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第6部 淫蕩のナルシス
エピローグ
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ー聞きしに勝る回復力ですな。見ての通り、表皮にも傷ひとつ残っていません。β型ミトコンドリアの保有者ですか。初めて見るな…。もしかして、彼女の細胞に宿るミトコンドリアこそが、幻の外来種、”イブ”のものなのかもしれませんねー
ーまあ、杏里の出生については、”委員会”の上層部のごく一部の連中しか知らないらしいんでね。俺にも詳しいことはわからないんだが…。しかし、また単一のユニットだけでメス外来種に立ち向かうとは、無茶なことをしてくれたものだー
ー幸い、ヒュプノスの少年は無傷ですし、パトスの少女の傷も順調に回復に向かっています。案外このユニットは、国内の全チームの中でもかなり優秀なほうなのかもしれません。たった3人であの雌外来種の駆除に成功するなんてー
ーあとふたり、民間人が仲間にいたと聞いたが…?ー
ーはあ、20代の男性と30代の女性ですね。そのふたりについては、別の病院に運ばれたようなので、素性も現在の状況もは不明のままなのですが…。この子が目を覚ましたら、直接訊いてみてはいかがですか?-
医師と小田切の会話が聞こえてくる。
どれほどの間、眠っていたのだろう。
杏里はシーツをかぶったまま、ふたりの会話に聞き耳を立てていた。
どうやら堤英吾は約束を守ってくれたらしい。
杏里たち3人を”委員会”傘下の病院に、ヤチカと正一を自分の懇意にしている病院へと、ちゃんと分けて運んでくれたのである。
これは英吾との”交渉”の時、杏里と重人が出した条件だった。
英吾が屋敷に外来種をかくまっていたことは内緒にする。
その代わり、自分たちを別々の病院に運んでほしい。
特に、ヤチカの治療については、秘密を守れる個人病院に…。
元国会議員だけあって、堤英吾は”原種薔薇保存委員会”ともつながりがあり、この地域の委員会関連施設や病院にも顔がきく。
が、問題はヤチカだった。
ヤチカは零と同じ外来種である。
”委員会”の手に渡すわけにはいかないのだ。
そんなわけで、ヤチカと正一だけは、英吾の大学時代の同級生が運営する個人病院に運ばれることになったのである。
ーだが、通報してきたのがあの堤英吾だというのが、少し気になるな。国会議員を辞職したとは聞いていたが、まさか地元に戻ってきていたとはな-
ーなんでも、家の近くの浜辺で、偶然血まみれのこの子たちを見つけたそうです。お付きの者の運転する車で、通院中の病院から帰るところだったそうですが…。そのときにはすでに、雌外来種は殺された後だったらしいー
ーはん。浜辺で乱闘ね。不良のガキの喧嘩じゃあるまいしー
ーま、他に目撃者がいない以上、彼の言い分を信じるしかないでしょうねー
ーそのへんの事情を、杏里が素直にしゃべるかどうかだな。こいつ、可愛い顔して相当頑固なところがあるからー
ー彼らは、我々人間を信用していないでしょうからね。道具として生み出され、都合のいいように使われている、そう感じていても不思議はないー
ーそれを言われるとつらいなー
小田切が一瞬押し黙る。
ー済みません、長居をしました。では、退院は明日の朝ということで。次の回診がありますので、私はこれで失礼しますー
足音が遠ざかり、ドアが開閉する気配。
それを機に、杏里はもう一度眠ることにした。
下手に目を覚ましたことを小田切に気づかれて、根掘り葉掘り訊かれてはかなわないと思ったからだった。
看護師に起こされ、検診と夕食を済ませた頃、栗栖重人がやってきた。
「相変らず、治りが早いね」
キャスター付きの椅子に腰かけるなり、ねぎらいの言葉も抜きに重人が言った。
「私、どれくらい寝てた?」
ベッドの上に身を起こし、杏里はたずねた。
病衣を着せられているが、胸回りだけサイズが合わないので、上半身を起こすと息が少し苦しい。
言うまでもなく、身長に比して、杏里の乳房が大きすぎるからである。
「きょうで3日目かな。由羅とヤチカさんのお見舞いにも行ってきたけど、ふたりとも大丈夫そうだったよ。ヤチカさんはあれだね。男性器を失って、完全に女性に戻ったって感じだった。正一さんは元々すり傷程度だったし、まあ、みんな無事でよかったんじゃないかな」
由羅とヤチカが無事。
