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第6部 淫蕩のナルシス

#28 人形生命体

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「それ、どういうこと?」
 ヤチカが床にうずくまったまま、訊いた。
 不機嫌そうに、眉をひそめている。
「タナトスって、なあに? それに、さっきいってた外来種って? 杏里ちゃん、あなたのいうこと、わたしにはよくわからない」
 ヤチカはすっかり女性に戻っていた。
 片腕で胸を隠しながら、よろよろと立ち上がった。
「とにかく、私には子どもは産めない。それだけは確かなの」
 そのヤチカに向かって、辛抱強く杏里は答えた。
「私は一度死んで、蘇った身。そのせいなのか、生殖能力がないらしいの」
 杏里の太腿を、膣からあふれ出したヤチカの精液が伝っている。
 射精一回分の量にしては、明らかに多すぎる。
 ヤチカが外来種である証(あかし)だった。
 しかし、それもすべて無駄になってしまったのだ。
「本当なの? ねえ、リリー」
 背後を振り向くと、ヤチカが突然、そんな奇妙な言葉を口にした。
 リリー?
 杏里もつられて振り向いた。
 古めかしい衣装箪笥の上に、あの西洋人形がちょこんと座っている。
 青い瞳で杏里とヤチカを見つめている。
 その人形に、ヤチカは声をかけているのだった。
「どうやら、そのようだね」
 人形の口がかすかに動き、言葉が紡がれた。
 しゃ、しゃべった・・・。
 杏里は茫然となった。
 聞き間違い?
 違う。
 確かに今、人形がしゃべったのだ。
「工房に問い合わせてみた。そしたら、教えてくれたよ。その子はタナトスといって、厳密にいうと人間じゃない」
「なんてこと・・・」
 ヤチカが放心したようにつぶやいた。
「こ、これは、何?」
 杏里は裸で震えながら、ヤチカにたずねた。
「どうして、お人形がしゃべってるの?」
「あのね」
 なんでもないことのように、ヤチカがいった。
「リリーはただのお人形じゃないの。生きてるのよ。わたしは仮に”人形生命体”って呼んでるんだけど」
「生きてる・・・?」
 そんな馬鹿な、といいかけた杏里を遮るように、また人形が言葉を発した。
「ヤチカ、あんたの伴侶となるべき女は他にいるってことだね。そのことは、たぶん、そのタナトスの娘がいちばんよく知っているよ」
「そうなの?」
 ヤチカが杏里に向かって問いかける。
「とりあえず、シャワーを使わせてくれませんか」
 箪笥の上の人形から目をそむけて、杏里はいった。
 さすがに気味が悪い。
 一刻も早く、この場から逃げ出したい気分だった。
「ヤチカさんも、その格好じゃ、寒いでしょ」
 ヤチカのむき出しの腕には鳥肌が立っていた。
 夜が更けてきたせいか、気温が低くなってきているのだ。
「そうね」
 ヤチカがうなずいた。
「続きは、2階のアトリエで話しましょうか。おなかも空いたしね」

 先にヤチカが浴室に行き、次に杏里がシャワーを浴びた。
 ヤチカが着替えを出しておいてくれたので、杏里は体液でべとべとになった下着や服を身につけずに済んだ。
 ヤチカの用意してくれた下着やTシャツはどれも杏里には窮屈すぎたが、贅沢をいっている場合ではなかった。
 いちばんサイズの大きいTシャツを選んでみたものの、胸がつかえて裾がずりあがってしまい、パンティを隠す役には立たなかった。下はちょうどいいサイズのものがなかったので、家でいつもそうしているように、パンティ一枚でいることにした。
 ヤチカも明るい色のスウェットに着替えていた。
「ちょっとここで待っててね。今、ピザ注文してくるから」
 吹き抜けの2階まで階段で上がり、アトリエに杏里を導き入れると、そういい残してヤチカは出て行った。
 10畳ほどの部屋である。
 所狭しとイーゼルが立てかけてあり、白い布をかけられている。
 シンナーと絵の具の匂いがつんと鼻をつく。
 明らかに作業中とわかる一枚に歩み寄り、杏里はそっと布を捲ってみた。
 それは鉛筆書きのデッサンだった。
 繊細なタッチで少女の裸体が描かれている。
 その下腹が縦に裂け、内臓が覗いている。
 細い手が2本、その裂け目から少女の腸を引き出していた。
 杏里は取りつかれたように絵をみつめた。
 生きながらにして腸を引きずり出されている少女は、顔の部分だけまだ空白だ。
 ヤチカはここにも私の顔を入れるつもりなのだろうか。
「おまたせ」
 ほどなくして、Lサイズのピザを抱えたヤチカが戻ってきた。
 絵の具や筆の類いを片付けると、テーブルの上にピザを置く。
「おなかぺこぺこでしょ? あれだけ運動したもんね、わたしたち。さ、遠慮なく、どうぞ」
 そんなことをいって、笑った。
「いただきます」
 椅子を引き、Tシャツの裾を引っ張ってパンティを隠して坐ると、杏里はおずおずとピザに手を伸ばした。
 ヤチカの不思議なところは、杏里に対してまったく敵意を抱いていない点だった。
 さっきの行為にしても、杏里を殺そうとしてのものでないことは、明らかなのだ。
 ヤチカと杏里は、ただセックスをしただけなのである。
 杏里自身も、ヤチカに対しては、まるで恐怖心を抱いていない。
 長い間肌を合わせていたせいか、むしろ親しみすら覚えているほどである。
 あの人形の存在だけが不気味で仕方なかったが、それを除けばヤチカは年上の友人のような、気の置けない女性だった。
 女性、と言い切ってしまうのは語弊があるが、杏里にとっては、先ほどまでの”男”に成り代わったヤチカより、今目の前にいるほっそりした女性のヤチカのほうが、なんとなくしっくりくるのも確かである。
 それにしても・・・。
 外来種と人間って、ほとんど変わらないのではないか。
 呉秀樹のときに感じたその思いが、蘇る。
 人間にも、善い人間と悪い人間がいる。
 外来種も同じなのではないだろうか。
 ただヒトでないからといって、やみくもに駆除する必要が、はたしてあるのだろうか・・・?
 
