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第8部 妄執のハーデス

#58 バトルロイヤル⑫

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「それは、違うよ…タナトスである前に、私は私だもの。由羅が繋ぎ止めておいてくれさえすれば、きっと…」

 由羅の胸元に頬を擦りつけ、そうささやいてはみたものの、声に力が入らなかった。

 理想なんだ。

 杏里にはわかっている。

 たとえ、人間じゃなくっても…。

 誰か、愛するひとりと、心も体もひとつになって、そうしてずっと、この人生を平穏無事に生きていく。 

 それが私の理想の生き方なんだ。

 でも、この身体が、いつもいつも、頭を、心を裏切ってしまう…。

 そのことが悲しい。

 悲しくないと言ったら、嘘になる。

 私は、だめなやつ。

 つくづく、そう思わないではいられない。 

 そして、もうひとつ。

 杏里は今、タナトスとしての自分にも、自信をなくしてしまっている。

 浄化がうまくいかない。

 図らずもサイコジェニーに指摘されてしまったように、今の杏里はタナトスとしても失格なのだ。

 それがここへ呼ばれた原因なのかもしれない、と思う。

 サイコジェニーは、今もこの建物のどこかから、きっと私のことを監視しているのだろう。

 そして、私が致命的な失敗を犯すのを、今か今かと待ち受けているに違いない。

 アイデンティティの完全なる喪失。

 それが杏里を、いつになく気弱にさせている。

 だから、おのずと自分を責めずにはいられない。

 由羅はどこも悪くないのだ。

 悪いのは、全部、この私。

 私の欠陥のせいで、由羅は、連帯責任を負わされただけなのだ…。

「うちに、そんな権利はないよ。おまえを拘束する権利なんてね」

 ふと我に返ると、由羅がしゃべっていた。

 杏里の肩に手を置き、そっと身を離す。

「ただ、パートナーである以上、それが解消されるまでは、どこまでもおまえについていこうと思うけど」

 その言葉の裏にあるのは、底知れぬ諦念だ。

 なぜなの?

 どうして?

「そんな悲しいこと、言わないで」

 杏里は目尻に熱いものが滲むのを感じた。

 どうして私を離さないって言ってくれないの?  

 離れようとする由羅の背中に手を回し、力を込めて引き寄せる。

 顎を上げ、心持ち上を向くと、目を閉じ、唇をほんの少し、尖らせた。

「キスして」

「…だめだよ」
 
 由羅は乗ってこない。

 以前の由羅なら、嫌がる杏里を押さえつけてでも、強引に唇を奪ってきたのに。

 あの時の痺れるような感覚。

 あれをもう一度、味合わせてほしいのに…。

「じゃあ、抱いて」

 杏里は目を見開いた。

 そして、その怒った目を由羅に向けた。

「抱いて。今すぐここで。私のこと好きなら、抱いて、すべてを忘れさせて」



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