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夜空のラムネ
〈お化けの夜〉
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夜になると太陽が出ていない分、外は少しだけ涼しく感じた。
でもその代わりに出ている月が、目の前にある学校を一段と大きく見せていて、夜の学校はまるでゲームに出てくる敵のお城みたいだった。
重々しい感じと、窓が沢山あるからか、誰かに見られている気分だ。
正門に手をかけ乗り越えると、普段は気にならない鉄の音が、余計に大きく聞こえた。大丈夫。カエルの鳴き声がこの音を消してくれるはずだ。
夜の学校への登校に成功させると、いつも親しみ慣れた学校はなんだか雰囲気が違った。
どこまでも続いていそうな校庭に、何かが詰まっていそうな体育館。さらに昼間体育を見学していた日陰は、もはや近づいたらどこか違う空間に飛ばされてしまいそうなほど、ひっそりとしている。
自分の心臓の音が聞こえるほど静かな中庭を進んでいくと、消毒の匂いと知っているからなのか、そこに水が貼ってあるのがわかった。
目の高さほどにある壁と、その上に伸びるフェンスの隙間から中を覗くと、黒く光った水面が見えた。どうやら本当に割れた瓶の破片は取り除かれ、橘田先生の言う通り、次回から使用できるプールがそこに用意されていた。
飛び出しそうな心臓をなだめ、いったん深呼吸。
念の為辺りを見回すと、校舎四階。一番右端の窓。そこから真っ黒なカーテンが出たり入ったりと揺れていた。
確かそこは音楽室だ。
誰か居るのかと思い身を落としたが、電気も消えていて特にそれ以外に動く様子もない。きっと吹奏楽部か戸田先生が閉め忘れたのだろう。
僕は背負っていたリュックをそっと地面に置いた。中の物が割れてしまわないよう慎重に。
そしてリュックの中から、拾ってきた水色の綺麗な空き瓶を取りだすと、中に入っているビー玉が涼しい夏の音色を放った。
この季節よくスーパーに並んでいるラムネの瓶だ。
僕は身長の倍以上はあるプールのフェンスから距離を取り、前に投げた時の感覚を確認するように思い出した。
大丈夫。投げたあとは簡単だ。思いきり走って逃げればいい。
自分の勇気と体が合うのを待った。
心臓の音が徐々に勇気に近づいていき、やがて覚悟が決まる。
そして一回、二回と下から上に素振りをし、三回目で投げようとした時だった。
「あ、佐藤くん」
あるはずのない音。あるはずのない声に飛び跳ねた。
咄嗟に声の方へ振り向くと女の子が立っていた。
小柄女の子は、覗き込むように僕の元へ近寄ってくる。
「私、わたなべだよ」
僕の事を知っている、わたなべと名のつく苗字は、この学年には一人しかいない。
同じクラスの渡辺真子さんだ。
「佐藤くん。こんな所で何してるの?」
それはこっちのセリフだ。
「渡辺さんこそ、こんな夜になにしてるの?」
「えへへ。プールが使えるようになったって聞いたから、練習しに来たの」
透明のプールバックを掲げて笑っていた。
僕は彼女が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「もしかして、今から泳ぐの?」
「うん、佐藤くんも?」
とっさに隠した空き瓶を体の後ろで握り、今ここにいる理由で一番自然な答えを考えた。
「今日、橘田先生が、次回の体育はプールだって言ってたから。本当にもう使えるのか見に来ただけだよ」
これが自然の理由だろう。というよりこれ以外考えつかなかった。
「もう使えるから大丈夫だよ。はやくいこー」
そう言い渡辺さんはプールの入り口に向かった。
たしか渡辺さんは今日学校に登校してはいなかったはずだ。その彼女がなぜプールが使える事を知っているのか少し不思議だった。でも渡辺さんの行動は意味不明で謎だらけ。別に今更なんとも思わないし、理由も聞くつもりはなかった。
入り口の鎖をくぐり扉の前に立つと、渡辺さんはポケットから何かを取り出し、ガチャと音がすると、プールの扉は開いた。
流石にこの不思議には驚いた。なんでプールの鍵をもっているんだよ。
「レッツゴー」
