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夜空のラムネ
〈始まりの瞬間〉
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頭にくるほど良い天気だった。
寝る前まで、覚悟が決まらなかった気持ちも、布団から出て、外に出てしまえばもう学校に進むしかない。
学校に着くと、正門前では今日も先生達が元気に挨拶をしていた。
今日ぐらいはいいだろう。僕だって機嫌の悪い時はあるし、挨拶したくない日だってある。
僕は作り笑で出迎える先生達を無視して、教室へ急いだ。
扉をあけ中に入ると、教室内は騒がしく、いつもより居心地が悪かった。
無駄に立ち歩き、はしゃぐ男子達の隙間から席に座る渡辺さんが見えた。
渡辺さんは机の上にプール道具を置いて、水中眼鏡のレンズになにやら吹きかけている。たぶん曇り止めのスプレーだろう。珍しく真剣な表情をしている。
朝の会が終わり、男子と女子に分かれて着替えが行われると、僕の心臓は、突然壊れ始めたかのように大きく動き出した。手や足に力が入らなかった。それでも無理やり足を動かし、みんなより先に教室を出て、職員室へ向かった。
どうせ富山に怒られるなら、早く怒られたかったから。
降りてきた階段の上から、プールに気持ちが湧く男女の入り混じった声が、僕を追いかけるように降りて来る。
それはまるでプール以外にも、何か楽しみを見つけたかのような、凄く嫌な笑い声だった。
職員室の扉を叩き中に入ると、先生達はほとんどいなくて、ちょうど席を立った戸田先生が僕に気づいた。
「あら佐藤くん。おはよっ」
「おざす……。富山先生っていますか?」
「もうプールに向かったよ?」
「そうなんですね、ありがとうございます」
これだけの会話のやりとりで、戸田先生は僕の変化に気づいたのだろう。僕が職員室を去ろうとすると、また名前を呼ばれた。
「佐藤くん。もしかして今日も見学?」
モデルのような足で近づく戸田先生の顔は、今までで一番お姉さんだった。
何も言わず僕が頷くと、戸田先生は全てを知っているかのように、僕の頭に手を乗せて優しく言った。
「また怒られちゃうよ。そんなんじゃ学校休んじゃえばいいのに」
それができるならしたかった。
「どっちにしろ怒られちゃうんで。それに……」
「ん?」
もう僕には休む理由がなかったから。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも無いです。もう覚悟はできているんで、多分。大丈夫です」
僕がそう答えると、戸田先生は僕の体をすり抜けるように横切り言った。
「よく我慢したね」
なんの事かわからなかった。
その言い方は、僕に何も言わせないように。
まるでヒントを与えるような。
でもその口調は、僕に勇気をくれた。
だからプールに向かう足が少しだけ、自分の物になった。
その足が恐怖で再び動かなくなる前に、僕はプールへ急いだ。
プールに出ると、富山は熱々の床にホースで水をまいていた。
大丈夫。怒られる覚悟はできた。というよりそれしか方法はなかった。
富山は僕の方を見ようとはしない。
気づいているはずなのに。
プールの水面に映る自分の姿が、なんだか昔の田中さんとかぶって見えたのは気のせいだろうか。
「富山先生」
僕が呼びかけると、富山はやっと僕を見た。制服のままの僕を。
「あ?」
僕は先読みした。具合が悪いから休ませてくださいと言った未来を。
きっと富山は僕の嘘を見破り、そのホースで顔に水をかけてくるだろう。
田中さんの時と同じように。
具合が悪いとか、忘れたとかしか自分を守る方法がない僕達に。みんなの前で、まるで見せびらかすかのように。
