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【5】親と子どものカタチ

硝子の剣

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 竜次は孤児たちの診断書をまとめ、最後のチェックを通していた。
 静かな応接室のはずだが、部屋の外が騒がしい。そういえばミティアが子どもたちと遊んでいるのを思い出した。追いかけっこでもしているのかと、この時、竜次は手放しで思っていた。
 竜次は診断書を一枚、また一枚と丁寧に捲り、キャップをしたペンで文面をなぞっていた。

 こんな地道な作業、雑用をしていたのだから、ある程度は早い自信がある。脱字を見つけては修正を入れた。たかが健康診断なのだが、診断書の脇に何枚かの処方箋の紙が仕上がっている。大半は健康な子どもだったが、咳をしている子にはいくつかの質問をし、肺の音も聞いて喘息の疑いもかけた。他に見受けられたのは軽い皮膚炎。子ども相手に、手は抜けない。大半の書類は片付いた、
 買い物リストくらいの軽い書き物はしていたが慣れず、肩が凝って座ったまま伸びをする。バキバキと首が鳴った。そのまま深く腰かけ、大きく息を吐いた。
 意外と充実しているかもしれない。
 親戚のお願いだから受けてしまったが、医者らしい仕事をしたのはこれが初めてだ。
 思い返してみれば、道中では応急処置、手当てが大半だった。診断を下すなど、責任は重くなる。それでも悪くない達成感があった。
 美人で優秀なミティアが手伝ってくれたのも大きい。このまま彼女と町医者でもやってのんびり暮らすのもいいな、などと妄想が膨らんだ。竜次はすっかりだらしない顔をしていた。

 コンコンと乾いた音がした。すぐに扉が開き、マリーが入る。部屋に入るなり、落ち着かない様子で部屋を見渡した。
 竜次は声をかける。
「おば様、どうかされましたか?」
 マリーは慌てていたのか、三つ編みの髪が解れている。
「おかしいね、ここにもいないの?」
「誰かお探しですか?」
 竜次は席を立って白衣を脱ぎ、首と肩を回して体をほぐした。マリーは頬に手を添え、
「ミティアちゃん、一緒じゃないのかい?」
「えっ? 外で子どもたちと遊んでいるのでは……」
 窓の外に目を向けるが、いつの間にか誰もいないし、声もしない。扉の隙間からは、子どもが数人覗いている。竜次はミティアの姿がないことに気がついた。
「困ったねぇ、一緒にお昼にしようと思ったのに……」
 どういうことだろうか。竜次が部屋の外に出ると、話しかける前に子どもは逃げてしまった。子どもが嫌いではないのだが、避けられている。どうも最初の印象が悪かったせいか、嫌われているようだ。
 竜次は、マリーに振り返った。
 マリーは今度、別のものを探しているようだ。よく見ないと気づかないが、手に小さい花を持っている。おそらくマリーが探しているのは、花瓶になりそうな入れ物だろう。
 そういえば、逃げた子どもの中にも小さい花を持った子がいた。
 玄関に目を向けると、三歳、四歳ほどの女の子二人が立っている。黒髪と金髪でお揃いのワンピースを着ていた。竜次と目が合うと、警戒をしているのか身を縮める。手に花とクローバーを持っていた。
 竜次をよく思わないのか、物陰に隠れるように身を引いた。
 子どもたちから何か聞き出せそうなのに、避けられ、怖がられている。
 竜次は自分がなぜ嫌われているのかを、ここで初めて考えた。今の自分に足りないものを考え込む。
 
 物で釣って注意を引いていたローズはともかくとして、好かれていたミティアは子どもに何をしていただろうか。子は大人をどう見るのだろうか。
 自分が子どもだったら、上からものを言われるのを嫌がるだろう。頭ごなしに怒られるのを嫌がるだろう。同じ目線で、一緒の立場で共感してほしいと願う。
 この子たちの親はマリーだ。なら、男の人は怖がって仕方ないかもしれない。そのマイナスを含めて、もっと子どもに向き合ってやらねば。

