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第6部 淫蕩のナルシス
#9 記憶のかけら
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次に気がつくと、そこは透明な液体の中だった。
湾曲したガラス壁を通して、研究室のような部屋が見える。
白衣の人影が行き交うなか、その背後に大きなガラス製のシリンダーが立ち並んでいる。
ここは、どこ?
膝を抱え、背中を丸めた姿勢で、杏里はどろりとしたゼリー状の液体の中に浮かんでいるのだった。
臍の緒のような管が、下腹から伸びてシリンダーの下部の金属製の部分に繋がっている。
容器を満たした液体は温かく、肌を優しく包み込むようで、とても気持ちがよかった。
瞼がないため目は開いたままなのだが、液体が水晶体に直接触れてもなぜか痛くない。
-脳幹機能回復99.8%、各部位の細胞は順調に増殖していますー
ガラス壁を通してかすかに声が聞こえてくる。
ーあとは髪の毛、瞼、足の指、右の乳頭ですね。内臓は100%、復旧済みですー
-1ヶ月もすれば、外に出られるだろう。それにしても、驚くべき復元力だー
-β型とこの個体とのシンクロ率は、120ポイントを超えていますからね。これまでで最高の数値ですー
-提供者の性別のせいかもしれない。このβ型は、希少上位種の肝細胞から抽出したものと聞いているー
-元はアフリカですかー
-そうだ。この型の持ち主は、まだ日本では発見されていないー
何の話をしているのだろう?
ひょっとして、私のことだろうか・・・?
杏里はゆるやかに回転しながら、まとまらない頭で思考をめくらせた。
でも、アフリカって・・・。
なぜアフリカが、私に関係あるの?
考えてもわかるはずがなかった。
情報が断片的過ぎるし、なによりもまだ頭がぼーっとしたままなのだ。
諦めて、外の景色に目を向けた。
パソコンのモニター画面を覗き込んで熱心に語り合う研究者たち。
その向こうにずらりと並んだ、今杏里が入っているのと同じようなシリンダー容器。
おびただしい管に繋がれたそのガラスの壁の向こうに、胎児のように身体を丸めた裸の少女たちが浮かんでいる。
みんな空ろに目を見開き、髪を海草のようになびかせていた。
私ひとりじゃ、ないんだ。
杏里は心の中で茫然とつぶやいた。
ここは、いったい、何なの?
どうして、私、こんなところに?
潮が満ちるように眠気が戻ってきて、杏里は深い眠りに陥った。
次に意識を取り戻したときには、場面が変わっていた。
今度は会社のオフィスのようなところに、杏里は立っていた。
窓から冬枯れた荒地が見える。
その上に、鉛色の空が陰鬱な表情を見せて、重苦しく広がっている。
部屋の中には、エアコンの立てるかすかな音だけが響いている。
杏里は自分がゆったりした病衣のような服を着ていることに気づいた。
かさかさしたその服の下はどうやら裸らしい。
布地がじかに触れているため、身じろぎするとこすれて乳首の先が少し痛かった。
遠景がぼやけて、今度は部屋の中の様子に焦点が合ってくる。
目の前に、ほとんど白髪に近い男が腰をかけていた。
事務机のほうを向いて書類に目を落としているため、顔までは見えない。
白衣を着た、恰幅のいい男だった。
誰だろう?
ぼんやり眺めていると、ふいに背後から若い女の声がした。
「基盤になる記憶は元のままなので、言語や生活面での問題はありません。個人記憶は消去しておきました。覚えていても、おそらく苦痛の種にしかならないでしょうから」
姿は視界に入っていないが、その声には聞き覚えがあった。
冬美・・・?
「ですから、ふたりとも、人間社会に適応させるために、しばらく擬似体験をさせて、記憶を上書きする必要があります」
「ああ。それと、使い物になるかどうか、実地にテストしてみないといけないだろう」
背中を向けたまま、男が答える。
「タナトスもパトスも、それぞれの役割をこなすためには微妙な身体機能をすべて使いこなせるようにしておかなければならない。しかし、そこまではラボでの生活では不可能だ」
「はい、それだけは、実社会に入って体で覚えさせないと・・・」
「数年はかかるだろうな。経費もバカにならん。だが、この先この子たちはますます必要性を増すことだろう。早速、そのように手配してくれたまえ」
「ふたりは離して生活させようと思います。戸籍などの準備はすでに終わっています」
「そうだな。下手に一緒に育てて、余計な記憶まで取り戻されると面倒だからな」
「試験期間は3年。様子を見て、役に立たないようなら廃棄します。それでよろしいですか」
「かまわん。できそこないの怪物を養うほど、国の財政は豊かではない」
「提供者の形質が前面に出すぎると、かえって人類の脅威になりかねませんから」
「確かにそんな事例も何件か報告されているようだ」
「充分に調整して、ヒュプノス配備の目処もついたら、ふたりを引き合わせる予定です。この子たちの同調率は非常に高いレベルにあります。うまくいけば、きっと最強のパートナーになるに違いありません」
「私もそう願っているよ。この国の未来のためにも、な」
タナトス、パトス・・・。
これは、私たちのことだ。
役に立たなかったら、廃棄するって?
そんな・・・ひどすぎる。
それに、提供者って、何?
そのときになって、杏里は初めて気づく。
自分の隣に、もうひとり、誰か立っていることに。
そっと、横目で見た。
すっぴんの由羅がそこにいた。
表情のない人形のような顔で、由羅はまっすぐ前を見つめている。
そっと手を動かしてみる。
指先が、由羅の指先に触れた。
由羅の表情が、かすかに動く。
思い切って、杏里は指を絡めた。
由羅が握り返してくる。
汗でちょっぴり湿った、力強い指。
杏里の胸の中に、初めて温かい感情がわきあがった。
湾曲したガラス壁を通して、研究室のような部屋が見える。
白衣の人影が行き交うなか、その背後に大きなガラス製のシリンダーが立ち並んでいる。
ここは、どこ?