理由は多分僕達の事を思ってではない。自分の授業をサボられた、ただの腹いせだ。
出来ない事をみんなの前でやらせる行為は、田中さんのような人を生む事を知らないんだ。
だから僕は本当の事を言いたくなった。
本当の事を言おうと決めていた。
お互い頑張る為に。
「泳ぎたくないので、見学してます」
そう、これが僕。これが本当の理由。
僕は先生に逆らったんじゃ無い。本当の事を言うしかない状況に、先生が追い込んだのだ。
ほら丁度クラスのみんなが揃ってやってきた。
富山は思った通り僕の顔にホースで水をかけて言う。
「もう一度言ってみろ」
何度でも言う。それしか答えと逃げ道を用意してくれないから。
「泳げないので見学させてください」
怯えて絞り出すような声で言った田中さんの時みたいに、見せしめに怒鳴りつけるだろう。大丈夫。もう覚悟は決まった。
富山のゴツイ手が僕の肩を払う。
「あ?」
クラスの声が小さくなった。僕が怒られている事に気づいたんだろう。それに気づいた富山はもっと怒るだろう。僕達みたいなめんどくさい生徒が今後現れないように。
「わー。いい天気。みんなよかったねー」
戸田先生の声だった。
「富山先生。ちょっと私も授業に参加してもよろしいですか?」
徐々に戸田先生の声は大きくなり、やがて僕の横で止まった。
戸田先生が来た事で、普段生徒に見せている富山の態度は、仕事仲間に見せる態度へと変わっていく。
「そこで見てろ」
富山は顎で見学者用のテントを指した。
「はい。ありがとうございます」
僕がテントの下に入るとすぐに授業は開始された。
なのに、出席番号順に並んでいるクラスの列に、渡辺さんの姿はなかった。
さっきまで渡辺さんは教室に居たんだ。ここに来ないはずがない。
何かがおかしく感じた。
渡辺さんの事など待つ様子もなく、出席番号一番から三番までの男女がプールに浸かり、記録測定がスタートした。
するとプールの入り口から、扉の開く音が聞こえた。
きっと渡辺さんだ。
だけどプールの玄関から入って来たのは、渡辺さんではなく、田中さんだった。
久々に見る田中さんの制服姿。クラスのみんなも田中さんに気づき、列がザワつき始めた。
「まきちゃーん」
最初誰の事かわからなかったが、戸田先生が田中さんをそう呼び抱きついたのを見て思い出した。田中さんの名前を。
田中真樹。それが彼女のフルネームだ。カカシの田中なんて名前じゃない。
「戸田先生。渡辺さんは?」
田中さんの質問に、戸田先生もキョロキョロと列の中を探すが、渡辺さんの姿は今もなかった。
順番は徐々に近づき、そろそろ渡辺さんの番だ。
するともう一度。田中さんが入って来た入り口から扉の開く音が聞こえ、今度こそ渡辺さんがやってきた。
でも、様子がいつもと違った。渡辺さんはすでに肩で息をし、顔にも焦りの表情が浮かんでいる。
急いで列に加わるが、渡辺さんから困ったような表情が消える事はなく、次第に順番は近づいていき、ついに渡辺さんの番がやってきた。
ゆっくりと、降りるように渡辺さんがプールに体を沈めた時、僕だけが気づいた。
渡辺さんの額に、いつもの水中眼鏡が無い事に。
教室の時は確かにあった。ここまでの道のりでなくすわけがない。
何かがおかしかった。
そう。いつもある声が聞こえないのだ。
水上や手塚が静かだった。女子達の悲鳴のような声も今日は聞こえない。
それは田中さんを仲間外れにした時と同じ雰囲気で、僕がクラスから消えた日と似ていた。
気づけばクラスが一つになっていた。
始まりかけていたものが、本格的に今日。たった今。始まったのだ。
田中さんもクラスの雰囲気に気づき、涙を流すくらい下唇を強く噛んでいる。
渡辺さんの前を泳ぐ女子が半分を過ぎた。渡辺さんが泳ぐ番だ。
勢いよく、毎晩練習したように、渡辺さんは水中の壁を蹴り泳ぎだした。
