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第7部 蹂躙のヤヌス
プロローグ
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「え? 荘内橋中学じゃなかったの?」
朝食のトーストをかじりかけたところで、杏里は素っ頓狂な声を上げた。
「事情が変わった」
広げた新聞に顔を隠すようにして、小田切が言った。
「荘内橋中には、新人のタナトスの研修も兼ねて、由羅と重人に行ってもらう。杏里、おまえは隣町の曙中学だ。越境通学になるが、教育委員会も了承済みだから、心配はいらない」
「この時期に転校先が変更になるなんて…それ、いったいどういうこと?」
杏里はキッチンの壁にかかった日めくりカレンダーに目をやった。
8月30日。
始業式まできょうを入れてあと2日。
今年に入ってすでに3回は転校しているから、転校自体には大して抵抗はない。
しかし、急すぎると思う。
次の”ターゲット”は、運河近くにあり、荒廃が著しい荘内橋中学校。
夏休みに入るとすぐ、そう小田切は杏里に告げたものである。
そのつもりで、下見に行ったこともある。
それが、夏休みも終わりに近い今になって、いきなり変更だなんて…。
だいたい、曙中学って、どこ?
隣町というからには、徒歩で行ける距離ではないだろう。
晴れた日なら自転車で行けるかもしれないが、雨天だとバス通学ということになる。
その予想に早くも杏里は憂鬱になった。
バスでの杏里の痴漢遭遇率は100パーセント。
学校の行き帰りだけでいい加減疲れてしまうのだ。
「その曙中学なんだが…。実は、つい最近事件があってな」
新聞から顔を上げ、小田切が銀縁眼鏡越しに杏里を見た。
杏里は寝起きのままのシースルーのネクリジェ姿である。
透けた薄い生地を押し上げて豊かな乳房の形がもろに見えているのだが、慣れているため小田切の視線は露ほども揺らぎはしない。
「事件って…?」
杏里はテーブルの上に身を乗り出した。
冷たいテーブルの端に乳首が触れ、一瞬うなじのあたりに快感のうずきが走った。
「潜入中のパトスが殺された。トレーナーも行方不明だ。おまけに、残されたタナトスとは連絡が取れないらしい。そこでおまえに、何が起こっているのか調べさせてほしい。それが”委員会”から出された新たな指令というわけだ」
電子煙草を口にくわえ、淡々とした口調で小田切が言った。
その口調とは裏腹の衝撃的な内容に、杏里は大きく目を見開いた。
「殺された? パトスが?」
パトスは、外来種殲滅用に開発された生体兵器である。
杏里のパートナーである榊由羅を見てもわかるように、その身体能力の高さは人間などの比ではない。
互角に戦えるのは、かつての黒野零のような雌外来種ぐらいなものだろう。
「首を引き抜かれ、体育館の天井に、つぶれた頭部がめり込んでいたそうだ。武藤類という名の3年目のパトスで、由羅同様、近接戦闘タイプだったそうだ。トレーナーは、同じ曙中学で用務員を勤めている老人だが、この人物も殺されている可能性が高い」
「そんな…ひどい。零みたいな雌の外来種が、まだほかにもいるってこと?」
杏里は眉をひそめた。
2週間ほど前の、零との死闘が脳裏に蘇る。
あの時杏里は零に”腑分け”された挙句、心臓を素手で愛撫されたのだ。
「わからない。だからそれをおまえに探ってほしいんだ。曙中学の教師や生徒の中に外来種が入り込んでいないかどうか…。それにはまず、生き残っている潜入中のタナトスにコンタクトを取る必要がある。ひょっとしたら、次に狙われるのは彼女かもしれないし、だとしたら一度引き上げさせて、”委員会”で保護しなくてはならないからな」
「でも、どうして私が…」
正直、あまり気が進まない。
由羅と重人のサポートもなしに、そんなぶっそうなところに乗り込むなんて。
第一、私にそんな探偵の真似事みたいなことが、できるだろうか。
「杏里、それだけおまえの実績が認められてきたってことさ。若葉台中、岬が丘中、潮見が丘中と、この半年でおまえは3校の中学校の浄化に成功している。おまえたちのユニットが倒した外来種の数も3体と、きわめて優秀な成績だ。まあ、今回は浄化ではなく、調査のために編入するだけだから、タナトスのおまえひとりで十分だというわけなんだろうな。実際、由羅たちがサポートに回る新人ってのが、かなり手間がかかる子らしくてな。研修期間からサポートをつけてやらないと、タナトスの基本である浄化すらも覚束ないということなのさ。そういうわけで、悪いが今回はおまえひとりで頼む」
