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第8部 妄執のハーデス
#70 インターバル②
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息詰まるような時が過ぎた。
が、いくら待っても、柚木たちの後は、誰もやってこなかった。
杏里はふと、Xは研修生の宿泊フロアではなく、別の場所にいるのではないか、と思った。
もともと予定されていなかった参戦である。
確かにフロアにはまだ空き部屋があった。
しかし、マコトが生前指摘したように、もし仮にXが委員会側の刺客であるとしたら、むしろ杏里たち研修生が到着する前から、この建物のなかにいた可能性が高いのではないか。
この建物の全貌がどうなっているのか、元より杏里には知るすべがない。
地下1階の会議室、地下2階の宿泊ルーム、地下3階の体育館と、これまで行き来したのはわずかこの3ヶ所にすぎないのだ。
エスカレーターはまだ下に続いているようだし、重人の話では地上部分だけでも3階以上ありそうだ。
Xが、そのどこかに杏里たちとは別の居住空間を与えられていたとしても、何の不思議もない。
「まだ来ないのか?」
由羅が訊いたのは、杏里がそんなことに思いを馳せている時だった。
「うん。誰も」
杏里は由羅の頭を胸に抱いたまま、答えた。
唾液で存分に潤した由羅の顔を、己の素肌に押しつけることでケアしていたのである。
「いくらなんでも遅すぎる。もう、試合が始まってる頃じゃないか」
由羅が顔を上げ、杏里を見た。
幸い、右の目蓋の腫れはかなり引き、なんとか眼を開けられるまでに快復したらしい。
「そうだね。時計、持ってないから正確にはわかんないけど、さっきアナウンスで言ってた15分は、とっくの昔に過ぎてる気がする」
「見に行こう」
杏里の肩に手を置き、身体のバランスを整えると、よろめきながら由羅が立ち上がった。
身体のどこかにも怪我をしているのか、なんとなく動きがぎこちない。
「大丈夫?」
とっさに由羅の右側に入り、肩で腕を支える杏里。
「ああ。おかげで目も見えるようになってきた。ありがとう」
杏里はくすっと笑った。
「やだ。お礼を言う由羅なんて、なんだか気持ち悪いよ」
「そうかな」
苦笑いするだけで、由羅は気分を害した様子もない。
「まだ本調子じゃないんだから、無理しないで」
「体育館の近くまで行くだけさ。第2試合がどうなってるのか、様子を探りたい」
休憩コーナーを出て、下りエスカレーターでB3フロアに戻った。
50メートルほど先の体育館の扉は閉まっている。
「やけに静かだな」
由羅がつぶやいた、まさにその瞬間だった。
体育館のほうから、だしぬけに耳をつんざくような高周波の音が響き渡った。
杏里は耳を押さえ、床にうずくまった。
「な、なに?」
耳を押さえていても脳の中にキリキリと刺し込んでくるその音は、まるで殺人超音波だ。
「これは、美晴の…?」
由羅がうめいた。
そのひと言で、杏里も思い出した。
美晴というのは、柚木のパートナーである、あの大人しそうな少女の名前だ。
自己紹介の席で、柚木は彼女について、こう言った。
ー美晴は、暴力や性的虐待を受けると、高周波の泣き声を発して、人間の脳を狂わせる…。
とすると、これがあの子の…。
「闘いは、もう始まってるんだ」
杏里同様、耳をふさいで由羅が顔をしかめた時、それが起こった。
どん!
