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第8部 妄執のハーデス

#135 別れの時

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 流出…?
 その言葉が何かの合図ででもあったかのように、再び世界が暗転した。
 一瞬、断絶したかに思われた意識が元の連続性を取り戻した時には、杏里はまた暗闇の中にたたずんでいた。
 見上げる位置にあるのは、黄金色の蜜のような液体を満たしたあの巨大な円筒である。
 今のは、夢…?
 自分が質素なワンピース姿に戻っていることに気づいて、ふと杏里は思った。
 光あふれる白い部屋で、もうひとりの私を抱いた、あのめくるめく体験は、全部夢だったの?
 円筒の中を、クリオネそっくりの影が浮遊している。
 銀色の髪に囲まれたその丸い頭部の中心から、真紅の目が杏里を見つめていた。
 -夢といえば夢だけど、おまえの夢ではないー
 意味ありげに口角を吊り上げながら、サイコジェニーが”言った”。
 -あれはいわばあたしの見た夢。だからおまえにとっては、ある意味リアルなのさー
 なんのことかわからない。
 ただひとつ言えるのは、あれが誰の夢だったにせよ、杏里の中で何かが変わったというそのことだ。
 強くなった、というのとは少し違う。
 空虚な部分に何かが充填され、その分、存在自体が安定したような、そんな感じ…。
 ただ、由羅を失った傷は深い。
 心の隅にその痛みは固いしこりとなってわだかまったままだ。
 が、それでも、笹原杏里という存在自体は、以前より、なんとなく密度が高くなった気がする。
 世界における存在感が増したとでもいうのか…。
「流出って、何なの?」
 浮遊する魂のようなジェニーに向かって、杏里はたずねた。
「あなた、前にも言ってたよね。その言葉」
 そう。
 私にだけでなく、零にもその”流出”が始まったのだとか、確かそんな意味不明の言葉を、あの戦いのさなかに囁かれたような気がするのだ。
 -今はその言葉自体を記憶に留めておけばいい。高次のレベルの概念を一気に理解しようとするのは、どだい今のおまえには無理な話さ。それより、少し外来種について話そうか。我々、原種薔薇保存委員会は、最近ひとつの命題にかかりっきりになっている。それは、こんな謎だ。外来種を、いつ、誰がこの地球に持ち込んだのか、ということさ。セイヨウタンポポ、ミシシッピアカミミガメ、アリゲーターガー、ブルーギル…。現在、池や沼にはびこり、在来種を駆逐するそれらの外来生物たちをこの国に持ち込んだのは、まぎれもなく人間だ。ならば、人類の天敵足りうる黒野零たち”外来種”についても、当然、地球に持ち込んだ者がいるはずだ。そうじゃないか?ー
 外来種を、持ち込んだ者?
 急にスケールの大きくなった話の内容に、杏里は目をしばたたかせた。
 あらゆる点で人間を超える彼ら外来種。
 それを持ち込んだ者が存在するとすれば、それは当然、外来種をすら、はるかに超える者ということになる…。
 -まあ、今すぐ結論の出る事例ではないさ。だから、杏里、私はこれからのおまえの活躍に期待しているんだ。今回の”淘汰”をきっかけに、おまえは不死身の肉体と、究極のエロスを手に入れた。そのふたつがあれば、おそらくおまえは、今後、永遠に近い生を生きることも可能だろう。実は私は、おまえを見守ることで、その大いなる謎に迫っていけるんじゃないかとと考えているんだ。今、何食わぬ顔で人間社会に溶け込み、裏でひそやかな殺戮をくり返しながら息を潜めている外来種たち。彼らはいずれまたおまえに狙いをつけ、次から次へと襲いかかってくるだろう。おまえはタナトスとして人間たちのストレスを浄化しつつ、彼らと戦い続けることになる。その過程で、きっと何かがわかる。私には、そんな気がしてならないのさー
 ゆっくりと回転しながら、ジェニーの”声”が遠くなっていく。
 見ると、円筒がステージの中に徐々に沈み始めているのだった。
 
 光が消えると同時に、杏里の背後で空気の漏れるような音が響いた。
 エアロック状の扉が開き始めた音だ。
 終わった。
 その音に、杏里は何の前触れもなく、悟ったのだった。
 戦いも、会見も、ここで行われた何もかもが、今…。 

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