異世界病棟 ~淫夢迷宮~

戸影絵麻

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忍び寄る怪異②

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「理事長が、私に?」
 乙都は、軽いパニックに陥った。
 乙都は、医局付属の看護学校から派遣されている研修生に過ぎないのだ。
 来春の国家試験に合格しないと、正規の看護師になれるかどうかわからないといった程度の身の上なのである。
 そんな泡沫の存在にすぎない乙都に、この第七赤十字病院の理事長がじきじきに声をかけてくることなど、あり得るはずがない。
 理事長と会っていたという氷見子が、乙都のことを何か告げ口でもしたのだろうか。
 しかし、乙都には、告げ口されるような重大なミスを仕出かした心当たりはない。
 むろん、検査器具を元の場所にしまい忘れたとか、細かい失敗なら枚挙にいとまがないが、だからといってそんな些細なことにいちいち理事長が口を出してくるとも思えなかった。
 まさかさっきの・・・。
 ふと思いついて、乙都は青ざめた。
 乙都が、颯太に言うことをきかせるためにしたことが、氷見子や理事長にバレたのだろうか。
 颯太の躰を拭くと見せかけて、いたずらに性的快感を与え、挙句の果てに射精までさせてしまったあの行為。
 でも、と思い直す。
 見られたはずがないのだ。
 壁とカーテンで囲まれた颯太のベッドの周囲は、紛れもなく密室だった。
 自分と颯太以外に人の気配はなかったし、唯一の隣人、コンドーサンも爆睡中だったのだ。
 尿パッグの処理も誰にも見られていないし、新しい尿バッグを取りにナースステーションに戻った時も、先輩看護師たちに不審に思われないよう、いつもの業務のように、さりげなく振舞ったはずだった。
 もちろん、颯太の部屋の床の痕跡もすべて拭き取ってある。
 ましてや、あの時颯太が漏らした精の中に、無数の小人がいたなんてことを、理事長たちが知るはずないー。
「どうしたの? 気分でも悪いの? 真っ白な顔をして」
 踵を返しかけて、怪訝そうに氷見子が訊いてきた。
「何でもないのなら、早くしなさい。理事長がどんなにお忙しい方か、あなたもよく知ってるでしょ?」
「い、いえ、は、はい」
 あわてて後に続く乙都。
 ナースステーションに赴くと、天井から例の大画面の液晶モニターが下りていた。
 残っていた看護師や看護助手たちが、その前に集まっている。
「名指しされたのは、伊能さん、あなたよ」
 人垣を割って、氷見子が乙都をモニター画面の前に押し出した。
 画面の中には、あの市松人形が映っている。
 真っ赤なビロードを敷きつめた空間に、緑色の小袖を着たおかっぱ頭の人形がちょこんと座っているのだ。
 今朝のリモート朝礼の時と違い、人形は、ひどく不機嫌そうな表情をしていた。
 目を眇めにして、怒ったように頬を膨らませ、口元を歪めている。
「依子さま、伊能乙都を、お連れしました」
 乙都の背後に立った氷見子が言った。
 と、人形がジロリと乙都を見た。
 ひどく憎々しげなまなざしだった。
 蛇に睨まれた蛙のような心地がして、乙都は反射的に首をすくめていた。
 ふいに、市松人形が、傾いた。
 乙都のほうに右半身を傾け、右手を伸ばして乙都を指差すと、甲高い声で叫び始めた。
「こは、いかに? こは、いかに? コハ、イカニ? コハ、イカニィッ?」

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