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第4部 ヒバナ、エンプティハート!

#6 インターバル

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 4限目の授業終了のチャイムが鳴り響くと同時に、ざわめきとともに教室の前後の出入り口から生徒たちが廊下にあふれ出す。その中にやわらかそうにウェーブのかかった栗色のツインテールを見つけて、緋美子は後を追った。
 珍しくナミはひとりだった。いつもは背格好も顔立ちもそっくりな双子の兄が一緒なのだが、学校を休んででもいるのか、きょうは姿が見えない。好都合といえば、好都合だった。
 ナミは他の生徒とつるむでもなく、のんびりした足取りで前を歩いていく。購買部でパンとパック入りの牛乳を買うと、渡り廊下から校庭に出て行った。
 グラウンドの端の木陰のベンチをめざしているらしい。
 ナミがベンチに座り、完全に独りになったことを確認して、緋美子は急ぎ足で近寄った。
「あの、この間は、ありがとう」
 残りのお金が入った封筒を両手で差し出して、頭を下げる。
「これ、返します。使った分は、もう少し待っててください。アルバイトでお給料もらったら、必ず。いっぺんには無理だけど、今年中には、なんとか・・・」
「何言ってんの」
 ナミがサンドイッチをほおばったまま、ちらっと緋美子のほうを一瞥し、そっけなく言った。
「入院費、2週間ごとの支払いなんでしょ? お母さん、いつ退院できるかわかんないわけだし、むしろあれだけじゃ足りないはず」
 緋美子が来ることを予期していたのか、まるで驚いている気配がない。
「でも・・・」
 緋美子が下唇をかみ締め、うなだれる。
 なぜこんなに他人の家庭の事情に詳しいのかは謎だが、ナミの言葉は正鵠を射ていた。
 残酷なくらい、正確に。
「どうして、そんなことを、あなたが・・・?」
 思い切って、訊いてみる。
「あたしは図書委員長よ。学校中の情報はすべて掌握しているの」
 よくわからない答えが返ってきた。
「足りない分は、あたしがあげる」
 サンドイッチをかじり、コーヒー牛乳をストローで一口すすると、こともなげにナミが続けた。
「あたしにとって、お金なんてね、どうでもいいの。ウチには使い切れないほどあるし、高校生の癖に投資で儲けてる兄貴もいるしね」
「でも、私と乾(いぬい)さんは、友達でもないし・・・。こんなことしてもらう、理由がないです」
 緋美子が強い視線でナミを見つめ返し、
「すごく助かったのは、確かです。心から、感謝してる。だけど、これ以上援助してもらうわけにはいかない」
 そう、きっぱりと言った。
「あなたに理由がなくても、あたしのほうにあるのよ」
 食べるのをやめ、ナミが緋美子に目を向けた。
 派手な黄色のフレームの大きな眼鏡の奥で、猫を連想させる瞳がきらりと光る。
「何もただでお金をあげるとは言ってない。ちょっと、あなたに頼みたいことがあるの」
「頼みたいこと?」
「そ。まあ、アルバイトみたいなものね。バイト代だと思えば、お金もらっても、心、痛まないでしょ」
「でも、金額が・・・」
 百万円も一度に稼げるアルバイトなんて、聞いたことがない。
「そう、百万じゃ少なすぎるよね。あたしもそう思う。だから、ね、あと四百万でどう? 事と次第によっては、もっと出してもいい」
 ナミがあっさりと言う。
 緋美子は心もち、あとじさった。
 さすがに警戒心のほうが強くなってきたのだ。
「まさか、犯罪・・・?」
 思いがそのまま口に出た。
 とたんに、ぷっとナミが吹きだした。
「麻薬の運び屋? 銀行強盗の共犯者ってか? ないない。あたしを誰だと思ってるの? この曙高校きっての才媛で図書委員長、孤高でゴージャスな乾ナミさんよ。なんであたしがそんなテレビの刑事モノにありがちなせこい犯罪に手を染めなきゃなんないわけ? 何度も言うけど、あたし、お金なんて余ってるんだってば」
「じゃあ、いったい、何を・・・?」
「聞いて驚かないでね」
 ナミが立ち上がった。
 並ぶと緋美子とほぼ同じ背丈である。
 細い腰に両の拳を当て、真正面から緋美子の瞳をのぞきこむと、子供に言い聞かせるような調子で、ナミがゆっくりと言った。
「あたし、兄貴と違って隠し事できないタチだから、ずばり言っちゃうけどね。実は、実験の被験者になってほしいのよ」
「ヒケンシャ・・・?」
 緋美子の目に懸念の色が浮かぶ。
「あたしの実験の、実験台になってほしいってこと」
「実験・・・台?」
 緋美子は口を半開きにしたままだ。
 予想外の要求に、答えるすべも見つからない、といったふうである。
「たぶん、死ぬことはないと思う。それに、たわ事だと思ってるみたいだけど、あたしの趣味はプロはだしから、馬鹿にしないでね。うちには研究室も実験室もある。もちろん、あたし専用の」
 得意げに胸を張るナミ。