 竜次は覗き込むように屈み、女の子たちに微笑んだ。
「その花、綺麗ですね。マリーさんにもあげたんですか?」
 営業スマイルは安っぽく思われる。心から笑うことはどうしても苦手だが、ぎこちなくも微笑んだつもりだ。竜次が諦めかけたとき、女の子たちの表情が明るくなった。
「うん! これ、お姉ちゃんと見つけたの」
「お姉ちゃん、優しくてかっこいいから好き!」
「ねーっ!!」
 女の子が言う『お姉ちゃん』はミティアを指しているようだ。心を開いてくれて感激した。自分に足りないものを、まさかミティアから学ぶとは思いもしなかった。仲間にもそうだ、もっと同じ立場になってあげなければ。
 黒髪の女の子が手を差し出した。手には小さいが四葉のクローバーが乗っている。
「お兄ちゃんにあげる!」
「わたし……に……?」
 純粋な気持ちを向けられて感激した。竜次は受け取って目頭が熱くなったのに気がついた。
「ありがとう……」
 ございます、と言いかけて飲み込んだ。これがいけないのだろう。人を慕うサキのように、違和感なく自然に言えない。
 自分で人との距離と壁を作っている。これにも気がついた。
 何も知らない人が見たら、好感度は抱いてもらえる。あくまでもそれ以上親しくならない前提で、偽りの自分を演じている。だが、それではいつか本当の自分を見失ってしまう。今、やっと本当の自分が見えたかもしれないと竜次は思った。
 女の子たちが顔を見合わせる。
「お姉ちゃんが言っていた通り、やさしいね」
「でも、お姉ちゃん大丈夫かな」
 何か知っている。だが、竜次は焦る気持ちをいったん静めた。ここで急ぎ食らいついては、また怖がられてしまう。
「お、お姉ちゃん、どこにいるかわかるかな?」
 竜次は内心では焦っているが、優しい口調を心がけた。その甲斐あってか、女の子たちは抵抗もなくすんなりと答えた。
「裏庭……」
「銀のきれいな髪をした人と話してた」
「こーんなに長くて、黒いマントしてて、ちょっとかっこよかったね」
 女の子たちの身振り手振りを交えて楽しそうな答えだ。聞いていた竜次は、息が詰まった。呼吸が出来ない。四葉のクローバーを握る手が震えた。
「おにいちゃん……?」
 女の子に声をかけられた。竜次はかぶりを振って立ち上がった。
「ごめんね、ありがとう……」
 女の子たちに軽く手を振り、竜次は応接室に戻った。息が、胸が苦しい。早くミティアを探さなくては。置いてあった剣とカバンを身に着け、竜次はさっさと出て行こうとする。
「竜ちゃん、どうしたの? どこへ行くの?」
 水の入った小瓶を手にしたマリーが呼び止める。
「な、何て顔をしてるの」
 マリーは心配をし、注意をする。竜次は自分が今、どんな顔をしているのか、わかっていない。
「ごめんなさい、おば様。もう、戻らないかも……」
 竜次はマリーへ振り返った。
「今日こそはジェフが来るはずです。よろしく言っておいてください」
「り、竜ちゃん……⁉」
「お世話に、なりました……」
 竜次は頭を下げ、部屋を飛び出した。

 マリーは血相を変え、慌てながら机の引き出しを漁っている。
「た、大変だよ……」
 探しているのはまとまったお金だ。孤児院に貯蓄は限られている。いつも、生きるのに精一杯で、お金はぎりぎりでやりくりしている。だが、マリーはそこを押してでも竜次を何とかしたかった。ギルドにお金を持って行き、依頼をすれば誰かが助けてくれるかもしれない。ジェフリーが来ると言っていたが、待っていられない。
 ギルドのルールはマリーも知っている。お金を探していると、竜次に渡すつもりだったお金の存在を思い出した。
 子ども部屋の机の下の箱にあったはずだ。マリーはバタバタと品もなく、孤児院の中を走り抜けた。慌てるマリーを子どもたちは不思議そうにが見ている。
 見つけて掴むと、身支度も整えないまま孤児院に鍵をかけて外出した。マリーは息を切らせながら、大通りを目指す。誰か甥っ子を助けて。そんな思いで髪を乱し、何度も転びそうになりながらギルドを目指した。
 マリーが最後に見た竜次の顔は、これから死に行く者を彷彿させるものだった。思いつめた表情。止めても無駄だとは思っていたが、やはり駄目だった。
 大通りで売買市場の賑わいに行く手を阻まれた。マリーは肩で息をしながら恨めしそうに市場を見る。
 マリーは大きく息を吸ってその混沌に飛び込んだ。強行突破するつもりだ。人の波に飲まれ、行く手を阻まれるも擦り抜けようとする。

