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第8部 妄執のハーデス

#37 闇に光る眼

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 誰?

 まぶたを閉じると、”眼”が見えた。

 闇の中に、片方だけの大きな眼が浮かんでいる。

 アーモンド形の白目の中心にあるのは、エメラルド色の作り物めいた瞳孔だ。

 ラブドールの眼に似ている、と杏里は思った。
 
 沼工房で見た人間そっくりのラブドールたち。

 あるいはヤチカに見せられた、彼女の祖父が残していったという関節球体人形達の眼にそっくりだ。

 が、その義眼めいた眼球から放たれる思念は、これまで杏里が感じたことのないほど強烈なものだった。

 ーあなた、誰なの? どうして、研修のこと、知ってるの?-

 杏里はもう一度、頭の中の眼に問いかけた。

 杏里の知り合いの中で、テレパシーが使えるのはヒュプノスである重人だけ。

 でも、これは断じて重人の思念ではない。

 直感的に、相手が女性らしいということはわかる。

 だが、由羅もいずなも精神感応能力など持っていない。

 外来種であるヤチカでさえ、そうだった。

 ましてや、小田切同様、ただの人間にすぎない冬美の仕業であるはずがない。

 -すぐに会えるさー

 含み笑いの波動とともに、眼の持ち主が”言っ”た。

 -楽しみだよ。杏里。おまえの無様な姿を、この目で見られるなんてねー

 木の葉を畳むように、すうっと”眼”が細くなり、やがて一本の線になる。

 -待って!ー

 心の中で叫んでみたが、もう遅かった。 

 ブラウン管の画像が切れるように、眼のイメージが、ぷつんと消えた。

 ふと我に返ると、そこは教室の中だった。

 机で囲ってつくった空きスぺ-スの中で、裸のクラスメートたちが寝そべり、のろのろと蠢いている。

 正気に戻った目で改めて見ると、それは異様極まりない光景だった。

 ナメクジの交尾のように、ぬめる肉体たちが複雑に絡み合い、ずるずると動いているのだ。

 まるで夢遊病者の群れだった。

 催眠術にかかったまま、淫らな遊戯に耽る、少年少女の集団だ。

 黒板の上の掛け時計は、次の授業時間が近いことを示している。

 幸い、この教室は廊下の一番奥に位置しているから、放課になっても滅多に人が前を通らない。

 が、授業時間になり、次の教科の教師が来たら、さすがにまずいことになるだろう。

 杏里は椅子にかけてあった下着を手に取った。

 身体はまだべたついているが、仕方がない。

 サイズの小さいパンティとブラを身に着けると、純の激しい愛撫で腫れあがった乳首と陰核に電流が走った。

 くっ。

 身体をふたつに折って、背筋を駆け上がる快感に耐える。

 スカートを穿き、ブラウスを羽織ったが、乳房が膨張してしまったようで、ボタンがうまく留まらない。

 仕方なく、鳩尾のあたりでボタンを留めて、胸は突き出たままに任せた。

「起きて」

 身支度を整えると、足元で胎児のように丸くなっている純の肩を揺すった。

「うーん」
 
 うめいて、純が薄目を開け、杏里を見た。

「あんた、笹原じゃん。何よ、どうしたの?…って、え? ちょ、ちょっと、なんであたし、裸なわけ?」

 上半身を起こし、己の裸体を見るなり、悲鳴を上げて騒ぎ出した。

「覚えてないの?」

「はん? 覚えてるって、何を? ていうかさ、なにこれ? みんな裸でどうしちゃったの? は? え? え? これってマジ? 全員オナニーかセックスしてるけど…。やだ、これじゃ、まるでケダモノの集団じゃん! 笹原、あんた、みんなに何したのさ? やばいよ、このままじゃ! 先生、来ちまうよ。おい、起きなよ、みんな。おいったら! いつまでも、馬鹿なことしてるんじゃないよ!」

 騒ぎながら、慌ただしく下着と制服を身につける純。

 これが、正常な反応なのだ。
 
 大声でクラスメートたちを起こして回る純を眺めながら、杏里はぼんやりと思った。

 ストレスの解放とともに、一時記憶が、一気に消えてしまう。

 これが、浄化の済んだ人間の、ごく当たり前の反応なのだ。

 ということは、おそらくあの”眼”の持ち主の言葉が、正しいのだろう。

 このクラスの中で、正しく浄化されたのは、純ひとりだけ。

 後の28人は、未だにお互いの身体や自分の性器を貪っている様子からしても、浄化が終わっていないのだ。

 私が、失敗した?

 杏里は茫然となった。

 -おまえのやり方は間違ってるー

 そう、あの”眼”は、言った。

 でも、どうして?

 何が、今までと違うというのだろう?

 ようやく正気に戻り始めたクラスメートたちが、ゾンビのように立ち上がり、服を着始めている。

 その中で、杏里はひとり、途方に暮れたように佇んでいた。

 疑念がぐるぐる脳裏を渦巻いている。

 そもそも、あれは誰だったのだろう?

 どうして、私のことを知ってるの?

 今のままでは、研修をパスできないって…それ、どういうこと?

 そんな杏里の混乱をよそに、始業を告げるチャイムが、やがてのんびりした音色をあたりに響かせ始めた。




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