進んでいく渡辺さんの足取りは、自分の部屋に入るかのように軽かった。
確認しに来たと言った手前、ここで帰るのはおかしいと思い、プール横の隅に瓶を隠し、渡辺さんの後を追った。
初めて入った夜のプールサイドは、水が周りの音を吸い込むように広がっていて、夜がさらに深く静かに感じ、何とも不気味な開放感が存在した。
「ちょっと着替えてくるねー」
女子更衣室に渡辺さんが消えて行くと、残された僕にする事は無かった。
フェンスに囲まれているからだろうか。突然風が消えた気がして、まるで時間が止まったようだった。
繰り返し聞こえるカエルの鳴き声が、体感時間を狂わせる。
一言で言うなら、怖かった。
渡辺さんはもし僕が偶然ここに居なかったら、一人で泳ぐつもりだったのだろうか。女子なのに根性があるのだと感心した。
多分。僕には無理だ。
瓶を投げ込むので精一杯だった。
「お待たせー」
渡辺さんからは、まるで緊張感が感じられなかった。
その証拠に着替えを終え戻って来た渡辺さんの頭には、ピンクの水中眼鏡と、手には潰れた袋のような物が握られていた。張り付くような音を立て広げると、それはドーナツの柄が入った浮き輪だとわかった。
「え、それを使うの?」
まさかそんな本格的にプールを楽しむとは思っていなかったから。
「うん、私これがないと泳げないから」
泳げないのになんでプールに来るのか。相変わらず不思議な事を言う。
浮き輪は女子の肺活量でも二、三分で大きな偽物のドーナツへと変身し、水面にふわふわと浮かんだ。
「よぉーし」
と言うと、渡辺さんは準備体操を始めた。と思ったらそれはすぐに終わり、プールの淵に腰を下ろし、まずは足から。と思ったら一気に飛び込み、プールに肩まで浸かった。
相変わらず動きがトリッキーだ。
「ひぃーつめたーい」
小柄な渡辺さんでもパンパンに入ったプールの水は、勢いよく溢れてタポタポタと音を立て水が揺れている。
「佐藤くんも入っちゃえば?」
またおかしな事を言っている。
「水着じゃないから入らないよ」
そのほかにも理由はあるけど。
僕の言葉なんか待たずに、渡辺さんは浮き輪に体をはめて、水面を滑るように進んで行き、プールの真ん中でくるくると回って喜んでいた。
流石に深夜とはいえ、声をあまり出すのはバレてしまいそうで怖かったので、人差し指を立て渡辺さんに合図を送るが、そんなものは全く通じなかった。
見つかって怒られてもしらないぞ。
でもすぐに「飽きた」と渡辺さんは戻って来た。浮き輪から抜け、やっと泳ぐ気になったのか。プールの淵に捕まり、足をバタバタとさせている。
またしても僕は水を叩く音が気になった。
「ちょっと、渡辺さん」
「なに? 泳ぎ方おかしい?」
「いや、それはわからないけど、音がうるさいと思うよ」
「なんだ、そんな事か。それなら大丈夫だよ」
そう言うと今度は、顔をつけバタバタと足を動かし始めた。
もう知らない。せっかく忠告してあげているのに。
だけれどいくら渡辺さんが音を出しても何も起こらず、なんだかビビっていた自分が恥ずかしかった。
渡辺さんはしばらくバタバタしていると、やっと頭から水中眼鏡を装着し、プールの淵沿いを泳ぎだした。でも少し進んでは足をつき、また大きく息を溜めて進んでは足をつきの繰り返し。どうやら本当に泳げなくて練習しているみたいだ。
それから僕は渡辺さんが溺れないように監視しながら、一応あたりにも目を配っていると、さっきまで泳いでいた渡辺さんが消えていた。
水がプールの淵にハマる音を残し、消えた渡辺さんを探そうと、プール際まで駆け寄ると、怪獣のように勢い良く渡辺さんが水面から顔を上げた。
「やったぁ、新、記録」
ちゃんと装着できていないのかゴーグルの中には水が溜まっている。
「あれ、佐藤くんどーしたの?」
止まっていた自分の体から力が抜け、時間が動く。
潜水の練習をしていたのか。
「急に居なくなるから」
「あは、ごめーん。溺れたと思った?」
思ったよ。バカ。
渡辺さんはプールから上がると「今日の練習はこれで終わり」と言い、ペンギンのように足音を立て更衣室へ入っていった。
