壁の中

戸影絵麻

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中編

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外に出るとずいぶん時間が経っていて、すでに夕方になっていた。さっきと同じ地下鉄のホームに下りると、かなり人が増えていた。わたしたちは比較的人影がまばらなホームの端っこのほうへ行って、立ったまま電車を待つことにした。ホームはまだ暑くて、わたしは壁に背をあずけたまま、ぼんやりと向かい側の人の列を見るともなく眺めていた。奈々美は無口だった。あえてわたしも話しかけなかった。下手に口を開くと、うっかり彼女を傷つけるような言葉を発してしまいそうで、何も言えなかったのだ。
 電車はなかなか来なかった。いつもより待ち時間が長い気がした。向かい側のホームでは、エスカレーターを降りてきた女子高生らしき集団が黄色い声を上げていた。わたしにもあんな能天気に明るい時期があったのだろうかとふと思ったが、どうも無さそうだという結論に達した。第一、高校時代、グループで行動したという記憶がないのだ。高校二年のときもそうだった。麗華や奈々美はそれぞれ何らかの派閥に属していたようだが、わたし自身はすでに誰とも距離を置いてしまっていた気がする。それが良かったのか悪かったのか、今となってはもうわからないが、孤独な反面、少なくとも煩雑な人間関係からは無縁でいられた。それがひょんなことから、奇妙な事態に巻き込まれることになってしまったのだ。奈々美が神経を病んでいるのか、本物の心霊現象が起こっているのか、心理学者でもオカルト研究家でもないわたしにはなんとも判別のつけようがないが、どちらにしてもわたしの感想は、「疲れる」の一言に尽きた。
 ごうっと音を立てて、向かい側のホームに銀色の見慣れた地下鉄の車体が入ってきた。降りる人はほとんどなく、代わりにホームにいた人たちの大半がその列車に乗り込んでいった。逆に、乗り換えの列車から流れてきたのだろう、こちら側のホームの人間がかなり増え、身動きもままならない状態になってきていた。向かい側のホームの列車がトンネルの中に消えたときだった。わたしの横で、突然奈々美が「ひっ」と息を飲む気配がした。見ると、両目をまん丸に見開いて、向かい側のホームを食い入るように見つめている。
「どうしたの?]
 小声で訊くと、
「来た」
 とだけ奈々美は言い、ぎゅっとわたしの右手を握り締めてきた。
「何が?」
 わたしは言い知れぬ不安に駆られ、奈々美の視線の先を追った。
 はじめは何も見えなかった。
 いや、気づかなかったといったほうが正確かもしれない。壁の模様かと思ったのだ。が、すぐにそうでないことがわかった。わたしたちの正面、線路を隔てた向かい側のホームの壁に、何かが映っている。影のように見えるが、向かい側のホームには現在人がだれもいない。もちろん、こちら側のホームの人影が、そんな離れたところに映るはずもなかった。それに、その「影」は人間のものにしては少し大きすぎた。二メートル以上あるように見える。そしてそれはゆらゆらと動いていた。見ようによっては、こちらに向かって手を振っているような感じだった。それは髪の長い女の形をしていた。
「逃げよう」
 わたしは奈々美の手を引いてその場を離れようとした。が、ときすでに遅く、両脇を人の群れに挟まれ、身動きすらままならなくなっていた。「影」は少し縮んだかと思うと、今度は壁からするすると床に移動し始めた。染みが広がるように向かい側のホームの床を覆い尽くすと、地下鉄の線路へと移動を開始する。まるで地中を泳いでいる人影を上から見ているような有様だった。列車の接近を知らせるアナウンスが聞こえてきた。早く! わたしは心の中で叫んだ。早く来て! でないとあれが・・・。
 轟音とともに列車が走りこんでくるのと、それが線路を渡ろうと体を伸ばすのとがほとんど同時だった。線路の上に伸びきったそれの背中を轢く格好で列車は止まった。周囲で人の群れが雪崩をうって動き始め、わたしと奈々美の体をいやというほどこづいていった。
 奈々美が金縛りにあったように動かないので、わたしたちだけが自然ホームに取り残されるかたちになった。ドアが閉まる合図のホイッスルが鳴り響いた。その瞬間、わたしは見た。黒い汚れのようなものが車体の下から現れ、こちら側のホームに染み出してきている。ありえないほど長い腕を伸ばし、わたしたち、いや、奈々美の足元めざして這いよってくる。
「奈々美、気をつけて!」
 そう叫んだときだった。だしぬけに背中を押され、わたしは奈々美の手を引いたまま床に倒れこんだ。転んだわたしたちの脇をすり抜けるようにして、中年のサラリーマン風の男がしまりかけた地下鉄のドアに向かって突進していくのが見えた。わたしはあわてて身を起こし、傍らの奈々美を見やった。奈々美は広がった「影」の中央に倒れこんでいた。それは奈々美の下でまるで歓喜に打ち震えるかのように蠢動を繰り返していた。奈々美は、といえば、死んだように横たわったまま、微動だにしない。わたしは奈々美に駆け寄ると後ろから羽交い絞めにし、力任せに引き起こした。そのまま離れたところにあるベンチまで奈々美の体を引きずっていき、なんとかそこに座らせることに成功した。「影」は縮み始め、やがて薄くなり、地面に吸い込まれるようにして消えていった。わたしはほっと安堵の吐息を吐いた。あれが何であれ、とにかく助かった・・・。
「大丈夫? もういなくなったよ」
 顔を覗き込むと、それまで閉じていた目をぱっちり開いて、奈々美がわたしを見返してきた。きょとんとした表情をしている。なんだか、わたしを初めて見るような目つきをして、ぽつりと言った。
「あなた・・・夏希?」
「今更何に言ってるの? 頭打ったんじゃない? 病院に行く?」
 呆れ顔のわたしに、奈々美はにんまりと笑いかけると、
「なんて、冗談。あたしなら大丈夫よ。なんか、いろいろ迷惑掛けちゃったみたいね。でもあなたのおかげで助かったわ」
 そうサバサバした口調で言って、勢い良くベンチから立ち上がった。
「ねえ」
 わたしは急に元気になった奈々美に戸惑いながらも、尋ねずにはいられなかった。
「さっきのあれ、いったい何だったの?」
「さあ、気のせいじゃない?」
 奈々美がまた、唇の両端をきゅっと吊り上げるようにして、いたずらっぽく微笑んだ。その微笑を目の当たりにしたとたん、わたしはぞくっとうなじの毛が総毛立つような感じを受けた。
これって、この笑い方って・・・。
「じゃあね」
 軽く手を振り、奈々美が歩き出す。妙に自信に満ちた足取りだった。わたしは背筋をすっきりと伸ばして歩くそんな奈々美の後ろ姿を、呆けたようにいつまでも見送っていた。
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