夜空のラムネ

佐藤強也

文字の大きさ
10 / 11
夜空のラムネ

〈変わらない夜〉

しおりを挟む
 月明かりの下に今日は居た。しかし彼女の体には、いつのも浮き輪がなかった。

「もー。遅いよー佐藤くん。待ちくたびれて、また泳いじゃう所だったよ」

 頭にゴーグルを装着し、腰に手を置き、まるで待ちぼうけをさせられたかのような態度で渡辺さんは待っていた。今日も約束をした覚はないのに。

 でも少し気持ちが楽になったのは何でだろうか。

「はい。これ」

「……ん?」

 給食の時こっそり持ち帰った僕のタルトを見せると、渡辺さんは野良猫のように徐々に足を進め、それが自分の大好物だとわかると、飛びつくように僕の手からタルトを取り上げた。

「わーーータルト。なんで? なんで?」

「いらなかったから」

「えーそうなの? 佐藤くんはバカだなぁ、このタルトの美味しさを知らないなんて。あー勿体無い」

 知っているからとっておいてあげたのに。まったく。

 どうぞと言う頃には、すでにタルトは渡辺さんの口の中にあった。

 足をバタバタとさせ、美味しさを体で表現すると、腕の筋肉を見せる構えをして教えてくれた。

「元気いっぱい、これで最後の練習を頑張れるぜい」

 僕はとても普通の質問が頭に浮かんだので訊いてみた。

「なんでそんなに頑張るの?」

 授業もろくに参加しない渡辺さんだから、成績の為じゃないって事は知っている。

「理由を作る為だよー」

 渡辺さんは体操をしながら答えると、プールの淵ギリギリに飛び込んだ。

「どうゆう事?」

 渡辺さんは僕の質問には答えずに、淵を掴み、授業と同じ一番端の六番レーンにいくと、勢いよく水中の壁を蹴り泳ぎだした。

 僕は渡辺さんの言った言葉の先と、出なかった足りない部分を考えた。

 きっと。おそらく。自分の為だろう。渡辺さんが体育で苦手なのは、プールだけではない。飛んだり、跳ねたり。運動系全般が苦手だ。だから足りない言葉をつけ加えるなら、私が体育を楽しむ理由を作る為、が答えだろう。

 実際に全く泳ぐ事のできないプールの授業も、なんでか楽しそうにしているし。

 それにもし理由が違ったとしても、渡辺さんの行動は意味不明で謎だらけ。きっと僕になんてわからないだろう。

 それが渡辺さんだ。

 だから現に今も僕は驚かされている。

 渡辺さんは、バチャバチャと無駄に水を弾きながら、溺れているような息継ぎを繰り返し、一度だけ足をついたが、なんとか木のラインまで到着したからだ。

「くそー。一回足ついちゃった」

「え? 渡辺さん泳げるようになってるよ?」

 淵に捕まり体を浮かべる渡部さんは、水でテカテカの笑顔を僕に向け、答えを教えてくれた。

「昨日は雨だったから、戸田先生と隣町のプールに行って練習してたんだよ」

 それで昨日の夜はプールにいなかったのか。

 ちゃんと理由があってほっとした。

 それにしても先生というのは、やっぱりすごいと思った。

 あの渡辺さんを一夜にして、ここまで泳げるようにするとは。流石だ。

「明日は戸田先生も見に来てくれるの」

「そうなんだ」

「佐藤くんは明日も泳がないの?」

 せっかく忘れていた富山の顔が脳内に浮かんだ。

「……うん」

 多分制服でいけば怒られる。忘れても、レンタルがあると言われ、やらされる。正直に言うと明日は休もうと思っていた。それしか方法はなかったし、それが一番被害が少ないと思ったから。

