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奇跡の火曜日

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まぶたの向こう側が明るくなっているのを感じる。
僕はうっすらと目を開ける。

……どこだ?ここは

目の前に広がっている光景に驚く。
誰もいない公園のベンチに、僕は寝転がっている。

……ああ、そうか。

記憶が戻ってくる。
昨日川で流され、フラフラとたどり着いたのがここだった。
そして、このベンチで寝たのだ。

……水が欲しい。

状況を把握すると、頭の皿の渇きと空腹が同時に襲ってきた。

「あの、み、水、くれま、せんか……」

通行人がちらほらと通るようになったので、声をかける。
でも、大概の人間は河童の僕が見えない。

「すみませ、ん……水……」

声がうまく出せない。
出せたとしても伝わらない。

「         」

ついに声が出なくなった。
腕を見ると、緑色だったはずが茶色に変色し始めている。
体が、渇く。

……僕は、死ぬのだろうか?

諦めて目を閉じる。
さようならと別れを告げる人もいない。

……来世はせめて、人間でありますように。



と、その時、

ジョボジョボジョボ

頭の皿が潤った。
驚いてまぶたを開ける。

……天使?

まだ回らない頭がそんなことを思う。
水が落ちてくる方向を見ると、そこにはおじいさんがいた。
真夏だというのにグレーのコートを着ている。
コートから伸びたシワシワの腕がペットボトルを持ち、頭の皿に水を注いでいた。

「もう良いか?」

しゃがれた声が問いかける。
少しして、水のことだと理解する。

「あ、はい……ありがとうござい、ました……」

なぜこの人は僕が見えるのだろうとか、なぜ水をくれるのかとか、そんなことにまで考えが及ばなかった。
ただ、生き返った心地だけがあった。

「来るか?」

再び問いかける。

……?

「その様子だと、家もないのじゃろう?わしの家に来んかね?」
「いいんですか?」

嬉しいが、少し申し訳ない気がする。

「もちろんいいとも。一人暮らしは寂しくてのう」

少し考えて、結論を出した。

「じゃあ、お願いします」

この時の選択が間違いだったと知るのは、もう少し後の話。


おじいさんについて行った先は、2階建てのボロいアパートだった。
壁にはツタが絡まり、ところどころにヒビまで入っている。
錆びた外付け階段は今にも崩れ落ちそう。
風が吹いただけで壊れそうな建物だった。

……でも、文句は言えないな。

おじいさんは軋ませながら外付け階段を登る。
僕はそのあとについていく。僕くらいの体重では軋まないようだ。
おじいさんの部屋は、2階のいちばん奥だった。
おじいさんは鍵を開け、中に入る。

「お邪魔します……」

おずおずと僕も中に入る。
六畳間に小さなキッチン。
部屋の中央におかれたちゃぶ台。
隅の方にちょこんとある棚。
中はとてもガランとしていて、生活感がなかった。
僕とおじいさんはちゃぶ台に向かい合って座る。
僕はもらったキュウリを齧る。
おじいさんはお茶をすすっていた。


おじいさんに、今までのことを説明した。


300年生きてきたこと。
人間になりたいと思い続けてきたこと。
キュウリの畑が潰されていたこと。
家が流されたこと。
川で流されたこと。
公園のベンチで寝たこと。
今となってはいい思い出です、なんて言えるわけがない。
辛い思い出だ。

「お主、本当に人間になりたいと思うておるか?」

僕が話している間一言も発さなかったおじいさんは、そう尋ねてきた。

「はい、もちろんです」

何を当たり前のことを。

「本当にか?」
「はい」
「心の底から、思うておるか?」
「はい!」

僕が返事した後、おじいさんは深く何かを考え込んだ。


数分後、部屋の隅に行く。
何をするのだろう、と思っていたら、棚のいちばん上の扉を開けた。

ミャ~~♪

「かわいいのう」
                       
猫にデレデレな爺さんなんて見たくもないわ。

「おお、しまった。わしとしたことが。どこに置いたかのう?」

知らねーよ。

「ここじゃったかの?」

上から二番目の扉を開ける。

ワンッ!ワンワンッ!!!

「ああ、怖い怖い。昔から犬は苦手でのう」

じゃあなんで犬とか入れてるんだ。

「どこに置いたんじゃ?」

僕に聞かれても。
そもそも何をお探しで?

「そうじゃ、ここじゃ!」

真ん中の扉を開け、中のものを大事そうに持ってくる。
それは、緑色の液体が入った瓶だった。
ちゃぶ台にその瓶を置く。
コトリ、と音がした。

「覚悟はあるか?」

……なんの?

「人間になる覚悟はあるか、と聞いておる」
「……あります!」

少し迷って、口に出す。
でも、『人間になる』って?

「実はな、この薬は、」

次の言葉を待つ。

「……やっぱり言わないでおこう」

いやどういうことだよ。言えよ。

「実はな、この薬を飲むとな、人間に、なれるんじゃ」

へー

いや『へー』じゃねぇよ。とんでもないわ。『人間になれる』て。マジで?

「の、飲ませてください!」
「後悔しないか?」

何を後悔するのだろう?

「本当に良いな?それでは、瓶の中身を一気に飲むのじゃ」

瓶を震える緑色の手で掴む。
ついに、人間になれるのだ!
緊張感高揚感期待感が交じり合う。
喉が渇く。


瓶のふたを開ける。
意外と抵抗がなく、あっさりと空いた。
中を覗くと、どろっとした緑色の液体が波を打つ。


口元に瓶を持ってくる。
初めて嗅ぐ匂いが鼻腔をくすぐる。
おじいさんはじっと僕を見つめている。


口に瓶を当て、傾ける。
液体が流れ込んでくる。


その瞬間、


全身が熱を帯び、


張り裂けそうな痛みが襲った。


「うわあぁああぁぁぁぁぁ!!!!!」


痛い。
熱い。


動悸が激しくなる。
腕が変形してくる。
身長が伸びる。
皮膚の色が変化する。


30分ほど痛みに悶えた。
動悸が落ち着き、自分の体を見る。


肌色の腕。
五本の指。
黒の頭髪。


人間に、なっていた。

「疲れたじゃろう。今日はゆっくり休みなされ」

おじいさんの好意に甘え、太陽はまだ出ていたが休ませてもらった。
明日から、恩返ししないとな。
そんなことを考える間も無く、疲れが押し寄せ、いびきをかいていた。


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