 孤児院の裏庭に、わかりやすい足跡があった。竜次の足より小さい。力強く飛び越えたのだろう。足跡は孤児院を囲う柵を跨ぐように、途中で切れていた。
 子どもがむやみに出ないように設けられている柵だ。大人だったら、少し飛べば跨げる程度。竜次の身長では腰ぐらいまでの高さだ。
 竜次は柵を跨ぎ進んだが、草木が茂っている。その中から、植物が斬り伏せられ、人が通った痕跡があった。目を凝らした、茂みの向こうに開けた場所が見える。
 ばたつく足音、砂が舞う音、金属の音もした。
 まさかと思い、竜次は刀を抜いた。茂みを切り払い、向こう側に抜けた。開けた場所だ。大きい運動場くらいの大きさだが、あまり整備はされていない。草は伸びて砂利が散っている。
 クディフとミティアが剣を交えて戦っていた。聞こえた金属の音の正体はこれだ。ミティアが押されている。刃を押さえたのか、彼女の左手が血まみれだ。竜次は叫んだ。
「ミティアさんっ!!」
 咄嗟に叫んだが、まずい判断だった。竜次の声に気が緩み、ミティアの剣が弾き飛んだ。勢いで足がもつれ、座り込むように伏している。右手首を押さえ、俯く彼女の顎にクディフの刃先があった。
 クディフも竜次に気がついた。眉を上げ、笑みを浮かべた。
「沙蘭の亡霊、いや、剣神……」
 クディフは竜次を見て手を引いた。二歩、三歩と下がる。クディフの刀には血がついていない。虚しく地面に落ちたミティアの剣には、血がべったりとついていた。
 ミティアは眉を下げ、竜次を見上げる。
「せ、せんせ……」
 その表情は『なぜ?』と問うようだった。ミティアの両手が真っ赤だ。正確には、怪我をしたのは左の手の平だけのようだ。弾かれた右の手首も押さえているため、ひどい怪我をしているように見えてしまい、痛々しい。
 竜次はミティアの傷を確認する。しゃがみ込み、カバンからタオルを取り出してミティアに握らせた。切り傷だけのようだ。
「きちんとした手当てはあとでします。できないかもしれませんけど……」
「せ、先生、あの人と戦っちゃだめ……」
 ミティアが目で訴える。竜次は素直に応じたいが、そうはいかない。
「次に会う時は敵、そうでしたよね……」
 竜次はカバンをミティアに預け、立ち上がってクディフに向き合った。
「なぜ、一思いに彼女を連れ去ることをしなかったのですか? その気になれば、マーチンで強行できたはずです」
 竜次の中で、ずっと気になっていた質問だ。クディフのもったいぶらせる行動が、気がかりで仕方がなかった。
 クディフは涼しい表情で答えた。
「絶望させるため、と言えばいいか。禁忌の魔法を使い続け、いずれは反転するその機会を待っていた」
「反転……?」
 ただ決着をつけたいのなら、とっくにそうしている。狙いはそれだけではない。そもそも、クディフの狙いがまだわからない。引き出せる情報は耳にしておきたかった。どちらにしろ、行き着く答えは決まっている。だからこそ、竜次は戦う理由を納得させたかった。
「その娘の中には、俺が剣に誓って守ると決めた人が存在する。禁忌の魔法を使い続け、反転しないとあらわれないであろう」
 ミティアはやっと『半分』の意味を理解した。
「それは、かの滅んだ国の王女様。それで間違いないですね?」
 フィラノスで、サキが短時間で持って来た情報だ。竜次はその情報を確認した。
 クディフの視線がミティアへ動いた。正解のようだ。
「『奴』が何の実験を施したのかは知らぬ。だが、生贄になられては困る」
 生贄という言葉にミティアも顔を上げた。本当に嫌な響きだ。
 竜次はまだ、納得がいかない。
「禁忌の魔法で反転したら、あなたはそれでいいでしょう。ですが、ミティアさんはどうなるのですか?」
「また反転するか、もしくはその娘の存在自体が消える」
 話の雲行きが一気に怪しくなった。
「どうして我々に預けるようなことを!! あなたの目的はいったい何なのですか!?」
「その力を他者に悪用させないため。この力は命を削るもの。思い入れがない限り、他人を助けたいとは思わないであろう? 個人の野望に利用されては困る。貴殿が一緒ならば、その力は本来の持ち主に還すべきだ」
 共に歩ませる旅。これ自体が、クディフの策だった。悪用させないために、仲間としての関係を築く。監視を兼ねているのは読めた。腑に落ちないのは、自分がいるせいでその目的が『返還』にいたったことだ。竜次は、嫌悪感をむき出しにする。
「つまり、私が邪魔だと……?」
「何を勘違いしているのだ? 俺は彼女を守るために、貴殿を排除すると言っているのだ」
「なっ……」
「仲間を欺き、騙し、さぞ楽しかっただろうな……」
 クディフは竜次を嘲笑った。
 旅の道中、ミティアが使える禁忌の魔法について、情報収集も順調だった。何事もなければ、そのまま旅に身を委ねさせてくれたのかもしれない。だが、ここで竜次を退かせようと言う。
 クディフは竜次を威圧した。
「沙蘭の剣神は医者でもあったとは驚いた」
「……」
「貴殿は父親と同じことをしようとしているのではないか?」
 竜次は黙ったままだった。答える義理はあるかもしれないが、今は怒りが燻る。
「医者とは便利なものだ。種の研究所と言ったか。肩書きを利用して、そこで何人の命を弄んだのだろうな。沙蘭の剣神よ、お前もそうなるのではないか?」
 このまま自分を陥れようと言うのか。竜次は怒りを通り越して呆れていた。侮辱までするのかと失望もした。
 突然、ミティアが叫んだ。
「違いますっ!!」
 ミティアは竜次の前に立った。肩を揺らしながら、信じられないほど泣いている。真っ赤に染まったタオルを両手で握り、首を振っていた。
「先生は、そんなお医者さんじゃない!!」
 竜次はミティアの迫力に圧倒されそうになった。この旅自体が仕組まれたものだと知っても、彼女は竜次を庇っている。
「何も……何も、先生のこと、知らないくせに、先生を悪く言わないでっ!!」
 ミティアの泣き声が悲しくこだました。
「知らない。だから調べた」
 クディフが浮かべる薄ら笑みは、ミティアから竜次に向けられた。
「剣神がなぜ旅に協力したか、知っているか?」
「えっ……」
 ミティアは目を見開き、驚いた。
 クディフの薄ら笑みは口角を上げ、皮肉を嘲る。
「欲望に目がくらんだのだ。その力は、死者を蘇らせられるかもしれないという」
「……!?」
 黙っていた竜次が冷静を欠いた。クディフの『調べた』は、隠し続けていた『本当の自分』まで掘り下げられた。
「愛するものが先に逝った悲しみは同情の余地がある。だが、強大な力……禁忌の魔法を私欲のために悪用するのは、人道から外れるのではないか?」
 ミティアにも告げた『過去』だ。竜次は何も言い返せない。クディフが言っていたことは、何も間違っていないからだ。
 竜次は失意に塞ぎ込み、顔を伏せた。発端はジェフリーの保護者。フィラノスで別れるつもりだった。だが、知ってしまい、ミティアの力に異常な興味を持ったのは間違いない。一緒に歩んだ旅路で、その目的などとっくに消失していた。スプリングフォレストで彼女に告げた『過去』は『懺悔』でもある。ただ、真意を言わなかった。関係が終わってほしくなかった。仲間との『信頼』が崩れたくなかった。ただそれだけで。
「わたし、そんなのわかっていました……」
 ミティアはすすり泣きながら声を震わせる。少し考えればわかるだろう。それだけの身の上話を彼女に打ち明けてしまった。これで築き、得られたものは、また失ってしまうものだと竜次は思っていた。
「それでも、今は違うと信じています。先生はかけがえのない大切な仲間です」
 ミティアの声は力強かった。可愛らしくて、そこに存在するだけで心を和ませる、陽だまりのような彼女が見せるもう一つの顔だ。凛々しくてどこか気高い。そして何よりも強く、心の闇を打ち払う優しい光だった。
「先生の心を傷つけるなら、わたしは許さないっ!!」
「ミティアさん、私は……」
 竜次はミティアに圧倒され、言葉を詰まらせる。今まで黙っていたことを詫びなくては。
 一連の流れを見たクディフは黙っていなかった。
「戯言を!!」
 翻る黒いマント、ミティアはその一瞬に反応した。
「だめっ!!」
 ミティアが叫んだと同時に、クディフは左腕を振った。銀髪の長い髪と、黒いマントが風を起こす。
 遅れて竜次の顔に生暖かい血がかかった。斬られた。いや、どこも痛くはない。
 困惑する竜次にミティアが倒れかかった。
「なっ……ミティアさん!?」
 竜次は受け止めたが、ミティアは首を斬りつけられている。服は胸の下まで既に真っ赤だった。目を疑った。目に見て助からない。喉を裂かれ、ひどい出血だ。小刻みに震える彼女の目は、すでに焦点が合っていない。瞼を痙攣させ、苦しそうにしながらも、竜次を見つけようと視線を泳がせている。
 おそらくこの深さだと呼吸もままならない。やっとの思いで、うつろな瞳が竜次を捉えたように見えた。だが、笑みを浮かべながら赤黒い血を吐いて瞼を閉じた。大粒の涙が落ちるのを名残惜しそうに、ゆっくりと頬を伝う。
 ミティアが自分を庇った。一瞬の気の緩みが、彼女をこうさせた。竜次は呆然とする。
 尋常ではない出血の量だ。一撃で仕留めるのならば中途半端な深さだった。これではミティアをわざと苦しませている。
 まさかと思い、竜次は顔を上げた。
 満足そうに笑みを浮かべたクディフが、刀を振って刃の血を飛ばしている。
「使いたくはない手だった。貴殿に情があったらしいので、利用させてもらった。他人でなければ、自身に使わせればいい。親しい者の前で冷たくなるのは絶望でしかないのだからな……」
 竜次は信じられない言葉だと思った。これもクディフの策だった。わざとミティアに庇わせた。これは彼女が反応できると知っていたからだ。迂闊な自分も許せない。だが、彼女の思いまで踏み躙ったクディフはもっと許せなかった。

