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第8部 妄執のハーデス

#2 とろける教室

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 教室に入ると、すでに全員が席についていた。

 無表情な、能面を思わせる顔が、一斉に杏里のほうを振り向いた。

 その瞬間、杏里は悟った。

 この子たち、全然”浄化”されていない。

 杏里を見つめる30対の眼は、さながら熱に冒された病人のそれだった。

 とろんとしていて、そのくせ何やらぎらつく光が底のほうに宿っている。

「笹原か。病気はもういいのか?」

 訊いてきたのは、黒板の前の若い男性教師である。

 今どき珍しく、髪を七三に分け、真面目そうな黒縁眼鏡をかけている。
 
 新品のスーツはサイズが小さいのか、手首と足首が袖と裾から突き出して、全くといっていいほど似合わない。

 確か、木更津とか言ったはず。

 このクラスの副担任だ。

「はい」

 反射的に、杏里はお辞儀を返した。

 ボタンを留めていないブラウスの胸元が開き、たわわな胸の谷間がかなり奥まであらわになる。

「丸尾先生に代わり、しばらく私がおまえたちの担任を務めることになった。丸尾先生のようにはいかないかもしれないが、よろしく頼む」

 生真面目な挨拶に、ふんと鼻を鳴らしたのは、真ん中の列の最後尾に陣取ったあのキツネ目少女だ。

 その横で、何がおかしいのか、肉達磨がクスクス笑っている。

 生徒たちの刺すような視線の中、杏里は自分の席に歩み寄った。

 座ろうとした時、隣の席の少女と目が合った。

 山田唯佳。

 肩までの髪を綺麗に梳かした、お洒落な感じの女生徒だ。

 唯佳は何か言いたげに杏里を見つめていたが、やがてふと視線を前に戻した。

 気のせいか、頬の表面が、粉を吹いたみたいにささくれ立っている。

「では、授業を始める」

 そこに、木更津の声が飛んできた。

 杏里はカバンから教科書を出し、目の前に立てた。

 ちっぽけなバリケードだが、ないよりまし、と思ったのだ。


 授業自体は、退屈だった。

 もともと数学が苦手なうえに、転校に転校を重ねたから、内容についていくのも大変だった。

 まずいなあ。

 これじゃ、一度、重人に勉強見てもらわないと。

 頬杖をつき、ため息混じりにそんなことを考えた時である。

 杏里はふと、妙な気配に耳をそばだてた。

 喘ぎ声が聞こえるのだ。
 
 それも、意外なほど近くから。
 
 立てた教科書の陰で、首をそっと右に曲げてみた。

 声の主は唯佳だった。

 机の上に突っ伏して、もぞもぞ身体を動かしている。

 顔が上気して桜色に染まっていた。
 
 何してるんだろう?

 目を凝らして、杏里は危うくあっと声を上げそうになった。

 こ、これは…。

 唯佳の様子は、明らかに変だった。

 ブラウスがはだけ、ずらしたスポーツブラの下から、小ぶりの乳房が覗いている。

 その乳房の先端につき立った薄茶色の乳首を、唯佳はシャープペンの先でしきりにつついているのだ。

 そして更に、空いたほうの手を机の下に回し、スカートの中に突っ込んでいる。

 手が動くたびに、切なげな吐息を漏らし、乳首をまたつつき始める。

 まさか…授業中に、オナニー?

 杏里は、以前、美里がしきりに口にしていた台詞を思い出した。

 -私の授業中は、オナニーは禁止ですー

 彼女は、教壇に立つごとに、生徒たちにそう言って聞かせていたのである。

 その時は、

 この先生、何おかしなこと言ってるのかしら?

 そうばかばかしく思った杏里だったが、今になってわかった。

 あれは、こういうことだったのだ。

 しかし、と思う。

 あの性欲の塊みたいな肉達磨のふみならいざ知らず、見かけは清楚で真面目そうな唯佳までがこうなるなんて。

 このクラス、重症かもしれない。

 ぞっとした。

 今になると、教頭の前原の”話”の意味も、だいたい想像できる。

 美里に代わって、杏里にこのクラスを”浄化”せよ、とでも言いたいのだろう。

 でも、今の私に、それが可能だろうか?

 なんだか、自信がない。

 美里との一件以来、何かが変わってしまった気がする。

 よくはわからないけれど、重要な何かが…。

 ぼんやり見つめていると、いつの間にか、唯佳がじっとりしたまなざしで杏里を見つめ返していた。

 また、目と目が合った。

 と、唯佳が、恨みがましい口調でささやいた。

「あなた…、ただ、見てるだけなの?」

 


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