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後編
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その落書きを見つけたのは、あの奇妙な騒動から三日ほど経ってのことだった。平日の午後、わたしは大学の学生食堂の片隅で、安いだけがとりえのたいしておいしくもない定食を食べていた。何の気なしにふと脇の壁に目をやると、ちょうどわたしの肩の高さ辺りにそれが書いてあったのだ。
最初は何なのかわからなかった。文字のように見えるが、何か変だったからだ。やがて、鏡文字だということに気がついた。文字が裏返っている。
ー出してー
そう読めた。
そしてわたしは気づいた。もし、壁の中に誰かがいて、裏側から文字を書いたのだとすれば、こんな風な鏡文字になってもおかしくはない。でも、そんなばかげたことがあるだろうか。それに、いったい誰が。
すうっと、文字の後ろから黒い染みが広がり、わたしの前で等身大の人の形をとった。壁に映っているのは、ワンピースを着た小柄な女のシルエットだった。
「奈々美・・・?」
その瞬間、わたしは確信した。
やっぱり、あれは奈々美ではなかったのだ。
わたしが助け起こしたとき、奈々美は明らかに変だった。まるでわたしのことをはじめて見るような目で、見つめていた。
それに、なによりもあの微笑。
あんな笑い方をする奈々美をわたしは見たことがない。あんな妖艶とでもいうべき、小悪魔的な笑い方を・・・。
あの「影」は麗華だったのだ。
そして、どういうからくりか、奈々美に触れたとき、麗華は奈々美の肉体の中に入り込み、代わりに奈々美の魂だか心だかをそれまで自分がいた「場所」に閉じ込めた。
麗華はべったりと壁に張り付くようにして死んでいたという。でも、もし魂だか心だかは死んでいなかったとしたら。二次元の世界に塗り込められてまだ生きていたとしたら。壁は世界中の平面とつながっている。二次元の世界なら彼女はどこにでも行ける。自分の家のブロック塀から、あの地下鉄のホームまで、平面を伝ってやってきた。何のために?
もちろん、肉体を取り戻し、こちら側の世界にもう一度戻るために。だから奈々美をつけまわし、襲ったのだ。
「奈々美、『出して』って、どうすればいいの?」
周囲に気取られないように、小声でわたしは奈々美の影にむかって訊ねた。
壁の中で、奈々美が手を伸ばしてくるのがわかった。
わたしは思わずその手に触れた。
と、強い力で引かれた。
意識が遠のき、周りが暗転した。
われに返ると、わたしは壁の内側にいた。目の前に、わたし、水野夏希の見慣れた顔があり、こちらをのぞきこんでいた。
「ごめんね夏希、こうするしかなかったの」
わたしの声で奈々美がすまなさそうに言った。
ふいに奈々美の姿をした麗華が現れ、わたしの体を乗っ取った奈々美の横に並ぶと、例の小悪魔的な笑みを頬に浮かべて、わたしのほうに身をかがめ、ささやくように言った。。
「悪く思わないでね。体がなくなっちゃったから、これしか生き返る方法がなかったの。でも心配要らないわ。夏希も誰かを呼んで、入れ替わればいいんだから。ね、そうでしょ?」
わたしは絶句した。
それは不可能だった。
なぜなら、わたしは常に孤高をモットーに生きてきたから。誰とも交わらない生き方が誇りだった。つまり、入れ替われる友達がいないのだ。
「ごめんね、夏希。でも」
奈々美が今度は明るい表情になって言った。
「うち、この体、大切にする。本当いうと、すごく得した気分なの。うち、前の体も顔も大嫌いだったから。夏希のこと、ずっと前からあこがれてたんだ。瀬も高いし、美人だし」
ー返してー
ーわたしの体を返してー
わたしは必死に叫んだ。が、声は出なかった。
仕方なく、書いた。
ー出してー
と、鏡文字で。
最初は何なのかわからなかった。文字のように見えるが、何か変だったからだ。やがて、鏡文字だということに気がついた。文字が裏返っている。
ー出してー
そう読めた。
そしてわたしは気づいた。もし、壁の中に誰かがいて、裏側から文字を書いたのだとすれば、こんな風な鏡文字になってもおかしくはない。でも、そんなばかげたことがあるだろうか。それに、いったい誰が。
すうっと、文字の後ろから黒い染みが広がり、わたしの前で等身大の人の形をとった。壁に映っているのは、ワンピースを着た小柄な女のシルエットだった。
「奈々美・・・?」
その瞬間、わたしは確信した。
やっぱり、あれは奈々美ではなかったのだ。
わたしが助け起こしたとき、奈々美は明らかに変だった。まるでわたしのことをはじめて見るような目で、見つめていた。
それに、なによりもあの微笑。
あんな笑い方をする奈々美をわたしは見たことがない。あんな妖艶とでもいうべき、小悪魔的な笑い方を・・・。
あの「影」は麗華だったのだ。
そして、どういうからくりか、奈々美に触れたとき、麗華は奈々美の肉体の中に入り込み、代わりに奈々美の魂だか心だかをそれまで自分がいた「場所」に閉じ込めた。
麗華はべったりと壁に張り付くようにして死んでいたという。でも、もし魂だか心だかは死んでいなかったとしたら。二次元の世界に塗り込められてまだ生きていたとしたら。壁は世界中の平面とつながっている。二次元の世界なら彼女はどこにでも行ける。自分の家のブロック塀から、あの地下鉄のホームまで、平面を伝ってやってきた。何のために?
もちろん、肉体を取り戻し、こちら側の世界にもう一度戻るために。だから奈々美をつけまわし、襲ったのだ。
「奈々美、『出して』って、どうすればいいの?」
周囲に気取られないように、小声でわたしは奈々美の影にむかって訊ねた。
壁の中で、奈々美が手を伸ばしてくるのがわかった。
わたしは思わずその手に触れた。
と、強い力で引かれた。
意識が遠のき、周りが暗転した。
われに返ると、わたしは壁の内側にいた。目の前に、わたし、水野夏希の見慣れた顔があり、こちらをのぞきこんでいた。
「ごめんね夏希、こうするしかなかったの」
わたしの声で奈々美がすまなさそうに言った。
ふいに奈々美の姿をした麗華が現れ、わたしの体を乗っ取った奈々美の横に並ぶと、例の小悪魔的な笑みを頬に浮かべて、わたしのほうに身をかがめ、ささやくように言った。。
「悪く思わないでね。体がなくなっちゃったから、これしか生き返る方法がなかったの。でも心配要らないわ。夏希も誰かを呼んで、入れ替わればいいんだから。ね、そうでしょ?」
わたしは絶句した。
それは不可能だった。
なぜなら、わたしは常に孤高をモットーに生きてきたから。誰とも交わらない生き方が誇りだった。つまり、入れ替われる友達がいないのだ。
「ごめんね、夏希。でも」
奈々美が今度は明るい表情になって言った。
「うち、この体、大切にする。本当いうと、すごく得した気分なの。うち、前の体も顔も大嫌いだったから。夏希のこと、ずっと前からあこがれてたんだ。瀬も高いし、美人だし」
ー返してー
ーわたしの体を返してー
わたしは必死に叫んだ。が、声は出なかった。
仕方なく、書いた。
ー出してー
と、鏡文字で。
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