 悲しみと怒りに支配される前に、冷たくなったミティアの腕輪が光った。
 禁忌の魔法、治癒魔法だ。傷の深さから、蘇生かもしれない。見たことのない神々しく優しい光。いや、山道で見た光によく似ている。
 蛍のように舞う光を見てようやく実感したのか、竜次の手が震えた。無意識に涙が零れ落ちた。泣いたことなど、長らくなかったのに……
 亡くした彼女を思い出した。温かい手が徐々に冷たくなるこの感覚を忘れはしない。愛おしかった人が、自分の手から離れてしまう。いくら呼び止めても、応えてはくれないもどかしさ。トラウマが蘇る。
 何事もなかったように、ミティアの傷は癒えた。優しい光は一頻り彼女を癒し終えると、天に向かって一直線に昇った。この放たれる矢のような光は、雲を晴らしてすっと消えた。
 ミティアが呼吸を始めた。眠っているかのように上下し、手も暖かい。切り傷も、血の跡もない。綺麗な彼女が戻った。
『ピシッ……』
 湖の氷に亀裂が入るような大きな軋みが耳に障る。
 ミティアの左腕の腕輪に大きな亀裂が入った。大きな反動を耐えたようだ。
 竜次はやっと現実に引き戻された。自分が陥れられたのも、ミティアが心情を察していたのも、禁忌の魔法を使わせてしまったのも、すべては現実だ。

 静けさの中でクディフは言う。
「誤算だな。あと一回といったところか……」
 クディフは気に入らない表情をしていた。淡々と、一方的に喋っていた。
「それだけこの娘には時間が残されていない。このまま黙っていても、生贄になる前に朽ちる命。つまり、俺にも時間がない」
 竜次はミティアを抱え持ち、多い柔らかな草むらに下ろした。クディフが何を言っているのかはわからない。理解をするよりも、怒りが勝った。
「私は、あなたを許さない……」
 退けない正義、勇気、そんな生易しいものではない。その眼光は、もう医者でも剣神でもなかった。
「あと一回ならば、血だるまになった貴殿でも突き出せばいい……」
 クディフはうっすらと余裕も見える表情だ。まるで竜次を挑発するような言動は、お互いの戦う理由が決まった合図でもあった。
「沙蘭の剣神。いや。剣鬼よ、怒りや憎しみに染まった剣で俺を倒せると思うな!!」
 竜次は何も言わずに地を蹴った。長い方の刀の柄を握って踏み込み、クディフの脇に入った。
 激しくぶつかり合った刃が軋む。あまりの激しさに、火花が散りそうだ。力だけならば、互角か少し竜次が上だ。今は何も考えられず、感情だけで剣を振っていた。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
 力押しにかかったが、沙蘭の剣術の有利は不利にもなる。その原理は竜次にもわかっての行動だ。
 ミティアを含め、仲間との旅路で何を学んだだろうか。それを全部クディフの策だったとまとめてしまうには、あまりにも充実していた。感情が込み上げる。思い出が押し寄せる。
 クディフは押された体勢から引きに入った。この動きは反撃が来ると竜次は左手を腰に回す。素早く小太刀で防ぎ、右の刀がクディフの脇を捉えた。
 掠ったが、剣には血が滲んでいる。
「小癪な……」
 クディフは余裕から一転し、焦りの色をあらわした。竜次の奮う、剣の感情が読み取れない。怒りや憎しみだけではないのだろうか。予想を越える力量だ。
 竜次は手応えを感じていた。小太刀を鞘に収め、交わっている刃を押し切った。クディフは後退し、体勢を崩した。
 ここまま勢いに任せれば、勝てるかもしれない。悲鳴を上げる左手をこれ以上使わなければ。竜次の心の中では、駆け引きが行われていた。長期戦は不利を意味する。骨折か、もしくは再起不能になるかもしれない。
 一度だけなのに、左腕はすでに感覚が痺れていた。これをクディフに感づかれたら、間違いなく潰される。竜次は平然を装った。