杏里は深いため息をついた。
「どうせ、嫌だと言っても、選択権なんて私にはないものね」
「まあ、そうだな」
小田切はにべもない。
「それで…どんな人なの? その、生き残ってるタナトスって」
「この女性だ」
小田切が自分のスマホを滑らせて寄越した。
テーブルの上を滑ってきたそれを手に取ると、画面に画像が映っていた。
「え? 大人?」
杏里は目を剥いた。
画像は、若い女性のバストアップだった。
年の頃は20代後半か、30代前半くらいだろうか。
ひっつめ髪の、地味な印象の女性である。
茶色の縁の眼鏡をかけている。
心持ち頬のふっくらとした、口の小さい純和風の顔だちをしている。
美人と言えばそうだが、今の時代にはそぐわぬ美女といえそうだ。
「わたしたちって、ふつう、14、5歳なんじゃなかったの?」
いぶかしく思い、杏里はたずねた。
「その女の名は丸尾美里。曙中学の音楽の教師だ。彼女はかなり初期に開発されたプロトタイプでね、つまり、タナトスに最も適合するのは、思春期の少女だという説が完全に定着する前に作り出された、タナトス計画スタート時の個体ということだな」
教師がタナトスだなんて…。
杏里は茫然とした。
初めてのパターンだ。
でも、それって、なんか狂ってる気がする…。
「体のほうは、もういいんだろう?」
小田切がたずねた。
「うん」
杏里はスケスケのネグリジェを通して存在を主張する己のバストに目を落とした。
乳房にも鳩尾にも、傷ひとつない。
内臓にも、別に異常はなかった。
「じゃ、この話はこれで終わりだ。学校が始まるまでのあと2日、せいぜい遅れている勉強にでも専念するんだな。目が充血して、周りに隈ができてるぞ。オナニーは少し控えたほうがいい」
「んもう」
杏里はむっとした。
「なんで知ってるの?」
零との一件以来、杏里は誰とも寝ていない。
ヤチカとも、もちろん由羅とも。
痴漢にも遭っていないから、体が疼いて仕方がないのだ。
自然、夜中になると鏡を前に自慰にふけることになる。
「真夜中にあんまりでかい声を出すからだ。いい加減自重したらどうだ」
「じゃ、勇次がなんとかしてくれる?」
「いや、断る」
そっけなく首を振る小田切。
ほんと、信じられない、と思う。
杏里の肉体は、男にとっては猫にマタタビのようなものなのだ。
ここまで無視し続けられるのは、この世で小田切と重人くらいのものだろう。
「あーあ、つまんない!」
トーストをくわえたまま、杏里は腰を上げた。
そして、ふと思った。
久し振りに、由羅の顔を見に行くというのはどうだろう。
退院して10日近く経つから、由羅の傷もほぼ癒えている頃である。
それに、今度の件について、重人の意見を聞くのもいい。
うまくいけば、由羅と久々にベットイン…。
なんちゃって。
「何にニヤけてるんだ。変なやつだな」
不愛想に小田切が言った。
「余計なお世話です」
杏里はそっぽを向いた。
その視線の先に、窓がある。
開け放した窓越しに、ぎらつく青空が広がっている。
遠くで、何かの予兆のように、黒々とした積乱雲が張り出し始めていた。
朝食のトーストをかじりかけたところで、杏里は素っ頓狂な声を上げた。
「事情が変わった」
広げた新聞に顔を隠すようにして、小田切が言った。
「荘内橋中には、新人のタナトスの研修も兼ねて、由羅と重人に行ってもらう。杏里、おまえは隣町の曙中学だ。越境通学になるが、教育委員会も了承済みだから、心配はいらない」
「この時期に転校先が変更になるなんて…それ、いったいどういうこと?」
杏里はキッチンの壁にかかった日めくりカレンダーに目をやった。
8月30日。
始業式まできょうを入れてあと2日。
今年に入ってすでに3回は転校しているから、転校自体には大して抵抗はない。
しかし、急すぎると思う。
次の”ターゲット”は、運河近くにあり、荒廃が著しい荘内橋中学校。
夏休みに入るとすぐ、そう小田切は杏里に告げたものである。
そのつもりで、下見に行ったこともある。
それが、夏休みも終わりに近い今になって、いきなり変更だなんて…。
だいたい、曙中学って、どこ?
