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第482話 冥府の王㉝
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家に帰りついた頃には、すっかり陽が落ちてしまっていた。
夜空を背景に、うっそりと茂った森が巨大な化け物の影のように見え、僕らは息せき切って玄関に飛び込んだ。
「お母さん、帰ったよ」
三和木で靴を脱ぎながら香澄が声をかけると、奥から現れたのは母ではなく、隣家のおばさんだった。
確か、浅田さんと言ったと思う。
「遅かったねえ。心配してたんだよ」
上がり框の板敷きの床に正座して、浅田のおばさんが言った。
「あの…母は?」
不安が募ってきて、思わずそうたずねると、
「ちょっと具合が悪くてね、しばらくの間、入院ってことになっちゃってさ」
悲しそうな表情で、おばさんが首を横に振った。
「…お母さん、どこが悪いんですか?」
明らかにショックを受けた様子で、目をいっぱいに見開いて香澄が訊いた。
「ここかねえ」
おばさんが指差したのは、自分の胸である。
「心の病っていうのかしら。おじいちゃんが亡くなって、それがよっぽどこたえたんだろうねえ」
僕は呆然となった。
確かにあれ以来、母は変だった。
部屋の隅に座ったまま、何時間もじっとして、口の中で何かぶつぶつ呟き続けていることが多くなった。
でも、まさか、入院とは…。
「実は、きょうも、食事の準備の最中に意識が飛んじゃったみたいで…危うく火事になるとこだったんよ」
言われてみると、なるほど空気の中に、心なしか煙の臭いがこもっていた。
「運良く、郵便配達の人が見つけてくれて、ぼやくらいで済んだんだけど…。それで、農協のみんなで相談してね、とりあえず一度心療内科で診てもらおうってことになって…。そしたら、検査の結果、即入院。今のままでは、日常生活を送るのはまず無理だろうって」
「どこの病院ですか? 香澄、行かなきゃ」
食ってかかるように、香澄がおばさんのほうに身を乗り出した。
「市内の病院で遠いから、今から行くのはちょいと無理だねえ。明日、男衆に車出してもらうよう頼んでおくからさ、あんたたちも今晩はちょっと我慢してね。あ、それから、食事の世話は、しばらくうちと深谷さんちと田中さんちで順番に面倒見に来るから、大丈夫だよ。とりあえず、私も、明日の朝ご飯まではつくっておいたわ。お洗濯やお掃除は、自分たちでできるよね?」
「うん」
僕より先に、香澄がうなずいた。
「ありがとうございます。お忙しいのに、わざわざ私たちのために」
「偉いね。香澄ちゃん。まだ小4なのに、しっかりしてる」
にっこり微笑んで、おばさんが香澄のおかっぱ頭を撫でた。
「まあ、狭い村だし、こういうのは、持ちつ持たれつだから」
そこで遠い目をすると、
「それにしても、警察も、何とかしてほしいよね…あの化け物のこと。5年ごとに出てきて、人を殺しまくってるっていうのに、いつもいつも迷宮入り、なんだもんねえ」
ハンザキのことだ。
そうなのか。
警察も、毎回捜査には乗り出しているってことなのか…。
と、それまで大人しく頭を撫でられているだけだった香澄が、きっと顔を上げて、突然強い語調で言った。
「今度はそうはいきません。ハンザキは、香澄たちが、必ず殺します」
夜空を背景に、うっそりと茂った森が巨大な化け物の影のように見え、僕らは息せき切って玄関に飛び込んだ。
「お母さん、帰ったよ」
三和木で靴を脱ぎながら香澄が声をかけると、奥から現れたのは母ではなく、隣家のおばさんだった。
確か、浅田さんと言ったと思う。
「遅かったねえ。心配してたんだよ」
上がり框の板敷きの床に正座して、浅田のおばさんが言った。
「あの…母は?」
不安が募ってきて、思わずそうたずねると、
「ちょっと具合が悪くてね、しばらくの間、入院ってことになっちゃってさ」
悲しそうな表情で、おばさんが首を横に振った。
「…お母さん、どこが悪いんですか?」
明らかにショックを受けた様子で、目をいっぱいに見開いて香澄が訊いた。
「ここかねえ」
おばさんが指差したのは、自分の胸である。
「心の病っていうのかしら。おじいちゃんが亡くなって、それがよっぽどこたえたんだろうねえ」
僕は呆然となった。
確かにあれ以来、母は変だった。
部屋の隅に座ったまま、何時間もじっとして、口の中で何かぶつぶつ呟き続けていることが多くなった。
でも、まさか、入院とは…。
「実は、きょうも、食事の準備の最中に意識が飛んじゃったみたいで…危うく火事になるとこだったんよ」
言われてみると、なるほど空気の中に、心なしか煙の臭いがこもっていた。
「運良く、郵便配達の人が見つけてくれて、ぼやくらいで済んだんだけど…。それで、農協のみんなで相談してね、とりあえず一度心療内科で診てもらおうってことになって…。そしたら、検査の結果、即入院。今のままでは、日常生活を送るのはまず無理だろうって」
「どこの病院ですか? 香澄、行かなきゃ」
食ってかかるように、香澄がおばさんのほうに身を乗り出した。
「市内の病院で遠いから、今から行くのはちょいと無理だねえ。明日、男衆に車出してもらうよう頼んでおくからさ、あんたたちも今晩はちょっと我慢してね。あ、それから、食事の世話は、しばらくうちと深谷さんちと田中さんちで順番に面倒見に来るから、大丈夫だよ。とりあえず、私も、明日の朝ご飯まではつくっておいたわ。お洗濯やお掃除は、自分たちでできるよね?」
「うん」
僕より先に、香澄がうなずいた。
「ありがとうございます。お忙しいのに、わざわざ私たちのために」
「偉いね。香澄ちゃん。まだ小4なのに、しっかりしてる」
にっこり微笑んで、おばさんが香澄のおかっぱ頭を撫でた。
「まあ、狭い村だし、こういうのは、持ちつ持たれつだから」
そこで遠い目をすると、
「それにしても、警察も、何とかしてほしいよね…あの化け物のこと。5年ごとに出てきて、人を殺しまくってるっていうのに、いつもいつも迷宮入り、なんだもんねえ」
ハンザキのことだ。
そうなのか。
警察も、毎回捜査には乗り出しているってことなのか…。
と、それまで大人しく頭を撫でられているだけだった香澄が、きっと顔を上げて、突然強い語調で言った。
「今度はそうはいきません。ハンザキは、香澄たちが、必ず殺します」
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