しかし夜のようにまっすぐには進めなかった。練習を見ていた僕だけがわかるだろう。
泳げない渡辺さんが、初めて水を怖がっていた。
理由はきっと、何も見えていないから。
もがくように、それでも諦めず渡辺さんは、なんとか手足を動かしていた。
それは何も知らない奴からしたら、とてつもなく滑稽な姿に見えるだろう。
笑えるだろう。いや、笑う理由がクラスにはあった。
渡辺さんの他の人とは少し違う所。
学校に来たりこなかったり、おかしな奴のおかしな行動。
知らなきゃ確かに気持ち悪いだろう。
知らなきゃ都合のいい標的だろう。
そうだ。お前らには笑う理由も、いじめる意味もある。
僕のクラスは、何も間違っていなかった。
ごめん。渡辺さん。
僕は見て居られなかった。とても応援なんかできなかった。
また先読みしてしまったから。渡辺さんがどうなるか、わかってしまったから。
気づけば僕はプールを飛び出していた。
夏の太陽が照りつけ、アスファルトの熱気が僕を笑う。
見たくなかった。見れなかった。なぜならば僕には渡辺さんを笑う理由がなかったから。みんなと同じく渡辺さんをいじめる理由も、はぶく理由も。何一つなかったから。
渡辺さんの意味不明な行動は誰の為か。理由も知っている。ただ先生の笑顔が見たかっただけだ。勉強もできない。運動もできない。それは笑う理由にはならなかった。なぜならば、僕だけが渡辺さんの行動の意味と、理由を知っているから。
だから僕は逃げたんじゃない。
昨日。僕は応援すると、きっと渡辺さんと約束したから。
僕にはあの夜の日々があるから。
だから。だから僕は。あの日。あの夜。投げる事のできなかったラムネの瓶を握り、プールへ戻っていた。
みんなが止まっていた。何が起きているのか解らないって顔だ。
瓶の中で転がるビー玉の音だけが、僕の耳に届いた。
あの夜聞いた音だ。
勇気なんて待っている暇など僕にはなかった。
大丈夫。簡単だ。ただ投げるだけ。
優しく、渡辺さんに手を差し伸べるように。
僕は瓶をプールに投げ込んだ。
渡辺さんに見えるように、目印になるように。プールの真ん中、二人で練習したあのゴールライン。木の場所に。
投げた瞬間。再び瓶が鳴った。
風鈴のように涼しげな音を残し、瓶はゆっくりとプールの真ん中。僕たちのゴールラインに着水した。
その衝撃で、小さな水しぶきが、まるで手を上げたかのように水面から飛び跳ねた。
初めて僕が皆の瞳に映っていた。 初めてみんなが僕に驚いていた。
それは、僕が瓶を投げたからじゃない。
水中の渡辺さんにも聞こえるように、目を開けるように。沈んでいる瓶を目指すように、僕が渡辺さんの名前を叫んだからでもない。
富山より先に動き、プールに飛び込んだ戸田先生よりも早く。
僕がプールに飛び込んだからだ。
大丈夫。泳げないけど、つま先はつく。あの夜、渡辺さんが教えてくれた事だ。
かっこ悪いと思うなら笑えばいい。
君達にはそれをしていい理由がある。
僕達を笑う意味もある。
だってこの学校で一番力を持っているのは、君達なのだから。
大丈夫。君達クラスは何も間違っていない。
でも間違っていないのは僕も同じだ。
僕には渡辺さんを守る理由がある。
だから胸をはっていいはずだ。
波立つ水が拳のように僕の顔を殴りつける。
そんなもの怖くもないし、痛くもない。
僕は伸ばせるだけ腕を伸ばし、限界までつま先を底につけた。
飛び跳ねた水が目に入ったせいだろう。ぼやける視界の中で僕は探した。
大事な友達を。大切な渡辺真子さんを。
すると水面が爆発し、水しぶきの中から渡辺さんが顔を出した。
僕は力いっぱい彼女を支えた。
渡辺さんは、支える僕の腕をよじ登り、肩にしがみつくと声を上げた。
僕の投げた瓶を、まるでトロフィーのように空に掲げて。