 それでも次の日、僕が登校すれば富山は怒るに決まっている。だから二日。いや三日くらい学校を休んで時間が経てば。富山の怒りも少しは治まっているだろう。

 ズル休みをするのは初めてだ。両親になんと言えばいいかを考えていると、何も考えていない渡辺さんが、横から楽しそうに言った。

「佐藤くんも、明日応援よろしくね」

 きっとこれは約束だろう。

 僕が返事に迷っていると、めずらしく渡辺さんは僕を見ていた。こんな時に限ってちゃんと返事を待っている。

 沈黙に負けて僕は頷いた。

「うん、応援するよ」

 渡辺さんはニヤリと悪ガキの顔をみせると、プールから上がり、そのまま体を夜空に向け寝転んだ。

 相変わらず女の子とは思えないくらい豪快に。

 すると今度はさっきとは違う綺麗な沈黙が訪れた。

 揺れる水面の音は音色に聞こえ、何かを考えるには丁度いいくらい時間が止まっている。

 その時間を先に動かしたのは渡辺さんだった。

「佐藤くんは、学校になんで来てるの?」

 突然の質問だったけど、これは以前に僕が渡辺さんにした質問だ。

 聞かれて初めて気づいた。僕はなんで学校に行っているのか。

 たいして授業を聞くわけでもなく。勉強するわけでもなく。通っている意味なんて考えた事もなかったし、考えても出なかった。ただ行かなきゃいけないものだと、勝手に頭の隅で思っていたのだろう。

 だから、僕の口から出た言葉は、あまりにも曖昧な理由だった。

「なんとなく」

「そっか。じゃ、明日もなんとなく?」

 渡辺さんの黒目がビー玉のようにつるっと光っていた。

 いや、明日は……。

 何かが頭に浮かんだ気がした。それは今まで浮かび上がらなかった何かだ。初めて浮かんで来たものだから僕は掴み損ねた。とても柔らかく、新しくて、暖かい、触れた事の無い何かを。

 渡辺さんは起き上がり「よーし」と腕をぐるぐると巻きあげた。

 そういえば明後日からまた雨が続く。台風だとも言っていた気がする。明日の記録測定が終わったら、渡辺さんはもうプールには来ないのだろうか。その答えは渡辺さんしか知り得ない事だ。だから渡辺さんに聞くのが一番早い。でも僕は聞きたくなかった。答えを知ってしまったら、物事の距離がわかってしまうから。だからこのまま。このまま続けばいいと思った。終わりの無い道を進むみたいに。夜が続けばいいと思う。明日がこなければいいとも思う。学校が嫌な時。何度願った頼みだろうか。だから僕は知っている。一秒も叶わない願いだという事を。

 でも今日の願いはいつもとは違う。いつもみたいに迫ってくる時間から逃げたくて願っているんじゃない。今まではそうだ。でも今日は。今回は違う。

 僕は今を止めてほしかった。

「あ。もうこんな時間だ」

 そう呟いた渡辺さんの言葉で、また僕の願いは叶わなかったのだと、ブレる事を知らず進む秒針を見て思い知らされた。

 慣れた手つきでプールの施錠をし、正門を抜けると渡辺さんは言った。

「明日はお互い頑張ろう」

「頑張るのは渡辺さんでしょ?」

 すると渡辺さんが手の甲を差し出した。

 僕が手を重ねると、渡辺さんは「えい、えい、おー」と何とも力の入ら無い掛け声をし、上に乗っている僕の手ごと夜空に跳ね上げた。

「これで大丈夫だよ、佐藤くん」

 また根拠の無い言葉を僕に渡すと、渡辺さんはいつもと変わらない足取りで帰って行った。

 一人残され、ふと学校を見上げると急になんだか心が弱くなった。

 あー。そういえば明日は怒られるのか。

 それから寝る前も、寝落ちする寸前まで、自分を励まそうと、元気の出る歌を聴いたり、漫画を読んだりしたけど、不安が消える事はなかった。

 寝る寸前だった。僕も明日頑張ろう。と自分に確認するように心の中で言うと、先ほど渡辺さんに言われた言葉の意味がわかった。でもすぐに渡辺さんがそこまで先が読めるはずがないと気づき、偶然という言葉が全てを攫って僕を眠らせた。



しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...