続きの部屋。古い物件で、間取りも内装も相当に古臭いものだったが、そこそこ広いのが気に入っていた。住みだして1年になる。俺一人と猫一匹には丁度よかった。

 キッチンのスツールに彼を通して、俺は部屋の奥に猫を放った。彼の体が冷え切っているのはわかっていたが、さすがに風呂を使ってくれとまでは言えなかった。勿論、猫のことは感謝している。だけど数分前に会ったばかりだ。俺は彼のことを知らない。申し訳程度だが、エアコンを点け、目一杯温度を上げた。

 「君、家、この近く?」

 「あっ…、えっと、あの」

彼は、俺が渡したタオルで髪を拭いながら、きょときょとと首を振った。挙動不審だ。人と話すのが苦手なタイプか。俺は腹の中で舌打ちした。

 「コーヒー入れるけど、飲む?紅茶でも…ミルクもあるけど」

 「じゃぁ、コーヒーで」


 「…ドリップなんだ。すごいね」

 彼は俺の顔と手元に交互に視線を送りながら、愛想良く笑った。

 「これしかないんだ。一人だからこれで充分」

 「猫、クリームって言うんだ?」

 「うん」

 「白いところ、少しもないよね?どうして?」

 「なんか、見てて欲しくならない?」

 「?」

 「クリーム」

 彼はまた俺と猫を何度か見比べ、笑った。

 「コーヒー、好きなんだ?」

 「っていうか、色がね。光が当たると焦げ茶っぽく見えるから。カップの縁のコーヒーの色に似てるなって」

 淹れたてのコーヒーを注いだカップを彼の前に置く。

 「砂糖とクリームは?」

 「僕はこのままで。ありがとう」

 小さなテーブルを挟んで、俺は彼の向かいに座った。

 「助かったよ。ありがとう。俺は多那中たななか昌樹まさき、…えっと、名前、聞いていい?」

 「ミナト。水の音って書くんだ」

 「変わってるね」

 「変かな?」

 「ううん。詩情があるね」

 「ふふふ」

 俺が手を差し出すと、彼は躊躇いなく握り返した。俺達はテーブルの上で握手を交わした。彼の手は冷たく、まだしっとりと湿っていた。

 俺達はしばらく取り留めのない話をした。どちらかというと、俺があれこれ訊かれる方だった。大学のこと、休みに何をしてるか、なんて事を、彼に訊かれるままに話していたんだと思う。わりとどうでもいい内容だった。初対面の時のぎこちなさはすぐに消えて、お互いかなり打解けていたと思う。

 彼は、水音みなとは、歳はおれより大体2つ下。18になったばかりだとか言っていた。背は高くもなく、低くもなく。厳つくもなければ、特別華奢に見えるということもない。肌は青白く、対照的に髪は『カラスの濡れ羽色』なんて言葉を思い浮かべる程に黒々としていて、そこだけがちょっと珍しかった。着ている服もシンプルで目立った特徴はなかった。どこか中性的な感じがした。随分と目が大きいと感じる以外は整った顔立ちなのに、やたらと上目遣いに俺を見るのを、俺は少し気に入らないと思った。

 「あの、時間、大丈夫?」

 俺は少し前から喉元に引っ掛かっていた言葉をようやく吐いた。もうかれこれ2時間以上経っている。彼が『じゃあ、そろそろ…』なんて言い出すのを待っていたが、一向にその気配がない。

 「なんか、引き止めちゃったね。そういえば、雨、弱まってるかな?よかったら、ウチの傘、持って行って…」

 俺にしては、かなり愛想の良い言い方だったと思う。そう言いながら腰を浮かせたが、目の前の彼は動く気配がなかった。彼の顔に目を移すと、水音は例の上目遣いで、肩を竦めてから、気まずそうに笑った。

 「えっと…あの、僕、行く所がないんです」

 そう言って、顔だけは申し訳なさそうに眉尻を下げてみせた。

 なんてこった。
そういうことは、俺の部屋に入る前に言って欲しかった。

 「…ごめんなさい」

 謝られても、どうしろってんだ。俺は浮かせた腰を再び椅子に戻した。

 「コーヒーがいい?紅茶にする?ミルクもあるけど」

 「じゃあ、コーヒーで」

 3杯目のコーヒーを淹れていると、猫のクリームが腹を減らせて俺の足元に擦り寄ってきた。先に奴の皿にドライフードを少しだけ出した。コイツはドライフードも缶詰も出したてのものしか食べない。

 「猫、大きいよね?」

 「オスだからね」

 「何歳?」

 「わからない。ウチに来てからは一年ちょっとくらいかな?最初はこれくらいだった」

 俺は片手の掌を開いて見せた。

 「しっぽ抜きね。アタマ、ケツでこれくらい」

 何かつまめる物をと思ったが、茶菓子なんて気の利いたものがあるわけがない。俺は、今朝買って来た一つきりのメロンパンを出し、テーブルの上でナイフでもって、細かく切り分けた。