「瓶、がみえたー。瓶がみえたの。キラキラ光ったの。突然、落ちてき、たの。だ、から泳げたの。場所がわかったの。見てた? 佐藤くん。ねー見てた?」
水を吐き出し、むせ返りながらも、渡辺さんは叫んで教えてくれている。
「うん。見てたよ。泳げたよ。すごいよ渡辺さんは」
「水の中がすごく、綺、麗だった、の、目が開けれたの」
「うん、よかった」
みんなが驚いていた。
それは僕が笑っているからでもなく。
渡辺さんが泳げたからでもない。
きっとそれは。僕が渡辺さんと友達だったから。
そして渡辺さんが僕と友達だったから。
さぁ言いたい事があれば言えばいい。
決して辞める必要なんてない。まだいじめたければ続ければいい。まだ無視するならしていればいい。
大丈夫。大人なんかに頼ったりもしないから。
思う存分楽しんでいればいい。
でもこれだけは言わせてもらう。
僕達は、そんな君達を無視する理由も意味もある。
関わらない事で、交わらない事で、僕達は君達より多くの大切な事学んで、ここを卒業していく。
僕は初めてクラスのみんなと目を合わせた。
初めて一人ひとりの顔を確認していた。
なのに渡辺さんときたら。
「はい、これ。記念にあげる」
そう言って、瓶を僕に差し出していた。
いいんだ。それが渡辺さんだ。
渡辺さんの行動は意味不明で謎だらけ。それが彼女の良いところだ。
絶対に周りとかぶらない。最高の友達だ。
だからちゃんと、しっかりと言わなければいけない。
お礼を。
「ありがとう。渡辺さん」
周りが止まっていて、僕達だけが動いていた。
あれだけ止まらなかった時間が初めて止まっている。
僕の願いが初めて通じたんだ。
だからちゃんと聞こえた。
「えへへっ」
大事な友達の笑い声が。
昼間のプールが、まるで夜みたいだった。
寝る前まで、覚悟が決まらなかった気持ちも、布団から出て、外に出てしまえばもう学校に進むしかない。
学校に着くと、正門前では今日も先生達が元気に挨拶をしていた。
今日ぐらいはいいだろう。僕だって機嫌の悪い時はあるし、挨拶したくない日だってある。
僕は作り笑で出迎える先生達を無視して、教室へ急いだ。
扉をあけ中に入ると、教室内は騒がしく、いつもより居心地が悪かった。
無駄に立ち歩き、はしゃぐ男子達の隙間から席に座る渡辺さんが見えた。
渡辺さんは机の上にプール道具を置いて、水中眼鏡のレンズになにやら吹きかけている。たぶん曇り止めのスプレーだろう。珍しく真剣な表情をしている。
朝の会が終わり、男子と女子に分かれて着替えが行われると、僕の心臓は、突然壊れ始めたかのように大きく動き出した。手や足に力が入らなかった。それでも無理やり足を動かし、みんなより先に教室を出て、職員室へ向かった。
どうせ富山に怒られるなら、早く怒られたかったから。
降りてきた階段の上から、プールに気持ちが湧く男女の入り混じった声が、僕を追いかけるように降りて来る。
それはまるでプール以外にも、何か楽しみを見つけたかのような、凄く嫌な笑い声だった。
職員室の扉を叩き中に入ると、先生達はほとんどいなくて、ちょうど席を立った戸田先生が僕に気づいた。
「あら佐藤くん。おはよっ」
「おざす……。富山先生っていますか?」
「もうプールに向かったよ?」
「そうなんですね、ありがとうございます」
これだけの会話のやりとりで、戸田先生は僕の変化に気づいたのだろう。僕が職員室を去ろうとすると、また名前を呼ばれた。
「佐藤くん。もしかして今日も見学?」
モデルのような足で近づく戸田先生の顔は、今までで一番お姉さんだった。
何も言わず僕が頷くと、戸田先生は全てを知っているかのように、僕の頭に手を乗せて優しく言った。
「また怒られちゃうよ。そんなんじゃ学校休んじゃえばいいのに」
それができるならしたかった。