 コーディとジェフリーは街へ戻った。二人は空の異常を目にしていた。今まさにギルドへ入ろうとしていたときだった。
 コーディは首を傾げた。
「今の光、何だろうね?」
 空に向かって光の矢が放たれたようだ。光の軌跡だけ雲が晴れた。見たのは一瞬だったので、具体的に何も知らないが綺麗だった。
 天を貫くような光など、これまでに見覚えがない。光源に想像がつかない。ジェフリーも首を傾げた。
「さぁな、超常現象でも起こったんじゃないか?」
 ジェフリーはさらりと流してギルドの扉を開いた。ギルドの中が騒がしい。見れば商人、街の人達が昨日に引き続き押し寄せているようだ。
 この光景にジェフリーは呆れてしまった。
「コーディ、昨日の騒動とやらは終わったんじゃないのか?」
「う、うっわぁ……」
 壁の掲示物、依頼書がひどいことになっていた。

 勇者を用心棒に雇いたい。
 安全のため、一行をこの街に永住させたい。
 うちの子の家庭教師にしたいので連絡をお持ちしております。

 ジェフリーは呆れ切って肩を落とした。
「バッカじゃねえの……」
 ため息と同時に砕けた言葉が発せられた。勇者と称えられるのはむず痒い。それだけではなく、必要以上に頼られるのは困る。
 コーディも呆れていた。さすがにうれしいとは思えない。
「うん、まぁ、気持ちはわかるけど、こんなの初めてかも……」
 幸いにも、昨日の当事者である三人はこの場にはいない。ジェフリーとコーディは混雑している人込みを避け、カウンターへ報告を優先した。
 カウンターに近い場所で、明らかに商人ではない外観で人一倍焦っている女性を見つけた。髪は三つ編みなのだろうが、崩れていた。可愛らしいチェック柄のストールに落ち着いたワンピース姿だ。女性は両手で大事そうに封筒を持っていた。
 どうせ、たいしたことはないと、ジェフリーも素通りしそうになった。だが、どうも面影を感じた。
 コーディは立ち止まってジェフリーの視線を追った。
「あれ、あの人は確か、孤児院のマザー・マリーさんだよ?」
 確信を抱いたジェフリーは、コーディの背中を押した。
「コーディ、報告を頼んだ」
「え、うん……?」
 ジェフリーはコーディに報告を任せると、マリーに声をかけた。
「おばさん、だよな?」
 マリーは目を見開き、何度か瞬いた。悩ましげに首を傾げたが、すぐに気がついたようだ。
「あぁ、ジェフちゃん……?」
「よかった! これが終わったら挨拶しに行こうと思ってたんだ。久しぶりだな。こんな所でどうしたんだ?」
 ジェフリーが言う『よかった』は、親戚を忘れているのかと思っていたからだ。親戚として、忘れられているのは悲しい。名の知れた、竜次や正姫ばかりが可愛がられているものだとジェフリーは思っていたからだ。フィラノスに住んでいたこともあり、竜次よりも接する機会は多かったはずだ。
 マリーはギルドに何の用事があるのだろう。ジェフリーが疑問に思っていると、マリーは封筒を手渡した。
「あ、あのね、これでお願いをしようと思って持って来たんだよ!! ジェフちゃんでもいいから!!」
 マリーは血相を変え、ひどく慌てているようだ。話の内容が不透明すぎる。
 ジェフリーは封筒の中を覗いて驚いた。中身はまとまったお金だ。
「おばさん、落ち着けよ。これじゃ何が何だかわからない。金はちゃんと持っとけ。相変わらずそそっかしいな」
 ジェフリーはワンピースのポケットに封筒を入れ、マリーを落ち着かせようとする。だがマリーは、ジェフリーの両腕にしがみついた。激しく腕をゆすって訴える。
「あ、あのね、竜ちゃんが、竜ちゃんが大変なのよ!」
 騒がしい中で聞いたのでジェフリーは耳を疑った。耳を傾け、眉をひそめる。
「ん? 兄貴は一緒じゃないのか?」
「あのね、よくわからないけど、竜ちゃんは思い詰めた表情で出て行っちゃったんだよ。ミティアちゃんを探しに行ったのだと思うんだけど!」
「ミティアが……?」
 ようやく重要さを理解した。ジェフリーはマリーを壁際に移動させ、人の賑やかさを避けて確認した。
「何があったか詳しく話してくれ!! 一緒に孤児院にいたんじゃないのか?」
 マリーは首が壊れそうなほど激しく頷いた。
「そうだよ、お昼までは!!」
 迫られてマリーがまた取り乱した。これにはジェフリーも動揺する。
「どうして兄貴とミティアは……」
「それがえっとわからなくてねぇ」
 竜次とミティアがいなくなった理由はいまだにはっきりしない。マリーは詳細を話さず、ジェフリーは苛立ちを見せた。
 そんな時、ギルドの扉が大きく開かれた。ばたばたと激しい音を立て、人が押し寄せる。騒がしく、落ち着いて話ができない。
 我先にと強欲な人がいたようだ。ギルドらしい言葉が飛び交った。
「さっき、光が見えたぞ!!」
「ずるいぞ、情報の報酬は俺の方が先だ!!」
 ジェフリーが耳にしたのは、先ほどコーディと入り口で見た空の光の話だった。情報の提供で報酬を得ようとする人だ。だが、耳にしたのはそれだけではなかった。
「南の山の光と一緒だった!!」
「あの山道の雨を晴らした奇跡の光と一緒だ!! 間違いない!」
 南の山道? 雨を晴らした奇跡の光? 南の山道は、崩れながら抜けたあの山道を指すだろう。奇跡の光、その例えに違和感があるが、心当たりはある。だが、自分は見ていない。もしかしたら、その光の正体は……。ジェフリーは嫌な予感がした。
 もしかしたら、ミティアと竜次の居場所がわかるかもしれない。ジェフリーはマリーとのやり取りに区切りをつけた。
「おばさんはここにいちゃいけない。俺が兄貴を助けに行く。だから今すぐ帰るんだ!」
 ジェフリーはマリーの背中を押し、出口へ向かわせた。コーディを呼びつける。
「コーディ!!」
「な、なに、そんな大きな声出して……」
 コーディは報酬金を受け取り、トランクに入れていた。文句を言いながら、応答している。
「さっきの光、どこからだったか覚えてるか!?」
「えっ、うん、だいたい……」
 ジェフリーはコーディの手を強く引いた。
「うえぇ!? 今度は何なの?」
 ギルドを飛び出し、大通りに出た。昼も過ぎ、市場の賑わいを見せる。その賑わいを見ながらジェフリーはコーディに質問をした。
「お前、この街に詳しいよな、どっちだ?」
 コーディは不安定な体制で走るのが嫌になったのか、背中の翼を広げた。
「わかった! わかったから、まず手を放して!」
 指摘を受け、ジェフリーは手を放す。
「こっちだよ、ついて来て」
 コーディは羽ばたき、人混みを避けた。普通は驚くだろうが、広場にいる者は売買に夢中で上を気にしていない。
 ジェフリーは体勢を低くし、隙間を抜けた。子どもの方が人混みを抜けやすい。その知識だが、役に立ったようだ。さほど時間をかけずに抜けられた。今は少しでも時間が惜しい。
 コーディの案内は孤児院の方角へ向かっていた。