静けさと水の動く音が残るプールの淵を、行き場をなくした浮き輪が浮遊していた。どうせ渡辺さんの事だから忘れているんだろう。僕には関係ないけど明日の朝この浮き輪が見つかって、問題になるのはまずい。そう思い浮き輪に手を伸ばすと、靴を履いていたせいか、ゴム底の靴がプールの淵で滑り、気がつくと……。
僕は水中にいた。
つるっと手が底で滑る感覚。
お尻が水面に浮かび、頭が上がらない。
鼻から水が入り、視界はぼやけ、服が水の抵抗を受けてしまい腕がうまく動かず、なんとか顔を出した水面からは酸素の代わりに、コップ一杯の水が口の中に流れ込み、重りのように肺へと落ちてきた。
自分が今どうなっているのか方向が分からず、何か捕まるものを探すがどこに伸ばしてもそこら中壁だった。
でんぐり返しをしている時のような視界が続く中で、細くて柔らかいものが僕の手に当たった。とっさにそれを掴むとやっと自分が下を向いている事に気づき、顔を上げると、ぐるっと視界が元に戻り、渡辺さんの顔が目の前にあった。
「佐藤くん、服着て泳ぐのは危ないんだよ」
腹の中から全てが出そうなほど出る強い咳が止まらず、一緒に飲み込んだ大量の空気がゲップのように口から出て行く。
渡辺さんの腕を離し、プールの淵に捕まるが、体を持ち上げる力は出なかった。
「わぁ佐藤くんいーなー。一番深い所で足がつくんだ」
言われてはじめて自分が足を付いて立っていることに気がついた。
「浮き輪を取りに来たら、佐藤くんが泳いでるからびっくりしたよ」
渡辺さんには僕が泳いでいるように見えたのか。
僕は何とか入る力を腕に込め、体をプールからずり上げた。
しばらくここから動けそうになかった。なのに渡辺さんときたら。
「わっ。もうこんな時間。佐藤くん急がなきゃ」
渡辺さんは浮き輪を肩にかけ、言った通り出口へと駆けていく。僕には急ぐ力も、渡辺さんについて行く理由もないが、ここにいては渡辺さんが入り口の鍵を閉めれないので、水の吸った服を持ち上げ出口へと体を引きずった。
ゾンビみたいに、僕がプールの入り口から出ると、急いでいる為か、大雑把なのか、渡辺さんは勢いよく扉を閉め鍵を掛けた。だからその後の、しっかりと鍵をかけた事を、ドアノブを回し再度確認する渡辺さんの行動は、性格からして不思議な光景に思えた。
入り口に置きっ放しの空のリュックに腕を通すと、「早く早く」とまだ渡辺さんは急いでいた。
「なんでそんなに急いでるの?」
渡辺さんの事だからきっと見たいバラエティ番組か、深夜アニメが原因だろう。
しかし彼女の口からは意外な理由が返ってきた。
「もうすぐ見回りの人が来るの」
そんな大事な事はもっと早く言って欲しかった。
「だから走るよ、佐藤くん」
でもそのおかげで僕の体は、濡れた服の重さなんてあっという間に忘れてくれたみたいで、来た道を戻る渡辺さんの後を、しっかりと付いて行く事が出来た。
むしろ濡れて重い靴は、前を走る渡辺さんの後を付いていくのにはちょうどいいハンデになっていて、どんなに早く走っても渡辺さんを追い越す事は出来そうになかった。
「よし大丈夫。間に合ったよ」
人がひとり通れるだけの隙間が空いた門を抜け、彼女はそう言った。
何が大丈夫だ。見回りが来るなら、きっとこの正門から入るだろう。
「ここに居たら、見回りの人に見つかっちゃわない?」
「そっか。佐藤くんは頭がいいね。じゃ、さっさとズラかろう」
なんだそれ。
映画や漫画でしか使わないそのかっこいいセリフも、ドーナツの浮き輪を担いでいては台無しだった。
そんなギャグ漫画のような見た目の少女は「あばよっ」と、これまたカッコつけた挨拶を僕に送り、夜の道を泳ぐように帰って行った。
ずぶ濡れでひとり正門に取り残された僕は、本当はその場でしゃがみ込みたかった。でもここに居ては厄介な事になるので、正義の味方にやられて逃げる悪者のようにその場から立ち去った。
それから何分経っただろうか。夜に包まれた空間では、体感時間もまるで役に立たない。親しみ慣れた下校通路も、一向に進んでいる気がしなかった。
このくらいくれば大丈夫だろう。
学校と家の中間付近で足を止め、まるで真空パックのように張り付いた上着を、幕を剥ぐように脱ぐと、濡れた体にやっと夜風を感じた。
