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第519話 冥府の王(70)
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巨大な一枚岩に近づくと、むせ返るようにいやな臭気が漂ってきた。
その匂いに、僕はふとある光景を思い出した。
祖父が、家で飼っていた鶏を解体するシーンである。
祖父が鉈のような刃物で雄鶏の首を跳ね、腹を裂いて臓物をつかみ出した時、確かこんな匂いがしたのではなかったか…?
そう思ったのだ。
「入るぜ」
大柄な体をかがめて、入口で剛が振り返った。
「いいよ。これ以上、外にいるのはぞっとしない。まだ前に進むほうがまし」
青ざめた顔で由利亜が言う。
それも無理はない。
森の樹々の間にちらつく黒い靄のようなものが増えてきている。
いつのまにか、僕らはそれにすっかり取り囲まれてしまっていた。
タリスマンがなかったら、すぐさま襲い掛かってくるに違いない。
そんな悪意に満ちた瘴気が、ほとんど物理的な波動と化して押し寄せてくるのだ。
「足元に気をつけろ。意外に急だ」
全員が岩の隙間に入りこむと、剛が斧の光で地面を照らしながら言った。
タリスマンが変じた武器自体が発光しているので、懐中電灯の必要はなかった。
しかも、武器は4人分あるから、そんなに先までは見えないものの、歩くくらいなら明るさは十分だ。
足元は固い岩盤で、ところどころ水が流れている。
壁面はぬるぬるした苔類に覆い尽くされて、不潔な光沢を帯びている。
救いは意外に天井が高いことだったが、時々水滴が落ちてきて首筋を直撃するのは、正直ぞっとしなかった。
剛が指摘した通り、隧道は急な下り坂となって、前方の闇の中へと消えている。
進むにつれて匂いは強くなってくるようだ。
これは、間違いなく…そう、血の匂い。
不安と恐怖で、胸が苦しくなる。
喉がからからに乾いて、舌が上顎に貼りついてしまったような気がする。
僕の右手を握る香澄の手のひらが、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
荒い息遣いは剛のものなのか、自分のものなのか、もはや区別がつかないほどだ。
そうして無言のまま、10分も歩いただろうか。
永遠に近い時間に耐え切れず、危うく叫びだしそうになった時、僕の前でふいに剛の幅広の背中が消えた。
え?
それと同時に、僕も気づいていた。
足元の地面が消えている。
急に立ち止まろうとした僕の背中に、香澄がぶつかってきた。
「わ」
「きゃ」
バランスを崩し、もつれあうようにして落下した。
背中を固い岩盤に打ちつけ、あまりの痛さに思わずうめいた時、腹の上に香澄が落ちてきた。
転がる前にとっさに抱き留める。
「大丈夫? お兄ちゃん」
香澄の甘い口臭が鼻孔をくすぐった。
「ああ、なんとか」
身を起こすと、そこは吹き抜けの広いホールみたいな空間だった。
壁を覆った地衣類が発光しているのだろうか。
全体がぼんやりと明るく、タリスマンに頼らなくとも、周りの様子がうっすらと見えている。
崖の途中に開いた穴が、さっきの隧道の出口だろう。
そこから由利亜が顔をのぞかせ、
「そんなに高くないね。これなら飛べるかも」
そう言うなり、軽やかに身を躍らせた。
「ひえ、びびったぜ」
少し先で、むっくりと剛が起き上がった。
手元の斧が、地面を円形に明るく照らし出している。
それは僕も同じで、右手の槍の周囲が照らされて、ざわざわうごめく地面が見えた。
「やだ、見て、これ」
近づいてきた由利亜が、電気に打たれたように片足を上げる。
「わ、マジかよ」
剛が弾かれたみたいに飛び上った。
「お兄ちゃん…」
香澄がしがみついてきた。
その目は足元の地面に釘づけだ。
大地が、ざわざわ波打っている。
「蛆?」
僕はうめいた。
絡み合ってひしめく脂ぎった白いもの。
それは大量の蛆虫だった。
しかも、その間をちょろちょろ走り回っているのは、真っ黒な翅を光らせた大きなゴキブリたちである。
「な、なんなんだ?」
剛が気味悪げに唸り声を上げた、その瞬間だった。
「お兄ちゃん、あれ」
香澄が突然、前方を指さした。
大伽藍のような空間のちょうど向かい側の壁に、もうひとつ洞窟の入口が開いている。
そのなかに、ちらりとだが、異様なものが見えた。
遠くて、細部まではわからない。
でも、あれ、何かに似ている…。
「匂いはあそこから来てるようね」
香澄の指す方向をじっと見据えて、由利亜が言った。
「行ってみましょう。ハンザキは、まず間違いなく、あの洞窟の中にいるわ」
その匂いに、僕はふとある光景を思い出した。
祖父が、家で飼っていた鶏を解体するシーンである。
祖父が鉈のような刃物で雄鶏の首を跳ね、腹を裂いて臓物をつかみ出した時、確かこんな匂いがしたのではなかったか…?