「どっちにしろ怒られちゃうんで。それに……」
「ん?」
もう僕には休む理由がなかったから。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも無いです。もう覚悟はできているんで、多分。大丈夫です」
僕がそう答えると、戸田先生は僕の体をすり抜けるように横切り言った。
「よく我慢したね」
なんの事かわからなかった。
その言い方は、僕に何も言わせないように。
まるでヒントを与えるような。
でもその口調は、僕に勇気をくれた。
だからプールに向かう足が少しだけ、自分の物になった。
その足が恐怖で再び動かなくなる前に、僕はプールへ急いだ。
プールに出ると、富山は熱々の床にホースで水をまいていた。
大丈夫。怒られる覚悟はできた。というよりそれしか方法はなかった。
富山は僕の方を見ようとはしない。
気づいているはずなのに。
プールの水面に映る自分の姿が、なんだか昔の田中さんとかぶって見えたのは気のせいだろうか。
「富山先生」
僕が呼びかけると、富山はやっと僕を見た。制服のままの僕を。
「あ?」
僕は先読みした。具合が悪いから休ませてくださいと言った未来を。
きっと富山は僕の嘘を見破り、そのホースで顔に水をかけてくるだろう。
田中さんの時と同じように。
具合が悪いとか、忘れたとかしか自分を守る方法がない僕達に。みんなの前で、まるで見せびらかすかのように。
理由は多分僕達の事を思ってではない。自分の授業をサボられた、ただの腹いせだ。
出来ない事をみんなの前でやらせる行為は、田中さんのような人を生む事を知らないんだ。
だから僕は本当の事を言いたくなった。
本当の事を言おうと決めていた。
お互い頑張る為に。
「泳ぎたくないので、見学してます」
そう、これが僕。これが本当の理由。
僕は先生に逆らったんじゃ無い。本当の事を言うしかない状況に、先生が追い込んだのだ。
ほら丁度クラスのみんなが揃ってやってきた。
富山は思った通り僕の顔にホースで水をかけて言う。
「もう一度言ってみろ」
何度でも言う。それしか答えと逃げ道を用意してくれないから。
「泳げないので見学させてください」
怯えて絞り出すような声で言った田中さんの時みたいに、見せしめに怒鳴りつけるだろう。大丈夫。もう覚悟は決まった。
富山のゴツイ手が僕の肩を払う。
「あ?」
クラスの声が小さくなった。僕が怒られている事に気づいたんだろう。それに気づいた富山はもっと怒るだろう。僕達みたいなめんどくさい生徒が今後現れないように。
「わー。いい天気。みんなよかったねー」
戸田先生の声だった。
「富山先生。ちょっと私も授業に参加してもよろしいですか?」
徐々に戸田先生の声は大きくなり、やがて僕の横で止まった。
戸田先生が来た事で、普段生徒に見せている富山の態度は、仕事仲間に見せる態度へと変わっていく。
「そこで見てろ」
富山は顎で見学者用のテントを指した。
「はい。ありがとうございます」
僕がテントの下に入るとすぐに授業は開始された。
なのに、出席番号順に並んでいるクラスの列に、渡辺さんの姿はなかった。
さっきまで渡辺さんは教室に居たんだ。ここに来ないはずがない。
何かがおかしく感じた。
渡辺さんの事など待つ様子もなく、出席番号一番から三番までの男女がプールに浸かり、記録測定がスタートした。
するとプールの入り口から、扉の開く音が聞こえた。
きっと渡辺さんだ。
だけどプールの玄関から入って来たのは、渡辺さんではなく、田中さんだった。
久々に見る田中さんの制服姿。クラスのみんなも田中さんに気づき、列がザワつき始めた。
「まきちゃーん」
最初誰の事かわからなかったが、戸田先生が田中さんをそう呼び抱きついたのを見て思い出した。田中さんの名前を。
