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第7部 蹂躙のヤヌス

エピローグ

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「本当に死んでるの?」

 杏里の股間から引き出された美里の残骸。

 そのぐしゃぐしゃに潰れた頭部を見下ろして、疑い深げにいずなが言った。

「脈拍もないから、間違いないと思うよ、この女もタナトスなら、頭をこんなにされちゃ、生きていられない」

 ふたりの足元に横たわるそれは、裏返しになったカブトガニに似ていた。

 節くれだった6本の足を胸元に引きつけ、殺虫剤を浴びたゴキブリの死骸のように醜く固まっている。

 その頭部は、万力で押しつぶされたかのように無残にひしゃげ、もはや原型をとどめていない。

 眼窩から眼球が飛び出し、視神経の先にだらんとぶら下がっている。

  砕けた顎の骨の隙間から突き出ている死んだ蛞蝓のようなものは、あの気色の悪い分厚く長い舌だ。

 無毛の紡錘形の頭は、上下から加えられた力で陥没し、どろどろしたペースト状の中身をはみ出させている。

 耳と鼻からあふれ出た血で、床に血だまりができ始めていた。

 美里が動かないのを確認すると、いずなは杏里の脇にひざまずいた。

 半身を起こした杏里は、まだ焦点の合わない目をしている。

 白い肌のあちこちに赤い蚯蚓腫れや痣ができ、汗ばむ髪の間から覗いた耳に、血がにじんでいた。

 当然、悲惨なのは下半身で、股関節が外れてしまったのか、脚がちゃんと閉じなくなっているようだった。

 開き切った股の間は、思わず目を背けたくなるほどの惨状だ。

 こぶし大の大きさに開いたピンクの”穴”から、血と粘液の混じった液体がどくどくとあふれ出している。

「大丈夫?」

 訊いてしまってから、愚問だと後悔した。

 どうみても、大丈夫な状態ではないのだ。

 が、杏里は気丈なのか、あるいは痛みさえ感じていないのか、予想よりしっかりしていた。

「ふたりとも、ありがと。このくらい、平気だよ。丸一日あれば、治ると思う」

 そう呟いて、化け物の死体をじっと見つめている。

「これが、美里先生…?」

 悲しげな声でつぶやいた。

「おそらく、試作段階で複数の外来種のミトコンドリアを使ったんだろうね。その副作用というか、ダメージで、彼女はずいぶん前からもう人間ではなくなっていたんだと思うよ。杏里を罠にかけたのも、君の治癒力を奪って、この身体を治そうとしたんじゃないかな」

 いずなの後ろに立って、重人が言った。

「殺したからって、悲しむ必要はないよ。こいつは化け物で、君の命を奪うところだったんだからさ」

「そうだね。あのまま放っておいたら、これは杏里の身体を引き裂いて、脳味噌を食べるところまでいってたかもしれないもんね」

「でも…」

 助かったというのに、杏里の表情はなぜかすぐれない。

「もっと早く打ち明けてくれてたら、私が治してあげられたかも、しれないのに…」

「そうは思えない。こいつ、杏里を手段としか見てなかった。相談なんてするはずないよ。この部屋を見ればわかる。ここ、まるで拷問部屋だもの」

 床に転がるおびただしい数の大小のバイブ。

 拘束具と鎖のついた椅子。

 部屋にこもったすさまじい糞尿の臭気に顔をしかめながら、いずなが言い放つ。

「同感だね。ある意味彼女は黒野零と同類さ。パトスを殺した時点で、もう狂ってたんだ」

 いずなが腋の下に手を入れて、杏里をゆっくり立たせにかかった。

「とにかく、早く逃げなきゃ。このままだと、私たち、警察につかまっちゃう。杏里、服は?」

 杏里の下着とカーディガン、それからショートパンツはベッドの上だった。

「まず、身体を綺麗にしようか。お風呂場、どこかな」

「あ、だったら、その間に僕、堤さんに連絡取ってみるよ。ひょっとしたら、助けてくれるかもしれない」

 名案を思いついたといったふうに、顔を輝かせる重人。

「堤さんって?」

「堤英吾。引退した元政治家さ。この前の黒野零の一件で、ちょっと知り合いになってね。彼なら委員会につながりのある篠崎医院にも顔が効くし、頼めばこの死体も、なんとかしてくれるかもしれない」

「元政治家が、中学生の頼みを聞いてくれるっていうの?」

「ギブ・アンド・テイクってやつだよ。僕たちは、彼の弱みを握ってるんでね」

「ふうん。よくわかんないけど、だったら早く頼んでみて」

「OK。じゃ、いずなは杏里を頼む」


 浴槽にぬるめのお湯を張り、傷だらけの杏里の身体を沈めてやる。

 タオルで上半身を拭いてやっていると、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえ始めた。

 ぎくりとして浴室から顔を出すと、ケータイ片手に部屋の真ん中に立っていた重人が振り返った。

「話はついた。心配ない。あれはダミーの救急車だよ。この死体を、篠崎医院に運んでくれることになってる」

「委員会に報告は?」

「それはできるなら、避けたいね。いずれはバレるかもしれないけど、僕らだけで行動したとわかったら、きっと重いペナルティを課せられる。そこは堤さんに任せたほうがいい」

「わかった。で、杏里はどうするの? 私たちが連れて帰る?」

「篠崎医院が回復まで面倒みてくれるよ。あそこ、杏里とはつき合い長いんでね」

「そう、よかった」

 風呂場に戻ると、杏里は自分で体を洗い始めていた。

 少しやつれたように見えるが、肌に血色が戻ってきている。

「大変だったね」

 スカートが濡れるのもかまわず、いずなは浴槽の外にしゃがみ込んだ。

「すごいとこ、見られちゃった」

 杏里が決まり悪そうに、微笑んだ。

 いずなは杏里の手をそっと握った。

 元の杏里が戻ってきたようだ。

 それが、うれしかった。

「うん。ひと目見た時、心臓が止まるかと思ったよ」

「私も…あんなセックスがあるなんて、初めて知った気分」

「タナトスだからって、無理しちゃだめ」

「だね」

 杏里の瞳に、悪戯っぽい光が宿る。

 そして、いずなをじっと見つめると、笑いを含んだ口調で、ささやくように言った。

「でもさ、ほんというとね、あれ、すっごく気持ちよかったんだ。もう、死にそうになるくらい…」



 救急車の中。

 担架に、異形の物体が乗せられている。

 シーツにくるまれた、丸尾美里の死骸である。

 一緒に乗っているのは、救急隊員に変装した、篠崎医院の職員だ。

 死骸の様子を見守っていたひとりが、何を思ったか、ふいにもうひとりに声をかけた。

「気のせいかな? 今、こいつの指、少し動いた気がするんだが」

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