上 下
190 / 288
第8部 妄執のハーデス

#39 解放された者

しおりを挟む
「私は…何者でもない」

 足を組み替え、挑発するように身を乗り出すと、杏里は言った。

 そうなのだ。

 人間たちにとり、タナトスはただの道具。

 サンドバッグか、公衆トイレのようなもの。

 その道具にも喜怒哀楽があるなんて、彼らは考えもしないのだ。

「私は、ただ襲われただけ。特別に、何もしていない」

「そんなはずないだろ? じゃあ、なぜ」

 純が素早く周囲に視線を走らせる。

 教室の中は、やけに静かだった。

 唯佳は、自分の机の上に突っ伏して、腕に顔を埋めたまま、動かない。

 他の連中は、三々五々、仲の良い者同士グループをつくって、思い思いの席で食事に興じている。

 が、そこには笑顔もなく、談笑する声も聞こえない。

 みんな、何かに憑かれたようにうつろな表情をしているのだ。

 その覇気のない様子は、まるでゾンビの集団だった。

「私は、美里先生の代わりを務めたの。みんなが、そう望むから」

 純の視線を追ってその様子を眺めながら、無機質な口調で杏里は言った。

「美里の代わり?」
 
 純が驚きに目を見開く。

「笹原、あんた、やっぱり先生の居場所、知ってるんだね?」

 純の口ぶりからすると、璃子たちだけでなく、クラス中がそう思い込んでいるということらしい。

「彼女は、もういないわ」

 あっさりと、杏里は答えた。

「璃子たちには黙ってたけど、今のあなたになら、教えてあげる。先生は、死んだの」

「死んだ?」

「そう。彼女は、この世に生まれちゃ、いけない存在だったから」

 杏里は今も覚えている。

 美里は、壮絶なスカル・ファックの末、杏里の膣の中で、頭を砕かれて絶命したのである。

 頭蓋骨がひしゃげ、大量の血と脳漿が体内にあふれ出す、あの感触、

 まるで、杏里の中で、もうひとつの命が爆発したみたいな、あの感じ。

「なにそれ? あんた、何言ってんの?」

 純は明らかに引いていた。

 杏里が突然狂い出したとでも思ったのだろう。

 ふっと杏里は微笑んだ。

「わからなくていいよ。ただの戯言。そう思ってくれてもいい」

 そして、ひるんだ純のまなざしを正面から受け止めると、語気を強め、断定するように言った。

「でも、あなたはもう、先生を探さない。なぜなら、あなたにはもう、彼女は必要ないから。そうでしょう?」

「まあ…そう言われてみれば」

 一瞬気を飲まれたように見えた純だったが、やがて不思議そうに、自分の二の腕や胸のあたりを見回した。

「いつになくすっきりした気分ってのは、確かだな。こんなに爽やかな気分になれたこと、美里の面談の後でもなかった気がするよ」

「だったら、いいじゃない。私が、何者であろうとも」

 額にかかる前髪を払いのけ、杏里はすっと席を立った。

 教室の中は、あまりにも臭かった。

 よく見るとわかるが、床のあちこちに生徒たちの体液の飛沫が、汚らしく飛び散っているのだ。

 机の間を縫って、窓に歩み寄る。

 クラスメートたちは、そんな杏里を遠巻きに眺めているだけだ。

 彼らが襲ってこない理由は、なんとなくわかる。

 本能的に、彼らは杏里と美里を同一視し始めているのだ。

 あの淫らな数十分のうちに、完全に上下関係が逆転してしまったのだった。

 カーテンを引き、窓を全開にする。

 青空が目に沁み、初秋の涼やかな風が、べたついた杏里の頬を撫でた。

 目蓋を閉じてしばらく風に身をゆだねていると、その背中に純が声をかけてきた。

「…ひょっとしてさ、あたしをあのモヤモヤから解放してくれたのって…笹原、あんただったのか?」

しおりを挟む

処理中です...