 剣戟が激しくぶつかる。竜次は受け止めたが、うしろ足が下がった。
「な、なんて力……」
 体への負担が大きい。おそらくクディフは気づいている。左腕が上げづらくなってしまった。少しずつだが、着実に削られている。反撃を試みるも、どうしても体力が厳しい。旅の道中でも体力のなさを痛感していたが、ここまで力の差があるとは思わなかった。もう少し、あと少しでもっと掠め取れるかもしれないのに、クディフからの反撃が襲いかかる。竜次は完全に弄ばれていた。
「最初だけだったな」
「くっ……」
 強がりで睨み返した。それでも押されている。負けたくない。こんな奴に。大切な人を弄び、傷つけたクディフは絶対に許さない。だが気持ちとは裏腹に、勝機がどんどん遠ざかり、死期の闇さえも心を飲み込んでしまいそうだ。竜次は己に負けそうになった。
 そんなときだった。この場に自分たち以外の気配を感じた。
「でかい釣り針だねぇ……」
 竜次は聞き覚えのある、歯切れのいい女性の声を耳にした。声はクディフの背後からだ。すぐに戦慄が走った。クディフとぶつかり合っていた刃に剣が加わり、勢いのまま引き離された。
「光ったから何かと思えば、胸糞悪いね。裏切りの白狼!」
 女性はふわりと翻り、竜次の前に着地した。人情という達筆な文字。人情マダムこと、アイラだ。彼女を見るなり、冷静だったクディフが目の色を変える。
「貴様、生きていたのか!」
「あんたこそ、くたばってなかったのかい」
 アイラとの睨み合いに、クディフが感情をあらわにした。竜次はこれほど冷静を欠くクディフを初めて見た。顔見知りなのだろうかと疑問を抱く。
「邪魔をするな!!」
 アイラに戦いの邪魔をされ、クディフは憎悪をむき出しにする。
「いや、この因縁、逃がしゃしないよ!」
 どういう因縁があるのか、竜次にはさっぱりわからない。アイラとクディフの間に何かあるとしか、今のところは理解ができなかった。
 クディフの相手は竜次からアイラへと変わった。助太刀は助かるが、どうしてアイラがここにいるのだろう。竜次は聞く期を損ね、この場の空気に緊張を持った。
「竜ちゃん、逃げなさい!」
「……!?」
「その子を助けておやり!」
「し、しかしっ……」
 アイラは一瞬だけ竜次に振り返り、大丈夫と言わんばかりに笑みを浮かべていた。
「死に急ぐんじゃないよ、さっさとお行き!」
 この状態を好機と見ていいのか、竜次は判断に迷った。
「もうすぐジェフリーたちも戻って来るだろうさ。悲しませるようなことはするんじゃないよ……」
「ですが……」
「あんたたちは自分の道を通すんだろう? なら、こんな奴の相手をしちゃいけない」
 アイラは意味深なことを言い、竜次をこの場から退かせようとする。ジェフリーたちから何か聞いたのだろうか。竜次はその質問をしようとしたが、クディフに遮られた。
「あと少しで欲に目のくらんだ愚か者を排除できるというのに……!!」
 クディフはぎしりと歯を軋ませる。余程竜次と勝負をしたいようだ。だが、アイラが立ち塞がった。
「退け、アイシャ王女!」
「やだよ、シルバーリデンス公、あんたの相手はあたしだ!」
「人間の味方をするのか!?」
「あぁそうとも。少なくとも今はね……」
 アイラは地を蹴り、再びクディフと刃を交えた。ぶつかる剣戟は激しく、両者とも引かない。
「お行きっ!」
 アイラは受け止めながら竜次に強く叫んだ。
 竜次は刀を鞘に収めながら、ミティアに駆け寄った。彼女の剣を拾い上げ、鞘に収める。痺れる腕に力を込め、ミティアを抱き上げた。
「待て、逃げるか、沙蘭の剣神!!」
 竜次はアイラの背中越しに、クディフを睨んだ。
「逃げません、この勝負……預けます」
 竜次はあくまでも逃げではないと言い張った。ミティアを抱え、来た道を走った。またアイラに助けられてしまったことを、申し訳なく思う。