隣町というからには、徒歩で行ける距離ではないだろう。
晴れた日なら自転車で行けるかもしれないが、雨天だとバス通学ということになる。
その予想に早くも杏里は憂鬱になった。
バスでの杏里の痴漢遭遇率は100パーセント。
学校の行き帰りだけでいい加減疲れてしまうのだ。
「その曙中学なんだが…。実は、つい最近事件があってな」
新聞から顔を上げ、小田切が銀縁眼鏡越しに杏里を見た。
杏里は寝起きのままのシースルーのネクリジェ姿である。
透けた薄い生地を押し上げて豊かな乳房の形がもろに見えているのだが、慣れているため小田切の視線は露ほども揺らぎはしない。
「事件って…?」
杏里はテーブルの上に身を乗り出した。
冷たいテーブルの端に乳首が触れ、一瞬うなじのあたりに快感のうずきが走った。
「潜入中のパトスが殺された。トレーナーも行方不明だ。おまけに、残されたタナトスとは連絡が取れないらしい。そこでおまえに、何が起こっているのか調べさせてほしい。それが”委員会”から出された新たな指令というわけだ」
電子煙草を口にくわえ、淡々とした口調で小田切が言った。
その口調とは裏腹の衝撃的な内容に、杏里は大きく目を見開いた。
「殺された? パトスが?」
パトスは、外来種殲滅用に開発された生体兵器である。
杏里のパートナーである榊由羅を見てもわかるように、その身体能力の高さは人間などの比ではない。
互角に戦えるのは、かつての黒野零のような雌外来種ぐらいなものだろう。
「首を引き抜かれ、体育館の天井に、つぶれた頭部がめり込んでいたそうだ。武藤類という名の3年目のパトスで、由羅同様、近接戦闘タイプだったそうだ。トレーナーは、同じ曙中学で用務員を勤めている老人だが、この人物も殺されている可能性が高い」
「そんな…ひどい。零みたいな雌の外来種が、まだほかにもいるってこと?」
杏里は眉をひそめた。
2週間ほど前の、零との死闘が脳裏に蘇る。
あの時杏里は零に”腑分け”された挙句、心臓を素手で愛撫されたのだ。
「わからない。だからそれをおまえに探ってほしいんだ。曙中学の教師や生徒の中に外来種が入り込んでいないかどうか…。それにはまず、生き残っている潜入中のタナトスにコンタクトを取る必要がある。ひょっとしたら、次に狙われるのは彼女かもしれないし、だとしたら一度引き上げさせて、”委員会”で保護しなくてはならないからな」
「でも、どうして私が…」
正直、あまり気が進まない。
由羅と重人のサポートもなしに、そんなぶっそうなところに乗り込むなんて。
第一、私にそんな探偵の真似事みたいなことが、できるだろうか。
「杏里、それだけおまえの実績が認められてきたってことさ。若葉台中、岬が丘中、潮見が丘中と、この半年でおまえは3校の中学校の浄化に成功している。おまえたちのユニットが倒した外来種の数も3体と、きわめて優秀な成績だ。まあ、今回は浄化ではなく、調査のために編入するだけだから、タナトスのおまえひとりで十分だというわけなんだろうな。実際、由羅たちがサポートに回る新人ってのが、かなり手間がかかる子らしくてな。研修期間からサポートをつけてやらないと、タナトスの基本である浄化すらも覚束ないということなのさ。そういうわけで、悪いが今回はおまえひとりで頼む」
