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第8部 妄執のハーデス

#38 増幅するストレス

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 3時限目、4時限目と、一見、何事もないように授業が続いた。

 が、教師の板書をノートに取りながら、杏里は周囲の気配に一心に耳をそばだてていた。

 教室の中には、相変わらず、淫靡な音が満ち満ちていた。

 粘膜がこすれ、湿った穴から体液が溢れ出る音。

 膨張し切った海綿体が手でしごかれ、包皮がこすれ合い、先端からにじみ出た粘液をこねる音。

 教師の目を盗んで、大部分の生徒が自慰に励んでいるのだ。

 杏里の敗北は明らかだった。

 いったん絶頂に達し、浄化された者は、しばらくの間、性欲から解放される。

 なのに、それが、このクラスでは、なぜか真逆になってしまっているのだ…。

 あの謎の”声”の正体も気になるが、目下の杏里にとっての大問題は、その事実である。

 これでは、タナトスとして、失格だ。

 ”声”が言うように、確かにこのまま”委員会”の研修に臨むのは、得策ではないのかも…。



 人間は、誰しも”死の衝動”を抱え込んでいる。

 その衝動は、ストレスがある閾値を超えると、自分ではなく、他者へと向かうことがある。

 それがいわゆる破壊衝動となって、いじめや虐待、殺人を引き起こす引き金になるのだ。

 杏里たちタナトスの任務は、その衝動を吸収して、生への衝動、すなわちエロスに転換すること。

 だから、杏里のようなタナトスは、年齢に関係なく、異常なほどの性的魅力を備えている。

 獲物を己の虜にして、愉楽の淵に誘い込み、一刻も早くストレスを解消するためでである。

 この春、タナトスとして目覚めてから、任務遂行のために、杏里はいくつもの学校を渡り歩いてきた。 

 その間、”浄化”に成功した例は、枚挙にいとまがないほどだ。

 それが、ここへきて、失敗した。

 クラスメートたちのストレスは、緩和されるどころか、よりいっそう高まってしまっているようだ。



 何が悪かったのだろう?

 シャープペンをくるくる回しながら、自問自答する。

 以前と異なるのは、今回、杏里が美里直伝の”触手”を駆使したことだった。

 同時に、媚薬と化した己の唾液と汗をも、その”攻撃”に併用してみたことである。

 だが、正直、失敗がそのせいだとは思えなかった。

 触手は杏里の狙い通りに動き、生徒たちを着実にエクスタシーに導いたのだ。

 タナトスの任務が、対象に強烈なエロスを与えることであるならば、触手の存在はむしろプラスになるはずだ。

 それは、媚薬を孕んで変質した、杏里の唾液や愛液にしても、同様である。

 杏里が飲ませた天然の媚薬は、彼らが絶頂に達するのを早めこそすれ、マイナスに働いたとは思えない。

 じゃあ、何なのかしら?

 何が間違ってたっていうの?

 杏里の手の中で、シャープペンが止まった。

 ヒントがあるとすれば、純だ。

 純だけは、奇麗に浄化されている。

 どんよりした重い空気の真っ只中で、ひとりだけ妙にさばさばした顔をしているのだ。

 しかも、あの時の記憶をきれいに失ってしまっている。

 純とほかの生徒を隔てるもの。

 たとえば、彼女と、今隣の席で自慰に耽っている唯佳と、いったい何が違ったのだろう…。


 昼休みになると、その唯佳が、自分の机を動かして、杏里の机にくっつけてきた。

 断る理由もないので、机を唯佳のほうに向け、ふたつ向かい合わせに並ぶようにする。

「ね、杏里。一緒にお昼、食べない?」

 そう言いながら、杏里の向かい側に座る唯佳。

「いいけど」

 うなずいて弁当箱を取り出した杏里は、唯佳が熱っぽい目で見つめてくるのに気づいて、うんざりした。

 周囲では、そんな杏里たちを、他の連中が嫉妬と羨望のまなざしで注視している。

 唯佳の抜け駆けに、皆、不快感を隠そうともしない。

 唯佳はといえば、自分から誘っておきながら、そのくせ弁当箱を出そうともせず、ただじっと杏里を見つめているだけだ。

「好き」

 そのぽってりした唇が動き、甘い台詞を紡ぎ出す。

「気持ちよかったよ、杏里」

 この少女がまだ浄化されていないのは、火を見るより明らかだ。

 杏里は、腹の底から怒りがこみあげてくるのを感じた。

 机の下で右足を伸ばし、唯佳の膝を割った。

 スカートをめくり上げ、従順に股を開いていく唯佳。

 瞳に淫蕩な光がともっている。

 期待しているのだ。

 上履きのつま先を、太腿と太腿の間に突っ込んでやる。

 と、その先端が柔らかいものにめり込んだ。

「あ」

 唯佳が喉の奥で叫び、ぴくっと身を震わせた。

 杏里は、容赦なくつま先をその股間に食い込ませていく。

 割れ目の間に、下着の上から上履きの先端をこじ入れる。

「あん…・」

 唯佳が椅子の背もたれにもたれかかり、こっちに腰を突き出してきた。

 杏里の上履きに、自分から股間を押しつけ始めたのだ。

 触手を使うまでもなかった。

 2分ほどつま先で愛撫を繰り返していると、唯佳が電撃を食らったように痙攣して、机の上に突っ伏した。

 それを見届けると、杏里は机を元の位置に戻し、黙々と弁当を食べ始めた。

 半分ほど食べた頃である。

「ちょっと、いい?」

 影が差し、顔を上げると、机の脇に長身の純が立っていた。

「あたしもここで食べていいかな?」

 見ると、菓子パンと牛乳の入った袋を右手に提げている。

「どうぞ」

 そっけなくうなずくと、前の席の男子に、

「どきな」

 と、ただひと言命令して、純が杏里の正面に座ってきた。

 そして、上目遣いに杏里を見つめると、声をひそめて訊いてきた。

「ねえ、笹原、あんたってさ、いったい、何者なわけ?」
  

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