膝を抱え、背中を丸めた姿勢で、杏里はどろりとしたゼリー状の液体の中に浮かんでいるのだった。
臍の緒のような管が、下腹から伸びてシリンダーの下部の金属製の部分に繋がっている。
容器を満たした液体は温かく、肌を優しく包み込むようで、とても気持ちがよかった。
瞼がないため目は開いたままなのだが、液体が水晶体に直接触れてもなぜか痛くない。
-脳幹機能回復99.8%、各部位の細胞は順調に増殖していますー
ガラス壁を通してかすかに声が聞こえてくる。
ーあとは髪の毛、瞼、足の指、右の乳頭ですね。内臓は100%、復旧済みですー
-1ヶ月もすれば、外に出られるだろう。それにしても、驚くべき復元力だー
-β型とこの個体とのシンクロ率は、120ポイントを超えていますからね。これまでで最高の数値ですー
-提供者の性別のせいかもしれない。このβ型は、希少上位種の肝細胞から抽出したものと聞いているー
-元はアフリカですかー
-そうだ。この型の持ち主は、まだ日本では発見されていないー
何の話をしているのだろう?
ひょっとして、私のことだろうか・・・?
杏里はゆるやかに回転しながら、まとまらない頭で思考をめくらせた。
でも、アフリカって・・・。
なぜアフリカが、私に関係あるの?
考えてもわかるはずがなかった。
情報が断片的過ぎるし、なによりもまだ頭がぼーっとしたままなのだ。
諦めて、外の景色に目を向けた。
パソコンのモニター画面を覗き込んで熱心に語り合う研究者たち。
その向こうにずらりと並んだ、今杏里が入っているのと同じようなシリンダー容器。
おびただしい管に繋がれたそのガラスの壁の向こうに、胎児のように身体を丸めた裸の少女たちが浮かんでいる。
みんな空ろに目を見開き、髪を海草のようになびかせていた。
私ひとりじゃ、ないんだ。
杏里は心の中で茫然とつぶやいた。
ここは、いったい、何なの?
どうして、私、こんなところに?
潮が満ちるように眠気が戻ってきて、杏里は深い眠りに陥った。
次に意識を取り戻したときには、場面が変わっていた。
今度は会社のオフィスのようなところに、杏里は立っていた。
窓から冬枯れた荒地が見える。
その上に、鉛色の空が陰鬱な表情を見せて、重苦しく広がっている。
部屋の中には、エアコンの立てるかすかな音だけが響いている。
杏里は自分がゆったりした病衣のような服を着ていることに気づいた。
かさかさしたその服の下はどうやら裸らしい。
布地がじかに触れているため、身じろぎするとこすれて乳首の先が少し痛かった。
遠景がぼやけて、今度は部屋の中の様子に焦点が合ってくる。
目の前に、ほとんど白髪に近い男が腰をかけていた。
事務机のほうを向いて書類に目を落としているため、顔までは見えない。
白衣を着た、恰幅のいい男だった。
誰だろう?
ぼんやり眺めていると、ふいに背後から若い女の声がした。
「基盤になる記憶は元のままなので、言語や生活面での問題はありません。個人記憶は消去しておきました。覚えていても、おそらく苦痛の種にしかならないでしょうから」
姿は視界に入っていないが、その声には聞き覚えがあった。
冬美・・・?
「ですから、ふたりとも、人間社会に適応させるために、しばらく擬似体験をさせて、記憶を上書きする必要があります」
「ああ。それと、使い物になるかどうか、実地にテストしてみないといけないだろう」
背中を向けたまま、男が答える。
「タナトスもパトスも、それぞれの役割をこなすためには微妙な身体機能をすべて使いこなせるようにしておかなければならない。しかし、そこまではラボでの生活では不可能だ」
「はい、それだけは、実社会に入って体で覚えさせないと・・・」
「数年はかかるだろうな。経費もバカにならん。だが、この先この子たちはますます必要性を増すことだろう。早速、そのように手配してくれたまえ」
「ふたりは離して生活させようと思います。戸籍などの準備はすでに終わっています」
「そうだな。下手に一緒に育てて、余計な記憶まで取り戻されると面倒だからな」
「試験期間は3年。様子を見て、役に立たないようなら廃棄します。それでよろしいですか」
「かまわん。できそこないの怪物を養うほど、国の財政は豊かではない」
「提供者の形質が前面に出すぎると、かえって人類の脅威になりかねませんから」
「確かにそんな事例も何件か報告されているようだ」
「充分に調整して、ヒュプノス配備の目処もついたら、ふたりを引き合わせる予定です。この子たちの同調率は非常に高いレベルにあります。うまくいけば、きっと最強のパートナーになるに違いありません」
「私もそう願っているよ。この国の未来のためにも、な」
タナトス、パトス・・・。
これは、私たちのことだ。
役に立たなかったら、廃棄するって?
そんな・・・ひどすぎる。
それに、提供者って、何?
そのときになって、杏里は初めて気づく。
自分の隣に、もうひとり、誰か立っていることに。
そっと、横目で見た。
すっぴんの由羅がそこにいた。
表情のない人形のような顔で、由羅はまっすぐ前を見つめている。
そっと手を動かしてみる。
指先が、由羅の指先に触れた。
由羅の表情が、かすかに動く。
思い切って、杏里は指を絡めた。
由羅が握り返してくる。
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