マネー・ドール - 人生の午後 -

葉月零

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パンドラのハコ(4)

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「奥様、それでは失礼します」
森崎さんの声。もう、三時か……
「ご苦労さまでした」
 森崎さんを見送ると、急に気が抜けて、お腹が空いてたこと、思い出した。

 何か、あったかな……
戸棚には買いだめの菓子パン。さっきのアイスコーヒーを持ってきて、リビングで、テレビをつけた。
昔のドラマの再放送ね。ワイドショーより、よっぽどおもしろいかも。

 料理は好きだけど、あまり食べ物にこだわりはないんだよね。菓子パンだろうが、有名ベーカリーだろうが、実はどっちでも、いい。
慶太は、なにかとこだわりがあるみたいで、いろんなお店に連れてってくれるし、おいしいだろって、いろいろ買って来てくれるけど、ほんとは、イマイチわかんない。
 だって、私、食べることすら、ままならなかったんだもん。味なんて、わかるわけない。
 あー、こういうとこなのかな。慶太といると、なんか気が抜けないのは。
わかんないのに、わかったふりしなきゃいけない。
別に、しなくてもいいんだろうけど、慶太のがっかりした顔見たくないし、それに……見栄、かな……

 さてと、夕食の準備でもしよう。慶太は何時に帰ってくるんだろう。聞いとけばよかった。
 あっ、すっかり忘れてた。マナーモードのまま! どうりで鳴らないわけだ。
バッグの中のスマホには、着信が数件。私の退職を聞いた取引先さんからね。もう、いっか。理由なんて、言えないし。おつきあいすることも、ないんだから。
 それから、慶太と……将吾? えっ、なんだろう……
 ……かけていいよね。だって、かかってきたんだもん。何か、用事かもしれないし。

「あの……電話くれてたみたいだから」
「ああ、仕事中か? 悪かったなあ」
「ううん。どうしたの?」
「あれから、どうしたかと思ってな」
「……あの人のこと?」
「そうや」
将吾……本当に、それだけ? そんな理由?
「将吾、今、何してるの?」
「今日は非番や。さっき洗車して、もう帰るとこ。あっついわ、外」
 昔、よく、あの社宅の駐車場で、二人で洗車したっけ。意外と几帳面なのよね、将吾って。軽トラなのに、丁寧にワックスかけてたっけ……
「一人?」
「聡子は仕事や」

 頭の中に、あの手紙が、リフレインする。あの荷物のかび臭いニオイが、蘇る。
 ……一緒に過ごした二年。恋人同士として、一緒に暮らした……二年間。
 たった二年間なのに、慶太と過ごした二十年より、ずっと、ずっと、長かった……

 ダメなの。
 私、どうして? どうして、こんな風になってしまうの?

「ねえ、今から……会える?」
 断ってくれるよね?
「……ええよ」
 うそ……ダメじゃん。断ってよ……
「今どこにおるんや」
「家にいるの……来てくれる?」
「休みなんか?」
「うん……まあ……」
「佐倉もおるんか?」

 嘘。嘘を、つく。絶対に、ついちゃ、いけなかった。

「いるよ」
「そうか、なら、別にええな」
 将吾はほっとしたみたいに言って、今から寄るわって、電話がきれた。
 
 どうしよう……将吾を家に呼んでしまった……慶太、何時に帰ってくるんだろう。そんなに、早くは帰って来ないよね。
何? 私、何考えてるの?

「電話、出れなくてごめん」
「ううん、無事、家に帰った?」
「うん」
「どうやって帰ったの?」
「電車」
「藤木に送ってもらえばよかったのに」
「いいよ、藤木くんも、忙しそうだったし」
「そうか? あ、今日さ、ちょっと遅くなるんだよ」
「え、ああ、そうなんだ。ご飯は?」
「食べて帰る」
「わかった」
「じゃあ……十一時くらいにはかえるから」
 十一時……今はまだ……三時。時間は……あるね……

 十五分くらいして、インターホンが鳴った。
 将吾……かな? ああ、やっぱり、将吾。どうしよう、メイク、直せてないし、部屋着のまま。
「開けたから、入って」
 とりあえず、部屋着は着替えて、Tシャツとスエットのタイトスカートに。
メイクは、まあ、いいか……そんなに、崩れてないよね。

「よう」
 将吾は玄関で、コンビニの袋を渡してくれた。
 あっ、これ私が好きでよく食べてたアイス。懐かしい。まだあるんだ。っていうか……覚えてて、くれたんだ……

「あれ、佐倉は?」
「なんか、急用みたい。出て行ったわ」
 平然と、言った。普通に。でも、内心は、心臓が飛び出そうなくらい、ドキドキしてる。
「……あがるの、まずいな」
「いいよ、別に。さ、どうぞ」

 ああ、そうだった。
 慶太が来たよね。
こうして、あの社宅に、ふらっと。
あの日も、こんなに暑い日だった気がする。
平然と、慶太を家に入れて、でもあの時も、本当は、ドキドキしてた。
 
 あの時から、きっと、私……運命を、変えてしまった。
 間違っていたのかな。あの時の私、間違えてしまったの?