体から香る消毒の匂いが、今日の出来事を思い出させる。そして本当の目的も。
「あ、瓶置いて来ちゃった」
そう呟いた僕の言葉は、カエルやコオロギの鳴き声と混ざり、夜の空に吸い込まれていった。
でもその代わりに出ている月が、目の前にある学校を一段と大きく見せていて、夜の学校はまるでゲームに出てくる敵のお城みたいだった。
重々しい感じと、窓が沢山あるからか、誰かに見られている気分だ。
正門に手をかけ乗り越えると、普段は気にならない鉄の音が、余計に大きく聞こえた。大丈夫。カエルの鳴き声がこの音を消してくれるはずだ。
夜の学校への登校に成功させると、いつも親しみ慣れた学校はなんだか雰囲気が違った。
どこまでも続いていそうな校庭に、何かが詰まっていそうな体育館。さらに昼間体育を見学していた日陰は、もはや近づいたらどこか違う空間に飛ばされてしまいそうなほど、ひっそりとしている。
自分の心臓の音が聞こえるほど静かな中庭を進んでいくと、消毒の匂いと知っているからなのか、そこに水が貼ってあるのがわかった。
目の高さほどにある壁と、その上に伸びるフェンスの隙間から中を覗くと、黒く光った水面が見えた。どうやら本当に割れた瓶の破片は取り除かれ、橘田先生の言う通り、次回から使用できるプールがそこに用意されていた。
飛び出しそうな心臓をなだめ、いったん深呼吸。
念の為辺りを見回すと、校舎四階。一番右端の窓。そこから真っ黒なカーテンが出たり入ったりと揺れていた。
確かそこは音楽室だ。
誰か居るのかと思い身を落としたが、電気も消えていて特にそれ以外に動く様子もない。きっと吹奏楽部か戸田先生が閉め忘れたのだろう。
僕は背負っていたリュックをそっと地面に置いた。中の物が割れてしまわないよう慎重に。
そしてリュックの中から、拾ってきた水色の綺麗な空き瓶を取りだすと、中に入っているビー玉が涼しい夏の音色を放った。
この季節よくスーパーに並んでいるラムネの瓶だ。
僕は身長の倍以上はあるプールのフェンスから距離を取り、前に投げた時の感覚を確認するように思い出した。
大丈夫。投げたあとは簡単だ。思いきり走って逃げればいい。
自分の勇気と体が合うのを待った。
心臓の音が徐々に勇気に近づいていき、やがて覚悟が決まる。
そして一回、二回と下から上に素振りをし、三回目で投げようとした時だった。
「あ、佐藤くん」
あるはずのない音。あるはずのない声に飛び跳ねた。
咄嗟に声の方へ振り向くと女の子が立っていた。
小柄女の子は、覗き込むように僕の元へ近寄ってくる。
「私、わたなべだよ」
僕の事を知っている、わたなべと名のつく苗字は、この学年には一人しかいない。
同じクラスの渡辺真子さんだ。
「佐藤くん。こんな所で何してるの?」
それはこっちのセリフだ。
「渡辺さんこそ、こんな夜になにしてるの?」
「えへへ。プールが使えるようになったって聞いたから、練習しに来たの」
透明のプールバックを掲げて笑っていた。
僕は彼女が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「もしかして、今から泳ぐの?」
「うん、佐藤くんも?」
とっさに隠した空き瓶を体の後ろで握り、今ここにいる理由で一番自然な答えを考えた。
「今日、橘田先生が、次回の体育はプールだって言ってたから。本当にもう使えるのか見に来ただけだよ」
これが自然の理由だろう。というよりこれ以外考えつかなかった。
「もう使えるから大丈夫だよ。はやくいこー」
そう言い渡辺さんはプールの入り口に向かった。
たしか渡辺さんは今日学校に登校してはいなかったはずだ。その彼女がなぜプールが使える事を知っているのか少し不思議だった。でも渡辺さんの行動は意味不明で謎だらけ。別に今更なんとも思わないし、理由も聞くつもりはなかった。
入り口の鎖をくぐり扉の前に立つと、渡辺さんはポケットから何かを取り出し、ガチャと音がすると、プールの扉は開いた。
流石にこの不思議には驚いた。なんでプールの鍵をもっているんだよ。
「レッツゴー」
進んでいく渡辺さんの足取りは、自分の部屋に入るかのように軽かった。
確認しに来たと言った手前、ここで帰るのはおかしいと思い、プール横の隅に瓶を隠し、渡辺さんの後を追った。
