激甚のタナトス ~世界でおまえが生きる意味について~【官能編】

戸影絵麻

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第8部 妄執のハーデス

#39 解放された者

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「私は…何者でもない」

 足を組み替え、挑発するように身を乗り出すと、杏里は言った。

 そうなのだ。

 人間たちにとり、タナトスはただの道具。

 サンドバッグか、公衆トイレのようなもの。

 その道具にも喜怒哀楽があるなんて、彼らは考えもしないのだ。

「私は、ただ襲われただけ。特別に、何もしていない」

「そんなはずないだろ? じゃあ、なぜ」

 純が素早く周囲に視線を走らせる。

 教室の中は、やけに静かだった。

 唯佳は、自分の机の上に突っ伏して、腕に顔を埋めたまま、動かない。

 他の連中は、三々五々、仲の良い者同士グループをつくって、思い思いの席で食事に興じている。

 が、そこには笑顔もなく、談笑する声も聞こえない。

 みんな、何かに憑かれたようにうつろな表情をしているのだ。

 その覇気のない様子は、まるでゾンビの集団だった。

「私は、美里先生の代わりを務めたの。みんなが、そう望むから」

 純の視線を追ってその様子を眺めながら、無機質な口調で杏里は言った。

「美里の代わり?」
 
 純が驚きに目を見開く。

「笹原、あんた、やっぱり先生の居場所、知ってるんだね?」

 純の口ぶりからすると、璃子たちだけでなく、クラス中がそう思い込んでいるということらしい。

「彼女は、もういないわ」

 あっさりと、杏里は答えた。

「璃子たちには黙ってたけど、今のあなたになら、教えてあげる。先生は、死んだの」

「死んだ?」

「そう。彼女は、この世に生まれちゃ、いけない存在だったから」

 杏里は今も覚えている。

 美里は、壮絶なスカル・ファックの末、杏里の膣の中で、頭を砕かれて絶命したのである。

 頭蓋骨がひしゃげ、大量の血と脳漿が体内にあふれ出す、あの感触、

 まるで、杏里の中で、もうひとつの命が爆発したみたいな、あの感じ。

「なにそれ? あんた、何言ってんの?」

 純は明らかに引いていた。

 杏里が突然狂い出したとでも思ったのだろう。

 ふっと杏里は微笑んだ。

「わからなくていいよ。ただの戯言。そう思ってくれてもいい」

 そして、ひるんだ純のまなざしを正面から受け止めると、語気を強め、断定するように言った。

「でも、あなたはもう、先生を探さない。なぜなら、あなたにはもう、彼女は必要ないから。そうでしょう?」

「まあ…そう言われてみれば」

 一瞬気を飲まれたように見えた純だったが、やがて不思議そうに、自分の二の腕や胸のあたりを見回した。

「いつになくすっきりした気分ってのは、確かだな。こんなに爽やかな気分になれたこと、美里の面談の後でもなかった気がするよ」

「だったら、いいじゃない。私が、何者であろうとも」

 額にかかる前髪を払いのけ、杏里はすっと席を立った。

 教室の中は、あまりにも臭かった。

 よく見るとわかるが、床のあちこちに生徒たちの体液の飛沫が、汚らしく飛び散っているのだ。

 机の間を縫って、窓に歩み寄る。

 クラスメートたちは、そんな杏里を遠巻きに眺めているだけだ。

 彼らが襲ってこない理由は、なんとなくわかる。

 本能的に、彼らは杏里と美里を同一視し始めているのだ。

 あの淫らな数十分のうちに、完全に上下関係が逆転してしまったのだった。

 カーテンを引き、窓を全開にする。

 青空が目に沁み、初秋の涼やかな風が、べたついた杏里の頬を撫でた。

 目蓋を閉じてしばらく風に身をゆだねていると、その背中に純が声をかけてきた。

「…ひょっとしてさ、あたしをあのモヤモヤから解放してくれたのって…笹原、あんただったのか?」

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