 アイラは竜次の後ろ姿が遠くなるのを確認した。剣戟を弾き、間合いを取った。栗色の綺麗な髪の毛が、動きに合わせてふわりとなびく。
「さぁて、いつまで亡き王女の影を追うんだい。あんたの悪巧みはここまでだよ」
「アリューンの王女ごときが、我が主君の気持ち、わからぬまい」
「知らないし、わかろうとも思わない。あたしゃ王女であって、王女じゃないからね」
 意味深な会話が繰り広げられる。この二人以外は知らない内容だ。
 アイラをアイシャ王女と呼ぶクディフだが、そのクディフはアイラから裏切りの白狼と呼ばれた。この二人の間には、神族として許せない因縁があるようだ。
 アイラは地を蹴った。クディフも剣を振り上げる。
 両者、譲れない戦いがここにもあった。

 余裕もなく、ただ走り抜けた。孤児院を抜け裏通りに差しかかった。すれ違う人が驚き、竜次を一度は振り返った。女性を抱えて走るのがそんなに珍しいのだろうかと思ったが、今は身形を考えられない。
 竜次の頭上を風が抜けた。
「お兄ちゃん先生!?」
 空を翔るコーディだ、彼女も竜次を見て息を飲んだ。降りて近寄るも、彼女の金色の目は竜次を見て怯えている。
「どう、した……の?」
 コーディは力なく笑う。とんでもないものを見るかのように。
「どうした、コーディ……」
 コーディを追ってジェフリーが駆けてつけた。
「あに……き?」
 ジェフリーも、竜次を見て驚いていた。
 竜次は腕の中でミティアが眠っているせいかと思った。だが、ジェフリーがもっと別の指摘をした。
「兄貴、どうしたんだ? その血……」
 ジェフリーは竜次の顔をじっと見ている。竜次の顔には、血を浴びた跡がある。そのことを指摘されていると知り、竜次は俯いた。抑え込んでいたものが無性に込み上げた。
「私の、血じゃありません……彼女の……です……」
 コーディはトランクを置き、中からタオルを取り出す。水場がないか探しに行った。
「ジェフ……私、わた……し…………っ……」
 竜次は声を震わせ、泣きながら膝をついた。周りの目を気にしておらず、誤解を招きそうだ。
「兄貴……?」
 ジェフリーは困惑した。なぜなら、竜次の泣いたところを見たのは初めてだからだ。これが本当の竜次ならば、何がこうさせてしまったのだろうか。目を覚まさないミティアも気になった。嫌な予感を問い詰めたい。だが、今は黙るべきだと判断した。
 コーディが水を含ませたタオルを持って戻った。急いでいたのか、タオルからは雫が滴っている。
 コーディは竜次の顔の血を拭った。泥も涙も含まれた悲しい色が、白いタオルを染める。
「お兄ちゃん先生、いったん戻ろう、ここで泣かなくてもいいじゃん、ね……?」
 とりあえずの処置だ。行き交う人の刺すような目はなくなったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
 ジェフリーは竜次の手を引いた。竜次が辛うじて立ち上がるが、ミティアを抱えたまま、どうしても離そうとはしなかった。
 何かあった。とんでもないことが。