「アイスコーヒーでいいかしら」
「ああ。いや、すごい部屋やな……」
 将吾はリビングとキッチンを見回して、落ち着かない様子でソファに座って、お尻のポケットから携帯とタバコを出した。
「灰皿だよね」
「ああ、いいよ。誰も吸わんやろ?」
「そうなの。いつの間にか、慶太もやめてたし」
 そう、いつの間にか、慶太は禁煙してたみたいで、今は吸ってないみたい。そんなことすら、知らなかった。
「おばさん、どうや」
「さあ。もうどうでもいいの、あんな人」
「真純……やっぱり、許せんか」
「許すもなにも、私にはもう母親なんていないの」
 冷たく言い放った私。きっと、冷たい顔を、してるね。
「……悪かったな。真純の気持ち、考えてなかった」
 将吾は俯いて、両手を組んだ。本気で落ち込んでる時は、こうするよね。昔から変わってない。
「いいのよ。私も……感情的になってた。ごめんなさい」
 素直な、気持ちだった。
あなたは、私のこと、いつも本気で心配してくれてる。だから、ちゃんと謝らなきゃって、あれから思ってたの。
 
 将吾の手。ゴツゴツした手。逞しくて、日に焼けた腕。
Tシャツの二の腕は、はちきれそうで、いつの間にか、私は、無意識に、その腕に、私を、あずけている。

「将吾、あのね……」
「うん」
「仕事、辞めたの」
「えっ! なんで!」
「なんか、色々あって……今日、退職したの」
 もう、会社を辞めたことは、もう過去のことになっていた。
「そうか……」
「来月からね、慶太の事務所で働くの」

 私達は、二十年前のように、身を寄せ合って、耳元で、会話している。
 薄い壁のあの部屋じゃ、夜、普通に会話するのも気を使って、いつもこうして、内緒話みたいに、話したね。
そう、この匂い。ちょっと汗とタバコの匂い。懐かしい、匂い。

 二十年前。まだ、私達が愛し合っていた、あの頃。一緒に暮らした、あの頃。
 
 ねえ、将吾。あなたは? あなたは今、どんな気持ち? あなたも、二十歳のあの頃に、戻ってるよね?

「手紙……読んだ」
「手紙?」
「たぶん、別れた時に書いてくれた手紙……先週、見つけたの」
「ああ……今頃か?」
 将吾はちょっと笑って、私の肩を抱いた。自然に、あの頃みたいに、大きな手で、私の肩を抱く。
「ガキの頃の手紙や」
「その手紙ね、慶太が持ってたの」
「そうか。なら、佐倉がみせんかったんやな」
「……荷物もね、慶太が持ってた」
「あいつに渡したんや。捨てんかったんやなぁ」
 怒る様子もなく、懐かしそうに遠くを見た。いつもそう。何か考えてる時は、そうやって、遠くを見るよね。
「真純、幸せか?」
「……わからない……たぶん、幸せなの。でも……わからないの……」
「佐倉のこと、好きなんやろ?」
「うん」
「佐倉もお前のこと、好きやゆうとった。どうしようもないくらい、好きやって」
「いつ? いつ、そんな話したの?」
「土産、もうた時や。あいつ、お前のことが……惚れとるんやろな。昔の、俺みたいに」
「あの荷物も、慶太に渡したのよね」
「そうや」
「ねえ、慶太は、ほんとに、私のこと、好きなの?」
 私をちらりと見て、俯いて、呟いた。
「真純、佐倉のこと、信じてやれ」
「信じてるよ。でも、でもね……私ね……」

 将吾、やっぱり、あなたが好き……ダメなのに……やっぱり、あなたが……

 将吾は、優しく、私を抱きしめた。
 でも、コテージの時とは違う。
昔みたいに、熱いカラダで、私を……欲しいって言ってる。

「将吾……好きなの……まだ……」
 硬い胸の奥から、心臓の音が聞こえる。ドク、ドクって、鼓動と熱が伝わってくる。
「……一日も、忘れたことはない……」
 将吾の指が私の髪をかきあげて、頬を伝って、唇を撫でて……私達は、キスを交す。
 昔みたいに、熱くて、甘くて、激しいキス……
「好きや……真純……」