それを聞いて、杏里は危うく涙ぐみそうになった。
ずっと気にかかっていたのだ。
「あとさ、堤英吾が思ったより物分かりがよくって、助かったよね」
黒縁メガネの重人が、飄々とした口調で続けた。
「きっと、いい加減、零を持て余してたってところだったんだろうね。欲望に負けて引き取ったのはいいけれど、だんだん零が本性を現すのを見て、怖くなったんじゃないかな。いつか始末しなきゃならないと思ってた矢先だったんだろうね」
そうなのだ。
零の死体を見ても、英吾は怒らなかった。
それどころか、英吾のほうから交換条件を持ち出してきたのである。
病院の手配をして、おまえたちを助けてやるから、その代わり、ここで見たことは内密にしてくれと。
「零がやってたことに、気づいてたんじゃないかな。で、僕らをわざと屋敷の中に導き入れた。あわよくば、零を殺させるためにね」
「まさか…」
「彼は元政治家だよ。そういう駆け引きはお手のものじゃないか」
英吾が言葉少なに語った内容は、こうだった。
零とは半年ほど前に出会った。
屋敷の裏の海岸に、全裸で倒れていたのだという。
親切心から屋敷に連れ帰り、介抱しているうちに男女の関係になった。
それ以来、手離せず、ずっと手元に置いている…。
零が外来種であることには早い段階で気づいていたが、その頃にはもう、情が移ってどうしようもなくなっていた…。
「零…今度こそ、本当に死んだんだよね?」
頭を潰され、床に横たわった零の無残な死体を思い出し、杏里はぽつりとつぶやいた。
死体の始末はこちらでする。
そう英吾は言っていたけれど、まさか、気が変わって、また蘇生を試みるなどということがあるだろうか。
「この前のギロチンの時と違って、今度はくっつける頭自体がないんだから、いくらなんでも生き返るのは無理なんじゃない? 由羅が阿修羅みたいに怒って粉々にしちまったからさ」
「だよね。私でも、あんなにされたら死んじゃうと思う」
「トレーニングマシンの鉄の棒だけど、あれ、計画的に由羅が緩めておいたんだろうね。縛られてる時に、ガタガタゆすってさ。あの怪力だから、そのくらい訳なかったはずだよ。由羅は最初から遠隔攻撃でとどめを刺すつもりだったんだ。怒らせると怖いよねえ、由羅ってさあ」
重人は妙なところに感心しているようだった。
「私、これからちょっと、由羅の病室に、お見舞いに行こうと思うんだけど…」
杏里が口を挟むと、
「えー? マジで言ってんの? やめたほうがいいと思うよ」
重人が、大げさに驚いてみせた。
「どうして?」
「だって杏里ってば、ヤチカさんと寝ちゃったんでしょ? 由羅、疑ってると思うよ。それこそバレたら殺されるかも」
「そ、そんなこと…」
杏里は耳のつけ根まで赤くなった。
「だいたい、由羅は私のことなんてなんとも思ってないし…私はタナトスで、そういうのが仕事なわけだから…」
「杏里の場合、趣味と実益を兼ねてるからね」
重人がにやにや笑う。
「んもう! 人を淫乱みたいに言わないで!」
膨れる杏里。
「え? 違うの? だって杏里、正真正銘のインランじゃ?」
「重人のばか!」
重人に枕をぶつけると、杏里はベッドから飛び降りた。
「私、由羅んとこに行ってくる。子どもはもう、おうちに帰っておねんねしてなさい!」
由羅の病室は、同じ棟の通路をUの字型の曲がった、反対側にあった。
中をのぞくと、非常灯の薄明りの下、ベッドに仰向けになっている由羅の横顔が見えた。
どうやら眠っているらしい。
無理もない、と思う。
パトスは杏里のようなタナトスと違い、特別な治癒力を持っているわけではないのだ。
体のつくりは人間よりはるかに頑丈だが、怪我をすれば治るまでにそれなりに時間がかかるはずだった。
杏里の体液で回復を早めるという手はあるものの、今はその方法を施さねばならないほど切羽詰まった状況にあるわけでもなさそうだ。
キャスター付きの椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。
「ありがとね。また、助けてもらっちゃったね」
シーツから出ている由羅の手を、両手で包んでそう語りかけた。
眠っている由羅は、年相応のあどけない少女の顔をしている。
艶やかな肌。
閉じた瞼を縁取る睫毛が驚くほど長い。
由羅は答えない。
「じゃ、明日また来るね」
ため息をついて、腰を上げかけた時だった。
ふいに由羅の手に力がこもった。
「傍にいて」