杏里は深いため息をついた。
「どうせ、嫌だと言っても、選択権なんて私にはないものね」
「まあ、そうだな」
小田切はにべもない。
「それで…どんな人なの? その、生き残ってるタナトスって」
「この女性だ」
小田切が自分のスマホを滑らせて寄越した。
テーブルの上を滑ってきたそれを手に取ると、画面に画像が映っていた。
「え? 大人?」
杏里は目を剥いた。
画像は、若い女性のバストアップだった。
年の頃は20代後半か、30代前半くらいだろうか。
ひっつめ髪の、地味な印象の女性である。
茶色の縁の眼鏡をかけている。
心持ち頬のふっくらとした、口の小さい純和風の顔だちをしている。
美人と言えばそうだが、今の時代にはそぐわぬ美女といえそうだ。
「わたしたちって、ふつう、14、5歳なんじゃなかったの?」
いぶかしく思い、杏里はたずねた。
「その女の名は丸尾美里。曙中学の音楽の教師だ。彼女はかなり初期に開発されたプロトタイプでね、つまり、タナトスに最も適合するのは、思春期の少女だという説が完全に定着する前に作り出された、タナトス計画スタート時の個体ということだな」
教師がタナトスだなんて…。
杏里は茫然とした。
初めてのパターンだ。
でも、それって、なんか狂ってる気がする…。
「体のほうは、もういいんだろう?」
小田切がたずねた。
「うん」
杏里はスケスケのネグリジェを通して存在を主張する己のバストに目を落とした。
乳房にも鳩尾にも、傷ひとつない。
内臓にも、別に異常はなかった。
「じゃ、この話はこれで終わりだ。学校が始まるまでのあと2日、せいぜい遅れている勉強にでも専念するんだな。目が充血して、周りに隈ができてるぞ。オナニーは少し控えたほうがいい」
「んもう」
杏里はむっとした。
「なんで知ってるの?」
零との一件以来、杏里は誰とも寝ていない。
ヤチカとも、もちろん由羅とも。
痴漢にも遭っていないから、体が疼いて仕方がないのだ。
自然、夜中になると鏡を前に自慰にふけることになる。
「真夜中にあんまりでかい声を出すからだ。いい加減自重したらどうだ」
「じゃ、勇次がなんとかしてくれる?」
「いや、断る」
そっけなく首を振る小田切。
ほんと、信じられない、と思う。
杏里の肉体は、男にとっては猫にマタタビのようなものなのだ。
ここまで無視し続けられるのは、この世で小田切と重人くらいのものだろう。
「あーあ、つまんない!」
トーストをくわえたまま、杏里は腰を上げた。
そして、ふと思った。
久し振りに、由羅の顔を見に行くというのはどうだろう。
退院して10日近く経つから、由羅の傷もほぼ癒えている頃である。
それに、今度の件について、重人の意見を聞くのもいい。
うまくいけば、由羅と久々にベットイン…。
なんちゃって。
「何にニヤけてるんだ。変なやつだな」
不愛想に小田切が言った。
「余計なお世話です」
杏里はそっぽを向いた。
その視線の先に、窓がある。
開け放した窓越しに、ぎらつく青空が広がっている。
遠くで、何かの予兆のように、黒々とした積乱雲が張り出し始めていた。
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