汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#32 証言 

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 退院翌日から、連日のように取り調べが続いた。
 職場にはしばらく休むと電話を入れておいた。
 すぐにクビを宣告されるかと思いきや、ニュースで事件のことが知れ渡っているせいか、店長の応対は歯切れが悪かった。
 芙由子が被害者なのか加害者なのか、ニュースからではすぐに判断がつかないからかもしれなかった。
 それは事情聴収にあたった刑事たちも同じで、病院にやってきたふたり組のように、最初から芙由子を容疑者から外している者もいれば、頭ごなしに疑ってかかる者もいた。
 ただ、共通しているのは、全員、岩瀬比奈の一件を知っていることだった。
「相原巧という大学生、知ってますよね? あのアパートの真上の部屋に住んでいるN大の2年生です。彼からだいたいの事情は聞きました。あの前日、あなたはベランダに出された比奈ちゃんを目撃し、たまりかねて相原巧と一緒に岩瀬の部屋を訪問した。そしてあの日、相原巧から岩瀬一家が不在らしいという連絡を受け、比奈ちゃんの様子を見に、職場を抜け出してアパートに行った。ところが運悪く、そこに正治が帰ってきて、捕まって監禁された。隙を見て逃げ出したあなたは、ベランダから外に出ようとしたところで正治ともみあいになり、そして何かが起きた。問題なのは、そこで何が起こったのかということです。正治の妻、明美も、夫が刺される瞬間は見ていなかったそうです。ただ、あなたはその直前まで隣の部屋に半裸状態で閉じ込められていて、凶器を手にしている様子はなかったと証言しています。現に、あの部屋の刃物類はすべてあるべきところに収まっており、欠けているものはありませんでした。あなたを脅す時に正治が使用した果物ナイフもそうです。これは、そのまま隣の部屋に落ちていましたから」
 病院に来た年かさの刑事のほうがそう話してくれたのだが、相原巧と岩瀬明美の証言が、芙由子に有利に働いているらしいことは確かだった。
「結局、あなた方以外の第三者の犯行と見るべきなのかもしれませんなあ。あの部屋の前を通りかかった何者かが、すばやくベランダに上がり込み、あなたを殺そうとしている岩瀬正治を刺した、とこういうことです。ガイシャは首の後ろをほぼ垂直に刺されています。これは、組み伏せられた姿勢のあなたが行うには、かなり困難の伴う行為です。誰かが岩瀬の背後に立ち、まっすぐに凶器を振り降ろしたと考えるほうがしっくりくる」
 刑事の説明を聞いて、芙由子は、そんなことがありえるだろうか、と思った。
 あの時、あの狭いベランダにもうひとり、別の人物がいたなんて…。
 だが、あえてそれは口にしなかった。
 それが正しいかどうかにかかわらず、警察の関心が別の方向へ向かうのは、芙由子にとって大歓迎だったからである。

 事件は大々的に報道されたが、芙由子に同情的な声が多かった。
 毎日のようにインタビューを受ける相原巧の姿がテレビ画面に映し出され、彼が比奈の虐待とそれを救おうとして芙由子が岩瀬正治に捕まったらしいという事実を、ニュースのたびに証言し続けたからである。
 世論は、犯人捜しより、麻薬常習者であり、児童虐待の主犯であった被害者への糾弾が中心となった。
 芙由子のアパートにはマスコミが押しかけ、外出もままならぬありさまだった。
 部屋に閉じこもり、芙由子は比奈のことを考え続けた。
 今頃、彼女はどうしているだろう。
 母親や弟とと一緒に、まだあの部屋に住んでいるのだろうか。
 それとも他に転居したのだろうか。
 比奈のアパートは芙由子の住居のすぐ近くだから、できるなら確かめに行きたかった。
 だが、周囲を取り囲むマスコミのせいで、それもままならない。
  マスコミたちが潮が引くように姿を消したのは、2週間ほどしてからのことである。
 週末に総理大臣のスキャンダルと芸能人の不倫が相次いで発覚し、世間の関心が一気にそちらを向いたからだった。
 ある朝、家の前が静かになっていることに気づき、おそるおそる玄関から顔をのぞかせると、ダウンジャケットに両手を突っ込んだ若者が、門扉の陰で寒そうに肩をすくめて立っていた。
「なかなか連絡とれなくって、ごめんなさい」
 芙由子を見ると、巧は、はにかんだように笑ってみせた。
「マスコミがすごくて。大学のレポートとかもあったし」
「色々ありがとう」
 芙由子は頭を下げた。
「巧君の証言のおかげで、なんとか犯人にされなくて済みそうです」
「いえ、僕はただ本当のことを言ったまでで」
 巧が照れたように頭を掻いた。
「寒いでしょう? 入りますか?」
 芙由子は玄関の引き戸を開けた。
 芙由子の住まいは、祖母の残した古い農家である。
 前庭に小さな畑。
 建物自体は今時珍しい、木造の平屋建てだ。
「じゃ、お言葉に甘えて」
 上がり框で靴を脱いだ巧を、8畳ほどの和室に誘った。
 熱いお茶を淹れて出すと、礼を言ってひと口飲み、巧が切り出した。
「きょう、うかがったのは、ほかでもありません。比奈ちゃんのことです」
「比奈ちゃん、どうしてますか?」
 芙由子は、テーブルの上に身を乗り出した。
 あの日、最後に抱きついてきた、比奈のぬくもりを思い出す。
 やっと聞ける。
 比奈ちゃんのその後を。
 切ない思いで、芙由子の胸は今にも張り裂けそうだった。

 
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