目を閉じたまま、かすかに由羅の唇が動いた。
「もう少しだけ、そこに居て」
「ゆら…」
視界が涙で曇るのがわかった。
友の手を両手で握りしめ、強く唇に押し当てると、杏里は声を殺して、静かに泣き始めた。
ーまあ、杏里の出生については、”委員会”の上層部のごく一部の連中しか知らないらしいんでね。俺にも詳しいことはわからないんだが…。しかし、また単一のユニットだけでメス外来種に立ち向かうとは、無茶なことをしてくれたものだー
ー幸い、ヒュプノスの少年は無傷ですし、パトスの少女の傷も順調に回復に向かっています。案外このユニットは、国内の全チームの中でもかなり優秀なほうなのかもしれません。たった3人であの雌外来種の駆除に成功するなんてー
ーあとふたり、民間人が仲間にいたと聞いたが…?ー
ーはあ、20代の男性と30代の女性ですね。そのふたりについては、別の病院に運ばれたようなので、素性も現在の状況もは不明のままなのですが…。この子が目を覚ましたら、直接訊いてみてはいかがですか?-
医師と小田切の会話が聞こえてくる。
どれほどの間、眠っていたのだろう。
杏里はシーツをかぶったまま、ふたりの会話に聞き耳を立てていた。
どうやら堤英吾は約束を守ってくれたらしい。
杏里たち3人を”委員会”傘下の病院に、ヤチカと正一を自分の懇意にしている病院へと、ちゃんと分けて運んでくれたのである。
これは英吾との”交渉”の時、杏里と重人が出した条件だった。
英吾が屋敷に外来種をかくまっていたことは内緒にする。
その代わり、自分たちを別々の病院に運んでほしい。
特に、ヤチカの治療については、秘密を守れる個人病院に…。
元国会議員だけあって、堤英吾は”原種薔薇保存委員会”ともつながりがあり、この地域の委員会関連施設や病院にも顔がきく。
が、問題はヤチカだった。
ヤチカは零と同じ外来種である。
”委員会”の手に渡すわけにはいかないのだ。
そんなわけで、ヤチカと正一だけは、英吾の大学時代の同級生が運営する個人病院に運ばれることになったのである。
ーだが、通報してきたのがあの堤英吾だというのが、少し気になるな。国会議員を辞職したとは聞いていたが、まさか地元に戻ってきていたとはな-
ーなんでも、家の近くの浜辺で、偶然血まみれのこの子たちを見つけたそうです。お付きの者の運転する車で、通院中の病院から帰るところだったそうですが…。そのときにはすでに、雌外来種は殺された後だったらしいー
ーはん。浜辺で乱闘ね。不良のガキの喧嘩じゃあるまいしー
ーま、他に目撃者がいない以上、彼の言い分を信じるしかないでしょうねー
ーそのへんの事情を、杏里が素直にしゃべるかどうかだな。こいつ、可愛い顔して相当頑固なところがあるからー
ー彼らは、我々人間を信用していないでしょうからね。道具として生み出され、都合のいいように使われている、そう感じていても不思議はないー
ーそれを言われるとつらいなー
小田切が一瞬押し黙る。
ー済みません、長居をしました。では、退院は明日の朝ということで。次の回診がありますので、私はこれで失礼しますー
足音が遠ざかり、ドアが開閉する気配。
それを機に、杏里はもう一度眠ることにした。
下手に目を覚ましたことを小田切に気づかれて、根掘り葉掘り訊かれてはかなわないと思ったからだった。
看護師に起こされ、検診と夕食を済ませた頃、栗栖重人がやってきた。
「相変らず、治りが早いね」
キャスター付きの椅子に腰かけるなり、ねぎらいの言葉も抜きに重人が言った。
「私、どれくらい寝てた?」
ベッドの上に身を起こし、杏里はたずねた。
病衣を着せられているが、胸回りだけサイズが合わないので、上半身を起こすと息が少し苦しい。
言うまでもなく、身長に比して、杏里の乳房が大きすぎるからである。
「きょうで3日目かな。由羅とヤチカさんのお見舞いにも行ってきたけど、ふたりとも大丈夫そうだったよ。ヤチカさんはあれだね。男性器を失って、完全に女性に戻ったって感じだった。正一さんは元々すり傷程度だったし、まあ、みんな無事でよかったんじゃないかな」
由羅とヤチカが無事。
それを聞いて、杏里は危うく涙ぐみそうになった。
ずっと気にかかっていたのだ。
「あとさ、堤英吾が思ったより物分かりがよくって、助かったよね」
黒縁メガネの重人が、飄々とした口調で続けた。