突然、大音響とともに体育館の扉が左右に開いたかと思うと、真赤に燃え盛る炎が通路いっぱいに噴き出してきたのだ。
「下がれ! 杏里!」
由羅が杏里をかばって後ろに飛び退る。
渦巻く炎の舌を裂けて壁際まで退却したところに、燃え盛る何かが飛んできた。
炎に包まれたのボール状の物体が、大きくバウンドしながらこっちに向かってくる。
床に転がったその黒焦げの球体をひと目見て、杏里は悲鳴を上げた。
「いやああああっ!」
「マジかよ…」
泣きわめく杏里を抱きしめ、由羅が呆然ひとりごちた。
煙を上げてくすぶる、その丸いもの…。
それは、無残にも身体から引きちぎられた、あの柚木の頭部だったのだ。
が、いくら待っても、柚木たちの後は、誰もやってこなかった。
杏里はふと、Xは研修生の宿泊フロアではなく、別の場所にいるのではないか、と思った。
もともと予定されていなかった参戦である。
確かにフロアにはまだ空き部屋があった。
しかし、マコトが生前指摘したように、もし仮にXが委員会側の刺客であるとしたら、むしろ杏里たち研修生が到着する前から、この建物のなかにいた可能性が高いのではないか。
この建物の全貌がどうなっているのか、元より杏里には知るすべがない。
地下1階の会議室、地下2階の宿泊ルーム、地下3階の体育館と、これまで行き来したのはわずかこの3ヶ所にすぎないのだ。
エスカレーターはまだ下に続いているようだし、重人の話では地上部分だけでも3階以上ありそうだ。
Xが、そのどこかに杏里たちとは別の居住空間を与えられていたとしても、何の不思議もない。
「まだ来ないのか?」
由羅が訊いたのは、杏里がそんなことに思いを馳せている時だった。
「うん。誰も」
杏里は由羅の頭を胸に抱いたまま、答えた。
唾液で存分に潤した由羅の顔を、己の素肌に押しつけることでケアしていたのである。
「いくらなんでも遅すぎる。もう、試合が始まってる頃じゃないか」
由羅が顔を上げ、杏里を見た。
幸い、右の目蓋の腫れはかなり引き、なんとか眼を開けられるまでに快復したらしい。
「そうだね。時計、持ってないから正確にはわかんないけど、さっきアナウンスで言ってた15分は、とっくの昔に過ぎてる気がする」
「見に行こう」
杏里の肩に手を置き、身体のバランスを整えると、よろめきながら由羅が立ち上がった。
身体のどこかにも怪我をしているのか、なんとなく動きがぎこちない。
「大丈夫?」
とっさに由羅の右側に入り、肩で腕を支える杏里。
「ああ。おかげで目も見えるようになってきた。ありがとう」
杏里はくすっと笑った。
「やだ。お礼を言う由羅なんて、なんだか気持ち悪いよ」
「そうかな」
苦笑いするだけで、由羅は気分を害した様子もない。
「まだ本調子じゃないんだから、無理しないで」
「体育館の近くまで行くだけさ。第2試合がどうなってるのか、様子を探りたい」
休憩コーナーを出て、下りエスカレーターでB3フロアに戻った。
50メートルほど先の体育館の扉は閉まっている。
「やけに静かだな」
由羅がつぶやいた、まさにその瞬間だった。
体育館のほうから、だしぬけに耳をつんざくような高周波の音が響き渡った。
杏里は耳を押さえ、床にうずくまった。
「な、なに?」
耳を押さえていても脳の中にキリキリと刺し込んでくるその音は、まるで殺人超音波だ。
「これは、美晴の…?」
由羅がうめいた。
そのひと言で、杏里も思い出した。
美晴というのは、柚木のパートナーである、あの大人しそうな少女の名前だ。
自己紹介の席で、柚木は彼女について、こう言った。
ー美晴は、暴力や性的虐待を受けると、高周波の泣き声を発して、人間の脳を狂わせる…。
とすると、これがあの子の…。
「闘いは、もう始まってるんだ」
杏里同様、耳をふさいで由羅が顔をしかめた時、それが起こった。
どん!
突然、大音響とともに体育館の扉が左右に開いたかと思うと、真赤に燃え盛る炎が通路いっぱいに噴き出してきたのだ。
「下がれ! 杏里!」
由羅が杏里をかばって後ろに飛び退る。
渦巻く炎の舌を裂けて壁際まで退却したところに、燃え盛る何かが飛んできた。
炎に包まれたのボール状の物体が、大きくバウンドしながらこっちに向かってくる。
床に転がったその黒焦げの球体をひと目見て、杏里は悲鳴を上げた。
「いやああああっ!」
「マジかよ…」
泣きわめく杏里を抱きしめ、由羅が呆然ひとりごちた。
煙を上げてくすぶる、その丸いもの…。
それは、無残にも身体から引きちぎられた、あの柚木の頭部だったのだ。
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