 「バター、いい匂い」

 「そこの道、国道に出た所のパン屋。なんか評判いいらしいよ?」

 「そうなんだ」

 カッティングボードごとテーブルの真ん中に押しやって、俺は椅子に体をあずけ直した。

 「家出?」

 「まさか!」

 水音は目を見開いて、心底心外そうに言った。そこで何故そのリアクションなんだ?それ以上追及する気が失せたが、俺が促すまでもなく、水音は彼の身上を饒舌に語った。近親者がいないこと、養護施設で育ったこと。その施設は、18歳になると出て行かなければならなかったこと。住み込みで働ける口を世話してもらった筈が、行ってみると当てが外れたこと。他にできる仕事を探すも、住所も連絡先も持たない身では、侭ならないこと。

 親から仕送りを受けて暮らす、ごく普通の大学生の俺には縁のない話だが、運が悪ければ、そういうこともあるんだろうと想像できる、世の中によく転がっている、ありふれた話でもあった。

 「その、元いた施設には一時的に、戻ったりとか出来ないの?」

 「いっぱいなんだ。ベッドとか、酷い時は一人一つもないし…それに、あんまり良い所じゃないし…先生とか、怖いし。えっと…」

 水音は口ごもった。

 「…それで…その、少しの間でいいんだけど、ここに置いて貰えたり…しないかな?」

 この話が始まってから大体予想はしていたけれど、彼は言い難そうにはしているが、言葉にして聞いてみると相当な図々しさだ。猫を保護してもらった対価にしては、少し大きすぎるんじゃないか?…とは言え、聞いてしまった以上、今すぐ彼を部屋から叩き出すのは俺の気が咎める。俺は面倒は避けられる限り避けて通る人間だが、そこまで冷淡じゃない。どうしたものかと頭を巡らせながら、ちらりと水音を盗み見る。

 俺の返答待ちか。
 うつむき、神妙な顔つきで、その癖、せっせとメロンパンを口に運んでいる。腹が減っているらしい。冬ごもり前のリスみたいだ。ちょっと可哀想になってきた。そういえば、そろそろ飯時だ。ここまで来たら、とりあえず飯を食わせて、それから警察にでも対応を聞いてみようか?

 ふいに水音が目をあげて、俺の視線に気付くと、顔を紅潮させた。

 「あ、あんまり食べるとキツイかも。この後メシにするから。パスタとかしかないけど、食べる?」

 水音が恥ずかしそうに肩を竦め、うなずいた。この時俺は、彼の仕草がいちいち女っぽいな、と思い始めていた。それにちょっとした振舞いも、どこか子供っぽい。悪い人間じゃないんだろうけど、俺には付き合いにくいタイプに見えた。

 「…あの、それと…僕、ゲイなんです」

 水音は顔を赤らめたまま、普通なら言い難いはずの言葉をさらっと言った。それは最初から気付いてた。そもそも男同士ってのはゲイでもない限り、相手の顔なんて、あまり見ないものだ。だが目の前のコイツときたら、最初から俺の顔をまじまじと、それこそ穴でも開けようってくらいの勢いで覗き込んでくるのだ。

 俺もゲイだ。多分。自分で明確に意識したことはないが、少なくとも少し前まで付き合っていた相手は男だ。おそらく水音も、俺の値踏みするような視線に気付いていたのだろう。彼の頼みごとをする上での最低限の礼儀なのか、それとも別の意図を指してのことなのか。

 多分、彼も、俺が先に考えていたように、さすがに猫を助けた対価に宿まで求めるのは、釣り合いが取れないと思ったのだろう。彼なりに帳尻をあわせようとしている。なんとなくそういう雰囲気を漂わせていた。

 俺がこのまま黙っていたら、その先まで言い出しそうだ。俺は、なんとはなしにそれを聞きたくはなかった。見透かされていたから、というのとも違う。俺にとって彼が、単にそういう対象には見えなかったというだけだったが、聞けば酷く嫌な気分になることはわかっていた。そうなれば、一分だって俺は彼の顔を見ていられなくなるだろう。それだけのために、俺は提案をした。

 部屋の奥のベンチを指し「あのソファで寝ることになるけど?」と言うと、水音は面食らった顔をして、隣の部屋を覗き込み、ぎこちなく『良いソファだね!』と言った。

 「俺の持ち物の中で一番の高級品。寝心地はわからないけど、少なくとも俺が今使ってるベッドが4台は買えた。だけど俺はベッドを譲る気はない。あとクリームと同室だから。そこ、クリームの寝床ね。結構、神経質だから。変な時に構うと怒るよ」

 俺がそこまで言うと、ようやく自分の要求が通ったことに気付いたのだろう。水音は、ぱっと顔を輝かせた。

 「ありがとう!」

 いきなり立ち上がろうとするのを俺は手で制した。飛びついてきそうだった。

 「ありがとう」

 水音は椅子に座りなおし、肩を縮めると、顔を赤らめ例の上目遣いで俺を見上げた。俺はそれを早々に打ち切るために「飯にしよう」と提案した。

 「今後のことはそれからだ」
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