初めて入った夜のプールサイドは、水が周りの音を吸い込むように広がっていて、夜がさらに深く静かに感じ、何とも不気味な開放感が存在した。
「ちょっと着替えてくるねー」
女子更衣室に渡辺さんが消えて行くと、残された僕にする事は無かった。
フェンスに囲まれているからだろうか。突然風が消えた気がして、まるで時間が止まったようだった。
繰り返し聞こえるカエルの鳴き声が、体感時間を狂わせる。
一言で言うなら、怖かった。
渡辺さんはもし僕が偶然ここに居なかったら、一人で泳ぐつもりだったのだろうか。女子なのに根性があるのだと感心した。
多分。僕には無理だ。
瓶を投げ込むので精一杯だった。
「お待たせー」
渡辺さんからは、まるで緊張感が感じられなかった。
その証拠に着替えを終え戻って来た渡辺さんの頭には、ピンクの水中眼鏡と、手には潰れた袋のような物が握られていた。張り付くような音を立て広げると、それはドーナツの柄が入った浮き輪だとわかった。
「え、それを使うの?」
まさかそんな本格的にプールを楽しむとは思っていなかったから。
「うん、私これがないと泳げないから」
泳げないのになんでプールに来るのか。相変わらず不思議な事を言う。
浮き輪は女子の肺活量でも二、三分で大きな偽物のドーナツへと変身し、水面にふわふわと浮かんだ。
「よぉーし」
と言うと、渡辺さんは準備体操を始めた。と思ったらそれはすぐに終わり、プールの淵に腰を下ろし、まずは足から。と思ったら一気に飛び込み、プールに肩まで浸かった。
相変わらず動きがトリッキーだ。
「ひぃーつめたーい」
小柄な渡辺さんでもパンパンに入ったプールの水は、勢いよく溢れてタポタポタと音を立て水が揺れている。
「佐藤くんも入っちゃえば?」
またおかしな事を言っている。
「水着じゃないから入らないよ」
そのほかにも理由はあるけど。
僕の言葉なんか待たずに、渡辺さんは浮き輪に体をはめて、水面を滑るように進んで行き、プールの真ん中でくるくると回って喜んでいた。
流石に深夜とはいえ、声をあまり出すのはバレてしまいそうで怖かったので、人差し指を立て渡辺さんに合図を送るが、そんなものは全く通じなかった。
見つかって怒られてもしらないぞ。
でもすぐに「飽きた」と渡辺さんは戻って来た。浮き輪から抜け、やっと泳ぐ気になったのか。プールの淵に捕まり、足をバタバタとさせている。
またしても僕は水を叩く音が気になった。
「ちょっと、渡辺さん」
「なに? 泳ぎ方おかしい?」
「いや、それはわからないけど、音がうるさいと思うよ」
「なんだ、そんな事か。それなら大丈夫だよ」
そう言うと今度は、顔をつけバタバタと足を動かし始めた。
もう知らない。せっかく忠告してあげているのに。
だけれどいくら渡辺さんが音を出しても何も起こらず、なんだかビビっていた自分が恥ずかしかった。
渡辺さんはしばらくバタバタしていると、やっと頭から水中眼鏡を装着し、プールの淵沿いを泳ぎだした。でも少し進んでは足をつき、また大きく息を溜めて進んでは足をつきの繰り返し。どうやら本当に泳げなくて練習しているみたいだ。
それから僕は渡辺さんが溺れないように監視しながら、一応あたりにも目を配っていると、さっきまで泳いでいた渡辺さんが消えていた。
水がプールの淵にハマる音を残し、消えた渡辺さんを探そうと、プール際まで駆け寄ると、怪獣のように勢い良く渡辺さんが水面から顔を上げた。
「やったぁ、新、記録」
ちゃんと装着できていないのかゴーグルの中には水が溜まっている。
「あれ、佐藤くんどーしたの?」
止まっていた自分の体から力が抜け、時間が動く。
潜水の練習をしていたのか。
「急に居なくなるから」
「あは、ごめーん。溺れたと思った?」
思ったよ。バカ。
渡辺さんはプールから上がると「今日の練習はこれで終わり」と言い、ペンギンのように足音を立て更衣室へ入っていった。
静けさと水の動く音が残るプールの淵を、行き場をなくした浮き輪が浮遊していた。どうせ渡辺さんの事だから忘れているんだろう。僕には関係ないけど明日の朝この浮き輪が見つかって、問題になるのはまずい。そう思い浮き輪に手を伸ばすと、靴を履いていたせいか、ゴム底の靴がプールの淵で滑り、気がつくと……。
