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7.浸透圧

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 まだガラ空きの駐車場をつき切り、防風林の林を抜けると、目の前に海が広がっていた。強い日差しを反射して、水面がキラキラと光っている。遠く向こうに弧を描く水平線の上を行き交う、おもちゃのような小さな船。世間では夏休み前の平日だというのに、すでに海水浴客の姿が見えた。人の手を離れた浮き輪が波打ち際を行ったり来たりし、小さな子供を伴った家族連れが、ぽつりぽつりと間隔を開けて、思い思いに過ごしていた。俺は、それらが全て適度な位置に配置されているのを確認するように、順に目で追った。
海から吹いてくるべったりと熱い風、潮の臭い、波の音。俺がイメージしていた海そのものだった。

 そこはかとなく幸福な気分に浸りながら、ふと目線を移すと、目の前を水音が歩いている。先刻まで手を繋いでいた筈なのに、いつの間にか逸れていた。水音は俺に構わず、ずんずんと先に進んでいく。

 「水音!」

 声が届いている筈の距離なのに、水音は俺を振り返ろうともしない。吸い寄せられるように海に向かって歩いて行く。

 「水音!」
「おい!!水音!」

 俺が大声をあげた時、水音の被っていた麦藁帽子が風にあおられて飛んだ。だが、それさえも水音は気に留める様子がない。いつもの水音らしくない。俺は飛んだ帽子を追った。数十メートル追った所で、それを拾い上げ、俺は少し腹を立てながら水音の方に目をやった。ぐんぐん遠ざかっていく彼の背に、俺はただならぬものを感じ始めていた。

 「水音!水音!!」

 突然胸を覆い始めた薄暗いものに押されるようにして、俺は走り出していた。走りながら、彼を引きとめようと叫んだ。

 「ミナト!!」

 水音は着衣のまま、波打ち際をざぶざぶと分け入って行く。すでに腰まで浸かっていた。なにかの映画で見た、入水自殺者のそれに似て見えた。一体、何が起きてるんだ??

 「ミナト!」

 俺も後を追って海に入った。

 足が波に縺れて、思いのまま進めない。ようやく追いついたと思った時には、2人とも肩まで海に浸かっていた。水音の肩を強く掴んでこちらに振り向けさせると、ようやく水音は俺に気付いたようだった。何か言おうとしたが、すぐに言葉が出てこない。唖然としている俺をよそに、水音はぼんやりとしている。首を傾げて不思議そうに俺を見返した。

 「昌樹?」

 言いながらもう一度、周囲を見渡した。

 「お前!海入らないんじゃなかったのかよ!」

 苛立ちながら声を掛けると、水音ははっと顔を上げ、急に我に返ったのか、俺の顔に焦点を合わせた。

 「マサキ!!」

 声がヒステリックに上擦っていた。怯えている。
なぜこんなことになったのかはわからないが、彼は泳げないんだった。海に来るのをあんなに躊躇っていたのは、こういうことがあるのをわかっていたからなのか。わからないことだらけだったが、俺は勤めて平静を装おうとした。

 「いきなり何やってんだよ?兎に角、浜へ戻ろう?」

 言いながら、浜辺を振り返った。遠浅だった。随分な距離を来てしまっていた。不安が潮のように一気にせり上がってきた。今は怯えた水音を連れて、またこの距離を戻らねばならないのか。

 いや、まだ足が着く場所だ。泳げなくたって問題ない、来た通りに歩いて戻れば大丈夫。それに俺、そもそも泳ぎは得意だったじゃないか。仮に溺れてたとしても、人一人くらい連れて戻れる筈だ。やったことないけど。自分に言い聞かせた。出来る。それには水音を落ち着かせないと。

 うまく出来たかはわからない。
それでも俺は、なんとか普段通りの顔を作り、水音の手をとろうと彼を振り返った。水中にゆらゆらと揺れて見える彼の白い手を掴もうとしたのだが、どういうわけだか巧くいかない。俺はてっきり水音が俺の手をかわしているのだと思い、咎めるつもりで彼を見た。そして息をのんだ。

 瞬間、俺の周りで音が消えた。
俺はどんな顔をしたのだろう。
 それは、鈍器で後頭部を殴られたような、胸を抉られたような、そのどちらもを同時に食らったような、言いようのない重みと肉体的な痛みを伴う衝撃だった。

 なんと言ったらいいのかわからない。
水音の顔が、白く整っていた筈の彼の顔が崩れ… 否、溶け崩れ始めていた。それは角砂糖を水に落とした時に似ていた。水音の体が、かろうじて人の形をした柔らかく半透明な何かに変質しながら流れ落ちていった。俺は、喉まで込み上げてきた叫びを飲み込んだ。
 崩れていく相貌の中で、水音が不安気に瞬きながら大きな目で俺を見ていた。掴もうとしていた手も、すでに原型を留めない程に海水に溶け出している。

 「…昌樹、僕…」

 悲しげに水音が俺の名を呼ぶ。

 咄嗟に水音を抱き留めようとした。彼を早く海から上げなければと、それしか頭になかった。だが俺の手は水音の体を通り抜けてしまう。抜け殻になった水音のシャツが、曖昧に漂いながら俺の足元へと沈んでいく。なんとか手に取ろうと足掻いたが、結果的に攪拌してしまい、寧ろ水音が海に溶けていくのを助けることになってしまった。

 「ミナト!」

 「マサキ…」

 もう声ではなかった。風が空を切るような、奇妙な吐息のようだった。

 「水音!ゴメン、ゴメン、俺、どうしたら…」

 凄まじい速さで激しくガタガタと歯の触れう音が、耳の奥で木霊した。自分でもこれまで聞いたことがない程に声が震えていた。

 「…どうしたら…神様!」

 俺がそう言った時、最後に残った彼の首は、弾けるようにして『ばしゃっ』と水面に溶け落ちた。

 「ミナト!!!」

 それでもまだ彼を掬い上げようと、必死で周囲の水を掻いたが、もうそこには水音は跡形もなく、遥か水平線まで続く穏やかな海面があるだけだった。

 何が起こったのか全く把握できなかった。俺はそれでも諦めきれず、躍起になって辺りを見渡した。岸にいる海水浴客の中にも、俺達の異変に気付いた人はいないようだった。いつのまにか俺が手放した麦藁帽が2つ、波間を漂っていた。

 「水音!」
 「水音!」

 どこかの波間から彼が顔を出すんじゃないかと、海面に向かって叫んでみたが、何も返ってはこなかった。


 どれくらいそこにいただろう。急に俺は白昼夢か幻でも見たのだと思い直し、元いた砂浜へと引き返した。波を掻き分けながら俺はなんとなく、浜へ戻れば水音がそこにいるんじゃないかと思っていた。きっと、浜辺に座って、俺が戻るのを待っている。だってアイツは泳げないんだから、自分から海になんて入るわけがない。

 俺はこの時、完全に正気を失っていたのだと思う。実際には、水音が溺れてしまったという可能性だとか、誰かに助けを求めたり、レスキューを呼ぶだとか、そういった、それなりの常識的な判断を完全に失っていた。

 浜に上がった俺は、そこに水音の姿がないのを認めると、また水平線と波打ち際の間を賢明に目で捜索した。海に彼がいないとなると、今度は浜を。まだ水音がどこかから、何事もなかったようにいつもの姿で現れるのを信じていた。
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