「この絵も、想像で描いたものなんですか?」
 腹がくちくなると、杏里はさっきの絵を指さして、訊いた。
「それなんだけど」
 指についた脂をウェットティッシュで拭うと、ヤチカがティーカップに紅茶を注いでくれた。
「あ、大丈夫よ。これには何も入っていないから」
 湯気の立つカップを杏里の前に置いて、微笑する。
 これには、ということは、夕方飲まされたのは、やはり媚薬でも入ったハーブティーだったのだろう。
 どうりで早い段階から体が敏感になって仕方なかったわけだ。
「ヤチカさん、あなた、本当は、実際に、何人もの女の子の体をを解体してるんですよね」
 紅茶で喉を湿らせると、思い切って杏里はたずねた。
「でなければ、こんなにリアルな絵、描けるはずないもの」
「まあね」
 紅茶のカップを両手で挟み、宙に視線をさまよわせて、ヤチカが答えた。 
「でも、信じてほしいんだ。さっきもいったけど、わたしは、殺したくて彼女たちを死なせたんじゃないってことを」
「あなたは純粋に性行為を楽しみ、できるなら子どもを作りたかった?」
「そう。赤ちゃんを育てるのが、わたしの長年の夢でね。でも、この体じゃ、結婚できそうにないでしょ?
だから、仕方なく、仲良くなった女の子をここに呼んでは、色々試してみた。でも、どの子も脆弱すぎて、だめだったの。杏里ちゃんみたいにタフな子は、ひとりもいなかった。腹上死が犯罪にならないように、わたしのもみんな事故っていえると思う。ただし、死体損壊の罪には問われるでしょうけど」
 ヤチカは隠す気など元からないようだった。
 訊かないうちから、よどみなく説明を始めた。
「死んじゃった女の子たちの体を使って、わたしは絵を描いたわ。だって、彼女たちは、一時的にとはいえ、わたしの恋人だったんだもの。そうでないときでも、身体の一部を食べてあげて、そのあと、複製をつくってあげた。まあ、大半は薬で溶かしたり、細切れにしてトイレに流したりしたけどね」
 食べた?
 複製?
 最初、杏里は、ヤチカが何をいっているのか、よくわからなかった。
「食べたって、どういうことです?」
 おそるおそる聞き返してみた。
「あら、知らないの? 古来から、愛する者や敬愛する者が死んだとき、その肉を食べて自分の体の一部にするというのは、ごく普通に行なわれてきたことよ。それはカニバリズムなんてたいそうなものではなく、心の底から滲み出る自然な感情なの。だからわたしもその儀式にしたがってみただけ」
 あっけらかんとした口調でヤチカがいう。
「複製、というのは?」
 杏里は混乱し始めていた。
 この感覚、やはり普通じゃない。
 ひょっとしてこのずれこそが、この人が外来種である所以なのだろうか。
「永遠にこの世に残るように、彼女たちでお人形をつくってみたの。そうね、実際に見てもらったほうが、早いかな」
 カップをテーブルに置くと、ヤチカが腰を上げた。
「来て。案内するわ」
「案内って、どこに?」
「地下室」
 ヤチカが意味ありげに微笑んだ。
「そこがわたしの、もうひとつのアトリエなの」

 

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