僕は水中にいた。
つるっと手が底で滑る感覚。
お尻が水面に浮かび、頭が上がらない。
鼻から水が入り、視界はぼやけ、服が水の抵抗を受けてしまい腕がうまく動かず、なんとか顔を出した水面からは酸素の代わりに、コップ一杯の水が口の中に流れ込み、重りのように肺へと落ちてきた。
自分が今どうなっているのか方向が分からず、何か捕まるものを探すがどこに伸ばしてもそこら中壁だった。
でんぐり返しをしている時のような視界が続く中で、細くて柔らかいものが僕の手に当たった。とっさにそれを掴むとやっと自分が下を向いている事に気づき、顔を上げると、ぐるっと視界が元に戻り、渡辺さんの顔が目の前にあった。
「佐藤くん、服着て泳ぐのは危ないんだよ」
腹の中から全てが出そうなほど出る強い咳が止まらず、一緒に飲み込んだ大量の空気がゲップのように口から出て行く。
渡辺さんの腕を離し、プールの淵に捕まるが、体を持ち上げる力は出なかった。
「わぁ佐藤くんいーなー。一番深い所で足がつくんだ」
言われてはじめて自分が足を付いて立っていることに気がついた。
「浮き輪を取りに来たら、佐藤くんが泳いでるからびっくりしたよ」
渡辺さんには僕が泳いでいるように見えたのか。
僕は何とか入る力を腕に込め、体をプールからずり上げた。
しばらくここから動けそうになかった。なのに渡辺さんときたら。
「わっ。もうこんな時間。佐藤くん急がなきゃ」
渡辺さんは浮き輪を肩にかけ、言った通り出口へと駆けていく。僕には急ぐ力も、渡辺さんについて行く理由もないが、ここにいては渡辺さんが入り口の鍵を閉めれないので、水の吸った服を持ち上げ出口へと体を引きずった。
ゾンビみたいに、僕がプールの入り口から出ると、急いでいる為か、大雑把なのか、渡辺さんは勢いよく扉を閉め鍵を掛けた。だからその後の、しっかりと鍵をかけた事を、ドアノブを回し再度確認する渡辺さんの行動は、性格からして不思議な光景に思えた。
入り口に置きっ放しの空のリュックに腕を通すと、「早く早く」とまだ渡辺さんは急いでいた。
「なんでそんなに急いでるの?」
渡辺さんの事だからきっと見たいバラエティ番組か、深夜アニメが原因だろう。
しかし彼女の口からは意外な理由が返ってきた。
「もうすぐ見回りの人が来るの」
そんな大事な事はもっと早く言って欲しかった。
「だから走るよ、佐藤くん」
でもそのおかげで僕の体は、濡れた服の重さなんてあっという間に忘れてくれたみたいで、来た道を戻る渡辺さんの後を、しっかりと付いて行く事が出来た。
むしろ濡れて重い靴は、前を走る渡辺さんの後を付いていくのにはちょうどいいハンデになっていて、どんなに早く走っても渡辺さんを追い越す事は出来そうになかった。
「よし大丈夫。間に合ったよ」
人がひとり通れるだけの隙間が空いた門を抜け、彼女はそう言った。
何が大丈夫だ。見回りが来るなら、きっとこの正門から入るだろう。
「ここに居たら、見回りの人に見つかっちゃわない?」
「そっか。佐藤くんは頭がいいね。じゃ、さっさとズラかろう」
なんだそれ。
映画や漫画でしか使わないそのかっこいいセリフも、ドーナツの浮き輪を担いでいては台無しだった。
そんなギャグ漫画のような見た目の少女は「あばよっ」と、これまたカッコつけた挨拶を僕に送り、夜の道を泳ぐように帰って行った。
ずぶ濡れでひとり正門に取り残された僕は、本当はその場でしゃがみ込みたかった。でもここに居ては厄介な事になるので、正義の味方にやられて逃げる悪者のようにその場から立ち去った。
それから何分経っただろうか。夜に包まれた空間では、体感時間もまるで役に立たない。親しみ慣れた下校通路も、一向に進んでいる気がしなかった。
このくらいくれば大丈夫だろう。
学校と家の中間付近で足を止め、まるで真空パックのように張り付いた上着を、幕を剥ぐように脱ぐと、濡れた体にやっと夜風を感じた。
体から香る消毒の匂いが、今日の出来事を思い出させる。そして本当の目的も。
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