 兄のナギと大差のない、薄い胸だ。
「趣味・・・って?」
 おうむ返しに緋美子がたずねた。
「図書委員長だからもちろん読書も趣味よ。でも、いちばんの趣味はね」
 ナミがにやりと笑った。
 魔女みたいな笑い方だった。
「錬金術なの」
                ◇
 ヒバナはきれいになった。
 テーブルの向かい側に座る少女をちらちら盗み見しながら、水島光男はしみじみとそう思った。
 中学生のときのヒバナは本当に目立たなかった。あのノーブラ事件がなかったら、同じ『目立たない系』の筆頭である光男の目にも留まらぬくらい、存在感のない少女だった。
 ところが今はどこか微妙に違う。
 女性ホルモンのせいなのか、顔も体もえもいわれぬ脂肪のようなものを表面にうっすらとまとい、内側から微光を放っているように見える。
 ふたりは大猫観音通商店街の中にあるカフェの、入り口脇に設けられたオープンテラスで軽い昼食を取っているところだった。
 いつぞやの『ラブホテル連れ込み事件』で初体験しそこなってからというもの、二人の仲に特に進展はない。むしろあの一連の事件を境に、光男はストイックな男になりつつある、といってよかった。道端で、あるいは雑誌のグラビアでいわゆる"いい女"を見ると、性欲を感じるより先に、恐怖心に囚われてしまうのである。
 あのときの光景が脳裏にフラッシュバックし、股間のモノが萎えてしまうのだった。
 肉体を破壊され、血の海に横たわるボロ屑のようなヒバナ。そのヒバナに尚もとどめを刺そうとする、冷酷で超絶的な美女、レイナ・・・。
 正直、ヒバナが今目の前で元気に呼吸していることが、にわかには信じられないくらいなのだ。
「ごめんね、いつも忙しくしてて、なかなか会えなくって」
 ヒバナが申し訳なさそうに言い、光男を現実に引き戻した。
 ヒバナはよく謝る。
 何も悪くないのに、いつも自分から謝ってくる。
 そのたびに光男は、彼女がよりいっそういとおしくなる。
「い、いや、僕もバイトやらなんやらで結構忙しくしてたし、もう、会ってくれるだけでうれしいよ」
 ぎこちなく笑い、あわてて言った。
 本心から出た言葉だった。
 おそらく他の女の子だったら、絶交を言い渡され、忌み嫌われていただろうことを、これまでに光男はヒバナに対していくつもしてきている。
 その意味でヒバナは光男にとり、本物の天使といえた。
 戦時中のドイツで、恋人がユダヤ人とわかった後も、接し方を変えなかったけなげな少女。
 ヒバナはまさにそんな感じなのだ。
「へーえ、光男君、新しいバイト始めたんだ。今度は何なの?」
 ヒバナが笑顔で言い、身を乗り出してきた。
「あ、あやしい仕事じゃないよ。むしろ肉体労働。建築現場の作業員なんだ。もちろん、周りは全部男だし。体力的にきついけど、時給いいんだよ」
 前回の『聖ソフィアの会』といっしょにされてはかなわない、と思い、懸命に弁解する。
 あのとき光男はレイナの性奴と化し、ヒバナを危うく死なせるところだったのである。
「ふうん、だからかあ、なんか光男君、日焼けしてたくましくなったなって、さっきから思ってたんだ」
 光男の思いをよそに、ヒバナが屈託のない笑顔で言う。
 光男はヒバナの親密感あふれる瞳が好きだった。
 こちらの話題に興味を示しているとわかる、温かいまなざしでいつも見てくれるからだ。
「あと、小説を書いてる」
 勢いで余計なことを言ってしまった。つい、ヒバナを驚かせたくなったのだった。
「えー、すごーい、何、どんなの?」
 ますます身を乗り出してくるヒバナ。タンクトップの襟元から、ふっくらとした胸のふくらみがのぞいている。
「えーっと、『トコブシ戦争』ってSF」
「とこぶし?」 
 ヒバナが目をまん丸にする。
「とこぶしって、何だっけ?」
「貝だよ。買うとサザエなみに高い」
「その貝が、戦争するんだ。へーえ」
 馬鹿にしているわけではなく、彼女なりに感じ入っているような口調だった。
「完成したら、見せるよ」
 恥ずかしくなって、光男は口早にそうしめくくった。
「うん! 楽しみにしてるよ。とこぶし!」
 ヒバナの口元から、笑みと共に白い歯がこぼれる。
 光男はなぜだか泣きそうになった。
 実家の母は、しきりに戻ってこい、と言ってくる。
 土地が売れて父の残した借金も帳消しになったから、地元で就職して実家で暮らせというのだ。
 光男としては、こっちでアルバイトをして生活しながら、公務員試験の勉強を始めたかった。消防士か、警察官になりたい、と思う。とにかく、他人の役に立ちたかった。いや、正直に言えば、ヒバナを『世界』から守りたかったのだ。
 光男の知らないところで、何者かに変身して、かたつむりの怪物とか、なにか得体の知れないものたちと戦っているらしいヒバナを、少しでも守る役に立ちたかったのだ・・・。



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