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「戸田先生。渡辺さんは?」
田中さんの質問に、戸田先生もキョロキョロと列の中を探すが、渡辺さんの姿は今もなかった。
順番は徐々に近づき、そろそろ渡辺さんの番だ。
するともう一度。田中さんが入って来た入り口から扉の開く音が聞こえ、今度こそ渡辺さんがやってきた。
でも、様子がいつもと違った。渡辺さんはすでに肩で息をし、顔にも焦りの表情が浮かんでいる。
急いで列に加わるが、渡辺さんから困ったような表情が消える事はなく、次第に順番は近づいていき、ついに渡辺さんの番がやってきた。
ゆっくりと、降りるように渡辺さんがプールに体を沈めた時、僕だけが気づいた。
渡辺さんの額に、いつもの水中眼鏡が無い事に。
教室の時は確かにあった。ここまでの道のりでなくすわけがない。
何かがおかしかった。
そう。いつもある声が聞こえないのだ。
水上や手塚が静かだった。女子達の悲鳴のような声も今日は聞こえない。
それは田中さんを仲間外れにした時と同じ雰囲気で、僕がクラスから消えた日と似ていた。
気づけばクラスが一つになっていた。
始まりかけていたものが、本格的に今日。たった今。始まったのだ。
田中さんもクラスの雰囲気に気づき、涙を流すくらい下唇を強く噛んでいる。
渡辺さんの前を泳ぐ女子が半分を過ぎた。渡辺さんが泳ぐ番だ。
勢いよく、毎晩練習したように、渡辺さんは水中の壁を蹴り泳ぎだした。
しかし夜のようにまっすぐには進めなかった。練習を見ていた僕だけがわかるだろう。
泳げない渡辺さんが、初めて水を怖がっていた。
理由はきっと、何も見えていないから。
もがくように、それでも諦めず渡辺さんは、なんとか手足を動かしていた。
それは何も知らない奴からしたら、とてつもなく滑稽な姿に見えるだろう。
笑えるだろう。いや、笑う理由がクラスにはあった。
渡辺さんの他の人とは少し違う所。
学校に来たりこなかったり、おかしな奴のおかしな行動。
知らなきゃ確かに気持ち悪いだろう。
知らなきゃ都合のいい標的だろう。
そうだ。お前らには笑う理由も、いじめる意味もある。
僕のクラスは、何も間違っていなかった。
ごめん。渡辺さん。
僕は見て居られなかった。とても応援なんかできなかった。
また先読みしてしまったから。渡辺さんがどうなるか、わかってしまったから。
気づけば僕はプールを飛び出していた。
夏の太陽が照りつけ、アスファルトの熱気が僕を笑う。
見たくなかった。見れなかった。なぜならば僕には渡辺さんを笑う理由がなかったから。みんなと同じく渡辺さんをいじめる理由も、はぶく理由も。何一つなかったから。
渡辺さんの意味不明な行動は誰の為か。理由も知っている。ただ先生の笑顔が見たかっただけだ。勉強もできない。運動もできない。それは笑う理由にはならなかった。なぜならば、僕だけが渡辺さんの行動の意味と、理由を知っているから。
だから僕は逃げたんじゃない。
昨日。僕は応援すると、きっと渡辺さんと約束したから。
僕にはあの夜の日々があるから。
だから。だから僕は。あの日。あの夜。投げる事のできなかったラムネの瓶を握り、プールへ戻っていた。
みんなが止まっていた。何が起きているのか解らないって顔だ。
瓶の中で転がるビー玉の音だけが、僕の耳に届いた。
あの夜聞いた音だ。
勇気なんて待っている暇など僕にはなかった。
大丈夫。簡単だ。ただ投げるだけ。
優しく、渡辺さんに手を差し伸べるように。
僕は瓶をプールに投げ込んだ。
渡辺さんに見えるように、目印になるように。プールの真ん中、二人で練習したあのゴールライン。木の場所に。
投げた瞬間。再び瓶が鳴った。