 もう、どうなってもいい。ねえ、将吾、私と遠くに行こうよ。何もかも捨てて、私と、ね、誰も知らないところへ。お金なら、あるのよ。二人で、どこかへ……

「愛してる、将吾……愛してるの……」
 熱い目。熱いカラダ。あなたが欲しい。ねえ、将吾、私ね、あなたに……抱いてほしいの……

「真純……キレイになったな……」
 素肌の私達。汗ばんだ肌が、ベタベタするね。
 あなたの硬いカラダ。昔のままね。私、あなたのカラダが好き。逞しくて、硬くて、大きなカラダ。私を包み込んでくれる、そのカラダがね、好き……
「真純……お前が……欲しい……ずっと……真純……」
 将吾の指が、私を濡らしていく。将吾の熱い息が、耳たぶを擽る。
「昔みたいに……して……ねえ、愛して……将吾……」

 なにも、見えない。ここがどこかってことも、時間も、もう、将吾しか見えない。

 将吾の汗ばんだ硬い体が私を包んで、短い髪が、首筋にチクチクする。
 慶太とは違うカラダ。慶太とは違う匂い。慶太とは違う……あなた……

「真純の匂いがする」

 空白の時間。
 飛び越えた先は……

 いけない。
 いけないのに……でももう……慶太、ごめんなさい……私、将吾が……

『ガガガガ』
 その音に、私達は、カラダを、止めた。

 テーブルの上の、将吾のスマホ。画面には……凛ちゃんと碧ちゃんの写真と、名前……

「……おかえり。ああ……もうすぐ帰るから、宿題しとけ……え? ママ? 仕事やろ……パパはちょっと……用事や……うん。わかった……わかった、こうて帰るから……」
 ママ……パパ……
「……凛や……お菓子買ってこいって……」

「クッキーがあるの。貰ったんだけど、食べないから、娘ちゃん達に持って帰ってあげて」
 私は服を着て、キッチンへクッキーを取りに行った。もう、その場には、いられなかった。
 黙って服を着る将吾。俯いたまま立ち上がって、スマホと、タバコをジーンズのポケットに入れた。

 現実。
 これが、現実。

 玄関で、クッキーを渡すと、将吾は俯いたまま、ありがとうって、呟いた。
「……将吾……」
 涙を堪えるのは限界だった。
でも、何を言えばいいのかもわからなくて、ただ、将吾から離れたくなくて、私は、彼の体に強く、抱きついた。
「真純……幸せにな」
 将吾は私の手を優しくほどいて、背中を向けた。
「将吾……私……あなたが……」

「子供はな……裏切れん」

 押し殺した将吾の一言は、私の心臓に突き刺さって、ドアが閉まって、オートロックのドアは、かちゃりと、鍵を閉めた。
 カラダに残る、微かな彼の匂い。まだ濡れている、私のカラダ。鳴りやまない、心臓の音。

「将吾! いかないで!」
 聞こえない。誰にも聞こえない。聞こえない……ここは、防音のついた、高級マンション。大きな声で叫んだのに、聞こえない。

「将吾! 将吾! 戻ってきて! 戻ってきてよ……あなたが好き! あなたが……好き……なの……将吾……」

 苦しい……胸が苦しい……こんなに、辛いの? 愛する人と別れるって、こんなに……辛かったの?
 将吾……ごめんなさい……あなたは、とっても辛かったよね……
 あの日、別れを告げた、あの日の、あなたの目。悲しそうだった。悲しそうに、私を見た。
 振り返りもせず、あなたを捨てた私。あなたを、捨てた……捨てたんだね……私が、あなたを捨てた。

 手紙……あんな手紙があるから……
 コンロで火をつけて、シンクの中で、古い手紙は、大きく炎をあげて、そして、一瞬で、黒い、灰になった。

 でも、私の気持ちは、灰にはならない。炎をあげたまま、その炎は、青白く、冷たく、私を、支配する。

「わかってるの……」
 カウンターには、新しく買った、ヘンケルのナイフセット。
 料理してって、慶太が買ってきた、ナイフセット。

「いなくなれば、いいのよ……」

 久しぶりにかける、BMWのエンジン。
 聡子さんは確か……将吾の会社で、事務をやってるって……
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