そう思ったのだ。
「入るぜ」
大柄な体をかがめて、入口で剛が振り返った。
「いいよ。これ以上、外にいるのはぞっとしない。まだ前に進むほうがまし」
青ざめた顔で由利亜が言う。
それも無理はない。
森の樹々の間にちらつく黒い靄のようなものが増えてきている。
いつのまにか、僕らはそれにすっかり取り囲まれてしまっていた。
タリスマンがなかったら、すぐさま襲い掛かってくるに違いない。
そんな悪意に満ちた瘴気が、ほとんど物理的な波動と化して押し寄せてくるのだ。
「足元に気をつけろ。意外に急だ」
全員が岩の隙間に入りこむと、剛が斧の光で地面を照らしながら言った。
タリスマンが変じた武器自体が発光しているので、懐中電灯の必要はなかった。
しかも、武器は4人分あるから、そんなに先までは見えないものの、歩くくらいなら明るさは十分だ。
足元は固い岩盤で、ところどころ水が流れている。
壁面はぬるぬるした苔類に覆い尽くされて、不潔な光沢を帯びている。
救いは意外に天井が高いことだったが、時々水滴が落ちてきて首筋を直撃するのは、正直ぞっとしなかった。
剛が指摘した通り、隧道は急な下り坂となって、前方の闇の中へと消えている。
進むにつれて匂いは強くなってくるようだ。
これは、間違いなく…そう、血の匂い。
不安と恐怖で、胸が苦しくなる。
喉がからからに乾いて、舌が上顎に貼りついてしまったような気がする。
僕の右手を握る香澄の手のひらが、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
荒い息遣いは剛のものなのか、自分のものなのか、もはや区別がつかないほどだ。
そうして無言のまま、10分も歩いただろうか。
永遠に近い時間に耐え切れず、危うく叫びだしそうになった時、僕の前でふいに剛の幅広の背中が消えた。
え?
それと同時に、僕も気づいていた。
足元の地面が消えている。
急に立ち止まろうとした僕の背中に、香澄がぶつかってきた。
「わ」
「きゃ」
バランスを崩し、もつれあうようにして落下した。
背中を固い岩盤に打ちつけ、あまりの痛さに思わずうめいた時、腹の上に香澄が落ちてきた。
転がる前にとっさに抱き留める。
「大丈夫? お兄ちゃん」
香澄の甘い口臭が鼻孔をくすぐった。
「ああ、なんとか」
身を起こすと、そこは吹き抜けの広いホールみたいな空間だった。
壁を覆った地衣類が発光しているのだろうか。
全体がぼんやりと明るく、タリスマンに頼らなくとも、周りの様子がうっすらと見えている。
崖の途中に開いた穴が、さっきの隧道の出口だろう。
そこから由利亜が顔をのぞかせ、
「そんなに高くないね。これなら飛べるかも」
そう言うなり、軽やかに身を躍らせた。
「ひえ、びびったぜ」
少し先で、むっくりと剛が起き上がった。
手元の斧が、地面を円形に明るく照らし出している。
それは僕も同じで、右手の槍の周囲が照らされて、ざわざわうごめく地面が見えた。
「やだ、見て、これ」
近づいてきた由利亜が、電気に打たれたように片足を上げる。
「わ、マジかよ」
剛が弾かれたみたいに飛び上った。
「お兄ちゃん…」
香澄がしがみついてきた。
その目は足元の地面に釘づけだ。
大地が、ざわざわ波打っている。
「蛆?」
僕はうめいた。
絡み合ってひしめく脂ぎった白いもの。
それは大量の蛆虫だった。
しかも、その間をちょろちょろ走り回っているのは、真っ黒な翅を光らせた大きなゴキブリたちである。
「な、なんなんだ?」
剛が気味悪げに唸り声を上げた、その瞬間だった。
「お兄ちゃん、あれ」
香澄が突然、前方を指さした。
大伽藍のような空間のちょうど向かい側の壁に、もうひとつ洞窟の入口が開いている。
そのなかに、ちらりとだが、異様なものが見えた。
遠くて、細部まではわからない。
でも、あれ、何かに似ている…。
「匂いはあそこから来てるようね」
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