風鈴のように涼しげな音を残し、瓶はゆっくりとプールの真ん中。僕たちのゴールラインに着水した。
その衝撃で、小さな水しぶきが、まるで手を上げたかのように水面から飛び跳ねた。
初めて僕が皆の瞳に映っていた。 初めてみんなが僕に驚いていた。
それは、僕が瓶を投げたからじゃない。
水中の渡辺さんにも聞こえるように、目を開けるように。沈んでいる瓶を目指すように、僕が渡辺さんの名前を叫んだからでもない。
富山より先に動き、プールに飛び込んだ戸田先生よりも早く。
僕がプールに飛び込んだからだ。
大丈夫。泳げないけど、つま先はつく。あの夜、渡辺さんが教えてくれた事だ。
かっこ悪いと思うなら笑えばいい。
君達にはそれをしていい理由がある。
僕達を笑う意味もある。
だってこの学校で一番力を持っているのは、君達なのだから。
大丈夫。君達クラスは何も間違っていない。
でも間違っていないのは僕も同じだ。
僕には渡辺さんを守る理由がある。
だから胸をはっていいはずだ。
波立つ水が拳のように僕の顔を殴りつける。
そんなもの怖くもないし、痛くもない。
僕は伸ばせるだけ腕を伸ばし、限界までつま先を底につけた。
飛び跳ねた水が目に入ったせいだろう。ぼやける視界の中で僕は探した。
大事な友達を。大切な渡辺真子さんを。
すると水面が爆発し、水しぶきの中から渡辺さんが顔を出した。
僕は力いっぱい彼女を支えた。
渡辺さんは、支える僕の腕をよじ登り、肩にしがみつくと声を上げた。
僕の投げた瓶を、まるでトロフィーのように空に掲げて。
「瓶、がみえたー。瓶がみえたの。キラキラ光ったの。突然、落ちてき、たの。だ、から泳げたの。場所がわかったの。見てた? 佐藤くん。ねー見てた?」
水を吐き出し、むせ返りながらも、渡辺さんは叫んで教えてくれている。
「うん。見てたよ。泳げたよ。すごいよ渡辺さんは」
「水の中がすごく、綺、麗だった、の、目が開けれたの」
「うん、よかった」
みんなが驚いていた。
それは僕が笑っているからでもなく。
渡辺さんが泳げたからでもない。
きっとそれは。僕が渡辺さんと友達だったから。
そして渡辺さんが僕と友達だったから。
さぁ言いたい事があれば言えばいい。
決して辞める必要なんてない。まだいじめたければ続ければいい。まだ無視するならしていればいい。
大丈夫。大人なんかに頼ったりもしないから。
思う存分楽しんでいればいい。
でもこれだけは言わせてもらう。
僕達は、そんな君達を無視する理由も意味もある。
関わらない事で、交わらない事で、僕達は君達より多くの大切な事学んで、ここを卒業していく。
僕は初めてクラスのみんなと目を合わせた。
初めて一人ひとりの顔を確認していた。
なのに渡辺さんときたら。
「はい、これ。記念にあげる」
そう言って、瓶を僕に差し出していた。
いいんだ。それが渡辺さんだ。
渡辺さんの行動は意味不明で謎だらけ。それが彼女の良いところだ。
絶対に周りとかぶらない。最高の友達だ。
だからちゃんと、しっかりと言わなければいけない。
お礼を。
「ありがとう。渡辺さん」
周りが止まっていて、僕達だけが動いていた。
あれだけ止まらなかった時間が初めて止まっている。
僕の願いが初めて通じたんだ。
だからちゃんと聞こえた。
「えへへっ」
大事な友達の笑い声が。
昼間のプールが、まるで夜みたいだった。
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息苦しい学校生活と、それに対する小さな(しかし意志が宿る)反抗が印象的でした。
「夜とプールとラムネ瓶」の組み合わせも想像するだに美しく、タイトル「夜空のラムネ」は秀逸なネーミングだと思いました。
作中での発言、「私みたいな子は何も学べない」が一番心に残っています。
楽しめました。