「きっと、いい加減、零を持て余してたってところだったんだろうね。欲望に負けて引き取ったのはいいけれど、だんだん零が本性を現すのを見て、怖くなったんじゃないかな。いつか始末しなきゃならないと思ってた矢先だったんだろうね」
そうなのだ。
零の死体を見ても、英吾は怒らなかった。
それどころか、英吾のほうから交換条件を持ち出してきたのである。
病院の手配をして、おまえたちを助けてやるから、その代わり、ここで見たことは内密にしてくれと。
「零がやってたことに、気づいてたんじゃないかな。で、僕らをわざと屋敷の中に導き入れた。あわよくば、零を殺させるためにね」
「まさか…」
「彼は元政治家だよ。そういう駆け引きはお手のものじゃないか」
英吾が言葉少なに語った内容は、こうだった。
零とは半年ほど前に出会った。
屋敷の裏の海岸に、全裸で倒れていたのだという。
親切心から屋敷に連れ帰り、介抱しているうちに男女の関係になった。
それ以来、手離せず、ずっと手元に置いている…。
零が外来種であることには早い段階で気づいていたが、その頃にはもう、情が移ってどうしようもなくなっていた…。
「零…今度こそ、本当に死んだんだよね?」
頭を潰され、床に横たわった零の無残な死体を思い出し、杏里はぽつりとつぶやいた。
死体の始末はこちらでする。
そう英吾は言っていたけれど、まさか、気が変わって、また蘇生を試みるなどということがあるだろうか。
「この前のギロチンの時と違って、今度はくっつける頭自体がないんだから、いくらなんでも生き返るのは無理なんじゃない? 由羅が阿修羅みたいに怒って粉々にしちまったからさ」
「だよね。私でも、あんなにされたら死んじゃうと思う」
「トレーニングマシンの鉄の棒だけど、あれ、計画的に由羅が緩めておいたんだろうね。縛られてる時に、ガタガタゆすってさ。あの怪力だから、そのくらい訳なかったはずだよ。由羅は最初から遠隔攻撃でとどめを刺すつもりだったんだ。怒らせると怖いよねえ、由羅ってさあ」
重人は妙なところに感心しているようだった。
「私、これからちょっと、由羅の病室に、お見舞いに行こうと思うんだけど…」
杏里が口を挟むと、
「えー? マジで言ってんの? やめたほうがいいと思うよ」
重人が、大げさに驚いてみせた。
「どうして?」
「だって杏里ってば、ヤチカさんと寝ちゃったんでしょ? 由羅、疑ってると思うよ。それこそバレたら殺されるかも」
「そ、そんなこと…」
杏里は耳のつけ根まで赤くなった。
「だいたい、由羅は私のことなんてなんとも思ってないし…私はタナトスで、そういうのが仕事なわけだから…」
「杏里の場合、趣味と実益を兼ねてるからね」
重人がにやにや笑う。
「んもう! 人を淫乱みたいに言わないで!」
膨れる杏里。
「え? 違うの? だって杏里、正真正銘のインランじゃ?」
「重人のばか!」
重人に枕をぶつけると、杏里はベッドから飛び降りた。
「私、由羅んとこに行ってくる。子どもはもう、おうちに帰っておねんねしてなさい!」
由羅の病室は、同じ棟の通路をUの字型の曲がった、反対側にあった。
中をのぞくと、非常灯の薄明りの下、ベッドに仰向けになっている由羅の横顔が見えた。
どうやら眠っているらしい。
無理もない、と思う。
パトスは杏里のようなタナトスと違い、特別な治癒力を持っているわけではないのだ。
体のつくりは人間よりはるかに頑丈だが、怪我をすれば治るまでにそれなりに時間がかかるはずだった。
杏里の体液で回復を早めるという手はあるものの、今はその方法を施さねばならないほど切羽詰まった状況にあるわけでもなさそうだ。
キャスター付きの椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。
「ありがとね。また、助けてもらっちゃったね」
シーツから出ている由羅の手を、両手で包んでそう語りかけた。
眠っている由羅は、年相応のあどけない少女の顔をしている。
艶やかな肌。
閉じた瞼を縁取る睫毛が驚くほど長い。
由羅は答えない。
「じゃ、明日また来るね」
ため息をついて、腰を上げかけた時だった。
ふいに由羅の手に力がこもった。
「傍にいて」
目を閉じたまま、かすかに由羅の唇が動いた。
「もう少しだけ、そこに居て」
「ゆら…」
視界が涙で曇るのがわかった。
友の手を両手で握りしめ、強く唇に押し当てると、杏里は声を殺して、静かに泣き始めた。
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