 宿に着くなり、竜次はフロントに声をかけた。
「一人部屋でかまいません。追加でお願いします……」
 受付の人が慌てながら一階の奥の部屋に案内した。
 ジェフリーはその様子を見てぼんやりと思った。竜次はきっと、つきっきりで面倒を見るつもりだ。
 ジェフリーとコーディも部屋に付き添った。
 竜次はミティアを横にならせた。彼女は静かに寝息を立てている。
 怪我はないようだ。しかし、ミティアは目を覚まさない。ジェフリーはこの光景に覚えがある。竜次から何も詳細を聞いていないのに、ジェフリーは胸騒ぎを覚えていた。
「あ、私、お湯貰ってくるね。お茶でも……」
 コーディが足早に部屋を出て行った。気まずくなったのか、気を利かせていたのかはわからない。足音が遠くなる。
 竜次は足音が聞こえなくなったのを確認し、ジェフリーを見た。物悲しげに訴える眼差しは、何度か瞬き、ミティアへと視線が落ちた。
「ごめんなさい、ジェフ。私、彼女が好きです……」
 ジェフリーは胸の奥を痛めた。声を発したくても、今は押し殺すしかなかった。
「どうしてもミティアさんを守りたくて、でも、私は守れなかった。それどころか、助けられた。彼女は私を庇って致命傷を負い、自分に禁忌の魔法を使ったのです」
 ジェフリーは顔をしかめる。今だけは、竜次に言いたいだけ言わせようと、沈黙を決め込んだ。
「あのクディフという剣士に襲われました。私たちの旅が仕組まれたものだと告げられた。私たちが親しくなり、誰かが傷つけば彼女は禁忌の魔法を使う、その機会をずっと待っていた。ミティアさんの存在を壊すために。だから、彼は最初から彼女を連れ去らなかった。私たちはあの人に踊らされていたのです……」
 ジェフリーは小さく頷き、話を聞いているふりをしていた。本当は話のほとんどが頭に入ってこない。
「あの人はミティアさん力を悪用させないために、私たちに監視をさせた。それは順調だった。ですが、私が一緒にいたせいで、争いになりました」
「……兄貴が?」
 ジェフリーは軽く首を振り、話を聞く姿勢を正した。どうも話が複雑に入り組んでいるように思える。
 竜次は顔を上げ、ジェフリーに訴えるように問う。
「ジェフはわかっていたのでしょう? 私が旅に同行する理由を……」
 ジェフリーの視線が泳いだ。まるで、責任を問われているかのようだ。
「兄貴はもうそういう人じゃない。俺は信じてる……」
「ミティアさんにも、同じことを言われました」
「ミティアは兄貴を慕っている。それに優しいから、兄貴の気持ちを汲み取ってくれると思う」
 ジェフリーは竜次を励ますつもりで言った。マイナスの感情に陥らないように気を遣っていた。それなのに、ミティアの話をするのがつらいと感じた。
 竜次はジェフリーの心情を察し、話題を戻した。
「私がいるせいで、目的が変わった。私のような人に悪用されると思ったのでしょう。ミティアさんの中には、もう一人……禁忌の魔法を使う人格が封じられているようです。その人を引き出すのが目的でした。そのためには、禁忌の魔法で彼女に過度な負担をかけさせ、反転させる。それが目的になった」
「……」
 ジェフリーはぼんやりと思い耽っていた。圭馬の兄、圭白に言われた話がつながったかもしれない。仲間に魂を半分しか持たない人がいると、聞いた覚えがある。口にせず、一人で納得した。
「あの剣士の誤算は、思いのほか我々が大きい怪我もせず、ここまで彼女を守れた。彼によって禁忌の魔法は無理矢理使わされた……」
 なぜミティアが目を覚まさないのか。なぜ禁忌の魔法を使ったのか。ジェフリーはやっと理解した。何となく予感はしていたが、だいたい予想どおりだった。
「情けない話です。話は完全に向こうのペースでした。飲まれるままに、罵倒もされました。医者であることを、お父様と同じようになるのではないかと」
「兄貴は親父とは違う……」
「ミティアさんは私を庇ったのです。何も知らないくせに、悪く言うなと。何の戸惑いもなく言う人、好きになってしまいます……」
 愛おしい人を想うその顔、まだどこかに迷いがある。

 邪魔をしているのは自分だ。ジェフリーは身を引く決意をした。本心は、譲りたくなんてなかった。だが、スプリングフォレストで、自分は何を言っただろうか。
 思い返せば、そこから既に矛盾していた。
 愛する人を失って絶望し、一度は命を絶った竜次が立ち直ってくれたのは嬉しかった。それは何にも変えられない。かけがえのない、血の繋がった兄だから。
 こうなるとは予想していたはずなのに、勝手に告白して一人で浮かれた気分になっていた自分が憎らしい。馬鹿らしくもなってきた。
 今は揉めている時間が惜しい。ちょうどいい。好きな人を失う恐怖と、戦わなくていいのだ。幸いにも、ミティアから返事はもらわないようにしていた。将来を見据えても、旅が終わって何でもない女の子になれたら、竜次は稼ぎも出来るであろう。何なら、彼女にも手伝ってもらうかもしれない。きっとその方が、彼女のためだ。
 ただ、支えるのが自分ではなくなるだけ。ミティアが幸せならそれでいい。
 ジェフリーは無理矢理にでも納得したかった。

 コンコンと、ノックされ扉が開く。
 コーディが暖かいお茶をポットで持って来た。木製のカップもチェストに置かれた。
「ジェフリーお兄ちゃんの分もあるけど?」
「いや、俺はいい……ちょっと外を歩いて来る」
「えぇー、せっかく持って来たのに……」
 ジェフリーはこの場にいたたまれなくなった。気を遣うように部屋を出る。宿を出て、深呼吸をしていると、隣にコーディがいた。
 ジェフリーは息をついてからコーディに声をかけた。
「ついてこいって言ってないぞ?」
「うぇー……なにそれ、邪魔ぁ?」
 コーディは時々このような年頃の口調で話す。中身は十六歳だと言っていた。外観が幼いため、どうしてもつり合わない。
「孤児院に挨拶に行くんだぞ、お前まで来てどうするんだ?」
「えっとぉ、邪魔しないから一緒に行ってもいい?」
 ジェフリーは孤児院に挨拶に行くと言った。実はたった今、思いついた出かける口実だ。
 一人でいるよりは、気が紛れるかもしれない。ジェフリーはコーディと街へと歩き出した。
 まるで、なくなってしまった己の居場所から、逃げるように。
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